Close to you
陽人のもとにやってきた新たな依頼人。彼女は最近、誰かにつけられている、見張られている感じがすると言い――
なからぎ庵の連続小説UP企画に参加した作品です。BL要素の他GL要素も多少含みますので苦手な方はご注意ください。
挿絵:北須みつさん(@tasukinil)
序章 狂気的強欲
「……では、最近どこかから見張られている気がする、と」
犀川探偵事務所。依頼人の相談場所となっている応接セットの横で、自分用の丸いすに腰掛けたこの事務所の所長――犀川陽人は、依頼人の女性にそう言った。彼女はそれに対して、大きく頷く。
よくあるストーカー関連の依頼だった。曰く、近頃ずっと誰かにつけられている気がする、家にいるときも見張られている気がして、昼間でもカーテンを開けられない、という話であった。
「まだ、別に何かされたってわけじゃないんです。ストーカー事件でよく聞く、声をかけられるとか、贈り物が来るとか……そういうことは起きてなくて。だから、実害はないので、そっとしておいたらいつかあきらめてくれるかとも思ったんですが……この間、私と同じ教室の方の家が荒らされたそうで」
彼女曰く、彼女は茶道教室に通っており、その同じ教室に通う、彼女とよく話す間柄だった男性の家の庭が荒らされたのだそうだ。庭の芝があちこち掘り起こされ、花壇が荒らされ、木が折られ、車のガラスはすべて割られていたという。
「そちらの方は被害届を出されたそうなんですが、私のストーカーとの関連性はわかりません……私自身に起きていることは、『気がする』ことばかりで。これぐらいでは警察は動いてくれないとみんな言うものですから……」
確かにそうだろうと思ったので、陽人はそうですね、と答えた。これでも元警察官である。なんとなくつけられている気がする、見張られている気がする、では、警察としてもターゲットがわからないので、彼女の家の周りの巡回を強化するぐらいしかできることがない。明確な対象がおり、その人物が嫌がらせの手紙や贈り物をしていたり、電話やメールを何十回何百回と試みていれば、ストーカー規制法に則ってすぐに動くことができるのだが。
「あの……犀川さんは男の方ですから、私のこと、すごく神経質に見えてるかもしれないですけど……」
「そんなことないですよ。やっぱり、なんか見られてる、つけられてるっていうのは気持ちいいもんじゃないです。何かされてからじゃ遅いですし、正式にご依頼いただけるという話であれば、ご自宅の周りの見回りから始めますけど」
陽人の言葉に、彼女の表情がぱあっと明るくなる。なるほど、確かにこんな風に笑う女性なら、好きになる気持ちもわからなくはない、と、一瞬ストーカーの目線になってしまい、陽人は慌ててかぶりを振る。そもそも、今回この依頼を受けるのは、その近辺で浮気調査を頼まれていたからであった。ついでに動いて倍稼げるならそれに越したことはない。
「じゃあ、あの、お願いします。見張られたり、つけられたりしなくなればそれでいいので……私の名前は……」
「出しませんよ。そもそも我々にも守秘義務がありますから、どなたからの依頼で動いてるかなんて、誰にもしゃべりませんよ」
それを聞き、彼女はほっとしたような顔をして、自分の名前――香月美奈――と住所、そして前金を置いて去って行った。それとほぼ入れ替わりで、凶相の男が部屋に入ってくる。
「あ、怜司お帰り。って、まだ昼だけどお前まさか警察やめてきたりしてないだろうな?」
「馬鹿かお前は。ここ最近追ってた殺人死体遺棄事件が片付いたから、今日は帰って休めとの仰せだ。だいたい、僕が警察をやめたらここの家賃が払えないだろうが」
そりゃそうだ、と、陽人はあっさり納得する。3LDK、三口コンロがついて、駅チカ、リフォーム済みのこの物件はいわゆる「事故物件」なので、家賃はこの規模、この条件の物件にしては破格だが、陽人の稼ぐ依頼料だけでは、払うので精一杯、生活が成り立たなくなってしまう。もしここを引き払うことになったとして、怜司は実家に帰るだけであろうが、自分は正直、実家にはちょっと帰りにくい。去年の誕生日を思い出す。自分は確かに二十八歳になるはずなのに、家族みんなが笑顔で、「二十七歳」の誕生日を祝ってくれたことを。家族には申し訳ないが――そして、自分で覚悟を決めたこととはいえ――毎年、「二十七歳」を祝われるのは、考えるだけで気持ち悪くてしょうがなかった。
犀川陽人。元警察官、現私立探偵。現在は幼なじみの某県警所属警部、藤村怜司と同居中である。が、これは表向きの話であり、本当は陽人と怜司は――死ねない化け物、「ヴァンパイア」とその「眷属」だった。
昨年、怜司が巻き込まれたとある事件。その事件により彼は一度死に、「神」を名乗る存在と遭遇した。怜司は「神」との取引により、「死」と「老」を奪われ、死ねない化け物となった。「神」は彼を便宜上「ヴァンパイア」と定義した。彼は伝説上のヴァンパイアと同じく生き血を吸う。しかし、その相手は伝説とは異なり、「眷属」たる陽人一人に限られていた。
『サイ……すまない』
彼がそう言って、子どものように泣いた夜のことを、陽人は多分、一生忘れることはないだろう。「眷属」たる彼もまた、「神」に「死」と「老」を奪われており、その代わり強靱に作り替えられた体が使用限界を迎えて朽ち果て、精神も摩耗してこの世から消え去ってしまうまで、生き続けることができる。その代わり、二人を待ち受けるものは「消滅」であると「神」は言っていたそうだ。でも――怜司とともに、消え去るならそれもまた別にいい、と陽人は思っていた。
最初――幼稚園の頃だ――は、誰とも喋らないヘンなやつが、しかも変な時期に転入してきたので、好奇心で近寄っただけだった。近寄って話しかけても、やっぱりそいつはろくな返事をしなかった。あの頃は、なんでも見つけたものをとにかく喋りたい時期だったので、陽人はそいつが何も言わないのをいいことに、何かあるごとに近寄ってはしゃべりまくった。そのうち気づいた。何も言わないが、ごくたまに、そいつが陽人の話に、興味深そうな顔をしていることに。そしてたまに、話したことに関する知識を、どこかしらから仕入れてきて教えてくれることに。幼稚園の先生ですら、そのお話の続きは今度ね、と言うほど多弁だった陽人の話を、実はそいつ――幼稚園児の藤村怜司が、いちいち全部聞いていたことに気づいた時から、陽人は怜司が、随一のお気に入りになった。
そこから小中高大と同じ学校に通った。相変わらず怜司は自分を全く相手にしてくれず、たまにはうるさい黙れ、とか、なんのつもりだ、放っておいてくれ、などと、辛辣な言葉を浴びせられるようになったが、陽人は怜司から離れようとしなかった。もちろん怜司以外にも友達はいたが、最優先は怜司だった。それがもう友達レベルの気持ちではないことを自覚したのは、一緒に警察官になったばかりの頃だ。
「サイ、お前こんなところまでついてきて、何のつもりだ。僕に人生でも捧げる気か」
そう言われて気づいたのだ。この人相の悪い、無愛想眼鏡のことをいつの間にか、お気に入りも友情も通り越して、もはや愛してしまっている自分に。だから、言った。
「だって俺、怜司のこと好きだもん。俺はずっと、怜司と一緒にいるつもりだよ」
告白だったと思うんだけどな、と、彼は当時を振り返る。怜司には思いっきり舌打ちをされ、好きにしろ、と言われた。それが彼なりの精一杯だとわかったのは、彼があの事件から、無傷で戻ってきてからだった。
行方不明事件だった。身寄りのない人間や、素行の悪いティーンエイジャーばかり四十二人、消えた。表向きは、怜司がその四十二人が拉致監禁されていた場所を突き止め、犯人には逃げられたものの、全員を生きて救い出したことになっている――その功績によって、彼は警部に昇進した――が、真実は違う。
怜司がその行方不明事件を起こしていたバーの場所を突き止め、嫌な予感がする、だから一人で潜入捜査を行う、決めた時間までに戻らなければ、怜司が無断捜査で殺されたかもしれないと言って現場に乗り込めと指示をされたのは前日だった。怜司のこの手の「嫌な予感」はよく当たる。だから本当は一人で行かせたくなかったのだが、押し切られてしまった。唯一残る後悔――あのとき、押し切られずに同行していれば、事件は解決しなくとも、怜司がこんな目に遭うことは避けられたかもしれない。公僕である警察官としては失格の考え方だ。陽人が警察官をやめたのは、怜司のとある「事情」――怜司の「吸血発作」は、だいたい定期的に起きるが、それがいつかははっきりしない。時と場合を選んでくれないのだ――のためでもあったが、自分の公僕に向かない、利己的な考え方――四十二人の命よりも、怜司の方が大事だと思ってしまったこと――が、とことん警察官に向いていないと思ったからだった。
かくして、怜司は約束の時間になっても戻らなかった。陽人は即、上司に怜司の無断捜査を報告し、処分はいくらでも受けるから行かせてくれと、怜司を慕っていた後輩数人とともに必死で訴えた。どうも、上も危険なにおいを感じたらしく、捜査の許可が下りた。急ぎ行ったそのバー――死体愛好家が集まるという、そのバーの奥の部屋に、行方不明になった四十二人と、見たこともない人間が数人、ひしめき合っていた。どうやら何かで眠らされ拉致監禁されていたらしく、誰一人何も覚えていなかった。そしてさらにその奥の、何もない部屋で、怜司がうつぶせに倒れているのを陽人は発見した。
「怜司!」
名前を呼ぶ。反応する様子はない。まさか本当に――? 慌てて駆け寄って抱き起こす。怪我はないようだ。息もあった。肩をつかんで揺さぶると、怜司がゆっくりと、目を開けてこちらを見た。その時だった。
それまで、この男を怖いと思ったことなど一度もなかった。辛辣な言葉も、無視も、慣れてしまえばどうということはない。しかし――あのときの、目だ。
今まで見たことのないような、とろん、とした目だった。誤解を恐れずに言うなら、まるで誘われているような。一瞬、魅入ってしまった。そのすきに、怜司が自分のネクタイをつかみ、顔を近づけようとしてきた。静かに口が開かれたのを見た瞬間、陽人の背中を本能的な恐怖が撫でた。率直に、喰われる、と感じたのだ。とっさに怜司の肩を押し、自分から引きはがした。
「怜司? お前、平気なのか?」
そこで初めて、彼は自分が何をしていたかに気づいたようだった。彼の顔色が変わり、陽人は突き飛ばされて転がった。
「ちょ、痛い! お前どうしたんだよ!」
「うるさい、近寄るな!」
それは、陽人が初めて怜司から受けた拒絶の言葉だった。それがどのようなことを意味していたのか、また、この事件が本当はどのような姿をしていたのかを、その後呼び出された怜司の家で、彼からふすま越しに聞かされた時、陽人は、社会の明るい道を歩くうちは見えないものがある、ということを思い知らされた。
事件の真相は、こうだ。生きて発見された四十二人と数人は、本当は――想像するのもおぞましいが――生きたまま脳を抜き取られ、意識だけが残された状態で、「人ならざる者」とその狂信者の実験動物にされていたという。彼らが全員、そのおぞましい記憶も全くない状態で生きて帰ったのは、ひとえに怜司のおかげだったとしか言い様がない。
怜司自身も、その狂信者に「殺された」。彼は一度死んだはずだった。彼は死の先で、「神」を名乗る者と出会い、取引をしたのだという。怜司の「死」と「老」をその「神」に差し出す代わりに、怜司の死を、被害者たちに行われた実験を、すべてなかったことにしてやるという取引だったそうだ。そして彼はそれを話し終わった後、初めて陽人に、消えろと言った。
「サイ……お前は、僕の目の前から、今すぐいなくなれ。今日以降、絶対に姿を見せるな。お前が警察を続けたいなら僕が警察をやめる。二度と……僕に関わらないでくれ」
ショックだった。幼稚園から約二十年、それなりに怜司も自分に気を許してくれていると思っていた。思わずふすまを開き、そこまでうっとうしく思い、嫌っていたならどうしてもっと早く、と言いかけた時、怜司と目が合った。滅多に見たことのない――泣きそうな目だった。
「……怜司、お前なんか隠してるだろ。でなきゃ、お前はそんな目しない。全部話せ。じゃないと俺は、お前の言うことなんか聞かない」
怜司がぎりっと歯をかみしめたのがわかった。それでも引く気はない。その場に足を止めたままの陽人に、怜司は目をそらしながら言った。
「サイ……頼む、聞き分けてくれ……僕は……僕は、お前を巻き込みたくない。こんな形で気づかされるとは思っていなかったが……僕は、お前に僕と同じ枷をはめるわけにはいかない……僕を、ひとりぼっちにしなかったお前を、このままじゃ僕は……ひとりぼっちにしてしまう」
正直、何を言っているかよくわからなかった。ただ、その顔は遙か昔に一度だけ見たことがあった。中学生の時、彼の祖父が亡くなり、ばたばたと通夜や葬式が終わって、一通りすべてが片付いた頃に、そろそろいいかと彼の家へ行った時、見た顔。
『これで、僕は……ひとりぼっちだ』
彼はそう言って、これも一回しか見たことがないが、くしゃりと顔をゆがませて、ぼろぼろと涙を落として泣いた。その時は、どうしていいかわからず、男同士で気持ち悪いかなと思いながら、自分の肩口に、怜司の顔が収まるようにそっと、抱きしめてやったっけ。彼も抵抗しなかった。自分の背中にしがみついて、震えながら声をあげて泣く怜司を見たのは、あれが最初で最後だった。
「だからサイ、行け。いなくなってくれ。そうすれば、僕一人で済む。こうなってしまったのは、『神』と取引することの危険さに対する警戒が足りなかった僕の甘さが原因だ。お前が巻き込まれる必要は無い。だから……」
「やだ。怜司お前、今自分がどんな顔してるかわかってる? お前のじーちゃんが亡くなった時と一緒の顔だぞ……そんなお前ほっといて、自分一人だけ助かるぐらいなら、何だって巻き込まれた方がマシだよ怜司。巻き込めよ、言っただろ、お前のこと好きだって! ずっと一緒のつもりだって!」
怜司が深く息を吸い込み、恐ろしく昏い目をして自分を見た。今思えばあれはきっと、ちまたで言われるところの、「深淵」だったのだと陽人は思っている。深淵を覗き込むとき、人はまた自分も、深淵に見入られている、と言ったのは誰だったか。
「……お前は、お前が僕と同じ存在になると言われても、同じことが言えるか?」
腹の底から怖気が震うような声だった。あれも一回しか聞いたことないな、と、陽人は振り返る。あれはきっと、怒りだったのだ。いなくならない陽人への。そして何より、それに甘えようとしている自分への。藤村怜司とはつまり、そういう人間なのだ。まるで罰みたいに生きている、そんな。
「神」は、取引のすべてを終えた後、「ああ、そういえば」と付け足したそうだ。「ヴァンパイア」としてこの世に戻り、「大切な人」に会うと、「ヴァンパイア」は喉の奥が干上がるような渇きを覚えるのだと。その渇きはその人と会っている時間が長くなったり、会う回数が増したりするごとに強くなり、最終的に、人間の精神ではその渇きに耐えられず、狂ってしまうと。狂ってしまえば最後、相手を噛み殺す他ないという。防ぐ方法は一つ、狂う前に相手の生き血を吸うこと。しかし、そこには条件がもう一つ――
「ヴァンパイアに生き血を吸われた者は、血を求めないこと以外はヴァンパイアと等しい存在になる……『眷属』だそうだ。正直な話、僕は今……お前に対して猛烈な渇きを覚えている。このまま僕と関わり続ければ、僕はお前を殺すか……僕と同じ、化け物にしてしまう。お前まで、『死』と『老』を差し出す必要がどこにある? そんなのは僕一人でいい。お前さえいなくなってくれれば、僕は、一人で……」
その顔が、あの日の怜司と重なった。陽人は思う。俺さえいなくなればって、それお前俺のこと世界で唯一好きって言ってるのと一緒だよ、と。とてつもなく失礼だとは思うが、正直な話、この二十一年、ずっと見てきた中でいつも、彼にとって生きることはおそらく罰だった。母親を殺され、祖父に死なれ、その間父親には見向きもされなかった彼の人生は、誰かを好きだなんて感覚を麻痺させるには十分すぎるほど、悲しみにあふれていたのだ。その人生の中で、怜司を放っておかなかったのが自分一人であるというあまりにつらすぎる事実に、愛情と呼ぶには、あまりに切実すぎる感情に気づいた瞬間、余計に放ってはおけなくなった。ここで自分が背を向けるなら、怜司の――自分の愛する人の人生は何だったというのだろう。だから陽人は怜司をにらみ据え、はっきり嫌だと言った。
「痛いのはあんま好きじゃないけど、首でも腕でも、とりあえず一発で死なないとこならどこでもいいからやれ。なってやろうじゃん、『眷属』。さっきも言ったけど、俺はお前のこと好きで、ずっと一緒のつもりなの。ここで見捨てるつもりなら、誰がお前みたいな根暗で目つきも口の悪さも最悪で難しいやつ好きだなんて言うか馬鹿。あのなあ! お前が俺を巻き込みたくないって思ってるのと同じぐらい、俺はお前を一人にしたくないの!」
あれは今思えば恥ずかしい台詞だったなあ、と、陽人はインスタントコーヒーを入れる支度をしながら――怜司が飲みたいと言い出した――回想する。あまりに恥ずかしくて、後から、いいプロポーズだっただろ、と言ったら、思いっきり頭をはたかれた。
それを聞いて、怜司はあきらめたような顔になり、そのまま近寄ってきて、陽人に抱きついてきた。同時に肩に痛みが走り、思わず怜司を抱きしめ返してしまった。白いシャツの肩口に広がる血の染みと、獣のように伸びて自分の皮膚を突き刺していた怜司の犬歯。その時はっきりわかった。怜司は震えていた。泣いていた。自分の行動のおぞましさと、陽人を巻き込んでしまった後悔に。陽人は腕の中の怜司をよしよしと撫でてやった。ついでに、言わないとわからないと思ったので、素直な気持ちを口に出した。
「お前はなんにも悪くないよ、怜司。これは俺が望んだことだから。俺が、お前とずっと一緒にいることを選んだんだ。俺がお前と、ずっと一緒にいたかったの。お前はひとりぼっちじゃないよ。俺が、いる。ずっとだ。あー……正直言ってさ、ちょっと喜んでるかも。だってさ、俺さえいなくなればってそれ、お前俺のこと大好きじゃん」
そう言うと、背中をつねられた。痛かった。あれは痛かった。噛まれるより痛かった。でも、やがて静かに牙を抜いても――傷はあっという間にふさがった。我が体ながらちょっとビビった――怜司は、陽人に抱きついたまま動かなかった。そして、陽人の耳元で、言った。
「サイ……すまない」
彼はそう言って、そのまままた陽人の肩に顔を埋め、子どものように泣き出した。陽人はそのまま、怜司が泣き止むまでずっと、彼を抱きしめたまま、頭をそっと撫でていた。その時の自分の気持ちは、正直ちょっと思い出すと恐ろしい。怜司のことは好きだ。でも手には入らないものと思っていた。嫌われてはいなくとも好かれてはいないと思っていたからだ。でも――怜司は陽人に対して一つ、大きな「咎」を負った。陽人を「眷属」という「化け物」にしてしまったという「咎」を。その「咎」は「檻」となり、自分と怜司を閉じ込めるだろう。見た目は他人と変わらない。でも自分たちは確かに何も知らない「白い羊」に混じった、「黒い羊」なのだ。そして、陽人を「黒」に変えたのは怜司の意志だ。だから怜司はきっと、何があっても、消滅のその時まで自分から離れられない、そう思った。そして陽人は――笑んだ。これでもう、誰にも盗られない、自分のものだ、と思ったのだ。自分の中の狂気を、その時見た気がした。単に気に入っているとか、好きとかいうレベルの気持ちではない。これは――狂気的なレベルの強欲だ、と陽人は思った。
「……眷属とかなる前から、ぜんっぜんバケモノじゃん、俺」
「サイ、何か言ったか?」
言ってませーん、と返事をして、陽人はコーヒーの入ったマグカップを二つ、共有スペースになっている居間へと運んでいった。
「あ、そういえばさ。今日新しく依頼が入って、なんかストーカーにつけられてるって話らしいんだけど、怜司なんか知らない?」
コーヒーを飲みながら聞くと、怜司は一瞬難しい顔をしたあと、さあ、と答えた。
「近くでストーカーに関する案件が起きているという話は聞かない。聞かないというより……僕はあまり興味が無い」
あーはいそうでしょうね、と言うほか陽人にはなかった。怜司は興味の無い事件について、とことんビジネスライクに処理してすぐ忘れてしまうので、このような場合――依頼が怜司の興味を引きそうにない場合――あらかじめちゃんと聞くように言わないといけなかった。
そこで陽人は怜司に依頼の概要を話し、今後もしストーカー事件があればとにかく聞かせてほしい、と伝えた。怜司は一応頷いたが、やはり興味がなさそうだ。
「……怜司、どう思う? もしこの依頼と、その同じ茶道教室に通ってたって男性の件に関連があるなら……ちょっとやり方が派手な気がするんだよね。僕の美奈ちゃんに近寄るなーって警告なら、家の庭中壊す必要はない。車だけで十分だと思うんだけどな……」
陽人がそう言うと、怜司は多少興味を引かれたようだった。そうだな、とつぶやくように言ってから、何か考えているようだったが、怜司はしばらくして、陽人を見て、もし、と言った。
「もし、僕のことを何かの勘違いで好きだという女性がいて、僕もまんざらでもなさそうだったら、お前はどう思う?」
突然の質問に陽人は面食らったが、まあ、いい気分はしない、と答えた。
「怜司がこういう難しい人間だって知ってるから、どうせわかったらうまくいかないだろうなーとは思うだろうけど……ちょっと焦るかな、多分。少なくとも、それは『普通』の恋愛な訳だし」
陽人がそう言うと、怜司は怪訝な顔をして陽人を見た。陽人が、なんだよ、と言うと、どういうことだと問い返された。
「いや、だからさ。女の人が怜司のこと好きになって、で、怜司もその人のこと好きになって、付き合います、って『普通』だろ。じゃあ俺はどうかっていうと、そもそも怜司のことを『好き』ってだけで『普通』からは除外される。人間ってだいたい『普通』な方が安心だろ?」
怜司が、ああ、その発想はなかった、という顔をした。なんなんだこいつ、と陽人は今更ながら小さく嘆息する。警察官って、絶対普通より常識とか必要だろ、なんで俺たちが普通だと思ってんだ。
「受け入れられない気持ちであるから、より強く暴走する……なるほど、それはあり得るかもしれないな」
「はい?」
怜司が面倒くさそうな顔をして、説明が必要かと聞いたので、陽人は素直に頷いておいた。この幼なじみはなんだかんだと人嫌いのくせに面倒見がいいので、おそらくぼろかすに罵りながらも、全部教えてくれるはずだ。
「お前が言い出したんだろう、全く。お前は僕のペットの文鳥か何かか馬鹿たれ。ちょっとは自分で考えないと、脳の耐久限界が来る前にボケるぞ。ボケた二十七歳の世話を何百年もやらされるのはごめんだからな僕は……つまりだ、その事件、僕は単に嫉妬の暴走でやり過ぎたんじゃないかと思ったんだが、そうじゃないようだ。その……依頼者の女性は多分、犯人にとって絶対手に入らない人物なんだ。だから、警告以上の攻撃を仕掛けた。自分が絶対に手に入れられないものを、少しでも手に入れる可能性のある人間は許さない。自分のものにならないなら誰のものにもなるな、こういうことかもしれない。まあ、あくまで憶測の域は出ないが」
その気持ちは少しわかる気がする、と、陽人は内心つぶやいた。怜司はこういうやつだから――本人も女性に興味が無いし、女性の方も怜司のようなタイプにはほぼ近寄らないので――誰かにとられるとはっきり思ったことはないが、手に入るとも思っていなかった。だから、警察官になり、後輩ができ、そのうち何人かが怜司の優秀さを理解し始めた頃、少しだけ寂しくなった。俺だけが、こいつをわかってやれるなんて、傲慢な気持ちでいた自分に気づかされたと同時に、怜司が少しだけ離れていくように思ったのだ。
陽人がそんなことを考えていると、それにしても妙だな、と怜司がつぶやいて思案顔になった。陽人が何が、と聞くと、その襲われた家は高台の一軒家か何かか、と問い返された。
「いや? 普通に住宅地に……あ」
「気づいたか。そうだ。それだけ派手な破壊が行われたなら、周りの住民が気づいてるはずなんだ。周りどころか、本人が気づいて庭の様子を見るのが普通だ。それなのに、住人や本人が犯人を見たという証言がない。つまり……」
「誰も気づいていない間に……庭と車が破壊された?」
怜司が頷いた。それは確かにおかしい、と陽人は納得する。だいたい、車に限らず、ガラスは飛散防止のシートでも張らないと、割ればかなり派手な音がする。だから、泥棒は窓からの侵入を試みる場合、まずは鍵がかかっていないかを確かめ、鍵がかかっていれば鍵の部分だけを小さく割って、そこから鍵を外して入るのだ。
「お前……本当にこういう話を『寄せ』るな。なんでこう、人外とばかり関わりたがるんだ」
うんざりだ、という顔で怜司がそう言ったので、勝手に寄ってくるもんは回避できませんと反論しておいた。
「あと、そういう依頼の話しかお前にしてないだけで、お前が見てないとこでちゃんと犬も猫も探してるし浮気調査もしてますー。なんならこないだ探したみぃちゃんの話とかする? 驚くなかれ、この名前でプレーリードックなの」
「知らん。興味が無い」
ほらあ、他の話聞かないじゃん、という陽人の抗議は、あっさり無視された。
幕間 願いごと
願っても願っても、叶わない願いごとがこの世の中にはある。たとえば、人の気持ち。それはどんなに願ったところで、手に入れられない。
笑顔が可愛かった。最初は慕われていることが嬉しいだけだった。でも、安心して泣けるのは――の前だけだよ、と言われてから、私はきっと恋をしてしまったのだ。どんなに手を伸ばしても、届かないとわかっていたはずなのに。
私はいつまで、「いい友達」でいればいいのだろう。いつも思うことだ。大事に思えば思うほど、その疑問は私の首を絞める。まるで革紐のように。この思いはきっといつか私を殺すのだ。そう思った。
それならば。この叶わない願いが、結局最後には私を殺すなら。この願いを叶える手段があれば、私は死んでもかまわない。化け物になってもかまわない。そう思ったからこそ、私は願ったのだ。
この、――に。
一章 赤いレインコート
陽人はそれからしばらく、香月美奈の身辺警護を続けたが、特に何者も現れなかった。彼女の方でも、身辺警護が始まってから、見張られている感じがしなくなったと言い出した。犯人を突き止めるため、彼女の交友関係を当たってみたりもしたが、ストーカーになりそうな人物はいなかった。そもそも、彼女の異性との交友関係は極端に狭い。付き合いがあるのは茶道教室の人と、職場の人間が数人――彼女は保育士で、同僚に男性は極端に少なかった――あとは、学生時代のサークルの知り合いが何人か。ただ、そのサークルもハンドメイドの小物を作って、学園祭で販売する、というような内容だったため、やはり男性は少なく、交友関係からの洗い出しはそこで行き詰まってしまった。
「……わからん」
「この世の八割はお前には理解できないことだ。そろそろそれを理解してわからないを連呼するのをやめろ。夕飯前からこれで十三回目だやかましい」
そんなもんなんで数えてんだよ、と思いながら、陽人は、わかんねえもんはわかんねえんだもん、と口ごたえする。すると怜司は、やれやれと言った目で陽人を見た。
「だいたい、その依頼者の依頼は、ストーカーを突き止めることじゃないだろう。つけられている、見張られている感じが解消されればそれでいい。なら、もうしばらく身辺警護をして、お前が常にいると相手に思わせられれば、それで依頼達成だ。なにもわからなくていい」
「……でもさあ、なんか気持ち悪いんだよ。身辺警護始めた途端にストーキングが止むってとこも含めて。普通、探偵が見張ってるかどうかなんて見た目じゃわかんないだろ」
陽人が言うと、怜司は、確かにそうだ、という顔をした。彼がこういう反応をするとき、それは彼がこの問題について、一緒に悩んでくれる時だ。怜司はしばらく黙り込んだあと、そういえば、と思いついたように陽人に尋ねた。
「……彼女は、探偵を雇ったことを誰かに話したと言っていたか?」
「いや? 聞いてないけどそれが何か……あ、そっか」
気がついたか、と怜司が言う。確かにそうだ。彼女本人から情報が漏れていれば、陽人の存在に気づいたのではなく、彼の存在を「知って」、ストーキングを中止することが可能だ。「なんだ、単純な話じゃないか。だから僕は、自分の頭を使って考えろと言っている。だいたい、わからないと口にすること自体思考停止だ。何度も言うが、ボケた二十七歳の世話を何百年もして過ごすのはごめんだからな、僕は」
「えー、なんとかかんとか言っちゃって、結局世話してくれるんでしょ?」
そうならんように努力しろと言ってるんだ甘えるな、と叱られた。まあ、言われていることは正論でしかないので、陽人はおとなしく、はいはい、と返事をして、今度は、はいは一回だ、と叱られた。
「……あのさ怜司、こんなこと言うのも何だけど」
「なんだ?」
「お前……日に日に俺のおふくろみたいになってくのな」
黙れ馬鹿たれ、と怒鳴られたので、陽人は黙って怜司の言うことを聞くことにした。
翌日、身辺警護のついでに香月美奈に電話をかけ、ストーカーのことや、探偵を雇ったことを誰かに話したかどうかを尋ねた。彼女は困ったように、男の方にはお話ししていませんが、と答えた。
「それは……女性ではどなたかに相談されたということですか?」
陽人がさらに突っ込んで尋ねると、彼女は黙り込んでしまった。これは「話したけど誰に話したかわからなくなった」パターンか、「話したけれど他人には言いたくない」パターンだ、と陽人は直感する。ともかく、誰かに話したことは確かなようだ。
「ああ、言いにくかったらかまいませんよ。ただ、一応こちらも、私があなたの依頼で動いていることを広く知られてしまうと動きにくくなりますので……」
少し控えめに、ということを言外に匂わせながらそう言うと、彼女は、わかりましたと答えた。こういうの、女の人は面倒なんだよなぁ、と陽人は心の中で嘆息する。
女性同士の人間関係は、正直なところ昔からよくわからない。高校生の頃から彼女がいなかったわけではないが、彼女の友人関係に首を突っ込もうとは思わなかったし、彼女たちは陽人にとって、「何か得体の知れないもの」だった。女性同士、というか、遊び仲間のグループに妙な結束力があり、おそろいのものを身につけたり、何か秘密を共有していたり。かと思えば、その秘密を簡単に他人である自分に話したりする。また、その中の誰かが「あいつは嫌だ」と言い出せば、昨日まで普通に接していた相手でも、集団で無視し始めたりすることもある。やはりわからない。おそらくこれは一生理解の及ばないものなのだと、陽人はそのうちあきらめた。その世界に立ち入ろうとしない限り、牙をむかれることも無いからだ。
「ともあれ……あれから、そちらに異常ありませ……」
ふいに、背後から殺気を感じた。陽人はすいません、と言い終わるか終わらないかで即座に電話を切り、その場から身を翻した。その瞬間。
強い風が通り抜けた。その風は虚空を切り裂いて道の向こう側に飛び、そこにあった看板を真っ二つに割った。
「……!」
振り返る。そこにいたのは、雨も降っていないのにレインコートを来た男だった。レインコートの色は、目の覚めるような赤。顔はフードに隠れてわからない。男はだらりと腕を垂らし、背中を丸めて経っている。ただ――そこから、信じられないほどの殺気が、しかも自分に向けて発されていることを、陽人ははっきりと感じていた。そして、垂らされた腕の袖からのぞいていたのは――醜い、獣のような手。
「お前……何者だ」
相手は答えない。答えの代わりに男は左手を横なぎに振るった。嫌な予感に突き動かされて、陽人は瞬時にしゃがみ込む。それと同時に、先ほどと同じような風が、今度は横なぎに飛んで、陽人の背後にあった電柱を切り裂いた。電柱がゆっくりと倒れ、陽人はそれを体の反射に頼ってなんとか避ける。体がミシミシと悲鳴を上げるのがわかり、くそ、警察やめても道場は通えばよかった、と陽人は小さく後悔した。
看板が割れ、電柱が倒れたことによって、周りの通行人が騒ぎ始めると同時に、殺意が消失した。はっとして陽人が顔を上げると、先ほどまでそこにいたはずのレインコートの男は、跡形もなく姿を消していた。
「な……んだったんだ?」
何者だったかはわからない。ただしそいつが明らかに人外の力を持つこと、そして明確な殺意を持って、陽人を殺そうとしたことは――確かだった。
幕間 お呪い
そんなことは願っていない、などとは、今更言えなかった。最初の一人はよかった。どうやら彼は目的の人物を見つけられなかったらしく、庭を少々派手に壊しただけで帰ってきた。そして私の手は、醜い――の手になった。一つ目の願いを叶えた、代償だ。
二つ目の願いは、最近彼女の周りをうろうろするようになった男の排除だった。彼女が雇った探偵だという。私は急に怖くなった。いずれ彼が私の正体を突き止めて、彼女にそれを報告するのではないかと。だから、排除してくれるように願った。少し脅して、あの男が彼女から離れていけばそれでよかった。それなのに。
彼は、大げさに私の願いを叶えようとした。つまり、彼は――その男を殺そうとした。私は訴えた。そんなことは望んでいない、死んで欲しいなどとは思っていないと。彼は答えた。自分はお前の願いを叶えようとしただけだと。彼は深く問うた。本当に、脅かすだけでよかったのかと。お前と彼女の関係をおびやかすものを、その程度で許していいのかと。お前の本当の願いはなんだ、と。
その途端に、わからなくなった。私の望みはなんだったのだろう。ちょっと脅かして、その男がいなくなったらそれでよかったのだろうか。いや、逆にその男が、彼女が狙われているという勘違いをして、もっと彼女に近づくなら、あるいは――
私はかぶりを振る。願いはあと一つだ。あと一つで、私は化け物になる。しかし、私は今、本当に人間なのだろうか。彼の叶えようとした私の願いが本物であるなら――私はもう人間ではないのではないか。ただ、少し近づいただけの男の死を願うなど。
願いはあと一つ。しかし私は――私は、まだ、人間なのだろうか。
二章、雨の日の悪魔
命からがら逃げ帰ったその日、陽人が自宅にたどり着くと、怜司が夕飯の支度をしている音が聞こえた。自分が生きて自宅に帰ったことを実感した途端、陽人は腰が抜けた。
警察官だった経歴がある以上、命がけの捜査がなかったわけではない。しかし、あれほど明確に、自分個人に向かって殺意を向けられたのは初めてだった。
「怜司ぃー! 助けてー腰抜けた」
「はぁ?」
怜司が台所から顔をのぞかせて、心底あきれたという顔をした。そして、尻が汚れるぞと言いながら、玄関までやってきて、手を取って立たせてくれた。
「なんで帰ってくるなり玄関で腰を抜かすようなことになってるんだお前は」
「あ、あの、怜司……俺、命狙われた……マジで殺されるかと思った」
怜司の眉根がぐっと寄る。彼はその顔のまま、どういうことだ、と尋ねた。
「だ、だから、なんか変なやつが、後ろからこうがっと……」
「……動転するのはわかるが、わかるように話してくれないか? 僕は確かにもうお前と二十年以上一緒にいるが、エスパーじゃない」
そこで陽人ははたと冷静になる。確かにそうだ。いつも怜司に叱られることじゃないか。物事は順を追って話せ。でないとわからん。
そこで陽人は、香月美奈の身辺警護中に、怪しい男に襲われたこと、その男が、明らかに人外の力を使用していたことを話した。
「……どう考えてもそいつが今回の犯人じゃないか。なぜ捕まえなかった」
「いや、ぎりぎりで電柱避けたらもういなかったんだって。そういうとこも含めて、明らかに人外だったの」
怜司はふうん、と返事をし、台所へ戻っていく。こういう態度の時、この男は何も聞いていないようで、実はちゃんと話を聞いて記憶との照合を行っていることは、今までの経験から学習済みだ。案の定、怜司は思案顔で何事がつぶやいている。
「騒ぎになったから逃げた……まだ目的があるということか……? ところでサイ、その男に何か特徴はないのか?」
そういえば忘れていた。相手はとてつもなく、特徴的な格好をしていたではないか。
「レインコート……赤いレインコート着てた、そいつ。あと、腕がなんかこう……獣っぽかったというか……」
「なぜそれを先に言わない! それなら犯人は決まりじゃないか!」
突然の剣幕に驚きながら、陽人がどういうこと、と尋ねると怜司は静かに、レイニーデビルだ、と言った。
「レイニーデビルの伝説上、レインコートは黄色と相場が決まっているが……西洋の有名な伝説だ。猿の手に願いごとをすると、三つまでその願いを叶えてくれる。ただし一つ願いを叶えるごとに宿主の体は化け物に近づき……三つ目を叶えたその時、願いを聞き届けた猿の手は、宿主の体を乗っ取り、レイニーデビルという化け物に姿を変える。おそらくお前を狙ったのはそれだ」
「……誰かが、俺のこと殺せって願ったってこと?」
それはちょっとぞっとしない、と思いながら陽人が尋ねると、怜司は少々考えた後、その可能性は低い、と答えた。
「レイニーデビルは、四国の犬神憑きなんかと一緒で……宿主の願いを暴力的な方法で叶えようとする傾向にあるんだ。お前犬神憑きぐらいは知ってるだろうな?」
陽人がかぶりを振ると、怜司はこの日一番深いため息をついて、多少は勉強しろと言っただろうが、とあきれた声を出した。
「犬神憑きは四国に伝統的に伝わる憑き物筋の一つだ。犬を首だけ出して土に埋め、餓死寸前で目の前にえさを置き、首を切り落とすと、首だけが飛んでえさに食らいつく。その犬の首は、代々その家の女性に憑き、宿主の願いを叶える。これだけならただちょっとグロテスクなだけのおまじないだが……問題は、犬神は加減を知らないということなんだ」
加減を知らない。自分が殺されかけたので、それ以上の説明を陽人は必要としなかったが、ここで怜司の話をとるほどはっきりと理解したわけでは無かったので、黙って怜司が続きを喋り出すのを待った。
「人間生きていれば、気が合う合わないぐらいの些細な齟齬はいくらでも起きる。死んで欲しいと思うほど憎まなくても、ちょっと嫌だなと思う相手ぐらいお前にだっているだろう?」
「そりゃあまあ……え、まさか」
そのまさかだ、と怜司は答える。陽人は想像する。ちょっと嫌いだと思っただけで、自分が従えている得体の知れない何かが、その相手を殺してしまうかも知れない――
「だから、犬神憑きだと周りにバレれば、その女性には普通、誰も近寄らない。近寄って少しでも不快に思われれば殺されるかもしれないと思えば当たり前だな。化け物というのはだいたいそういうものだ……レイニーデビルも例外じゃない。だから宿主は多分、最近彼女の周りをうろちょろするようになったお前の存在を、直接見たか誰かに聞いたかして察知し、追い払ってくれと願った……ひどくても、ちょっと傷つけてもかまわない、程度の願いだっただろうな。おそらく、殺せとは願っていない。もし殺せと願っていたなら……ここまでつけてきて、ドア越しに真っ二つにされていてもおかしくない」
陽人は思わずドアの前から飛びのいた。ドアごと切られて死ぬなどごめんだ、すごく痛そうだし、何より苦しそうだ。そんな陽人を見て、怜司があきれた声を出す。
「……サイ、お前何か忘れてないか?」
首をかしげた陽人に、僕に言わせるんじゃない、と怜司はため息をついた。
「お前は殺されても死なない。残念ながら、五ミリ角に切り刻まれたところで死ねはしないぞ。さすがに真っ二つにされればダメージは大きいだろうが……その時は丁寧にくっつけておいてやるから安心しろ」
「……怜司、死なないことと死ぬような目に遭わないことはまた別の話だと思うんだけど……まあ、もし次そいつと会った時に八つ裂きにされちゃったら、ちゃんと全部拾ってくっつけてね」
冗談のつもりでそう言うと、怜司はふん、と鼻を鳴らし、八つ裂きにされない努力をしろ面倒くさい、と吐き捨てた。
「ちょ、おま、この世でたった一人の相棒に面倒くさいはないだろめんどくさいは!」
「僕はお前を甘やかすつもりはないからな。僕のペットに甘んじるつもりなら、今日からお前のことは駄犬と呼ばせてもらうぞ」
「やめて! なんかすごく傷つく! やめて!」
大騒ぎしながら自室へ着替えに行った陽人の後ろ姿を見送って、怜司は台所に戻る。カレイの煮付けは煮すぎるとおいしくなくなるので、火を止めた方が良さそうだ。
まもなく、着替えを終えた陽人が腹減ったとつぶやきながら食卓についた。
「……サイ」
「何?」
のんきに尋ね返した陽人を、怜司は上から下まで睨めつけるように見た。自分も見覚えのある――というか、着た覚えのある――決しておしゃれとは言いがたいジャージ。それが、陽人の部屋着だ。
「お前、それを前に洗濯したのはいつだ? むしろそろそろ、高校の時のジャージを部屋着にするのをやめろ」
怜司の言葉に、陽人は、だってこれ着心地いいんだもん、と答える。
「それに、まだ着られるし。体型維持の指標としては丁度いいだろ。だいたい、部屋着とかお前しか見ないんだからいいじゃん別に」
確かにそうだ、と納得してしまったので、怜司は言い返すことをあきらめて、食卓にできあがった料理を並べる。カレイの煮付け、オクラのつき出し、味噌汁の具は、今日はシジミだ。
「……あのさ怜司」
「何だ?」
「シジミの身、食べなきゃだめ?」
陽人の甘えを、好き嫌いするな馬鹿たれ、と、怜司は切って捨てる。こういうとき、怜司が絶対態度を変えないのは陽人もわかっているので、彼はそれ以上わがままを言うことなく、いただきますをして食事を始めた。
「カレイうまっ! 相変わらず和食は上手だよなお前」
「洋食は下手だと言いたいのか? 抜かせ、人並みには作れる」
珍しく怜司が料理に関して反論してきたので、陽人は返す言葉をなくしてしまったようだ。怜司自身、自覚はある。たしかに、洋食は陽人の方が上手だ。ただ、下手なわけではない、それを少し訴えただけだったのだが。
静かにカレイの身をほぐし、口に運ぶ。確かに今日の煮付けは上出来だ、そこまで考えたところで、彼ははたと、昨夜陽人に投げかけた疑問を思い出した。
「そういえば……サイ、例の依頼人は、お前に調査を依頼したことを誰かに喋ったと言っていたか?」
突然発された問いに対し、陽人は一瞬何のことだという顔をした後、ようやく昨夜のことを思い出したようで、喋ったみたいだけど、と言った。
「でも、男に喋った覚えはないってさ。友達とかには言ったみたいだけど……誰に言ったかまでは聞けなかった」
「なぜ聞かない? その女が実はお前の依頼人を憎んでいて、男に頼んでストーカーまがいのことをさせた可能性だってあるだろう」
怜司の言葉に、陽人があ、という顔をする。全く、この幼なじみは賢いのか馬鹿なのか全くわからない。怜司の顔を見て、陽人があわあわと言い訳をする。
「ほら、女の子の人間関係ってややこしいじゃん。首突っ込んでそのへんの相談まで受けるのは俺の仕事じゃないわけだし。昔からわかんないからそこは突っ込まないことにしてんの。ほんっと、昨日まで手つなぐぐらい仲良かったのに次の日は話もしなかったりさあ……」
難しいよな女の子って、と陽人が言うのを、怜司は一応相づちを打ちながら聞いていた。が、正直なところ、女性とほとんど関係のない人生を歩んでいる怜司には、その辺のややこしさは全くわからなかった。
しかし、一つ引っかかった言葉があった。「手をつなぐぐらい仲がいい」という言葉だ。壊された庭。襲われた陽人。仲のいい――友達。
怜司の脳裏に、一つの言葉が浮かび上がった。それと同時に、彼は次の非番がいつだったかを考え始めた。
幕間 いのちがけでほしいもの
あの男を殺しかけてから、私はずっと、部屋にこもっていた。
叶うはずの無いこの願いが叶うなら、死んでもいいと思ってきた。しかし、私はわかっていなかったのだ。化け物に願うということ。お呪いをかけるということ。それがどれほど恐ろしいことであるか。
最後の願い。いのちがけでほしいものは一つだけだ。しかし、彼はあの程度の願いで、あの男を殺そうとした。ならばもし、もしも。彼女が私の願いに対して、ノーと答えたらどうなるのか。
花のように笑う、彼女が好きだった。内緒だよ、と耳元でささやく声が好きだった。あなたにはなんでも話せると、彼女が笑うたび私は切なくなった。彼女が好きだから。彼女がすき「だった」から。
私はすべてを過去形の中に埋めようとする。私がいのちがけでほしいものはやはり一つだけだ。でも、そこに賭けていい命は、私のもの一つだけなのだ。
好きだった、好きだった、ただただ私は繰り返す。最後の願いは、もう決まっていた。
三章 十字架
その日も陽人は香月美奈の身辺警護を続けていた。一つだけ違っていたのは、その日はなぜか、非番だった怜司が一緒に来ると言ってついてきたことだった。
美奈に変わった様子はなかった。今日は茶道教室の日で、茶室のふすまは閉められており、中をうかがい知ることはできない。
「……で、なんでまたお前ついてきたの? 興味無いって言ってたじゃん」
陽人の疑問に、背後で黙って缶コーヒーをすすっていた怜司は、ちょっと気になることができた、とだけ答えた。
「気になること? なんだよそれ、そんな風に言われたら俺も気になっちゃうじゃん」
「少なくとも、お前が僕を好きと言うだけで『普通』からは除外される」
首をかしげた陽人に対して、怜司は、わからないならいい、と一言だけ答えて、またコーヒーに口をつけた。正直なところ、全くわからなかったので陽人は黙って仕事に戻った。
ふいに、風が吹いた。振り返らなくともわかるほどの、圧倒的な殺意が背後でふくれあがる。言葉より先に手が出ていた。
「怜司伏せろ!」
左手で怜司の頭を押さえつけるようにして伏せさせる。その瞬間、あの時と同じ強い風が頭をかすめた。逃げ遅れた毛先が切り刻まれるのがわかる。そのまま風の出所へ目をやると、そこにはあの日と同じ、赤いレインコートの男が立っていた。
「また来たか……一体何者なんだよ、お前は!」
陽人が怒鳴りつけたその時、怜司がゆっくりと立ち上がり、男に向かって一歩、また一歩と歩み始めた。
「ちょ、怜司お前あぶな……」
「もういいだろう、その辺で。君自身わかっているはずだ……それは少なくとも『普通』からは除外される。だから『普通』の幸せを呪った。彼女を誰のものにもしたくなかった。違うか?」
赤いレインコートの男が、かすかに動揺したように見えた。それと同時に動きが止まる。先ほど感じた殺意はかき消え、代わりに感じたのは――おびえ。
「でも、君は君自身で……最後の可能性に思い至ったはずだ。今ならまだ止められる。確かに間違いは犯した。でも……それはまだ償いに足る罪だ。誰かを好きになることは罪じゃない。叶わないとわかったとき、それをねじ曲げようとしたこと……それだけが、君の罪だ……水城糖子」
レインコートの男が後ずさった。その拍子に、レインコートのフードが風で押し上げられ、外れる。その下にあった顔は、香月美奈と同じ年頃の、可憐な、女性だった。
「お……んなのこ?」
「お前が言ったんだ、サイ。お前が僕を好きというだけで、それは少なくとも『普通』からは排除される。女友達に喋ったと聞いた時点では、その女が香月美奈を憎んでいて、男にストーカーまがいのことをさせたのかと思った。ただ……それでは、レイニーデビルの出る幕は無い。願いはすべて、男が叶えてくれるからだ。『普通』の範疇では叶うはずのないこと……絶対に手に入らない相手、だからこそ誰のものにもしないために、茶道教室の男性宅を襲うことと、こいつを脅して彼女から離れさせることを、君は願った。そして……そうなった」
怜司の言葉の一つ一つが、彼女の――糖子の心をえぐっていくようで、彼女の目には涙が浮かび、やがて、膨らんで頬を滑り落ちた。レインコートの下からは、醜い猿の腕がのぞいていた。
「もし、レイニーデビルの主が男性なら、すぐさま美奈を自分のものにすることを願うはずだ。それではなく、むしろ男性を排除するよう願った……そこから、君の名前に至ったんだ、水城糖子。こいつの集めた香月美奈の交友関係に関する資料によると、大学時代のサークルの友人で、特に仲がよかったようなことが書かれていた。香月美奈が他に深く付き合っていた相手はいない。唯一無二の友達。ならば……」
「ええ、そう。言えなかったわ……言えなかったのよ! 美奈のこと好きだなんて! 言えるわけないじゃない! そんなことしたら全部終わりになる……私は美奈のそばにいられなくなる。なら、友達でもずっとそばにいられればいいって、そう思うのは悪いことなの?」
糖子の悲痛な叫びは、一つ一つがすべて陽人の胸に突き刺さる。嫌われてはいないと思っていた。でも、手に入るとも思わなかったのだ。だから――唯一無二の、幼なじみとしてずっと、一緒にいることを望んだ。確かに好きという言葉は口にした。でもそれは、受け入れられることを望んでのことではない。ただ、自分の行動原理を説明しただけだった。
「それ自体悪いことではない。それはさっきも言ったはずだ。君の罪は……香月美奈が誰のものにもならないために、人ならぬ者の力を使ったことだ。友達の自分をずっと一番に置いて欲しいというエゴを通すためにな。この馬鹿は運動神経だけはいいからたまたま死ななかったが、こいつでなければおそらく、人が死んでいた。好きな人のために化け物になってもいい、命をかけてもいい、そう思うのは結構だ。ただ……その好きな人の人生も、彼女が好きになる人の人生も……彼ら自身のものだ。君が壊していいはずがない」
怜司の視線は彼にしては珍しく、侮蔑ではなく憐憫を含んでいた。それを見て陽人は立ち上がる。立ち上がりながら、考える。もし怜司がもっと普通で「ヴァンパイア」でもなくて、普通に女の子と付き合い、結婚していくとしたら。自分はその女性を、憎まずに暮らせるのだろうか。
自信はなかった。きっと何度でも思ったことだろう。あんたなんかより、俺の方がずっと怜司のことを知ってる、ずっと怜司のことが好きだ。なのにどうして「女性」というそれだけで、怜司の隣をあんたが独占できるんだ。やはり自分は、強欲の狂気を飼っている。でもきっとそれは、この目の前の女性も――同じなのだ。
糖子は声を上げて泣き始めた。涙をぬぐうその腕は、どうも肩まで、醜い猿の腕と化しているようだった。よく見ると、レインコートの裾からのぞく足も、タイツで隠してはいるが、どうも猿の後ろ足のように変化しているようだ。陽人はそっと、彼女に対して歩を進めた。その時だ。彼女が絶叫した。
「じゃあどうすればよかったのよ! 私は全部諦めればよかったの? 美奈が誰かのものになって、結婚して、私なんかいらなくなっちゃうことを……その時が来るまで、おびえて待ってればよかったっていうの? 最初はそのつもりだったわ……でも、この猿の手を、おばあちゃんの遺品の中から見つけて……正体がわかったとき思ったの。美奈とずっと一緒にいられるなら、私は化け物になったっていいって!」
同じだった。あの日陽人が思ったことと。事情こそ違えど、根源は同じだ。怜司とずっと一緒にいられるなら、自分が「眷属」となり、「死」とも「老」とも切り離された「化け物」になることなど、どうでもよかった。彼を一人にしたくなかった。絶望の中に置き去りにするなら、好きだなんて思わない。それも確かに本当の気持ちだったが、同時に――「化け物」になることと引き替えに、怜司が手に入るなら安いと思った。絶対に手に入らない人だったからこそ。
一歩、また一歩と距離を詰める。怜司が何か言っている気がしたが、聞き流した。自分と同じ魂がそこにあった。「友達」を愛してしまった、かわいそうな魂が、そこに。
ふいに、糖子の両腕が陽人の首筋をとらえた。そのまま、締め上げられる。陽人は抵抗しなかった。そう、その憎しみは、あるいは自分のものだったのだから。怜司が悲痛な声で自分の名前を叫ぶ。このままにしておくと絶対に糖子を撃ち殺してしまうと思ったので、陽人はなんとか、言った。
「怜司、手ぇ……出すな。これは俺の問題だ」
「やめて! もういいの! その人を殺したりしないで!」
糖子が叫んだ次の瞬間、糖子の表情が変わった。まるで口が耳まで裂けていると錯覚させるような、にたり、という邪悪な笑み。
「願いは取り消せない。最初に言ったはずだ。この男を排除する。それがお前の願いなら、私はそれを最後まで遂行する」
それは糖子の口から発せられた言葉だったが、糖子の声ではなかった。しゃがれた男の声。レイニーデビルの声。
「あのさ……別にいいと思う。絶対に手に入らないと思ってた……大好きな人が手に入るなら……化け物になったっていいって思うことは……正しくはない。でも……俺もそう思った」
「なぜだ! お前はなぜ死なない! 人間ならもう窒息しているはずだ! なぜ私は、願いを叶えられない!」
レイニーデビルが叫んだ。今彼の存在意義が揺らいでいる。願いを叶えられなければ、レイニーデビルはただの、猿の手だ。
「おあいにく様……俺もそっち側だ。俺は……俺はそこの馬鹿眼鏡を手に入れるために……『化け物』になる道を選んだ。一緒なんだよ、その人と……一つだけ違うことは……その人はまだ『人間』だけど、俺はもう『化け物』だ。だから死なない。お前は願いを叶えられない。俺は……殺せない」
手が急に離れた。肺に一気に酸素が供給されたせいで、陽人は激しく咳き込んだ。ここは結局人並みか、と思っていると、糖子の顔が目の前にやってきた。
「いっ……しょ? あなたも? あなたも、そうなの?」
「そ。詳しいことを君が知る必要は無いけど……俺は、死なない『化け物』なの。だからいいよ。その憎しみは……俺も覚えが無いわけじゃないから」
陽人は彼女の目を見て言った。彼女の目からまた、涙が膨らんで落ちる。それはきっと、あったかもしれない自分の涙だ、と陽人は思った。
「私は……あなたを殺そうとした……でもあなたは、私を許すっていうの? 自分の気持ちを押し通すために、あなたを殺そうとまでした私を、許すの?」
「許すよ。俺はもう死ねないからどのみち殺されることはなかったわけだし……俺だって同じだよ。あいつが……怜司が手に入るなら『化け物』でもなんでもいいと思った。それ自体が罪なら……俺だって同罪だ」
彼女が震えながら、声を上げて泣く。その背を、陽人はそっとさすった。どうして、人を好きになることはこんなにつらいのだろう。ただ、好きなだけなのに。幸せになりたかっただけなのに。その時だ。彼女がふいに、さいごのねがいごとよ、とつぶやいた。
「最後の願いごと……ほんとは、美奈の恋人にしてくれって願う気だったの。でも、そこに美奈の気持ちが無いなら意味がない……それに彼は、美奈が嫌だって言ったらきっと、美奈を殺してしまうから……私、美奈が大好きだったの。美奈を不幸にするなら、それは自分だって許せないから……最後の願いごと……」
陽人ははっとして顔を上げる。すぐにわかった。やめろ、という叫び声は、彼女の歌うような最後の願いと混ざり合って、悲しいメロディーを奏でた。
「猿の手よ、私を……私を、ころして」
彼女が目を閉じる。それと同時に、きらきらと光の粒がいくつも舞い、風に流れるようにして消えていく。それまで醜い猿の手をしていた彼女の手は、柔らかな女性の手に戻り、やがて彼女は一回り小さくなって、そこに座り込むただの女性になった。その傍らにあった、乾いた獣の腕を怜司が踏みつぶす。ただの女性に戻った彼女は、涙を落としながら呆然と陽人を見た。
「どう……して?」
「へ? あ、いやすみません、俺にもさっぱり……」
パラドックスだ、という声がした。そちらを見ると、怜司がいつもの仏頂面で、二人を見下ろしていた。
「猿の手は本来、宿主の願いを叶えることによって宿主の体を乗っ取り、レイニーデビルとしてこの世に顕現することを目的としている。しかし、今踏みつぶしたこいつはまず、二つ目の願いをどうやっても叶えられなくなった。この馬鹿は文字通り、殺しても死なないからだ。これはそういう『化け物』なんだ……僕の『眷属』だ。所詮人間を宿主にして、乗っ取らないとこの世に顕現できないような、下位の化け物に殺せる相手じゃない。それによって力が弱まったところへ、君は自分を殺すように願った」
「そうか……! 殺してくれっていう願いを叶えると、自分が願いを叶えていた目的が消えるわけか!」
そうだ、と怜司が後を継ぐ。糖子もようやく事情を理解し始めたようで、その目は静かに見開かれ、そして――伏せられた。
「レイニーデビルは、精神だけを殺して体を乗っ取るような器用なまねはできない。宿主の体と精神、両方が生きていないと自分は顕現できない。願いを一つ叶えられなかった分、力が取り戻せていないから余計だな。そこで、宿主が自分の死を願った……宿主を殺せば、自分は顕現できなくなる。しかし、宿主を殺さなければ宿主の願いは叶えられない……願いが二つ不成立になった段階で、猿の手はレイニーデビルとしての力を失い、君から離れたんだ」
怜司が話し終わったところで、彼女がぽつりと、じゃあどうすればいいの、と言った。
「私……私、あなたにひどいことをした。美奈にも、茶道教室の人にも……それに、私……美奈を手に入れるために『化け物』になろうとした……その考え自体が、もう『化け物』の思考なら……どうすればいいの……私はもう、人間じゃない」
また、涙が落ちた。そんな糖子に、陽人はできるだけ優しく、声をかける。
「君はまだ人間だよ。誰も殺さなかった。君を『化け物』にしようとしてた猿の手は、このとおり怜司が粉々にしちゃったし……まあ、茶道教室の人の件は、私がやりましたって自首してもいいけど、女性一人の力でできる破壊行動じゃないから、多分とりあってもらえないかな。俺に対する償いは別にいいよ、結局死ななかったし。ちょっと怖い思いはしたけどさ。あと……」
生きて、と言ったその言葉は、怜司の生きろ、という言葉と共鳴した。驚いて顔を上げると、怜司も糖子を見ていた。
「その十字架を背負って生きろ。自分が『化け物』かも知れないという恐怖を抱いて眠れ。それが……君のしたことに対する、罰だ。『人間』である君は、そうやって生きるしかない。『化け物』である僕たちとは……違う」
糖子が顔を覆って泣き出した。陽人は立ち上がり、彼女に背を向ける。見ると怜司はもう歩き出していた。
あとは彼女の問題だ。ひとまず、依頼はこれで解決かな、と、陽人はそんなことを思った。
終章 ただ、あなたのそばに
かくして、陽人の依頼は解決した。香月美奈が事務所へやってきて、見張られている、つけられているという感じがしなくなった、ありがとうございましたと依頼料を払い、頭を下げて帰って行くのを、陽人は複雑な気持ちで見送った。彼女がもしいつか、何かあってストーカーの正体を知ってしまったら――糖子はどうなるのだろうか。できればそんな日は来ないで欲しいと、陽人は誰に祈るともなく願った。彼女だって、自分だって、同じだ。ただ誰かを好きになっただけだ。好きな人と幸せになりたかっただけ。それが同性というだけで、理不尽なかなしみを、痛みを、代償を、十字架を、背負わなければいけないとすれば、神様というのはなんとも不公平なものだと陽人は思う。糖子は自分の狂気的な強欲におびえながら『人間』として生き、自分は――狂気的強欲によって、図らずも怜司の不幸を利用して彼を手に入れ『化け物』になった。
「……不公平だよな、世の中」
「当たり前だ。むしろ、公平こそ人間が作り出した人工物で、不自然な幻想だ。そんな幻想は、自然界にはない。強い者が、優秀に生まれついた者が、数の多い者が勝つ。それが本来の姿だ」
たまたま非番で、奥の自室にいたはずの怜司が出てきてそう言い、キッチンに姿を消した。どうもコーヒーでも欲しくなったらしい。
「あ、怜司、コーヒー淹れんならついでに俺の分もー」
キッチンからわかった、という声がし、数分後に怜司がカップを二つ持ってキッチンから出てきた。自分の方のカップを受け取って、口をつける。怜司の好みの、濃すぎるインスタントコーヒー。
「……怜司」
「なんだ? 言っておくがコーヒーへの文句は受け付けないぞ。僕に淹れさせたらそうなるとわかってただろう」
ちげーよ、と答え、陽人は一つ息をつく。隣でコーヒーを飲んでいる怜司の横顔。確かに目つきは悪いが、きれいだと思う。しかしその目は、いつもどこを見ているのかよくわからない。そんな顔を見るにつけ、時々わからなくなる。こいつにとって今、自分は唯一無二の相棒で、たった一人の「眷属」だ。他の誰かより、自分が怜司にとって特別なのは、わかる。ただそれが、彼が自分に対して負った「咎」だけが理由なら。もし、自分以外にも「眷属」候補が現れたとしたら。怜司はどうするのだろう。遠回りな考え事はごく単純な結論に帰結する。つまり、怜司は自分を好きなのだろうか、という疑念。「咎」や「罪悪感」を、「眷属」に「した」という事実を抜きにしたとして、それでもこの男は自分を選ぶのだろうか。もし現状が消去法であるなら、それが永遠に続く保証は――どこにもない。
「怜司さ、俺のこと、好き?」
「はぁ?」
「その返事は微妙に傷つくんですけど……だってさ、俺は少なくとも、自分の意志で選ぶ場面があったわけじゃん。お前か、普通の人間としての生活か。でも、お前は選べないまま『ヴァンパイア』になって、その……なんていうか、運命に俺を選ばされた。お前が俺と一緒にいる理由が、俺を『化け物』にしたっていう罪への償いなら、お前の気持ちはどうなっちゃうのかなーと思って。それでもお前がそばにいてくれるならなんでもいいと思ってたけど、この件でちょっとだけ……考えちゃって」
そこまで喋ったところで、怜司に思いっきり頭をはたかれた。本気の叩き方だった。いってえなにすんの、と文句を言うと、先ほどまでどこか遠くをさまよっているように見えた目線が、思いっきりこちらを睨み付けていた。本気で怒っている時の目だ、これは。
「あ、あの怜司さん、俺そんなにまずいこと言いましたかね……?」
「誰が罪の意識だけで、好きでもない相手と一緒に住んで一緒に晩飯を食って、裏返しの靴下をわざわざ元に戻して洗濯してやらなきゃならんのだ馬鹿馬鹿しい。お前は六歳から僕を見てきて、僕がそんな変態に見えているわけか?」
「え……え? あ、いや、そういうわけでは……」
では今の質問は愚問だ、と、怜司はぴしゃりとそう言い切った。陽人はしばし沈黙し、言われたことをかみ砕く。愚問。答えが決まり切っている愚かな質問。
「え、じゃあお前俺のこと好きってこと?」
「愚問だと言ったはずだ」
意地でも言わないつもりらしい。それでも陽人にはわかる。コーヒーをすする怜司の頬が、かすかに紅潮していることが。
「えー俺ちゃんと聞きたいー聞いたこと無いもん。俺はちゃんと言ったんだからお前も言えよー」
「言葉にしなければわからない程度の気持ちなら、僕はお前を『眷属』にしたいとすら感じなかっただろうな。もちろん『眷属』にはしなかっただろうし、もっと言うなら、お前を『眷属』にしたいと感じた時点でお前の前から姿を消している。まだ必要か?」
気持ちはよくわかったが、陽人はそれでも、一言ストレートな台詞が欲しかった。なので、食い下がってねだってみることにした。
「いや、そういう理屈の問題じゃなくて。わかろうよそこは」
「……僕は……お前のことは嫌いじゃない」
もう勘弁してくれ、と怜司が彼にしては珍しく降伏した。陽人は怜司を見つめる。たったそれだけ口にするのに、こんな赤くなっちゃって中学生かこいつは。
「んー、仕方ねえから今日んところはそれで許してやるよ。あーあ、俺はこんなに怜司のこと大好きなのになー」
そう言って抱きつくと、離れろ暑苦しい、と怒られた。手に入らないと思っていた体温はここにある。それだけで自分は『化け物』だろうと、払った代償がいかに大きかろうと、誰がこの状況を不幸と呼ぼうと――心から、幸せだと言える。
ただ、これからもずっと、この人のそばに。それだけを切に、願った。
終
なからぎ庵の薔薇担当のはずが、薔薇で百合な作品が完成してしまいましたどうしたもんかなこれ。
六月……雨……ハッ!レイニーデビル! とネタはすんなり決まったのですが、色々どうしたもんかという感じになりました。
今回も、北須みつさんに美麗な挿絵を入れていただきました。食卓の絵がもう……もう……
私信 新芽氏ー!やったよー!薔薇と百合が手を取り合ってダンスだよー!(