02黒猫のルイス
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「うわー。すごい絶景だね。相変わらず」
ほとんど日も落ちて。
月の淡く浮かぶ海に面した、その屋敷のテラスで凉下は身を乗り出した。
潮風を感じて、心も体も、弾んでいる顔だった。
「…………お前な。よく、あんな『文字』を見た後に呑気にはしゃげるよな」
「だって。私、三日前もあの文字を見にここにきたんだもん。二度目だとさすがにリアクションも薄いわよ」
……。なるほど。
妙に納得してしまった浅霧は、それでも自分の部屋に押しかけてきた人間に迷惑そうに、
「だいたいな。どうしてお前は、帰ることもせずに館に残ってるんだよ。もう案内役の役目は終わって用事はすんだんだろ? 家に帰ってもいいんじゃないのか」
「嫌よ。私は、あなたの助手。探偵と助手は、いつだってセット。地獄までついていく運命のダークグレーの糸で繋がれているものなんだから」
「…………嫌な運命の糸だ」
こんなヤツに、地獄まで押しかけられてたまるか。
というか。助手になんかした覚えがないのだが。昨日は近くでホテルを取ったというし、今度はこの屋敷に泊まったりと、ちょっと彼女は自由すぎやしないだろうか。
「家には、帰らなくていいのか?」
「いいの、いいの。うちのお父さん、私のこんな性格知ってるから。どこにいるのかの連絡さえすれば、そんなうるさく言わないわよ」
「……そんな親って、いるか?」
「というか、諦めてるのかも」
凉下は振り返って、笑う。
無邪気な笑み――のように見えたが。その部屋からの温もりに照らされる顔は、どこか寂しそうに見えた。
「昔から、そうなんだ。家族の団らんっていうのがないの。帰宅してからの、あのリビングの冷たさって他にはないと思う。温もりのある空間が、遠いまま育ってきちゃったのよね」
「そんなこと……。ないんじゃないのか?」
「それとね。私がここにいる理由は、他にもあるのよ」
「?」
「この後から、明日にかけてね。お屋敷に、茜の親戚がみんな集ってのパーティがあるの。その名も、『一ノ瀬茜様、十六歳の誕生日記念パーティ』。すごいわよね。天下の一ノ瀬財閥ともなると、誕生日すらVIP待遇のお祭りになるのよ」
凉下は、どうやらその『客人』として招かれたらしい。
もしかすると、一ノ瀬茜がこっちの別荘に滞在しているのも、その辺の関係なのかもしれなかった。いちいち誕生日くらいで親戚が集まって騒ぐのは奇妙に思えたが、それが上流階級の付き合いというものだろうか。
「あのさ。一つ、聞いていいか」
「あら。なにか気になることでもあるの?」
「お前にとっての、一ノ瀬茜という存在を教えてくれ」
「え? 茜?」
青い目を丸くしていた。
「昔からの付き合い。ってのは、何となく分かる。でも、その肩入れっぷりが……なんか、普通の友達以上のように見えてな。親友なのか?」
「うーん。というより、同じ歳の妹みたいなものかも」
凉下は、へへっと。曖昧に笑っていた。
テラスの風に、前髪が揺れている。
「なんていうかなぁ。昔からね、私には魔法工芸品があってね。家族とは、そんなにうまくいってなかったの。だから、怖がられたり、怯えられたり……『呪いの道具』の持ち主として、そんな目でしか見られてこなかった寂しさがあったの。でも、茜は違った」
「?」
「『いいなぁ』――って。茜は、フランチェスカを見てそういったの。純粋に、羨ましがってたなー」
それは、凉下にとっての『特別』らしかった。
大切で。
だからこそ、忘れたくない鮮やかな思い出。
「本人は、お人形遊びみたいな感覚だったんだと思うのよね。『いいなぁ』って、それこそ遊戯でしか使わないような言葉だもの。――でも、ね。それから、かな……。私が人に、心を開くようになったのは。今までよりもずっと頑張って話して、ずっとずっと明るく振る舞うようにして。だから、普通の友達もいっぱいできたよ」
浅霧は、ふと異色さを感じていた。
珍しいのだ。
この今井凉下といい、一ノ瀬茜といい。彼女たちは、他の人間にはない付き合いで、『魔法工芸品』という、この世に受け入れられないものと向き合っている。
普通は、気味悪がるか。遠ざけるものなのに。
「だから私は、茜に感謝しても、しきれないんだ。特別っていうのかな。助けたいって、自然に思っちゃう。力が湧いてくる。力になれるものなら、なんでも力になりたいって思う」
「……。そっか」
「ちなみに、浅霧くんは?」
「ん?」
目を上げる。
話が意外なところに飛んだ気がしたからだ。
「そういう友達とか、いないの? 魔法工芸品と関わりながら暮らしてるんでしょ? なかなか、普通と同じようにはいかないと思うんだけど。感覚的な、ズレもあるでしょうし」
初めて、自分のことにふれられた気がした。
「……………………いないよ」
「え?」
「俺には、そんな友達はない」
浅霧は、とびっきり苦い漢方でも飲み下した気分になった。
げんに、顔にも出した。
思い出は、どれも苦いものだ。
夜の小学校。肝試しで入って、帰ってこないクラスメイトがいた。浅霧は後で事情を聞き、もしや怪異でも関わっているのではないかと心配して学校に向かった。図書室で見つけたのは、児童書に紛れ込んだ、『人喰い童話』という書だった。紛れもなく呪いの道具だ。浅霧はその本と戦い、クラスメイトを解放した。
だが、翌日の噂では、浅霧が奇声を上げて『ひとりで』暴れたことになっていた。目撃者は、助けたクラスメイトだ。
後日、クラスで浮いた。中学でも同じだった。修学旅行先で『騒ぎ』を起こしたこともある。関わらないと思っても、向こうから来るのだ。怪異は。
だから。いつ頃からか、人と距離をあけるようになっていた。
「へ、へえ」
「なんで聞いてきたくせに、露骨に引いてんだよ」
「なんか。重いなと思って」
「いいよ。俺のことは。もともと『鑑定師』の血を受け継いだ人間は、人と同じような人生が歩けないって決まってる。道具と心を通わせるってことは、同時に人との関わりを遠ざけることでもあるからな」
「でも。あの惣一郎さんの血を受け継いでるじゃない」
「それが、なんの関係がある」
吐き捨てたい思いだった。
浅霧惣一郎は、確かに偉大だった。浅霧家からこれ以上の天才は出ないと言われるほどの傑物だ。
が、その血は、なぜか浅霧循にも遺伝されていた。親は、まったくといっていいほど影響を受けていない。平凡な教員をしている。でも、なぜか浅霧循の中身には『祖父と同じ、魔法工芸品と心を通わせる』濃い血が流れていた。
平凡な人生と、怪異に関わる人生。
どっちが幸せだったのかは、浅霧は考えないようにしていた。
考えれば、理不尽を感じてしまうから。
「ふーん……。難しいんだ。やっぱり」
「いい。俺は、これといって気にしたことはない。気にしようとも思わない。どっちかというと、人との関わりがなくなって、せいせいしているところだ」
「でも、ちょっと寂しくない?」
「なにが」
いわんとすることが何となく分かり、浅霧は不快な目を向けていた。
凉下は、小首を傾げ、
「悩みは、よく分かるわよ? 私も、魔法工芸品に関わってきて、フランチェスカのことで色々言われたもの。理解されないことも、理解しようとしない周囲にも、頭にくることばかりだった。それこそ人類なんて滅んでしまえ……。っていうくらいね。だから、あなたの気持ちは分からなくもない。分からなくもないけど……」
彼女は、テラスで寄りかかって。上を見た。
海に近い、夜空を見つめながら、
「でも、それだけじゃ。切ないなぁ。って思って」
「……?」
不思議な言葉だった。
今まで浅霧が考えもしなかった思考が、夜空の下に浮かんでいる。
「ありきたりな表現かもしれないけど。魔法工芸品だけじゃなくて、人の暮らしも大事なんじゃないのかな? ……って思うようになったの。最近は。偉大な鑑定師だった『惣一郎さん』がそうだったか分からないけど。人の暮らしがあるからこそ、そこで魔法工芸品が生きるんだと思うの。あなたのお祖父さんは、きっと、それが分かってたんだと思う」
「……。俺は、爺さんとは違う」
「同じ、鑑定師じゃない」
青い瞳が、こちらに向いた。
思わずそらしたくなるほど、汚れを知らない瞳だった。
「同じになってもらわなくちゃ、困るもの。私はあなたの助手になったんだから。なった以上は、あなたを誰にも負けない、日本一の鑑定師にしなくちゃ」
「……なにを勝手なことを」
余計なことだと思った。
自分勝手で、鑑定師という存在を理想視した、思い込みの押しつけ。話せば話すほど、その幼稚さ、勝手さに、腹が立ってしまう。
でも。
なぜか。浅霧は、その押しつけを正面から否定することはできなかった。
否定するには、理屈が足りない気がした。
「……。好きにしろ」
「あ、拗ねた」
「拗ねてない」
ベッドに寝転がった浅霧は、モヤモヤしていた。
「あ。そういえば」
「ん?」
まだなにかあるのか。いいかげん出ていって一人にしてほしいと思っていただけに、心に波風立つ。
「まだ来ないの? 途中でいってた、あなたを追いかけてくる『連れ』って」
「ああ」
そういえば、そろそろだ。
浅霧は洋館で『依頼』を受けて、使いを出した。一日前だ。紙が鳥の形になり、伝書鳩となる。『式神』と呼ばれる、日本伝統の魔法工芸品の一種だった。
受け取っているなら、もう追いついてくる頃だろう。
「……あの、さ」
「ん?」
きょろきょろ。と。
凉下は、なぜか人目を気にする感じに、そっと、
(……それって、『女の子』?)
(…………は?)
なんでそうなる?
浅霧が体を起こすと、
「だって。あなた。あんまり言いたがらないし。もしかして、助手の私に紹介するのを遠慮するような――そんな綺麗な人が来るのかなぁ。って。あなたも高校生だし。『いい人』くらいいるんじゃないかと」
「いい人って、昭和かよ。お前は助手じゃないし、よって遠慮する必要なんてない。だいたい、友達もいないヤツにどうして彼女がいる」
「それもそうね」
「納得されると、逆になんか腹が立つな。お前、実は人をイラつかせる天才か?」
「で、誰なの? やっぱり、凄腕の『鑑定師』の知り合いとか。そういう人?」
わくわくと、身を乗り出してくる。
彼女の頭にあるのは、伝説的なミステリー小説にある明智小五郎か、H・ワトソンか。美形で才気煥発、ミステリーの謎解きはディナーの後で、という瀟洒な気質をした探偵が乗りこんでくると思っている。
青の瞳をキラキラと輝かせた、期待の眼差しだった。
「違う。俺の呼んでるのは、そんなカッコいいやつじゃなくて。もっとヘンテコっていうか、出来損ない感のただようマスコットだ」
足は短足。腹はでっぷり。
中年オヤジのように教訓ばっかりたれる悪悟りをした手合いで、おまけに食い意地がとてつもなく汚い。どこをどうとっても『美形』などという綺羅のごとき言葉からは遠く、もっというなら英国流の勤勉な汗をかかせたほうがいい相手で――。
と。
噂をすれば。凉下のテラスに降り立つ、黒い影が見えた。
「――おや。これはこれは。せっかく久方ぶりに会えば、ずいぶんといってくれるではないか。小僧」
古い鋼のような、渋い声。
明治期の男爵でも想像させるような厳かな口調。しかし、それとは対照的に丸っこいフォルム。
短い二足歩行の立ち姿。シルクハットの帽子をかぶった『それ』は――。
「……!? な、なにこの猫ちゃんっっ!?」
「おや。こちらは、初めましてですな。お嬢さん」
グリーンの瞳を上げて。
うやうやしく一礼を捧げるのは、上品な顔立ちをした漆黒の猫だった。
「我が名は、ルイス――。ルイス・シャルダール・一世。浅霧の家と契約する使い魔にして、いつかこの小生意気な小僧を取って食ってやろうと思っている悪魔です」
「……! あ、あくま?」
「魔法工芸品だよ。ソイツも」
ややこしくなりそうだから、浅霧が口を挟んだ。
魔法工芸品、黒猫のルイス。本人の口からでたように、浅霧の家と契約を結んでいる。
「え。ま、魔法工芸品……なの?? この、猫ちゃんが?」
「ああ。よくできてるだろ。十四世紀、カバラ魔術の後継者として名を馳せていたナイルの技術者・アブラメリンの遺作だ。『悪魔』とかいってるのは、晩年のアブラメリンがそっち方面の研究に傾倒したせいで……まあ、俺たちにとっちゃ『猫』に見えても、作った本人は悪魔のつもりでやったらしい」
「へ、へええ」
「天才の考えることは、よく分からん。ともかくも、文献もろくに残ってない時代の工芸品だから――まあ、美術品としても相当な値打ちがある。価格の釣り合いだけでいうと、軍艦とか買えるんじゃないか」
「……! そ、そんなに?」
驚く凉下。
海上自衛隊が現在、保有する最大級の戦艦が『イージス艦』である。建設費用は軽い見積で一四〇〇億は下らない。現実に取り引きなどされないだろうが、ともかくそれほど『現実味のない』産物としては、軍艦も魔法工芸品も同じであるらしい。
「フン。気高き猫である我に、値段をつけようとは不遜であるぞ。循よ」
潮風にヒゲを揺らす猫は、のっしのっしと。貴族みたいに優雅な足取りで室内に踏み込んできた。
でっぷりとした腹回のせいか、妙に貫禄がある。
「で、どこにいってたんだよ? ルイス。うちの洋館が『退屈すぎる』とかほざいて、何ヶ月も連絡してこないで」
「うむ。それがな」
旅の塵を払うように、さっそく毛繕いを始めた猫は、
「ちょうど近畿の稻の田園を見て回っていたのだ。今は七月、田植えの時期を迎えて青々とした田が多い。のどかな風景の中に、また新しい出会いもあるであろうと思ってな」
「…………」
「ここへは、そこで知り合いになった『鷺』に送ってもらった。親切な大鳥でな。地域の生き物の顔役をしていた。事情を話すと、急いで飛んでくれた」
「…………重かっただろうに」
「やはり田舎はよいものだ。気の合う同胞との巡り会いがある」
遠い目で語る。
どうでもいいが、飼い猫が、自然動物と仲良くなっていく旅とはなんなのだろう。最後には、鬼ヶ島に鬼退治にでも行くのだろうか。
本人は、全国漫遊を楽しんでいるつもりらしいが。
「あ、あのー。猫ちゃん。さ、触ってもいい……?」
「んむ?」
毛繕い中に、ぴょこぴょこ動く尻尾を。凉下は、そっと近づいて握りしめていた。
口元がニヤニヤしていて、微妙に気持ち悪い。
「わ、私って猫が好きなのよね……。ああ……っ。なにこれぇ。も、もふもふだぁ。ツルツルしてて、すごい素敵な毛並み……。ああ、ああっ……。も、もう堪忍……我慢ができない……!」
「な、ぬ?」
「キャアァアア――!! 猫ちゃん、猫ちゃん!!」
ダイビングする凉下。
毛繕いどころか、逃げ出すこともできなくなって腕の中で暴れる漆黒の猫を抱えて、凉下は高速で頬ずりをする。
「か、カワイイ! なによこれ。こんなキュートな魔法工芸品がくるなら、早く言ってくれれば良かったのにぃ!」
「ぐ、ががが! はっ。放せ娘!」
予想外のリアクションだった。
黒猫のルイスは腕の中で「助けろ! 我を助けろ! 小僧!」と水に溺れたようにもがいている。
さっきまで気取ってお高い猫になっていたのが、台無しだ。
「うう。つ、連れて帰りたぁい! 浅霧の家と契約――っていってたけど。この子、あなたの使い魔なの?」
「……いや。なんていうか、腐れ縁? なのかな」
困り顔で、頬をかく浅霧。
助ける義理も、説明する義理もないように思ったが……。どっちにしても。後からしつこく追求されそうだったので、
「俺が小さいころから家にいて……。まあ、家族みたいなもんだ。あと、『この子』っていうけど、コイツ俺たちよりもはるかに年上だぞ?」
「ふーん。よろしくね! ルイスちゃん!」
凉下は、人の話を聞いているのだろうか。
もがく黒猫を抑えつける凉下に、ルイスはだらんと手足を下げて、
「…………ところで。循よ」
「ん?」
腕の中から、そのグリーンの瞳で見つめてきた。
「…………この私を呼び出したということは。『事件』か」
「……。だな」
「依頼人が、いるのか」
ジッと。見つめてくる。
一瞬の沈黙があった。
その目は、もっと別の意味を含んでいる気がして――問いかけてくる瞳に妙な熱があった。
だから、少しだけ浅霧は口ごもって。
「――ああ。そうだよ」
肯定した。
ルイスは、凉下の腕の中で「そうか」と。ただ、静かに頷いていた。