伝説の村
‘おじさん、だあれ?’
そう声をかけられて振り向いた先。男を下から見上げていたのは、虹をまとった幼女だった。てめえが誰だと声を低めて聞く。
‘お兄ちゃんを捜してるの’
幼女は瞳を潤ませた。
「で、泣かれそうだったから連れて来たの? いいかい、小野坂。ここは貿易会社なんだ。子供なら保健所連れていけ」
「保健所はねえだろ、保健所は」
小野坂と呼ばれた男はネクタイを緩めながら、わざとらしく目を見開いて反応してみせた。
心底面倒臭そうに彼の相手をするのは、ボサボサの髪を更にその手でボサボサにしていく男の雇い主である、30歳程の女性。
ここは小野坂の職場だ。それも簡単に入れるはずのない所謂、社長室。
「あんたココに来て何年になるんだ?」
大層なイスに座る女は小野坂を睨みあげながら尋ねる。
「あ? えーと……10年?」
「26年だよ。あんたが何か拾ってくる度言ってるけどね、ココじゃあ見た目は人間でもあんたと同じヤツなんかいやしないんだ。そいつも、あんたの手に負えるもんじゃないかもしれない」
「なんだ、ラン。俺のこと心配してんのか」
その言葉にランと呼ばれた美しい女は大きな音を立てて立ち上がった。
それまで微動だにしなかった幼女が、音に驚いたのかランの気迫にやられたのか小野坂の足にしがみつく。顔を隠す長い前髪のおかげで表情は見えないが、恐らく怯えているであろう。
「おいおい、子供を脅かすのは辞めろよ。泣かれたら困るだろ? ほら、その獲物を狩るような眼をやめろ。これだからオオカミは困る。……分かってるよー。ここが人間の住む世界じゃなくて、化け物ばっかりのとんでもワールドってことくらい」
小野坂が生きるこの世界は人間の住む場所ではない。人間の姿に見えたとしても、それは全て人間以外の眷属だ。だが彼らとて文献に書かれているような古代文明のような生活は送っていない。人間世界を訪れた先人達により、同じような発展を遂げたこの世界も種族間や地域間の商売で生計を立てていた。電気もガスも水道も人間世界のソレとは概念が異なるか通っている。しかし彼らは電波を知らない。よってインターネットや電話などという通信手段は持たない。
では彼らはどのように連絡を取るのか。それは、種族によって違う。その種族というのも無限に広がっているが、最も多いのは動物の眷属だ。小野坂の雇用主であるランはオオカミの眷属。そのため鼻や耳、脚が優れている。他にもヘビの眷属、トリの眷属など挙げていくとキリがない程の数がある。
この無駄に背の高い、よれたスーツを着たこの男ーー小野坂徹だけが正真正銘の人間なのだ。
「まあ、聞いてくれよラン。こいつぁ」
「ただいま戻りやしたー」
小野坂がランを宥めながら説明しようとした時、背後で大きな扉がその大きさに見合った音を立てて開かれた。
小野坂と幼女が振り向いた先にいたのは、幼女を足にしがみつかせたままの男と同じ年頃のやはりボロボロのスーツを着た男だった。
「いねえと思ったら仕事か」
「おー、徹。珍しく早いじゃねえかィ」
「お前と違っていつも早えよ、俺は」
「けっ、その口からは嘘しか出てこねえでやがる」
この2人は顔を合わせる度に軽口を叩き合う。仲が良いのか悪いのか、本人達でさえ分からないのだ。周りから言わせればいいライバルなのだそうだ。
「ところで、ソレは?」
指差したのは当然、小野坂の足元にいる幼女。
「髪も服も真っ白だねえィ。名前はなんて言うんだィ?」
「……リャオ」
「リャオってのか、お前」
「名前も知らずに拾ってきたのか、徹」
「拾ったっていうな、保護だ保護」
入ってきたばかりの男はせっせと足を運び幼女の横にしゃがみ込むと、空いているのかいないのか分からない細い目でジロジロと見る。
「ショー、お前も言ってやんな。元いたとこに戻して来いって」
黙って様子を伺っていたランが机越しにその男に声をかけた。
ショーと呼ばれた男は立ち上がり、肩をすくめる仕草をしながら首を横に振った。
「徹が拾って来たんでやすよねィ。そいじゃあワイにはどうにもできませんぜェ」
さすがはライバル。相手のことをよく分かっていた。もちろんランもそれは分かっているのだが、今回ばかりはどうにも納得が行かないらしい。
「何でそんな頑ななんだよ」
小野坂はついに我慢できなくなったのか、煙草を取り出した。いつもの流れで口に加え、火をつけようとしたその時だった。
「……」
火がつく寸前の煙草の先は、役目を果たすことなく床へと落ちる。
「ガキの前で何やってんだい、あんたは」
犯人は先よりも鋭い目をしたランだった。手元にあるのはどこにでもあるような普通のハサミ。
「っ!! 危ねえだろうが!!」
「ガキの前で煙草なんざ吸うあんたが悪いんだろう!!」
「ああ!? 人間でもねえのに、害になんかなる訳ねえだろうが」
「あんたの吸ってるソレは特殊なんだよ!!」
ショーにとってこの2人の喧嘩は日常茶飯事だが、小野坂の連れてきたリャオにとってはもちろん初めてのことで、しかも原因は少なからず自分にあることを理解しているのか彼らの足元で困り果てていた。
「気にするこたあねえよゥ。お前さんが居なくたって、この2人はいつもこうさねィ」
「私、悪くない……?」
「んん〜悪くないとは言い切れねえがなァ」
「悪くねえよ!」
耳聡く足元の会話を拾うと、小野坂は落ち込む子供に声をあげた。
「誰が何と言おうとお前は悪くない!! 俺が、お前を、拾っただけだ。ほら来い、帰るぞ」
リャオを左腕に抱え上げ、小野坂はランとショーに背を向けて歩き出す。
その背にランは慌てて声をかけた。
「おいこらっ、まだ話は」
「知ってんだろ、ラン。俺ぁ、女の涙に弱ぇんだよ」
あいた右手をひらりと振り、戸惑う幼女を抱えたまま小野坂は部屋を出て行ってしまった。
残された2人は暫く何も言葉を発しなかったが、男と幼女の気配が完全に去ったことを感じ取り同時に溜息を吐く。
「ったく、勝手な奴だね」
「体と態度ばっかデカくなりやしたからねィ。ところで、徹の言った通り、今回は頑なに拒否しやしたがなぜです」
ショーはイスに腰掛けて頭を抱える上司に先ほど答えが返ってこなかった問いをもう一度投げかけた。
「80年も生きてきて聞いたことないのかい」
「そりゃまあ、100年生きてるあんたさんには勝てやせんねェ」
「ふんっ。白い髪に白い服。まさかと思ってお前がいない間にちょっと脅かしたら、そのまさか。髪の先が僅かに赤に染まった。ありゃあ、‘虹’の眷属だ」
聞きなれない言葉に眉を顰めるショー。
そんな彼の様子を見て、ランは説明を続ける。
「この世界のどこかにあって、どこにもない村というのが伝説であるのさ。それが虹の村だ。いつどこで見ることができるか分からない。その麓に辿り着いたものは幸せになれるだとか、その麓には宝があるだとか、聞いたことあるだろ? まあだけど、幸せってもんは誰かの不幸の上に成り立つもんさ。あの子の存在は知られちゃならない。そもそも、存在していることが危険なんだよ。しかも、兄貴を捜してるらしい。もし、兄貴があの子と同じ白い髪に白い服で生きているのなら……まずいコトになりそうだよ」
どうにも現実離れした話にショーは納得することに時間を取られたが、ランが言うことに嘘はないだろうと半ば無理矢理に学の足りない頭に叩き込んだ。
「それならそれで、ここにいるのが安全じゃあないですかねィ」
「あたしらの仕事が護衛ならそれでいいけどね。そうでなくとも敵の多い仕事してるのに、あんな厄介なもん護りきれないだろ」
「……なんだかんだ心配してんでやすねェ」
「お前、今月減給」
「へいへい」
これもまたいつもの会話なのか、ランの言葉をショーは笑って流すのだった。