番外編:追憶<後編>~side Felix~
これからずっと俺がこの国の王だって?
夢ならいいのにと思ったが、目覚めたらロクサーヌ行きの準備が着々と進んでいた。
「王、手土産は何がいいですかね。リーンハルトの名産ってぇと、小物細工と皮製品あたりっすか」
「王、午後に仕立て屋が来ますんで、ちゃんと城内にいてくださいよ。なんでもいいはだめですからね」
「王、付き人はどれくらいいりますか? 馬車はどうします? あの峠道を通るんすよね?」
入れ替わり立ち代わり、使用人たちーー元の仲間たちだーーがやってくる。
「王女の結婚祝いがそのへんの小物細工でいいわけねぇだろ。南の真珠と金剛山の鉱石を取り寄せろ。腕のいい細工師を見つけて、最低でも首輪と腕輪と耳飾りくらい作れ。
服は適当に作っとけ。毎度毎度採寸する必要はない。あぁ、式典に向けて人の行き来も増えるだろうから、街道の整備をすすめろ。峠道とは別に、迂回路も至急下見しておくように」
「くすくす。王、採寸はきちんとなさってくださいませ。最近、少しお太りになられたようですから」
「カーラ」
俺が指示を出していると、盗賊団の仲間の一人であり、現在は俺の身の回りのことをしているカーラが笑いながら近づいて来た。きちっと結い上げた髪には後れ毛ひとつなく、白いうなじが艶めかしい。若いころはそういう関係だったこともあるが、今は堅気の兵士と結婚している。
「ほら、この辺りとか、お肉があまってますわ。運動不足ですよ」
「うるせぇ。運動したくたってする暇がねぇんだよ」
つんつんと脇腹をつつかれて、顔をしかめる。
「夜の運動はお盛んなようだけど?」
「妬いてんのか? たまの息抜きくらいいだろ……ぐはっ」
みぞおちに拳がめり込む。俺に体術を教えてくれた彼女の技は健在で、正確に急所に入った。
「一国の王がちゃらちゃらしてんじゃねぇっつってんだよ。下手こいて子供でもこさえてみろ。あたしらの苦労が台無しだろうが」
「わ、悪ぃ……」
ドスの効いた声でささやかれ、息を詰まらせながら謝る。
初めは俺に対する人質だった仲間たちだが、安定した職を与えられると、城特有の堅苦しさに苦労しながらも次第に慣れていった。
「正妃は慎重に選ばなくてはなりません。遊びのお付き合いはほどほどになさってくださいね」
「わかった」
奥ゆかしい侍女の仮面をかぶったカーラに微笑まれ、俺はうなずく。
きちんと対策はとっているし、同じ女と二度寝ることはない。俺だって気を付けてはいるんだ。などという言葉は、喉の奥にしまいこんだ。
「とはいっても、発展途上の新興国の王妃が務まる方なんて、そう簡単に見つかりませんわね。賢く聡明で、使える後ろ盾のある女性。さらに美人なら言うことなしですわ」
カーラは頬に手を当てて、真剣に俺の嫁の条件を考え出す。
「あぁ、王の好みで言えば、少し気が強いくらいがいいかしら?」
そう言われて、ふっと頭に浮かんだ女がいた。
気の強い、変わった髪色の印象的な瞳をした女。あれはどこで出会った女だったか。
「誰か心当たりでもあるんですか?」
「いや……」
「大臣たちに押し付けられたくなければ、そろそろ見繕っておくといいかもしれませんわ。
そうそう、ロクサーヌで見つけてくればいいんですよ。ね?」
これで少しは行く楽しみができたでしょ。採寸もちゃんといなさいよね、と言い置いて、カーラは自分の業務に戻って行った。
そうして、心が定まらないうちに迎えた出発日。
なんだかんだ理由をつけて行くのを渋っていたら、大臣や仲間たちに追い出された。
無理矢理乗せられた馬車の中で、こんな扱いを王にするのかよと毒づいていたら、あっという間にロクサーヌに到着した。
もともと、リーンハルトはロクサーヌの領地の一部だった。それが何十年か前に独立だか謀反だかわからんが、一つの国として名乗りをあげたらしい。だから、少々険しい山を越える程度で王都に着いた。
ロクサーヌの王都は、婚礼の儀直前ということで、大賑わいだった。
城へとつながる大通りを、リーンハルトの紋章を背負った馬車で進む。道の両脇によけた民たちが、「ロクサーヌ万歳!」「リーンハルト万歳!」と叫んでいた。後方では別の国の名が叫ばれていたので、歓迎のためにやるように言われているのだろう。
城に着くと、すぐに謁見の間に通された。
王と王妃が正面に座り、その隣に小柄な女性が座っていた。あれが今度婿をとるというロクサーヌの王女か、と思って見て驚いた。
「……!」
声を出さずにすんだのは、数年にわたるお仕着せ王様業務のたまものだ。
まさかこんなところで会うとは。
王妃の右隣に座っていたのは、以前盗賊として押し入った家から連れてきてしまったことのある女だった。向こうもまた何か気づいたようで、じっと俺を凝視していた。
ここで、俺が偽物だとでも騒がれたら一巻の終わりだ。
どうする。
俺は、王女と自分との距離を目で測る。王女が口を滑らしそうになったら、一足飛びに駆け寄り、口をふさぐか。いや、そんなことをしたら、玉座の後ろに控えている兵士たちに、一瞬のうちに殺される。ならば、たとえ口にされても、しらばっくれるしかない。ロクサーヌの王とて、リーンハルトの国王として婚礼の儀の祝いに駆け付けた俺を、無下にはできないはずだ。
王女が、何か言いそうな気配でみじろぎをする。けれど、王女が言葉を発する前に、王が口を開いた。
「フェリクス王。よくぞお越しくださった。リーンハルトはここ何代か不遇の年が続いておったが、そなたになってからよく栄えていると聞く。いつかまみえたいと思っておったのだ」
いかにも人のいい爺さんといった感じのロクサーヌ王は、豊かなひげを揺らして笑う。隣でうなずく王妃も、上品な笑みを浮かべ、ゆっくりしていってくれと言った。
その後他愛もない話をし、俺の時間は終わった。客はひっきりなしにやってくる。王女が俺のことをわかったかどうか探りを入れたかったが、長居はできなかった。
夜。
どうしても寝付けずに、部屋を出た。暗い廊下を通り、途中出会った衛兵に軽く手を上げて庭に出る。
水の止まった噴水に月が映り、きらきらと輝いていた。その様子をなんとなく見遣っていると、ふっと影が落ちた。
「盗賊が王になったの? それとも王が盗賊なの?」
「……あんたか」
振り返ると、白い夜着にガウンを羽織っただけの王女がいた。
「そんな恰好でふらふらするな」
「自分ちの庭を好きな恰好で歩いて何が悪いの。あなたこそ、大きな顔しているけど、正体がばれてもいいの?」
もうすぐ人妻になろうというのに、女の気の強さは変わらないらしい。
かわいらしい顔に似合わず、ぽんぽんと出てくる悪態に、俺は思わず口元を緩めた。
「何が可笑しいの」
「いや……。もう少し早く出会いたかったな」
否、出会ってはいたが、どこの誰とも知らなかった。ずっと心のどこかで気になっていたのに、探そうとはしなかった。今となっては、悔やんでも悔やみきれない。
「何よ、近づかないで。ばらすわよ」
「それは困る。やめてくれ」
立ち上がり、王女に迫る。王女は何かを察したのか、胸元を掻き合わせて一歩退いた。
「さっきの答えだがな、王が盗賊になったんじゃない。盗賊が、王になったんだ」
「どうしてそんなことが……」
「知りたいか?」
すっと王女の頬を撫でる。びくっと震えた王女は、さっと視線をはずした。
背けられた顔の、金とも銀ともつかない髪がかかる首筋に目が釘づけになる。月光に映し出される白い肌。細い腕。両胸の、まろやかなふくらみ。これが他の男のものになるのかと思うと、この場で手折ってしまいたい衝動にかられた。
「王女……」
知らず、声がかすれる。
「俺に、興味があるのか?」
「あ、あるわけないでしょう! 盗人に城に入られては困るから、確認しにきただけよ!」
「一人で? こんな夜更けに?」
肩から滑り落ちる髪を、ひと房すくいとる。
それに唇を押し付けて王女を見ると、白い頬が朱に染まった。
「やめて!」
「なぜ?」
「なぜって、だって……」
じり……と下がる王女を追いかける。王女が下がれば俺が一歩踏み出し、俺が一歩踏み出せば王女が下がった。そうして、とん、と王女の背中が木の幹に当たったところで、俺は彼女を捕まえた。
「やめて、ごめんなさい。疑って悪かったわ。盗賊は盗賊でも、あなたは義賊だったもの。何か深い理由があるのよね」
「さぁ、どうかな」
俺の腕の中でもがく王女からは、甘い香りがする。
「あなたの過去は黙っていてあげるから、手を離して。こんなところ、誰かに見られでもしたら……」
「したら?」
「たいへんなことに……んっ」
強引に奪った唇は、やわらかく、極上の果実の味がした。
「はっ、やめっ、んっ、んんっ」
舌を差し込み、小さな歯をなぞる。苦しそうに彼女が口を開けた隙をつき、より深く口づけて甘露を味わった。
「や……、だ……め……、んんっ、ふっ、ん……んんんんん!
だめ! やめてってば!」
どんっと王女に突き飛ばされる。不意を突かれてよろめくと、さらに平手が飛んできた。
ばちーん! 大きな音が、夜空に響く。
「……痛ってぇ……」
「あああ、あなた! フェリクス王! 何するのよ!」
「何って、キスだろ。気持ちよかったか」
「ふざけないで! もういい! あなたのこと、お父様に全部言うから!」
「言って困るのはあんただろ。こんな時刻に男と二人っきりでいて、しかも口づけされたって言うのか?
それ以上のことがあったと勘ぐられても仕方ないな。あらぬ噂も立てられるかもしれない」
「な……」
「今夜のことは、二人だけの秘密だ。誰にも言うんじゃない。俺も言わない。だから、俺の過去も話すな」
「卑怯者! それが目的だったのね!」
「そうさ。それともあんたの体が目的だったとでも言ってほしいのか? もっと気持ちよくなりたけりゃ、付き合うのもやぶさかじゃないが」
わざと、王女の体を上から下まで舐めるように見る。胸を隠すように腕で自分を抱いた王女は、嫌悪感を丸出しにして俺を睨み付けた。
「あなた、最低!」
「ふっ、盗賊に何を期待したんだ」
「期待だなんて……。
もういいわっ。言っておくけど、私の唇はそんなに安くないの! あなたへの貸しのほうが大きいんですからね!」
「おう。何かあったら言え。一度だけなら、手を貸してやろう」
「あなたなんかを頼るわけないでしょ! 私の前に、二度とその顔を見せないで!」
王女は、ガウンを翻して駆けていく。
俺は、ひりひりと痛む頬を撫でながら、王女の消えた先をずっと見つめていた。
数年後、ロクサーヌに世継ぎが生まれたと報せが入った。祝いの品を送り、久しぶりにあの夜のことを思い出していたら、使者が悪い噂を持ち帰って来た。
ロクサーヌの領内で、流行り病による死者が出たという。
すぐに落ち着けばいいが、長引いて王都にまで罹患者がでたらたいへんなことになる。交易を控え、様子を見ていたら、王女からの密書が届いた。
そこには、ロクサーヌを助けてほしい、生まれたての王女だけでも救ってほしいと書かれていた。
「行くつもり? やめてくださいませ。ロクサーヌは必死に隠してるけど、私の情報ではすでに城内まで病人であふれてるって話だわ。
リーンハルトにだっていつ飛び火するかわからないのに、他国の救援をしている余裕はありません」
そう言って止めたのはカーラだ。
カーラもつい最近子供を産んでおり、病気には特に神経質になっていた。
「一度だけなら手を貸してやると約束したんだ」
「王女と? あなた、いつの間にそんな関係に……。これだから男は!」
何やら大きな勘違いをしたらしいカーラは、事態が終息するまで暇をもらうと言って、夫の故郷へと帰ってしまった。
身勝手な行動に、普通なら怒るところだが、今回ばかりは都合がいい。
口うるさいお目付け役が減った俺は、リーンハルトの影の仕事を担っている輩を引きつれて、こっそりロクサーヌ城へと忍び込んだ。
カタン……。
天井板を取り外し、するりと室内へ入り込む。
鼻と口を布で塞いでいても、強い薬の匂いがした。
「……誰……?」
大きな寝台に突っ伏していた人物が、か細い声を上げる。
あの夜と同じように月光に照らされた髪は艶をなくし、細かった腕はさらに細くなって寝台に眠るやせ細った男の手を握っていた。
「助けが、いるんだろう?」
「……! まさか、あなた……。
あぁっ、こんなところまで……来ちゃだめよ」
「あんたが呼んだんだ。どうしてほしい? 攫ってほしいなら攫ってやろう。この国を焼き払えというなら、焼き払ってやる」
「この国を助けて……。もう、父も母も亡くなったの。夫もこの通り……。私もうつってるわ。悪寒がとまらないの。この病をなくして、私たちを元通りにして……!」
王女が、顔を両手で覆って泣きじゃくる。あの気丈だった彼女が、子供のように声を上げて泣いた。
「すまない。それはできない。
だが、あんたの一番大事なものを守ることはできるだろう。どこにいる?」
「……。
城の地下に、罪人を閉じ込めておくための牢があるの。ここ数年ロクサーヌは平和だったから、誰も立ち入るものはいなかった。今はあそこが一番清浄な場所。マリエッタはあそこに……。
お願い、フェリクス王。マリーを救って。そしてこれ以上病が広がらないようにロクサーヌを……!」
悲痛な叫びに深くうなずき、鍵の場所を聞く。
地下へと続く階段には、赤子に乳を届ける途中で力尽きたらしい侍女が倒れていた。
これはもうだめか。赤子も生きてはいないかもしれない。
そう思いながら一つ一つ牢を見ていくと、一番奥の牢に小さな籠が置かれていた。中をのぞくと、白い布に包まれた赤子が眠っていた。
すやすやと寝息を立てる赤子の頬は健康的な赤色で、手足に異常もない。
死神が闊歩する城の中で、その赤子だけは生気にあふれ、すべての希望を一身に受けているかのように輝いて見えた。
「あんたの忘れ形見だ……。この子は俺が責任を持って育てよう」
赤子――マリエッタを抱き上げ、ついて来た男たちに合図を出す。
城内に仕掛けた油壺に一斉に火が付き、ロクサーヌ城は炎に包まれた。
城が落ち、かろうじて動ける人々が逃げ惑う。夜の闇に赤々と浮かぶ炎は、次第に城下町にも燃え広がり、三日三晩燃え続けてすべてを焼き払った。
「思い切ったことをやったもんじゃて。して、この後どうする気じゃ」
「俺が落としたんだ。俺のもんだ。リーンハルトは、ロクサーヌを管理下に置く。文句あるか?」
「ふぉっ、ふぉっ。我が国が大きくなるのに、文句があるはずがなかろう。しかし、楽な道ではないぞ。そなたの器が試される」
「わかってるさ……」
それからは、今までの忙しさなど比べ物にならないほどの仕事量に追われた。
まだ罹患していなかったロクサーヌの民をリーンハルトで受け入れ、住処とともに仕事を与えた。リーンハルトの民からは抵抗があったが、幸いなことに炎に浄化されたのかリーンハルトで病が流行ることはなかった。
一年のち、ロクサーヌ城跡を整備し、大きな公園を作った。ロクサーヌの歴史を刻んだ石碑を立て、国をなくした民の心の支えとした。疫病に穢された土地などどの国も手を出したがらなかったから、俺は誰にも邪魔されることなく巨大な領地と歴史とを手に入れた。
「あなたのこと、他国がなんて言ってるかご存じ? 流行り病につけこんで、大国を落とした卑怯者。ロクサーヌの忘れ形見を人質にとって、大陸の制覇を狙ってるって」
「カーラ。戻ったのか」
「……一番たいへんなときにいなくてごめんなさい。もしまだ私を必要としてくれるなら、あなたのそばに置いて」
カーラに何があったのかはわからない。夫と別れ、子供は夫の実家に預けてきたということだった。
「私のことを本当にわかってくれる人が、一人でもいればいいわ。私の素性を知った途端、あの人ったら……。
さっきの噂は、あなたを妬んだ一部の国が言っているだけ。他はあなたの行動を高く評価してる」
エウスタキオやカウニッツなど、公にではないが内密に支援を申し出てくれている国もある。内密なのは、自国の守りに徹しロクサーヌを見捨てたという負い目があるためか。まぁ、他国が俺をどう思おうと、知ったこっちゃない。所詮は盗賊あがりの張りぼての王だ。
「あっ、そういえば、その姫さまはどこにいるの? ちゃんとお世話してる?」
「ん? そういえば、ずいぶん前に大臣たちが鼻の下伸ばして連れてったな。今、どこにいるのか……」
「ずいぶん前っていつです?」
「二年か三年前か。ロクサーヌから連れ帰ってきて以来、見てない」
「な……な……な……」
「たぶん生きてる。時々侍女が子供の話をしているからな」
「~~~~~!
てっめぇ、ふざけんな! てめぇで引き取ったんなら、てめぇで最後まで面倒みろや!
あああん、姫さま、どちらですか~!? カーラが今まいりますー!」
あぁ、きっとカーラはこの本性知られて離縁されたんだな。
大臣たちが使っている塔に向かって駆けていくカーラの後姿を見ながら、俺は心底納得してため息をついた。
「フェリクス! フェリクス! フェ~リクス!」
今日もまた、元気な声が近づいてくる。
執務室で面倒な案件に頭を悩ませていると、大きな扉が勢いよく開いた。
「ステファンから手紙が来たぞ! 来月、ミハイルと一緒に遊びに来るんじゃて!」
「遊びにじゃなくて工事の様子を見に来るんだろ。ついでに、何だかっていう部品を届けてくれると言ってたぞ」
マリーが手にしたのを同じ紙質の手紙をひらりと見せる。自分だけでなく俺にも知らせが来ていたこと、マリーは頬をふくらませた。
「なんじゃ、知っておったのか。つまらんのう」
母親似の艶やかな髪に、おそらく父親譲りであろう、青紫色の瞳。
愛らしい容姿に似合わずじじむさいしゃべり方は、大臣――今は大老となった奴らに預けていたせいだ。
会ってすぐこの口調に気づいたカーラに激怒されたが、もはや修正はきかなかった。
「あっ、じゃがな、妾への手紙には、栞が入っておったのじゃぞ。フェリクスのにはなかろう!」
「どれ、見せてみろ」
マリーが言う通り、小さな手には船の絵が描かれた栞が握られていた。俺は栞を見せてもらうふりをしてマリーを抱き寄せ、甘い香りのする髪に顔をうずめた。
「? どうしたのじゃ?」
先ほど見ていた書類には、元ロクサーヌの民たちからの、ロクサーヌの歴史書を作りたいとの申し出が書かれていた。歴史書を作ること自体は構わないのだが、ロクサーヌ城は俺が燃やしてしまったために、史実を記した書物が一切残っていない。ということは、近隣諸国の書物を集めて再編していく形での歴史書作りとなるわけだが、こちらはさぐられたくない腹がある。しかし、マリーが将来自分の国のことを知るためにも、歴史書はあった方がいい。
どうしたものか。
それを考えていたら、大昔のことを思い出して、俺は少し感傷的になっていた。
「フェリクス?」
マリーが、小さな手で俺の頭を撫でてくれる。
きつく抱けば窒息させてしまいそうなくらいか弱い生き物は、年々あの王女に似てきていた。
「仕事がたいへんなのか? 妾にできることはあるか?」
「あぁ……。少し疲れた」
「そういうときは無理せず休め。ちょっとでも眠ると楽になると言うぞ。ほれ、妾がそばについててやる」
マリーは俺の手を引き、長椅子へと誘導した。
クッションを重ねて枕を作り、そこに俺を寝かせて、持ってきた上着をかける。くるくると動き回り、一生懸命世話を焼くマリーに、心が温かくなった。
マリーは、仕上げに俺の手を握ると、満足そうに微笑んだ。
「よし、寝るがいい。日が傾く前には起こしてやる」
「あぁ」
目を閉じると、マリーの手の温かさがさらに伝わって来た。こんな場面を、どこかで見た覚えがある。
そうだ、あれは――
俺はあのとき、城を燃やそうとまでは考えていなかった。マリーを連れて帰って保護すれば、彼女との約束は果たせると思っていた。
でも、夫の手を握り、献身的に看護をする彼女を見たとき……。いや、彼女が子供を産んだと聞いたとき……。
違う。それより前だ。あの夜、彼女の唇に触れた直後から、俺は、彼女の夫となる男がうらやましかった。
「フェリクス? 眠ったのか?」
記憶にあるよりも、高い声。彼女に名前を呼ばれた回数など、数えるほどしかない。
「ふあぁ……。妾も眠くなってきてしまったの……。
いや、いかん。妾は眠ってはいかんのじゃ。フェリクスを……起こさねば……」
腹のあたりに、重みを感じる。薄目を開けて見てみると、マリーが俺の腹に頭を乗せてすやすやと寝息を立てていた。
「ったく、しょうがねぇな……」
くすりと笑って、上着をかけてやる。
マリーは彼女の代わりじゃない。それはわかっている。
だが、自分がどうしたいのかがわからない。
大老たちはじめ、城の者たちは俺がマリーを正妃に迎えるつもりだと思っている。
今やリーンハルトはロクサーヌどころではなく、近くの小国も領土に治め、大陸一の国となっている。
マリーを正妃にすれば、長い間言われてきた俺の陰口も消えるだろうし、リーンハルトに馴染んでいるように見えて、やはり元ロクサーヌの民であることを忘れられない者たちも心安らかに過ごせるようになるだろう。
だけど、本当にそれでいいのか?
まっとうな血筋のマリーと違って、俺はどこの馬の骨とも知れない盗賊だ。俺は、マリーにふさわしくない。
「……」
マリーを起こさないようにそっと起き出し、代わりにマリーを寝かせる。一つ伸びをして机に向かった俺は、歴史書作りの許可を求める書類に署名をし、近隣諸国へ書物の提供を求める手紙を書いた。
これで俺の過去が暴かれたとて、首を切られるのは老い先短いジジイどもと俺だけだ。
マリーには最良の状態でこの国を譲り渡したい。マリーがこの国を継ぐときは、国の名もリーンハルトではなくロクサーヌになっているかもしれない。そのとき、マリーの隣に立っているのは、エウスタキオの王子かカウニッツの王子か、はたまた違う男か――
「……っ」
手にした羽根ペンが、ぼきりと音を立てて折れた。
知らず、力が入っていたらしい。
「まぁ、まだ先の話だよな……。それまで、俺にはやることがたくさんある……」
まずはキュリッキ川だ。
その後、船を使っての交易の拡大と、川の流域の農地の整備。国内の貴族どもには、不穏な空気は今のところ見当たらない。他の国はどうか。表面的には問題ないように見えるが、極秘に放っている影どもの報告によれば、一部怪しい地域があるという。
五十年、百年先を見越した仕事は、やってもやってもきりがない。
将来、マリーが困らないように。
俺のように、食うに困って罪に手を染める者がでないように。
新しい羽根ペンを手に取って、次の書類へと取り掛かる。
窓から夕陽が差し込み、やがて月が昇った。
コンコン
執務室の扉が、小さくノックされる。
「王、姫さまはこちらですか?」
顔をのぞかせたカーラに、顎で長椅子に眠るマリーを示した。
「まぁ、こんなところで……。姫さま、お風邪を召されますよ」
「ここに夕食を運んでくれ。食い物の匂いがすれば起きるだろ」
「そうですわね。ではご用意いたします。その前に王、明かりくらいつけてはいかがですか。今、火をお持ちしますので」
「あぁ、そうだな……。だが、食事と一緒でいい。今日は月が明るい」
「かしこまりました」
カーラが下がるのを見送ってから、長椅子に近づく。
月光に輝く髪をひとすくい取って、唇にそっと押し当てた。その感触は、あのときとまったく同じだった。
「……フェリクス?」
「起きたか。飯、食うか? もうすぐ届くぞ」
「すまぬ。妾……眠って……」
もそもそと動く出したマリーが、甘えるように俺の首に腕を回す。
この手はいつまで俺を求めてくれるのか。
俺は、いつかこの手を離せる日が来るのか。
答えはでない。
部屋が、青白い光に照らされている。
月が、いつまでも俺を見ていた。




