第66話
冗談はこれくらいにして、とフェイは姿勢を正し、エルシィとセオドアに頭を下げる。
「御尊父並びに、御母堂さま。この度は我が聖女、美炎を救ってくださり、誠に感謝申し上げます」
言葉遣いすら普段と違う彼に、エルシィは目を丸くしつつ、慌ててグラスをテーブルに置いた。
「そんな、ほとんどはセオドアさまが行ったことで、わたしは何も」
「いいえ。俺ではあの子を救えなかった。……本当に感謝している。あの子は俺の宝物だから」
生と死を繰り返したメイイェンの最期を、一番近くで見て来たのはフェイだ。
何度も希望を擦り潰され、絶望を塗り重ね、それでも一縷の望みを信じ続ける。聖女を慕う幻想生物にとって、途方もなく苦しい時間であったことは、おして知るべしだろう。
フェイは小さく喉を鳴らし、片手で顔を覆うと唇を震わせる。
か細い呼吸には、安堵と悔しさの両方が空気に溶けた。ルーシェが気遣わしげに視線を寄越せば、フェイは両手で目元を押さえて、ゆっくり深呼吸する。
「……俺は、……っシテラ以外、愛した番はいない。傲慢かもしれないけれど、……あの子の悔しさも、苦しさも、……っずっと、理解してきたつもりなんだ」
「……フェイさん……」
「辛かったと思う。死んでしまいたいくらい、泣きたかったと思う。……俺ではその半分も、あの子を救ってやれなかった」
声に涙が混じる。慟哭のように胸を貫く。
膝の上で館内着を握り締めれば、セオドアの片手が重なって、エルシィは横を見た。
彼は青と真紅のオッドアイを柔和に細め、涙を堪えるフェイに声をかける。
「……そういうべきじゃない。……お前の存在は確かに、メイイェンお嬢さんの拠り所であったと思うぜ」
エルシィが手の平を上向ければ、夫の手は再度重なって、指を絡ませた。
彼ら2人もきっと、強く握り合うほど体温を分け合い、互いに助け合って生きて来た。そんな風に思える関係性であったはずだ。
フェイは何度か深呼吸を繰り返し、涙が揺れる瞳を指先で拭う。
そうして長く、ようやく安息を手に入れたと感じさせるような息を吐き出して、ソファーの肘置きにもたれかかった。
「……そうね、そうであることを、祈るわ」
「そうに決まっていますよ」
眉を下げて微笑む顔に、エルシィは間をおかず励ましを送る。
おそらくメイイェン1人であれば、何度も立ち向かうことはできなかっただろう。彼女の原動力が強い憎しみであったとしても、フェイが傍にいることで何よりも心強かったはずだ。
なんとか伝えようと、身振り手振りで話を繋ぐエルシィに、フェイは掠れた声で恩赦を口にした。
「ありがとう、御母堂さま。……やーねぇ、こんな色男が旦那じゃなければ、目が眩むほど尊いわ」
「褒められてます?」
「褒めてるわよ、ちゃんとね。……御尊父? しっかり捕まえとかなきゃ、こういう子、モテるわよ」
「そんな不吉な事を言わんでくれねぇかな!?」
再度セオドアがエルシィを引き寄せたところで、小さく壁が叩かれて視線を向ける。
そこにはヨヒラを背負ったオルジオが、申し訳なさそうにエルシィを手招いていた。
「オルジオさん……!」
「すまなんだ、御母堂様。ヨヒラが夜泣きしてもうて」
「ううん、一緒に行きますね。……みんなも、あまり遅くならないようにね」
エルシィの一言に返事をして、セオドアも退席しようと立ち上がる。
しかしルーシェが話があると引き留め、エルシィは就寝の挨拶をすると、オルジオと共にラウンジを後にした。
オルジオの背中で眠るヨヒラは、すっかり夢の中だ。
可愛らしい寝顔に顔を綻ばせるエルシィに、老人は幼子の体を揺らしながら、小声で笑う。
「ヨヒラはもう、御母堂様の虜で申す」
「虜って、大袈裟ね」
「いいや。他の聖女も同様でしょう。……ほんに、此度はヨヒラを救い出して下さったこと、誠に感謝致し申す」
柱が並ぶ通路の脇には、シダ科の植物が茂り、夜の宿泊施設を彩っている。
足元を照らす灯りは柔らかく、人々の話し声もどこか遠くで、風の音だけが鼓膜を揺らしていった。
数歩先で立ち止まったオルジオは、改めてエルシィを見上げ、髭の生えた口元を上げる。
「御母堂様が、ヨヒラの母になってくださるこの御恩。奇跡と申しましょうぞ。母体樹様となられた方が、貴女でようござった」
「わたしは、……旦那さまの補佐をするだけで、わたし自身は、何もできない小娘ですよ?」
「何を申される。貴女がそこにいるだけで、我々の聖女は、真価を発揮でき申す。……それは今までも、これからも、御母堂様たった一人が許された術なのです」
オルジオの緩やかな声は、エルシィに寄り添い響いていく。
彼女は自らの胸を見下ろし、片手を置いて呼吸した。
肺は上下に動いて、規則正しく心音を刻む。この奥に自ら制御できない力があることなど、知らないように鼓動する。
慣れなくても良いと、セオドアは言った。
エルシィの立体魔法陣は特殊で、発動条件が如何わしい上に、凄まじい力も秘めている。そして同時に命の危険を伴うものだ。
だがメイイェンや、ヨヒラの一件で思い知らされたが、相対する脅威に聖女だけでは対抗できない瞬間が、きっとある。
これからの生活は未確定だが、今までの経験を踏まえると、どんな災難に巻き込まれるか分からない。
聖女が生まれた世には、災厄が訪れるという。それがいつで、何を指しているかは誰も分からないが、自身はきっと一番近くで見ることになるのだろう。
──ねぇ、エルシィ。どうするの?
皆が家族になると言うのなら、エルシィには、その生命と尊厳を護る矜持がある。
知らなければいけない世界がきっと、セオドアの隣に今もあるのだ。




