第62話
小鶴笛 四片の役目は、生まれた時から決まっていた。
彼女は帝が側室に生ませた四女という肩書を持つが、実際には帝の血は流れていない。
彼女の母は宮仕えの下女で、近衛職の夫と慎ましく暮らしていたのだが、四片を出産した後の体調が悪く、そのまま鬼籍に入ってしまった。
父はヨヒラを、愛する妻を殺した子供だとして疎み、遠ざけるようになった。
育児放棄されかけたヨヒラだったが、父の昔馴染みである今上帝が憐れみ、四女として小鶴笛家へ迎え入れたのである。
だがこれは、ヨヒラを丁度良い道具にしたいだけの、取引でしかなかったのだ。
今上帝の四女として過ごしながら、ヨヒラの役目は周囲の鬱憤の吐け口であった。
それでも幼い彼女は、自分が我慢すれば、きっと養父は愛してくれるのだと、信じて疑わなかった。
今日は上手く行かなくとも、明日の約束が報われなくとも、きっとその次が、その次が、……いつか。
健気に姉たちへ追いつこうとするのを、周囲が嘲笑う様子を幼い心で感じ取りながら、それでも信じ続けていた。
ある日、今上帝に呼ばれた彼女は、初めて養父に抱き上げられた。
養父は優しい声音で、ヨヒラが役立てる時が来たと教えてくれる。
彼女は嬉しくて嬉しくて、綺麗な着物に袖を通すことすら特別で、養父に手を引かれながら、屋敷の門を潜ったのだ。
連れてこられたのは、誰もいない、物悲しい大きな屋敷。
初めはがらんどうの恐怖に慄いたが、そこで盛大な宴が開かれたことでヨヒラも安心し、心からヨヒラの為の宴を楽しんだ。
そのあくる朝だ。
去ろうとする今上帝に着いて行こうとすると、養父は蔑んだ眼差しで言うのだ。
お前はここで、神に祈りを捧げることが仕事だと。
雨が降り国を潤すまで、祈り続けることが生まれた時からの役目なのだと。
華やかに着飾った姉も、上質な布に刺繍を織り込んだ着物の養母も、皆がヨヒラを見て笑う。
役立ててよかったと、口角を吊り上げて笑うのだ。
ヨヒラは戸惑ったが、皆が笑うのだから良いことだと理解し、屋敷に残った。
寂しいと言ってはいけないと、必死に両手で口を押さえて蹲り続けた。
誰もいない、音のない、何もない日々。
夜が来ても、朝が来ても、昼が来ても、夜が来ても。
次第に空腹で頭は痛み、眠気に抗えず目蓋を閉じても、誰も、何も、ヨヒラを抱きしめてはくれなかった。
オルジオフィリジルダが顕現し、聖女だと抱きしめて命を繋いでくれた時、ヨヒラは雨の音を聞いた。
優しいのに悲しい、人々の歓声が聞こえるのに苦しい、しとしとと降る醜い雨の音を。
オルジオと過ごす毎日は、ヨヒラにとって幸福であった。
老人は絶えず彼女を優先し、勉学から日常のこと、聖女という魔法使いについても、様々な面倒を見てくれる。
幼いヨヒラは大半のことに理解が乏しかったが、それでもオルジオが味方であることは分かっていた。
そうやって細々と生活する最中、天から舞い降りた彼女たちに、ヨヒラは出会うことになる。
その人は雨に濡れても、美しさが損なわれないオリーブの髪に、雪のように白い肌をして、金と青の不思議な瞳をもった人だった。
まるで絵物語でしか見たことがない、美しい神様のようで。ヨヒラ自身、もしや自分は死んでしまったのではないかと、思わず顔を触って確かめるほどの衝撃だった。
エルシィ・サックスを護るように落ちてきた男も、誰もが振り返る風貌だった。
オルジオが慌てて講堂に運び込み、様子を見ていた時も、彼はずっとエルシィを抱きしめて放さない。
きっとこの腕の中には、オルジオがヨヒラに与えてくれる愛情以上のものが、溢れるほど詰まっているのだろう。
漫然とそう思い、ヨヒラは嬉しかったのだ。
後を追うように人数も増え、屋敷は一気に賑やかになった。
彼女たちはヨヒラに多くの学びを与え、外の世界を教えてくれる。名前を呼べば振り向いて、悲しくて泣けば抱き上げて、嬉しさに笑えば一緒に笑ってくれるのだ。
外界を知るにつれ、彼女は漠然と心を揺らしていく。
空を見上げれば雲は灰色で、醜い雨音が絶えず地面を濡らし、同じ景色しか目に映らない。
この雨が止めば、自分は出来損ないだと折檻される。また恐ろしい日々へ逆戻りするのだと、そう信じて疑わなかった。
役立たずで笑い物の自分には、それだけが許された道なのだと。
だがエルシィもセオドアも、ヨヒラが行う多くのことを褒めてくれた。
雨など降らなくとも、魔法の使い方など感覚頼りで、さっぱり分からなくとも。朝起きて食事をし、楽しく遊んで学び、眠るだけで、彼女の存在全てを肯定してくれる。
彼らの世界は、雨の中だけで完結しない。
青い空があり白い雲を飛ばして、太陽が輝いて月に包まれ。星の瞬きは幾星霜も続き、雪は柔らかく地表を染める。
四片は生まれて初めて愛されて、己の内側に目を向けた。
雨はいつ、止むのだろう。
自分はいつ、この愛を返せるのだろう。
本当は分かっていた。
雨が降っても、止んでも、四片の居場所はもう、生まれた時から決まっていることを。
視界いっぱいに青が広がる。
雲ひとつない快晴は抜けるようで、ヨヒラは思わず手を伸ばした。
届かないのに掴める気がして、小さな両手を握りしめる。
青は幸福だ。
ヨヒラを世界へ連れ出す、母と父の瞳の色だ。
「…………あ、……ぅあ、あ」
涙が溢れても、声が上擦っても、空は曇ることなく青く続く。
四片は指先で胸を押さえて蹲り、畳に額を擦り付けながら咽び泣いた。
少しずつ、ゆっくりと、ぎゅっと抱きしめ、戻ってくる。
身体を巡る水のように静謐で、溢れる涙のように純朴な、心の機微に応えて灯る。
彼女はようやく知ったのだ。
心を動かすこの衝動に、魔法と名付けて良いことを。




