第46話
混乱するエルシィを抱き上げたセオドアが、彼女の存在を腕の中で確かめて、長い息をつく。
ビクリと体を強張らせれば、彼は宥めるように背中を撫でた。
「待ってくれ、奥さま。勘違いしないでくれ。俺たちは敵じゃない」
「ち、違う、わたし、そんな」
「君に危害を加えた相手が、彼じゃないこともちゃんと分かってる。俺たちは連邦軍を巻いてきたんだ」
「……へ?」
呆気に取られてセオドアを見れば、彼はエルシィを抱きしめたまま、片膝を砂についた。
「俺の妻を助けてくれて、ありがとう。君がかなり巧妙に逃げるから、追いかけるのに苦労したぜ」
「…………××」
一体どういうことだと、怪訝な顔をするトゥルバに、セオドアはウィズィを見上げる。
彼は細い木の根を動かしエルシィの前に伸ばすと、そこには彼女が落とした髪飾りが握られてあった。
セオドアが受け取り、エルシィの前髪を軽く後ろに撫でつけ、額に口付けてから髪に差し込む。
微かな痛みがあった後、聴覚が鮮明になって目を瞬かせた。
セオドアたちはエルシィが攫われた後、怪我を負ったマシューから話を聞き、すぐに捜索へ出ようとしたらしい。
しかし夜の砂漠は、いくら聖女とはいえ命の危険を伴うため、一睡もできないまま早朝を待っていたところで、一人の侍女が宮殿に転がり込んできたのだ。
「これを持って、命からがら逃げてきたと、その女は言ったんだ。砂に攫われた君を追いかけたら、交戦になったと」
その侍女の体には大きな火傷の痕があり、衣服も無惨に焼け焦げ、裂傷もある。確かに、交戦し逃げてきた魔法使いに見えなくもなかった。
統治王は怒りを顕わにし、即座に連邦諸国に連絡をいれ、軍を動かし始めたのである。
その慌ただしい様子を尻目に、セオドアたちは内密に、逃げてきた女から事情聴取したのだ。
「じ、事情聴取?」
「そうだぜ。その女にまとわりついていたのは、女皇帝の魔法だった」
「え……」
「これはフェイの一部が使用されている。前にホンヨウへ、自分の分身が死んでいるとかどうとか、言っていたのを覚えてるか? 君から無理やり引き剥がされた分身を、あいつは感知したんだ」
おそらく、元々そういった魔法が組み込まれていたのだろう。
窃盗しようとエルシィの髪飾りを抜いた直後、フェイが彼女の危機を察知し、女は炎に包まれた。
聖女が幻想生物と連携できる存在であるから、可能な芸当である。普通の魔法使いや魔術師には難しく、考えすら及ばないだろう。なので女は敵襲を受けたと勘違いし、慌ててその場を逃げ出したのだ。
とはいえ、所詮は術者がいない魔法である。
命あって逃げ帰ってこられた女は、運が良いと言うべきだろう。
もしその場にメイイェンが降臨していたら、骨すら残らず消し炭になっていただろうから。
「じゃ、じゃあ、……トゥルバくんを捕まえようと、追ってきたわけじゃないの?」
「捕まえる? どうしてだ? 君を護ってくれた相手に礼を失するほど、旦那さまは薄情じゃないぞ!」
心外だと言わんばかりに眉を寄せるセオドアは、本心からのようにも見えた。
それまで黙って話を聞いていたトゥルバが、眉間の皺を深めたまま口を開く。
「……アンタは、俺がエルシィを連れ去ったと思ったんじゃねーのか」
「名前呼び!? そこは断固抗議するが!? 待て待て、なんでだ、あの女が奥さまを連れ去ったんだろ? なんでそんな話になってる?」
逆に訝しげな顔をされて、エルシィはトゥルバに視線を向ける。
彼は口を半開きにした後、声を震わせてセオドアの双眸を指差した。
「…………おい、……まさか、魔法を使った痕跡まで、見分けられる、のか?」
「ああ、そういう……。おう、特に問題はないが。ルヴィナお嬢さんや、チェンノッタ、それに女皇帝も綺麗だが、君の魔法は特に素晴らしいな! 使った後すら銀色に輝いている」
「っ有り得ねーだろ!! 魔法を使ったただの痕跡だぞ、砂つぶみたいな違いを見分けるなんざ、普通は無理だ。アンタの目、どーなってんだ……!!」
叫んだトゥルバの顔が青い。それほどセオドアの能力は、逸脱しているということなのだろうか。
控えめに顔を戻すと、彼は瞳を細めて首を傾ける。
そして相変わらずエルシィを抱えたまま、緩慢な動作で立ち上がった。
「ま、そういう事は後でいい。ひとまずウィズィの中に入ろう。炎天下は体に毒だ」
「旦那さま、あの、おろして……」
「ダメに決まってるだろう、奥さま。俺は彼に対しては感謝しているが、君に対しては怒ってるんだぜ?」
身じろぐエルシィを、セオドアは満面の笑みで切り捨てる。
割と本気で怒っている気配が空気を通して伝わってきて、エルシィは顔を引き攣らせて硬直する。しかし同時に、ひどく理不尽な言い方に感じて、徐々に腹が立ってきた。
「どうして、あなたがわたしを怒るんですか? わたしが危機管理能力のない女で、呑気に捕まって、こんな場所に捨てられてたから?」
「そうじゃない、奥さま。どうして助けを求めなかった? たとえ連れ去られてしまったとしても、君が呼んでくれれば、もっと早く見つけ出せただろう?」
「助けって……」
「ルヴィナお嬢さんでも、チェンノッタでも良かった。聖女と君の心は強くつながっている。あの時、ほんの一瞬でも声を上げてくれなかったことに、俺たちは怒ってるんだ」
優しい声音に責める響きはなかった。二人の子供たちを見れば、ただエルシィを心配し、涙を浮かべた双眸が見つめ返してくる。
確かにセオドアの言う通り、エルシィがあの時迷わなければ、現状は変わっていたのかもしれない。
それでも襲われたあの晩、エルシィには迷いがあり、躊躇いがあった。
「……だ、って……」
彼女が声を上げられなかったのは、聖女を信頼していないからではない。
助けを求めようとした刹那、最初に脳裏へ浮かんだのが、──セオドアであったからだ。
「………………ご、めん、なさい」
様々な感情を飲み込んで、エルシィは俯く。
とてもでないが、己の内側に渦巻く感情を吐露できるほど、心は頑丈でなかった。
わたしを騙すあなたを、どうやって信じていけばいいの。
答えを知りたくない疑問の濁流を、強い言葉でぶつけてしまいそうだった。
それにこんな場所で言い争っている場合ではない。トゥルバが率いる遊牧民族の安否も気になるし、子供達を炎天下に晒し続けるわけにもいかないのだ。
ホッと安堵の息を吐いたセオドアが、エルシィに頬を擦り寄せて、全員に声をかけてウィズィのうろに向かって歩き出す。
エルシィは身を縮こまらせながら、泣きそうな己を叱咤して、唇を噛み締めた。
理不尽も、怒りも、悲しさも、寂しさも。全てを飲み込んで体の震えを抑える。
なんて惨めなのだろうと、片手の甲で目蓋を拭ったその時、トゥルバがセオドアの腕を掴んで押し留めた。




