12.王妃とリラジェンマと王太子と
リラジェンマにとって平和な数日が過ぎていった。
あの晩餐会以来、王妃陛下がリラジェンマの部屋をよく……というか頻繁に訪れるようになった。
今もお茶の時間に茶菓子とともに登場した彼女は上機嫌だ。
なんでも娘が欲しかったらしく「息子のお嫁さんはわたくしの娘~♪」と歌い実に楽しそうである。
自分が輿入れしてきたとき持ち込んだドレスやらアクセサリーやらを大切に保存していた彼女は、いつの日か娘が生まれたらこれらを譲りたかったのだとリラジェンマに語った。
「わたくしは娘を生まなかったから、その夢は夢のまま終わると思っていたの」
そう語るヴィルヘルミーナ・イェリン・ヌエベ王妃陛下は、どこか遠い処を見るような瞳でリラジェンマを優しく見つめる。
「でも……第二王子殿下はすでにご結婚されているとか。その王子妃に譲るという方法もあったのでは?」
王妃から見れば、息子である長男の嫁も次男の嫁も等しく『義娘』である。
今リラジェンマにしているように第二王子妃にもすればよかったのではないかと問えば、それは憚られたという返事だった。
第二王子の妃は国内でも歴史のある侯爵家の令嬢で、その彼女が輿入れするときはそれはそれは立派な嫁入り道具を持ち込んでいたそうで。
「あぁ、決してわたくしがセレーネを疎んじている訳ではないのよ。ただ立派なご実家が愛する娘のためにと持たせたものを無下にはできないでしょう? わたくしが持ち込んだ物と同じように」
だから自分の持ち物は渡せなかったのだと王妃は語った。
どうやらセレーネというのが第二王子妃の名前らしい。
「それにセレーネは直ぐ懐妊したし。そんなあの子に独身者がつけるようなお飾りを渡すのは逆に、ねぇ?」
確かに、姑である王妃陛下から下げ渡されたら嫌みになってしまうかもしれない。
嫁姑問題はどこの国でもそれなりに聞く話ではあるが、このヴィルヘルミーナ王妃陛下は気遣いができる女性のようだ。
「だからリラジェンマ姫が来てくださって嬉しいの。わたくしの倉に眠っているお飾りやドレス、全部姫用にリフォームし直しましょう!」
「妃殿下、そこまでなさる必要は……」
弾むような声で提案されるそれに恐縮する。するとキョトンとした顔で王妃陛下がリラジェンマの顔を見つめ直した。
「あら。あらあら。ねぇ、そろそろこのプライベートな場でその呼び方はやめてちょうだい。他人行儀だわ。ぜひ『おかあさま』と呼んで?」
「え」
こういう話の流れ、つい最近体験した記憶があるせいでリラジェンマの笑顔が固まった。
ウィルフレードとお互いの呼び名を決めたときのアレだ。
「女の子に『おかあさま』って呼んで貰いたかったの。お願い。ね?」
可愛らしく小首を傾げて、そのうす紫の瞳をキラキラと期待に輝かせて再度お願いをする王妃陛下。
(……断ると逆に長引いて面倒くさくなるアレだわ……)
リラジェンマは一度学習したら忘れない。失敗は二度と繰り返さない。あのときのアレは実に面倒くさかったし心労が増えた。
仕方がないと覚悟を決める、が。
『おかあさま』などと。
11歳の時、実母を亡くして以来久しぶりに口にする単語である。もう子どもではないのにという思いから、少し躊躇われた。
端的にいえば、恥ずかしかったのだ。
「お、……おかあさま……」
頑是ない子どもの頃に戻ったような錯覚を覚えて照れ臭かった。
少々頬が熱い気がする。
おずおずと口にした単語は、王妃陛下の中のなにかのツボを押したらしい。
激しく喜ばれテーブルの下で足をパタパタと踏み鳴らしたと思ったら、リラジェンマの両手をガッシと掴んでまっすぐに視線を合わせると言った。
「えぇそうよ。これからはわたくしがリラのおかあさまですよ。なにか困ったことがあったら隠さず教えて頂戴ね。おかあさまとのお約束は絶対ですよ」
合点がいった。
王妃陛下はリラジェンマの経歴――子どもの頃に母を失ったこと――を承知しているからこそ、このような申し出をしたのだと。
それにリラジェンマの瞳には、王妃陛下から善意しか視えなかった。
(ここまで無邪気で心の温かい人、久しぶりに視たわ)
リラジェンマのプラチナブロンドの髪なら似合わないお飾りなんてないわね! と鼻息を荒くしながら新たなデザインを描く王妃陛下の多才さに目を丸くしていると、侍女のハンナがご歓談中申し訳ありませんと声をかけてきた。
なんでもウィルフレードが来たがっていると。
「なぁに? またあの子なの? ちゃんと仕事は済んでいるのでしょうね」
少々機嫌を損ねたように応えたのは王妃であった。
(“また”……というのは妃殿下。あなた様も同義なのですが……)
とはいえ、リラジェンマは内心を吐露することなく王太子の訪問に諾と答えた。
ほどなくしてウィルフレードが現れた。
入室し実母の姿を見たとたん、公的な『王太子』の仮面を被ったウィルフレードと、実の息子であるにも関わらず『王妃陛下』として対応するヴィルヘルミーナ。
リラジェンマの瞳には、静かに心の戦闘態勢に入る親子が視える。
「王妃陛下。この部屋であなたさまに会うのは昨日以来でしょうか」
「本当にね、王太子殿下。お元気そうでよろしいこと。お仕事が溜まっているのではなくて? バラデスがアナタを探しまくる足音が聞こえてきそうよ」
つまり、両者の言い分は「オマエは仕事に戻れ」なのである。たしかに、『王妃』も『王太子』も公務で忙しいはずなのだが。
「ご心配には及びませんよ。仕事は万全。王妃陛下こそ本日はご視察があったはずですが」
「あれは午前中に終わらせたわ。して。なに用でこちらに?」
先ほどまでリラジェンマに見せていた笑顔と同じようで違う、温度が氷点下になる微笑みを自分の息子に向ける王妃陛下。
(一応、ここはわたくしの部屋で場所は王太子宮なので、妃殿下の方が『なに用?』なのですがねぇ)
親子の会話にリラジェンマは口を挟めない。黙って目の前のスコーンを割ってクロテッドクリームを塗った。
「本日は天気も良いことだし、私の妃であるリラジェンマと庭園の散策をしようかと思っていたのです」
ウィルフレードが「私の」をやけに力強く発音しながら述べれば、
「まぁ! 王太子よ。突然の思いつきで行動などしても、わたくしの娘にも予定がありましてよ? その思い付きで他者を振り回すご自身の所業、少しは反省なさいませ」
ヴィルヘルミーナ王妃も「わたくしの」を丁寧に発音しながら胸を張る。
ちなみに両者ここまで笑顔である。
部屋の温度は体感で5度ほど下がった。
リラジェンマの瞳には、九枚の翼をはためかせた勇者のような姿の若者の幻影がウィルフレードの背後に、そして八個の輝く宝石を纏わせた女神のような姿の女性の幻影がヴィルヘルミーナ王妃陛下の背後にそれぞれ視える。その両者がお互い睨み合ってせめぎ合っているさまは、剣呑で不穏だ。
だがこれは悪意でもなんでもなく、ただ彼らの本質が視えているだけで憎しみあっているわけではない。ここまではっきり視えるほど、我を出しているのもお馴染みになってしまった。
……現実問題として、一触即発の雰囲気を醸し出してはいるが。
リラジェンマはサクサクとしたスコーンを味わいつつ両者を観察する。
(これでいてこのふたり、仲が悪いわけではないのよね。ただ単に子どものように張り合っているだけで)
このふたりのいがみ合いを初めて見た日は、その余りにもバカバカしい論点とそれに見合わない殺気溢れる雰囲気に怯えた。彼らは忙しい公務の間を縫って競い合うように頻繁にリラジェンマの部屋を訪れる。
だがふたりとも自分と遊べと駄々を捏ねている幼児のようだと思い至った瞬間、脱力した。
根底にはリラジェンマが淋しくないように、退屈しないようにと気を配っているのが判ったから余計に。
(確実に血の繋がりを感じるわ)
ウィルフレードの顔立ちも金髪も母后譲りのようだし、本当によく似た親子である。
(ウィルの瞳の色と耳の形は国王陛下にそっくり同じだったわ)
そういえば、肖像画の前王陛下の瞳も同じ色だった。
「このクロテッドクリーム、とても美味しいわ、ハンナ」
上々な焼き上がりのスコーンとクロテッドクリームという組み合わせは、この国に来てから気に入った物のひとつである。
目の前で睨み合う親子を無視し、傍らに控える侍女に笑顔で話しかければ、
「お茶のお代わりをお淹れします。茶葉の種類はいかがいたしましょう」
王妃と王太子の会話に慣れているハンナも平然と対応してくれた。
「そうね。ウィルもおかあさまもお好きなダージリンのセカンドフラッシュにしましょう」
リラジェンマが笑顔で指示を出すと、ハンナはうつくしい所作でそれに応えた。
部屋の温度が低下したりしたが、おおむね楽しいお茶の時間を過ごすリラジェンマであった。
◇
その頃ウナグロッサ王国の交通と流通の要所、メルカトゥスでは、まことしやかにとある噂が流れ始めていた。
曰く、この降り続く雨は精霊たちの仕業だと。
グランデヌエベから王子殿下が訪問し、我が国の姫殿下を嫁に迎えたいと言ってきた。メルカトゥスの街の上役たちは当然その姫殿下とは美貌で有名な第二王女だと思っていた。
いつの間にかその王女殿下はグランデヌエベ一行と共に帰国してしまい、歓送会も出来なかったなぁなどと思っていたのだが、ひとりの幼女が「連れていかれたのは一の姫さまだった」という目撃証言を出してから様相が一変した。
「きんのかみで赤いマントのおうじさまが、しろくひかるながいかみのおひめさまの手をひいてばしゃにのったのをみたよ」
ウナグロッサ王国の王家は代々うつくしいプラチナブロンドの髪の持ち主が継承してきた。『しろくひかるながいかみのおひめさま』が指すものは間違いなくプラチナブロンドの一の姫、世継ぎの姫以外ありえない。見間違いではなかったかと問いただしたが、馬車に乗った姫は白く光っていたと譲らない。
そのうち、やっぱり覗き見をしていた男もおずおずと証言した。王太女殿下の親衛隊が王女殿下の護衛としてメルカトゥスの街へ来たと。彼らは肩を落とした様子で王宮へ帰っていったと。王太女親衛隊の紋章は一角獣をモチーフとしたもの。見間違えようがない。
王宮は世継ぎの姫を国外へ追いやったのか?
世継ぎの姫は先代の女王陛下の血を引く唯一の人間で、陛下と精霊が認めた王太女であった。
彼女が居なくなったこの国はどうなるのだ?
あのウーナ王家の人間は神の子孫で聡明で『すべてを見通すことが出来る』とウナグロッサの国民は思っていた。だからこそこの国を守ってこれたのに、その正統な一族の人間がいなくなったらこの国はいったいどうなるのだろう。
だからこそ精霊たちが悲しんでこの長雨になっているではなかろうか。
雨は降り続いている。
日照時間はほぼない。このような状態が続けば、今年の作物はうまく実らないだろう。
長雨が続く山ばかりのこのウナグロッサで、地盤が緩んだらどうなるというのか。
恐ろしい予想に街の人間はみな不安になった。
相変わらず、雨は静かに降り続いている。




