ブルー、負の覚醒
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正面の門を蹴破って、中庭をズンズン進んだブルー。彼は中庭の中心にある噴水に興味を示したが、別に珍しい訳ではない。ちょっと喉が渇いていただけだ。
しかしここで水を飲んだりすれば、またハンナに怒られるのは必定。
であればブルーは噴水に背を向けて、正面に広がる豪壮な宮殿の一室を指差し、叫ぶことにした。
「たのもぉ! 俺はブルー・グラッツ! 強いんだぞぉ! ドラゴン、出て来い! 俺がぶちのめしてやる!」
ブルーは水竜王である。
ゆえにその鼻は、犬よりも遥かにきく竜種の中にあってさえ、冠絶した能力を誇る。そんな彼ならば同種である竜の居場所など、ちょっとクンクンするだけでお見通しなのだった。
ブルーの眼前に広がる宮殿は、上弦の月に照らされて淡い輝きを湛えている。白い壁と、それを縁取る金の装飾がそうさせるのだろう。
さらに、いたるところにある硝子窓からは、朱色みを帯びた灯りが溢れ、まるで夜に抵抗しているようだった。
ブルーが指差した一室では、二つの影が揺れている。
どうやらブルーは、見事に無視をされた様だった。
今日のブルーは、全身を群青色の戦闘服で覆ってる。
これは絹糸に魔力を込めて、オリハルコンと共に織られた生地で作られた、格闘士専用の戦闘服だ。
しかし、あくまでも群青色なので地味である。
だからブルーは、俺の服が地味だから気付かないのかな?
などと、惚けた事を考えていた。
あれだけ大きな音で壁を壊し、叫んで気付かれないはずがない。服は関係ないのだ。
やっぱりブルーは馬鹿である。
それはともかく、装備の説明をしよう。
彼が両手に嵌めたガントレットは、拳に魔石をはめ込んである。魔石は、竜の吐息や特殊攻撃をある程度無効化するものだ。
これこそ、格闘士最強の対ドラゴン装備である。
どちらの装備も金額でいうならば、十万ディナールは下らない装備。十万ディナールといえば、日本円に換算すれば一千万円である。
もちろん、それはハンナが王国屈指のドラゴンスレイヤーであり、それによって巨万の富も得ていたからこそ、ブルーはこんな装備品を手に入れる事が出来たのだ。
言うなれば、金持ちの馬鹿息子状態である。
もっとも、ドラゴンが対ドラゴン装備をしている時点で、色々とおかしい。
後の世にブルー・グラッツが述懐したところによれば、
「あれはハンナの遊び心だったのだろう」
との事である。
遊び心で十万ディナールをポンと出してしまうハンナ。やはり、とんでもない人だ。
ともかく今、あくまでも人としてドラゴンと戦うブルーには、限りなく頼もしい二つの装備なのだった。
一方のハンナ・グラッツは、昨夜の衝撃から未だに立ち直れて居ない。
夜になってもガンガンする、そんな二日酔いの頭を抱えながら、噴水の縁の大理石に左手をつき、額を右手で覆っていた。
彼女は青白い顔をして、時折口元を手で覆っている。胃からこみ上げてくるものがあるのだろう。
しかも、朝起きたら自身は裸で、ブルーの両手が胸を触っていたのだから、未だに恥ずかしくて死にそうだった。
顔色の方も今は青白いが、時折真っ赤になったりする。
彼女は常人とは別の意味で、とてもメンドクサイ女性だったのだ。
一応、いつも通り漆黒の鎧を身に纏い、大剣をその背に背負っているが、今日のハンナ・グラッツは、まるで役に立ちそうも無い。
「ブ、ブルー。戦闘を任せていいかしら?」
「おう! 任せとけ!」
力強いブルーの返事に安堵して、噴水の縁に腰を下ろすハンナ。完全にダメな人である。
二日酔いのままドラゴンと対峙しようなど、ハンナ・グラッツ以外の者はきっと考えもしないだろう。
つまり、ハンナ・グラッツは雲竜を舐めていた。
自分ならば絶対に勝てるが、ブルーでも決して負けないだろうと考えていたのだ。
「おい、ドラゴン! 出てこないのなら、こっちからいくぞ! 建物をめちゃくちゃにするぞ!」
なかなか姿を現さない雲竜に、業を煮やしたブルー。言ってる事がめちゃくちゃだ。
本来はルイードを助けに来たはずなのに、ドラゴンがいると分かった時点で、その宮殿を破壊して進入、挙句にドラゴンを相手に、建物を壊すと脅す始末。これでは、どちらが悪者か分からない。
「待つのじゃ。我はここにおる」
建物の一室から現れたのは、黄金の髪を月明かりに輝かせた、一人の美少女だった。
窓を開け放ち露台に出ると、その少女は勢いよく空を舞った。
「あっ!」
思わず、少女が落下するであろう地点を目掛けて走り出すブルー。
しかし、少女は空中で静止して、無慈悲な眼をブルーに向けていた。
「優秀なハンチーが我に挑んでくると聞いておったが、お主もドラゴンではないか……ガッカリじゃ」
「ハンチーじゃない! ハンターだ! あとドラゴンで悪かったな! 偉いんだぞ! 本当は!」
「ああ、そうじゃ、そうじゃ。ハン、ターじゃ。ふむ……じゃが、ドラゴンになど用はないぞ。帰ってたもれ」
「帰るかよ! 雲竜、俺はお前を討伐しに来たんだからな!」
少女が露台から落ちたと思ったブルーは、両手を勢いよく広げてフレイヤ・ヘカティの下に立っている。
見上げれば、大きく広がったスカートの中身が見えそうだが、幸いそんなことには興味の無いブルー。
フレイヤも中空でゆらゆらと揺れながら、ブルーの言動を聞き流していた。
二人が互いに「スカートの中」に関して、羞恥も無ければ興味も無いのは当然のこと。ドラゴンとは、元来が裸なのである。いっそ、服を着ている方がおかしいのだ。
しかし、宙に浮かぶフレイヤが、宮殿の門に目を向けたときのこと。
「それよりも、よくもウィムペムムの宮殿を壊してくれたな」
そう言って、急に表情に怒気を湛えたフレイヤ・ヘカティである。
彼女は青い瞳を覆う瞼をきゅっと細めて、眼下にいるブルーを見下ろした。
「ウィルヘルムにございます。フレイヤさま」
なのにフレイヤ・ヘカティのシリアス路線は続かない。
人間の言葉に未だ慣れないフレイヤだ。うっかりウィルヘルムの名前を間違えた。
「そ、そうじゃ、ウィル。もう、お主、名が長いゆえ、今後はウィルと名乗れ」
フレイヤは、額に一滴の汗を流しつつ、背後の露台を振り返った。そして、もはや執事と化したルイード公に名を与える。というより、自分が覚えやすいように短縮させた。
加えて、眼下のブルーを見据えると、ただでさえ噛み合ってない会話を、さらにあらぬ方向に投げ捨てる。
今の一件で、先ほどの怒りが遥か彼方に飛び去ったフレイヤは、むしろドラゴンなのにハンターであるブルーに興味を覚えたようだ。
傍若無人という意味では、ハンナ・グラッツさえ遥かに上回るフレイヤ・ヘカティである。
「ところで、ハンターというのは人間でなくともなれるのかのう?」
「なれる!」
即答するブルーに、ハンターの規約がわかるはずもない。
ブルーの言葉に目を輝かせるフレイヤは、ゆっくりと地上に降りてきた。
ブルーも一瞬警戒を解くが、考えてみれば討伐しに来たのはブルーだ。
ここは戦わなければならないと意を決して、飛び下がって間合いを取る。
内心、ブルーは自分自身を褒めていた。
目的を見失わない事に関して、ハンナにドヤ顔を見せるブルーである。
「ブルーとやら、我もハンターになれるか?」
笑顔を浮かべてブルーに迫るフレイヤは、歩くたびに”カツカツ”と音を響かせている。
彼女は桃色をしたワンピースのドレスに、超厚底の白いブーツを履いていた。
つまるところ、ゴスロリドラゴンである。
しかしゴスロリの価値観を持たないブルーは、あの靴で踏まれたら死んじゃう! と余計な事を考えていた。
だからブルーは、そんな思いを振り払うように言い放つ。
「なにいってるんだよ! 雲竜は討伐対象だよ! だから死ねよ!」
「ふむ。討伐対象は雲竜なのじゃな? では、我は違うぞ。雷竜じゃ」
「なんでもいいよ! 似たようなもんだろ! いくぞ!」
言うや、中庭の石畳を蹴って、フレイヤに突進したブルー。
その動作には、一切の無駄が無い。無駄が無い理由は、あの靴で蹴られたくない一心である。
そして繰り出されたのは、ブルー渾身の二連撃。
ボクシングでいうところの、ワン、ツーである。
もしもフレイヤが並みのドラゴンであったなら、それで瞬時に滅殺されていたであろう。それ程の勢いで繰り出されたニ撃目には、ブルーの全体重が乗っていた。
しかしブルーの渾身の突きは、空をきる。
中庭が暗いからといって、ブルーが目測を誤った訳ではない。
単に、フレイヤの動きが素早かったのだ。
それも横に左足を動かし、体を開いただけでかわしたのだから、フレイヤにはブルーを目で追う余裕さえあった。
勢い余ってよろけるブルーの背中を、軽く蹴飛ばしたフレイヤ。
結局蹴られたブルー。
しかもブルーは、三メートル程吹き飛ばされた。
「や、やるなっ! サンダードラゴン!」
吹き飛んだ拍子に、顔面をしたたかに打ちつけたブルー。口元からあふれ出す血を袖で拭うと、再び構える。
背中に響く痛みが、妙に心地よいブルー。
そう、いつの間にか、ブルーはドMになっていたのだ。
あの靴で蹴られたくない、から、別に蹴られてもいいや、へ。思わぬ心変わりを経験したブルーである。
ハンナ・グラッツはその様を、どんよりした面持ちで見つめていた。
ハンナの思いはこうである。
相手がサンダードラゴンならば、今のブルーでは勝ち目がない。
だが、やる気がどうにも出ない。
それにサンダードラゴンが何故、人化しているのかも不可解だ。
何より、討伐依頼は雲竜に対してであって、雷竜ではない。
もしも雷竜が雲竜だと思われていたのなら、もはや依頼はAランクなどではない。
間違いなく、ギルド内でこの敵を倒せるのはハンナ・グラッツだけになるだろう。
いや、或いは――ハンナ・グラッツでさえ倒す事が出来ない可能性もある。
それ程に、真名を得ている雷竜とは、危険な存在なのだ。
「ブルー、退きなさい。敵がサンダードラゴンというのなら、話が違うわ」
「いやだ! 俺は退かないし、媚びないし、省みない!」
なんと、ブルーの信条もフレイヤと同じである。
ドラゴンとは、天性の帝王なのだからいっそ始末が悪い。
しかし、ドMの帝王などいるのだろうか?
ブルーの存在は、帝王に対して失礼なのではなかろうか?
とはいえブルーは普段、ハンナに対して随分と退いているし媚びている。彼が精々守っている信条は省みないこと位だが、本来はそれをこそ一番にすべきであろう。
「ふむ。お主、ブルーという名か。じゃが、真名ではないようだのう?」
「真名ってなんなんだよ?」
「高貴なるドラゴンのみが持つことを許された、力を為す名じゃ。お主からは、随分と高貴な香りが漂っておるのに、その力が妙に弱く感じての」
「お、俺が高貴、だ、と。わ、わかるか? わかるのか、お前?」
高貴という言葉に釣られたブルー。
フレイヤの方も、別に殊更ブルーを懐柔しようと思った訳ではない。二頭のドラゴンは、なぜかふんわりと和解に向かってゆく。
「うむ、わかるぞ。我はフレイヤ・ヘカティじゃ。ブルー、よろしくの」
「そうか、俺は高貴なブルーだ。フレイヤ、よろしくな」
高貴な、を強調したブルーは、フレイヤに初めて笑顔を見せた。
人間ならば諸人こぞってキュンキュンするであろう笑顔だが、フレイヤはドラゴンなのでブルーの笑顔などどうでもいい。
だからこそここに、退かない、媚びない、省みないを三原則とした二頭のドラゴンは、妙な友情で結ばれたのだ。
つい先ほどまでブルーは敵愾心しか抱いていなかったのだが、「高貴」といわれた事で、今では”にんまり”と口元をゆがめ続けている。
当然ながら、苦虫を噛み潰したような表情でそれを見つめるのはハンナ・グラッツ。
噴水の縁から立ち上がると、フレイヤ・ヘカティをひと睨みした。
「あなた、珍しいドラゴンね」
「うむ、我はフレイヤ・ヘカティ。仲間内からは珍しい、とよく言われるのう。それに、父上と母上にはよく叱られる」
ハンナ・グラッツは、フレイヤ・ヘカティの呆けた声に、目を瞬かせた。大剣の柄にかけていた手を、思わず放してしまった程だ。
何しろ、フレイヤ・ヘカティには一切の殺気がない。
ブルーがどれ程殺気を放っても、全てをいなしている感じがした。
それは、ドラゴン同士だとわかっていればこその事だと考えていたが、実の所そうではなかったらしい。
そう考えたハンナ・グラッツは、警戒心は緩めないまま、口元だけを緩めた。
「私はハンナ・グラッツ。ドラゴンならば、一度くらい耳にした事がある名前だと思うわ」
「ああ、お主が! 最強なのじゃろう? じゃが、罪無き竜を何ゆえ屠る?」
ハンナの言葉に、眉を寄せて答えるフレイヤ・ヘカティ。
心の底から湧き上がる疑問なのだろう。体さえ左右に揺らして、両手を胸元で組み、縋るような視線をハンナに送っている。
会話から取り残されたブルーは、退屈そうに噴水の水で顔を洗っていた。
さっき蹴り飛ばされた時に負った傷は回復したが、汚れが顔に残っていたからである。
顔が汚れているとハンナに怒られる。だから一生懸命に顔を洗うブルーは、どこか哀愁が漂っていた。
「ドラゴンが人を喰らうから。逆にいえば、大人しくしているドラゴンに戦いを挑んだりしないわよ?」
「我は人を喰わぬぞ? 父上も母上も、無用に人族を喰らうな、と一族の皆に言うておる。
じゃが、稀に我等に挑みかかってくる人族の者がおってな。それらを見せしめとして喰らう事もあるが……それもいかんのか?」
人差し指を顎に当てて首を傾げる姿は、まさに人間そのものといった感のあるフレイヤだ。
「……それは別に構わないわね。不当に自らの土地が侵されたのなら、誰でも戦うもの。
そう、それで私たちは今日、ここにきたのだけれど……」
「我は、この土地を不当に侵してはおらぬぞ? なあ、ウィル」
ハンナの言葉に答えたフレイヤは、いつの間にか中庭に下りてきたルイード公に声を掛ける。
「はい。フレイヤさまの仰るとおり。むしろ、我が街はフレイヤさまのお陰を持ちまして救われたのです」
腕組みをして唸るハンナ。
唸ると頭に響くのは、未だに二日酔いだからである。
二日酔いのままサンダードラゴンと戦う気には、流石になれないハンナ・グラッツ。
ブルーにいたっては、笑顔でフレイヤの肩を叩いている。あっさりと二人(二頭)は仲良くなったらしい。
互いに笑顔を見せ合うブルーとフレイヤ。その様は、まさに神々もかくやと言うほどの美少年と美少女である。
だからこそ、それを見たハンナに、初めて抱く感情が生まれた。
――嫉妬――である。
ブルーは、如何なる女性にも興味を示さなかった。
にも拘らず、今朝、ハンナの胸を揉んで幸せそうに眠っていた。
つまり、ハンナにとってブルーは既に自分の男。それが別の女と楽しそうに話すなど、ハンナにとっては言語道断である。
「ブルー、こっちへ来なさい」
「おう!」
ブルーが側にくると、これ見よがしに寄り添ったハンナ。
寄り添った上で、ハンナ必殺の一撃がブルーの顔面を襲う。
有体に言えば、右ストレート。
そして、ハンナのガントレットも当然ながら対ドラゴン仕様。ならば、ブルーの負ったダメージは、先ほどの比ではない。
しかしフレイヤの視線は冷たい。
ドラゴンならば、如何なる苦難も自力で乗り越えて当然である。
なによりフレイヤは事の真贋を見極める眼力があった。
「え、ええと。お主らも、ドラゴンと人間なのに随分と仲良しじゃな?」
「あたりまえよ。私達は夫婦なんだから」
「なるほど」
ハンナの言葉に理解を示すフレイヤ・ヘカティ。しかし、人間ならばここで理解を示してはならない。むしろ愕然としたのは、ルイード公ウィルヘルムだった。彼は、髪の毛が逆立たんばかりに驚いている。
「ブ、ブルーどのもドラゴンであらせられたのか!? いや、それよりも、ハンナどのと夫婦ですと!?」
しかし、ウィルヘルムが驚くポイントもずれている。
もっと、殴られて重傷を負ったブルーに驚いて欲しいところだ。
鼻を押さえて苦しむブルーは、超高速再生をしているものの、一時は顔面が陥没したのである。
「と、とにかくハンナどの、ブルーどの。是非私の話を聞いていただきたい。フレイヤさまは、決して悪いドラゴンではないのです」
ルイード公の言葉に暫し顔を見合わせたハンナとブルー。鼻血が止まらないブルーは、少しばかり引き攣っていた。
だが、ブルーはもはやフレイヤを敵と見做していないし、ハンナは二日酔いで戦いたくない。そんな思いが交差して、二人はウィルヘルムの言葉に従う事にした。
「さ、お話は宮殿の中で」
上級貴族にも関わらず、もはやフレイヤ・ヘカティの執事と化したルイード公は、頷くフレイヤに笑顔を向けて、ハンナとブルーを宮殿の中へと誘ったのである。
その時、ブルーの背中はハンナにつねられていた。
丁度、フレイヤに蹴られた所である。
痛い――と一瞬ブルーは思ったが、実はそれが、それ程嫌な事でもなかった。
どうやら、M化が加速度的に進行している水竜王ブルー・グラッツである。