最強竜種の姫君
◆
フレイヤ・ヘカティがルイードの街に現われのは、ある雨の日だった。
冬という季節にも関わらず、ルイードの街を厚く覆った黒雲は、七日もの間、雨を降らせていた。
フレイヤは、黒雲の中に身を潜ませ、渦巻く大気に身を撫でられながら、下界に住まう人間の暮らしを眺めていたのだ。
「ん? つ、つみき? いや、堤か。崩れて土砂が街に流れ込んだぞ。人間どもは、雨如きにも苦労するようじゃ。我等を倒しうる者もいるというに、おかしな種族じゃな。ハハハ」
漆黒の翼を広げたフレイヤ・ヘカティは、真紅の眼で地上を見ると、呟いたものである。
――もっともフレイヤの呟きは、もしも人が聞いたのならば、咆哮と呼ぶものだ。
人間はフレイヤ・ヘカティを、雲竜と呼ぶ。
確かに、雲竜であれば、巨大な雲を作り出すことも、雲から雨を滴らせる事も容易だ。
しかし――
フレイヤ・ヘカティ自身が、自らを雲竜と名乗った訳ではない。
◆◆
あの大雨が止んでから、二週間程が過ぎた頃。
フレイヤ・ヘカティは、すっかりルイードの街を気に入っていた。
「フレイヤさま。本日の夕食ですが、何の丸焼きにいたしましょうか?」
フレイヤ・ヘカティは今、人化している。
元々、彼女――ドラゴンに性別というものが明確に存在するならば、フレイヤ・ヘカティは雌だ――は、人間という種族に興味があったのだ。
人間というのは、こちらが何もせずとも逃げる者が多いかと思えば、功名心に駆られて挑みかかって来る者も多い。
だからフレイヤ・ヘカティは、人間についてこう思っていた。
「臆病なのか勇敢なのか、惰弱なのか強靭なのか、さっぱり分からぬ。妙な生き物だ」
そう思えばこそ、フレイヤ・ヘカティの人間に対する興味は尽きないのだろう。
例えば牛や馬、或いは羊や驢馬は、襲えば必ず逃げ出す。虎や獅子さえ竜に出会えば逃げ出すのだから当然だろう。
人間も、基本的には逃げる。それは変わらない。
だが、時に竜を捕食する人間もいるのだ。ましてや、ドラゴンスレイヤーという、竜殺しを専門とする者もいる。
大いなる矛盾だ。
長雨に苦しむルイードの街を、フレイヤ・ヘカティは助けた。それは、そこに人間の弱さを見たからではない。
抗う事の出来ぬ自然。だがそれに決して負けぬよう、生きる意志を強く持つ人間達を見たからである。
そこに、自身が知りたい本質があると考えたフレイヤ・ヘカティ。
負けながらも抗い、そしていずれ勝つ。それこそが人の神秘。そんな人々の中に、少しばかり溶け込んでみたくもなったのである。
だから彼女は雲を散らし、氾濫した川を沈め、周辺の魔物も駆逐した。
もっとも、周辺に魔物が跋扈した理由は、フレイヤ・ヘカティの襲来によって、ルイードの街から騎士団が撤退したからだ。故にその点に関して、彼女は余り大きな顔をすべきではない。
だが、どうあれフレイヤ・ヘカティは、ルイードの人々にとって招かれざる客に過ぎない。
ドラゴンなのだから、当然だろう。
だが、現在はドラゴンゆえに優遇されている。
それは、フレイヤが雨を鎮めたからではない。
フレイヤが災害そのものだと思われていたからだった。
今、彼女はルイード公爵の宮殿の一室にいる。
そこは貴賓室と呼ばれ、国王が訪れた際に使う部屋だ。部屋にあるあらゆる丁度品は最高級のモノであり、広さも居室としては随一だった。
その部屋で黄金の椅子に座り足を組むフレイヤ・ヘカティに、宮殿の主であるルイード公ウィルヘルムが恭しく頭を垂れているのだから、状況が飲み込めない者が見たら、実におかしな光景だろう。
「我がいつも丸焼きを食うわけなかろう。お主らが食すように調理いたせ」
「人の子……生娘もご用意いたしておりますが……」
「我は人を食わぬ。言葉が通じる者を食すほど、我は浅はかではない。一体、何度言うたら分かるのじゃ!」
「はっ」
”ぷい”と不機嫌そうに、顔を横に向けたフレイヤ。
恐る恐る視線を上げたルイード公は、その幼くも美しい横顔に見惚れてしまう。
フレイヤ・ヘカティの見かけは、人間で言えば十四歳から十五歳といったところだろう。
肩まで伸びた黄金の髪は、毛先が縦に巻いている。
蒼い双眸は大きく開き、晴れやかな青空の様な色合いだ。
これで雲竜だなどと、信じられない思いのルイード公。
いや、信じられないというよりも、元々人間が勘違いしていただけなのだが、彼女は雷竜。れっきとした第二位階のドラゴンである。
しかも父は風が属第一位階の風竜、母は水が属第二位階の氷竜だ。
これはもう、人間で言うなら皇帝と王女の娘に匹敵するし、馬なら最強種のサラブレッド。しかも生まれながらに真名を授かっているのだから、雲竜などと思っては、失礼千万である。
だがしかし――フレイヤ・ヘカティは気にしていなかった。
暫くすると、次々と部屋に運ばれた人の手による料理たち。
白い象嵌細工が施された丸い机に、料理が次々と並ぶ。
「此方は、アヒルのコンフィにございます」
「おぅ」
「此方が、南瓜のスープにて」
「ほぉ?」
「北海より取り寄せた、白身魚のムニエルになります」
「んむ! 美味なり!」
「子牛のソテーでございます。焼き加減は、レアにて」
「ふおぉぉぉ!」
「此方、林檎をふんだんに使いましたパイでございます。甘いものはお好きでしょうか」
「す、好きじゃ! 昂ぶるのじゃ!」
机に並べられてゆく料理を、次から次へと平らげるフレイヤ。
しかし、胃袋の容量はあくまでもドラゴン。ならば、どれ程食べても空腹感を覚えるのは仕方がない。
「こ、こう……ええと、こうちゃくは食わぬのか? 美味いぞ」
「や、公爵にございます」
「こう、にゃく?」
「こうしゃく」
「うむ、こう、しゃく、じゃな」
覚えたてではあっても、丁寧にフォークとナイフを使い分けて料理を食べるフレイヤ。むしろ問題は、微妙な人語の発音だった。
しかし、彼女の正面で晩餐を共にしているルイード公は、茫然としたまま、空いた口が塞がらない。
妙なドラゴンに言葉を教えるだけで、料理の方は、もう、見ているだけでお腹がいっぱい。そう思う公爵だった。
フレイヤが全ての料理を平らげると、公爵も一応口の周りをナプキンで拭い、食事を終えた。
結局、彼が食べたものは、南瓜のスープとパンを一切れである。
なぜなら、
「こうしゃくは食べぬのか? ならばもったいないから我に寄越せ」
そうフレイヤに言われ、何を言う間もなく全てを奪われたからだった。
食事が終わると、運ばれた茶を飲みながら苦笑を浮かべた公爵である。
濃い褐色の顎鬚を指先で扱きながら、彼は言った。
「しかしフレイヤさまがドラゴンとは、最近ではどうも思えなくなってまいりました」
「我の真の姿が見たいか?」
「い、いや。それは遠慮いたしまする」
「ふむ、そうか」
「それにしても、フレイヤさまは何故、この街にお留まりあるので?」
「ん。我は人間が好きじゃ。人間を知りたいと思っておる。じゃから”こうしゃく”、これからも我に色々教えてたもれ」
カップに注がれた茶を飲むフリをして、フレイヤから視線を逸らしたルイード公。
しかし、彼にも疑問に思うことがある。
フレイヤは、本当に人を殺していない。ならば、彼女の言葉は真実かもしれない。
だとすれば最初の長雨と、それに伴う河川の氾濫はいかなることであろうか。
いや、フレイヤがこの街に来た時、何と言っていたか。ルイード公はよく覚えていた。
「長雨じゃの、人間。困っておるならば、我が助けぬでもないぞ」
フレイヤは確かにそう言った。
だが、その姿は漆黒の竜。ならば地の眷属か、或いは雲竜以外はありえない。
そしてフレイヤは天候を操った。故に、我々は彼女を雲竜だと考えたのだ。
雲竜ならば、自ら起こした長雨を、自らの力で止める事も容易。
何の疑問も無くルイード公も、他の人々もそう考えた。
――だが、もしもそうではなかったら。
カップを机に置くと、ルイード公はフレイヤの青い瞳を見つめ、聞いた。
「フレイヤさまは、なぜ我等を助けようとお考えになられたのですか?」
「人間、逆に問うぞ。お主は、言葉の通じる者が必死に何かに抗っている時、手を差し伸べてやろうとは考えぬのか?」
怒ったような口調のフレイヤに、ルイード公爵は破顔した。
フレイヤが、長雨を起こした訳ではない。長雨は、単なる偶然だろう。
それなのに慌てて逃げ出した王国の騎士団。そして、理由も分からずひれ伏した自分。
どちらも、酷く情けない。
多分、フレイヤは人間を、少なくともルイードの人々を友と考えている。
――それなのに。
「フレイヤさま。我等はフレイヤさまを勘違いしておりました。
長雨そのものがフレイヤさまの力であったと。そして、我等がひれ伏した事によって、フレイヤさまが矛を収められたのだと」
「で、あろう。だが、き、き……ええと、きち団とやらが我に挑んで来なかったのは、何ゆえじゃ? ハ、ハ、ハンチーとやらは幾人かが我に挑んできたが」
「騎士団。それとハンターでございます、フレイヤさま」
「うむ。騎士団とハンチー、じゃな」
「や、ハンターでございます」
「むぅ。ハン、ター?」
「はい、さようで。
話を先に進めますと、フレイヤさまに挑んだハンター達は、皆、高位のハンターでございました。ですが、それを容易く撃退してしまわれたので、王立騎士団は皆、撤退したのでございます。
無論、私直属の騎士団もございますが、これとて、王立騎士団ほどの武力がある訳ではなく……」
「だから、我に挑まなかったと?」
「は、真にもって情けない事ながら」
意を決して全ての事情を打ち明けようと、ルイード公爵は話を進める。
しかしフレイヤは、人間側の勘違いをある程度分かっていた。単に、それも含めて人間とはなにか? という疑問に回答を得たかったからである。
それゆえに、ルイード公は人間という生き物に関して、いたく恥じ入る気持になってゆく。
しかし、自身の気持を真っ直ぐフレイヤにぶつけたいという衝動に駆られたルイード公は、両拳を膝の上で握り締め、しっかりと言った。
「ですがフレイヤさま、人間はフレイヤさまが考えているよりも、ずっと恐ろしいのです。出来うるならば、今すぐここからお逃げ下さい。今ならば、まだ間に合います」
「どういうことじゃ? 何故、我が逃げねばならぬ?」
「王都よりフレイヤさま討伐の為に派遣されましたるは、ブルーという仮のAランクハンターにございます」
「仮? Aランク? ああ、確かAランクハンターと言えば、この前打ち倒したがな。だが、我は彼等を殺しておらぬ。恨まれる筋合いはないぞ。
あ――痛めつけすぎたかの?」
「その様な事ではありません。人間にとって竜は、災厄そのものと見做されているのです。故に、人里に現れたならば、ハンターは必ず討伐の為に動く。
――ましてや、フレイヤさまは我が街を蹂躙した、と思われておりまする」
「ふむ。だが、Aランクというのならば――」
「フレイヤさま、お聞き下さい。
――ブルーというのは、”ドラゴンスレイヤー”ハンナ・グラッツの元従者であり、これまでに幾体ものドラゴンを屠っております。
また王都からの超高速魔導通信によれば、ブルーはハンナ・グラッツと共に、此方に向かっております。
フレイヤさまが幾らお強くても、ハンナ・グラッツとブルーには敵いません。ですから……!」
ルイード公の声は、悲痛な叫びとなっている。
ルイード公もまた、竜と心を通わせる数少ない人間となったからだ。
かつて、ルイード公爵には娘がいた。
娘は五年前、十五歳の時に流行り病で亡くなった。
いや、より正確に言えば、彼の後妻が先妻の娘を見殺しにしたとも言える。
それに怒ったルイード公は、後妻に別れを告げると、独身に戻った。
いや、そんな事はどうでもいい。
フレイヤが今着ている桃色のドレスは、ルイード公の娘のものだ。
違うと分かってはいても、ルイードはフレイヤに我が子の姿さえ映してしまった。
二度と、年若い娘の死ぬ姿を見たくはない。それが例えドラゴンだとしても――そう思うルイード公だ。
「ありがとう、ルイード公。いや、これからはウィルヘルム、そう呼ばせてもらおう。
だが、我は逃げぬぞ? 我は誇り高きサンダードラゴンじゃ。退かぬし媚びぬし省みぬが信条。故に、ハンニャ・グワッツやプルルなど、恐れはせぬ」
「ハンナ・グラッツです。それに、プルルではなく、ブルー」
「そうそう、それじゃ」
ルイード公爵は、白髪の混じり始めた前髪をかきあげながら、苦笑した。
ドラゴンの信条など初めて聞いたが、まるで何処かの帝王のようだ。
もっとも、種としてのドラゴンは限りなく帝王に近いのだから、別に悪くもなかろう。
それよりも、若い娘にファーストネームで呼ばれる事に、妙なトキメキを覚える四十二歳、ルイード公ウィルヘルム。
しかしウィルヘルムの想いに感づいたフレイヤの視線は、ジットリと重たい。
故に、この恋からは、即座に撤退を決意した四十二歳の独身公爵であった。
いやそんな事よりも、フレイヤは何かとんでもない事を言わなかったか?
サンダードラゴンだって?
不意に、ルイード公爵は頭を抱えた。
水、火、風、土の四竜王に唯一勝利しうる第二位階のドラゴン。
それが、サンダードラゴンではなかったか?
思えば、漆黒の鱗に真紅の瞳。そして黄金の角は雷竜の特徴と合致している。
フレイヤ・ヘカティは、竜種の中の最強種であったのだ。
「たのもぉ! 俺はブルー・グラッツ! 強いんだぞぉ! ドラゴン、出て来い! 俺がぶちのめしてやる!」
その時、激しい爆発音と共に、室内にまで響く大音声が聞こえた。
声の主は言うまでも無く、ブルー・グラッツ。水竜王である。だが、真名はまだ無い。




