柔らかな夢を見るドラゴン
◆
「まず、”夫”って意味、分かる?」
「おう! 俺がハンナの夫だ!」
再び説明しよう。
ブルーにとって”夫”とは”従者”と同義である。
故にこの場合、ハンナの言う意味が分かる、にはあたらない。
「そ、そうね」
しかし、ブルーに断言されたハンナは、かすかに頬を桃色に染めた。
丸い机を挟んで座るブルーは、惚れ惚れする程の美少年。
ハンナだって年頃の女子だ。
そんな風に力強く言われては、胸も高鳴るというもの。
「じゃあブルー。もう一つ聞くわ。”妻”これは何?」
「……うまいのいか?」
――ドバンッ!
ハンナの右足が高々と上がり、丸い机が宙を舞う。
咄嗟に机を避けたブルーは、次の瞬間、首を押さえられて、後頭部から床に押し付けられた。
無論、瞬時にそんな神業をやってのけたのは、ハンナ・グラッツ。
宙を舞った机は、ハンナが空いている手で掴まえた。
「いい、ブルー。夫と妻は、番なの。つまり、キミはブルー・グラッツを名乗る事によって、私と番になったということ」
右手で首を絞めながら、ハンナはブルーに言い聞かせる。
顔面蒼白のブルーは、頷こうとして、ハンナの右手に阻まれた。
人間ならば、とっくに首の骨が折れている。良くても頚動脈断裂だ。
ブルーは、心底ドラゴンで良かったと思っていた。
もっとも、ドラゴンゆえにこんな目に合うのだが、そこは考えないブルー。
基本的に、その思考はお目出度い。
「つ、番? じゃあ、ハンナが俺の子供を生むってことか?」
「なっ! なっなな!」
ハンナはブルーの言葉を否定できない。
いきなりそんな言い方はないだろう、とは思ったが、同時に、ブルーが番になる事を否定しない事が嬉しかった。
そう、ハンナはブルーに心惹かれていたのである。
しかし、ドラゴンスレイヤーとしての矜持が、自身のそんな内面を決して認めようとはしなかった。
――今までは。
「それは、ブルー次第」
「どういうこと?」
ハンナはブルーの首から右手を離すと、再び寝台に腰を下ろす。
その様子を見て、机を再び元の位置に戻し、椅子に座ったブルー。
丁度その時、扉がノックされた。
「お食事をお持ちしました」
「どうぞ。鍵はかけていないわ」
ハンナが返事をすると、先ほどの女将を含めた幾人かが、給仕の為に室内に入る。
給仕の幾人かは、室内の状況を見て首を傾げたが、思えばそれ程不思議な事ではない。
所詮、食事の為に机と椅子を移動させただけである。むしろ、状況的には理にかなっているのだから、納得する者の方が多かった。
しかし、ブルーの首に手の跡がくっきりと残っているのを見つけた給仕の女は、「ひっ」と一言悲鳴を上げた。
料理は、バスケットに入ったライ麦パン。それに鳥のレバーや豚肉を使ったパテ。スープは根菜類がふんだんに使われていて、大きな塊の豚肉も入っている。色は、ミルクをベースにしているのだろう、綺麗なクリーム色だ。
それから鉄板に乗った大きな牛肉も登場したが、これにはブルーが大いに喜んだ。
最後に、瓶に入った葡萄酒が持ち込まれる。
パテは多分、葡萄酒を望んだハンナの為に用意されたのだろう。
肉は、ハンターが基本的に好む食材である。お釣りを貰わなかったハンナの為に、最大級の歓待をしていると考えて良いだろう。
そもそも、食堂で食事を摂る大半は、パンのみであったり、スープのみであったりするのだろうから、やはり部屋で食事を摂る事にして正解だ。
「私がブルーの子供を生む努力をするかどうかは――ブルーが私をどう思っているのかによるわ」
ブルーは、涎をたらさんばかりの勢いで湯気を立てる肉を見つめている。
しかし、ハンナの許可が出なければ食事に手を出す訳にはいかない。――いや、いかなかったのだ。
しかし、これからは違う。
今は仮ではあっても、Aランクハンター。確かにハンナの方が格上だが、それでも一個の独立した存在に、ブルーはなっている。
そのことが僅かに寂しいハンナ。だからこそ、いつもと同じようにブルーと接していた。
「ハンナの事は怖い! けど俺、ハンナを食べ物だとは、もう思わないな」
”じゅう”と肉の立てる音に聞き耳を立てるブルー。もはや、回答がおかしい。
好きという感情を、食べ物にしか抱いた事の無いブルーに、恋愛論はまだ早かった。
だが、ブルーの中で、確実に確立した存在であるハンナ。それを説明する言葉を、未だ持たないブルーでもある。
それも、ブルーの蒼い瞳を見ていれば分かるハンナだった。
「食べなさい、冷めないうちに」
だからハンナは微笑みながら、ブルーに言った。
自身は、瓶から葡萄酒を注ぎ、ライ麦パンにパテを塗って一口かじる。
「それとブルー、もう一つ聞きたい事があるのだけど」
「なに? ……んっぐ」
牛肉のステーキを、なんと二口で食べきったブルー。その視線の先は、ハンナの下にある肉だ。
だが、ハンナとて肉が嫌いな訳ではない。ここはそ知らぬ顔をして、肉を死守するハンナ。会話のほかにも、水面下の攻防があった。
「真名だけど、キミは持っているの?」
「真名? なんだそれ?」
「雪竜だったアイゼルのような……そんな名前だけど」
「ブルー。ブルー・グラッツ?」
「それは自分で付けた名前じゃない」
「自分で付けると、真名じゃないのか?」
「それは、こっちが聞きたいわよ。ドラゴンのことなんて、そんなに知らないんだから」
「そ、そんなに知らない生き物を、バンバン殺すなよ!」
「あら? キミも一緒になって殺していたじゃない」
「う……うう」
嘆き始めるかと思えば、深皿に入ったスープを一飲みにするブルー。やはり、お代わりが欲しいようだ。
悲しむべきは、目の前にある食料がライ麦パンとパテだけになったこと。
パテも肉から作られているから好物なのだが、塗りすぎれば、流石にハンナは怒るだろう。そうブルーは考えて、憂鬱になった。
何しろあれは、ハンナの大好きな”ツマミ”とやらだ。あれと酒が格別なのだといつも言っている。
「ま、いいわ。どういう基準でドラゴンが真名を得るのかもわからないし。それに、当面必要もないしね」
ハンナの顔が柔らかくなっている。
アルコール分が回り始めて、気持ちよくなってきたのだろう。
こうなれば機嫌の良いハンナだ。ブルーも安心して頷く。
そして暫くは他愛の無い話を続け、ハンナが瓶を空にしたころに、桶に入ったお湯が部屋に到着した。
◆◆
お湯の入った桶は、二つある。ハンナ用とブルー用のつもりだろう。
床に置かれた桶の代わりに、料理の乗っていた食器類が下げられた。
ハンナはすっかり酔っ払うと、寝台の上でごろごろ転がっていた。それどころか衣服を脱ぎ始め、ブルーに甘えるような声をだす。
「ブルー。私を拭きなさい」
今まで、ブルーの身体を拭いてやる事はあっても、拭かせる事の無かったハンナ。
だが、今日は意を決して裸を見せる。いや、意を決してというよりは、酔いに任せて、と言った方が良いだろう。
どちらにしても素面のハンナでは、ドラゴンとは言え男の子に素肌を見せる事など出来はしない。
ブルーは頷くと、手ぬぐいを湯に浸し、しっかりと絞ってからハンナの背中を拭いた。
ハンナは既に、上半身も下半身も、何一つ身に着けていない。
ブルーは思った。
――今ならば、殺れる! と。
――最強のドラゴンスレイヤーを屠れるチャンスだ! と。
しかし、何故かハンナの白い素肌に吸い寄せられるブルー。
手ぬぐい拭いていると、妙な衝動に駆られた。
”ぺろり”
ブルーは、思わずハンナの背筋に沿って舌を這わせた。
余りにも白いハンナの肌。そして、忘れかけた人間の肉の味。
もう、食べようとは思わない。しかし、どんな味だったか思い出したくもあったのだ。
――うん。人間よりも牛や豚の方がおいしいな。
だが、その行動に驚いたのはハンナ。
寝台の上で振り返り、自身が全裸である事も忘れてブルーを睨みつける。
荒い息が酒臭く、思わずブルーは顔を背けた。
「ブ、ブルー……どういうつもり?」
酒のせいで顔が赤いのか、照れて顔が赤いのか、判然としないハンナはブルーを問い詰める。
「い、いや、ハンナの肌が綺麗だったから」
流石に美味しそうに見えた、などとは口が避けても言えないブルーは、しどろもどろになる。
そして酔っ払っているハンナは暴走。
ブルーの口に吸い付いた。
く、くさい。酒くさい。
ドラゴンの嗅覚は犬以上である。したがって、ブルーの鼻腔には、強烈な酒のニオイが充満する。
ともかくハンナを引き離すと、ブルーは彼女の正面を拭きはじめた。
そこでびっくり。
何これ? 何が入ってるの? 柔らかい!
ハンナの胸は、それ程大きいものではない。しかし、小さいかといえば、それも違う。
ブルーの手からはやや零れるほどで、身長のわりには大きく良い形だ。
ブルーは今まで、幾度かハンナの胸に触れた事があるが、これ程近くで眺めつつ触るのは初めてだった。
「ブ、ブルーも脱いで。私もキミを拭いてあげるから」
室内はオリーブ油のランプが齎す灯りだけで、ほの暗い。
揺らめく炎に照らし出されるブルーの肉体には一切の無駄が無く、引き締まっている。
恍惚とした表情を浮かべたハンナは、完全にキュンキュンしていた。
「ブルーも上がって」
寝台にブルーを招き入れるハンナ。もはや目つきは獲物を狙う女豹の様だ。
まずは背中からブルーを拭くハンナ。
しなやかなブルーの肩をなぞり、自身の身体を預けると、手を前に回して胸元を擦る。その時、自身の胸をブルーの背中に密着させる事も忘れない。
ああ、私って艶かしい女。
酔った頭で、そんな事を思うハンナ。間違いなく明日の朝、思い出したら恥ずかしくてのた打ち回るだろう。
ブルーは当然固まっている。
だが、背中に触れる胸の感触は少し喜ばしい。
ブルーは、ハンナの胸が好きになった。正直、もっと触りたいとさえ思う。
だから、固まりつつもじっとしていた。
「正面を向いて」
ハンナはもはや、舌なめずりしている。
ブルーが美少年であることを、あえて忘れようとしていたハンナだ。しかし、認めてしまえば、何処までも美少年のブルー。それを独り占めしていると思えば、彼女は幸せだった。
確かに、やっている事は夫婦に相違ない。
ハンナはブルーの身体を正面から見据え、腋、腹、股間と拭いてゆく。
互いに裸で向き合っている状態だ。
しかしブルーは無反応。
少し、ハンナのプライドが傷付いた。
別に欲情しろとは言わないが、もう少し気を使えばよいのに、とは思う。
有体にいうなら、「綺麗だよ」の一言くらいあっても良いと思うハンナだった。
「ふわ……」
そこで、ハンナの意識は途切れた。
ブルーを夫にしたという緊張感から、酒がいつもより回っていた。
その上、ブルーの裸を見つつ、自身の裸を見せている、という羞恥に耐えられなくなったのだ。
結局、大の字になって寝台に倒れ伏した為、状況的には羞恥の極なのだが、ブルーにとってはどうでも良い事。
ハンナが眠った事を確認すると、ブルーはひとしきりハンナの胸を揉んでから、眠った。
「柔らかいぞ! とっても柔らかいぞ!」
ブルーはその日、とても良い夢を見たという。