炭酸
喉が焼けるように渇いていた。
何かを言おうとしても喉の奥に砂が詰まっているかのようで、言葉は形になる前に崩れていってしまう。
炭酸が飲みたい。
こんな状況で、そんな欲求が浮かぶこと自体が悪夢なのかもしれなかった。これが現実なのか。こんな状況は非現実だという方が、まだ理屈が通っていた。
若菜を撃つ。
自分が生き延びるために。
意識しないままで、自嘲めいたものが顔に浮かんできそうだった。そんな選択肢を迫られること自体が狂気の沙汰だった。
様々な言葉と感情が頭の中をぐるぐると回っている。悪夢であった方が、まだ救われたかもしれない。
「迷ってる暇はないで? 撃つか撃たれるかや。撃ったら……助かるんや」
山根が揶揄するように言う。直樹にとってその言葉は、禍々しいものでしかなかった。そして、それが発せられた瞬間だった。
その言葉に背中を押されたかのように、若菜が銃に向かって走り出す。しかし、それを目の当たりにしていても、直樹は石像のようにただそこにいるだけだった。指ひとつ動かすこともできないでいた。
視界の中で若菜は床に身を投げ出して、縋りつくように両手で拳銃を抱え込んだ。そして、素早く立ち上がった時、すでに銃口は直樹に向けられていた。
若菜の息が乱れている。形のいい唇が少しだけ開けられていた。
「……私だってこんなこと、したくないの。でも……ごめんね、直樹。私は……死にたくないの」
抑揚のない声だった。大きくも小さくもない。それでもそこには確かな決意があった。直樹に向けた銃口が少しだけ震えている。
自分が守ろうとしていた女に銃を向けられている。まるで現実感のないシュールな光景だった。
直樹は口を開こうとしたが、すべての言葉が霧散していく。
そうなのだ。
きっと喉が渇きすぎているから、言葉が何も出てこないのだ。
炭酸を欲していた。喉で泡が弾ける感覚を求めていた。
場違いで、そんな状況であるはずもないのに直樹は何度もそう思う。
若菜に銃口を向けられている。ついさっきまでは想像すらできなかった状況が、そんなことを思わせているのだろうか。
あまりに状況が急展開すぎて、悪意のある誰かに自分たちが嵌められているかのようだ。
……いや、違うのだと直樹は思い直した。
そんなものは、誰かに責任転嫁をしたいだけの考えでしかなかった。
どうしてこうなったのか。
自宅のマンションで捕まりさえしなければ、今ごろは都内から脱していたはずだ。それが今では銃を突きつけられている。
冗談にもなりはしない。
自分はどこで、何の選択を間違えてしまったのか。
「これまでありがとう。ごめんね、直樹……」
ありがとう。
ごめんね。
若菜から発せられたそれは、感情の抜け落ちた空っぽなただの言葉でしかなかった。
その瞳に迷いの影はひとかけらもない。次の瞬間、視界の中で若菜が拳銃の引き金に力を込めた。
これら一連の動作が、まるで時間が引き伸ばされたように直樹の瞳には映っていた。 スローモーションのように視界の中でゆっくりと動く若菜。引き金に掛けられた指。それに力が入るのが見える。
やはりいい女なのだなと直樹は思う。
化粧気もなくて、肩まで伸ばされた髪は乱れていた。だがそれでも、それらは若菜の美しさを汚し、貶めるものではなかった。
次の瞬間、引き金に力を込めた若菜の表情が、一瞬で怒りに塗り替わった。
「何よ、これ! 動かないじゃない!」
金切り声に近かった。若菜の甲高い声が室内で響き渡る。続いて若菜は明らかに憎しみがこもった鋭い瞳を山根に向けた。
「ふざけてるの? 壊れてるじゃない! 私を騙したのね!」
若菜の罵声を聞いた山根はそれを愉しむように、わずかに口角を吊り上げた。その笑みに何かを見て取ったのか、若菜は直樹へと顔を向け、怒りのままに拳銃を振り上げた。
「ふざけやがって!」
目尻を吊り上げ、怒りのまま叫ぶように若菜は吐き捨てた。そして、まるでその感情をすべてぶつけるかのように、若菜は直樹へ拳銃を投げつける。
若菜の手を離れた拳銃は直樹には当たらず、硬い音を立てながら直樹の足下に転がった。その音がやけに長く響くのを感じる。
その残響を耳にまとわりつかせながら、その先を直樹はまだ選べないでいた……。




