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10.念願成就

 そして、とうとうその時はやってきた。

 チャレンジを始めてから二ヶ月になろうかとした日だ。みかんは私の右手にあった。飛び交うみかんを横からキャッチできたのだ。

 これでやっと項燕コウエンさんの弟子として認めてもらえる。歓声をあげ、もろ手を上に喜ぶ。

 そんな私の足がずるりと滑った。不安定な木の枝の上にいることを忘れていた。

 体が宙に浮き、落ちることを覚悟したとき、私の腕を掴むものがいた。恐怖につぶっていた目を開けると、そこに見えたのはボスザルの悟空だった。

 他のサル達も次々に手を伸ばして、私を木に引き上げてくれた。

「ありがとう」

 とりあえず礼を言いながら周りに集まったサルの群れを見回す。すぐさまみかんを奪いに来るかと思いきや、彼らは皆じっと私を見つめるだけだった。

 なんともいえぬ雰囲気。全方位にサルがいる。襲い掛かられたら、ひとたまりもない。

 全身から噴き出してくる汗を感じたとき、一匹の子ザルが私の肩に飛び乗ってきた。そしてもう一匹。また一匹。三匹の子ザルが私の体につかまった。その愛らしさに自然と笑みがこぼれる。

 物欲しそうに私の手のみかんを見ているので、三つに分けて彼らに手渡した。

「すっかり群れの一員じゃな」

 下から眺めていたのだろう、項燕さんの声が聞こえてきた。

 私は木を滑り降りて、彼の元へ駆けつけた。

「やりましたよ、項燕さん!」

「この課題をまともにクリアできたのはお前が初めてじゃ」

 私の笑顔につられたのか、彼もまた奇跡のような笑みを浮かべた。

「前のガキどもはとんでもない奴らだったからのう」

 よほど良い思い出ではないようだ。とたんにしかめっ面になる。

 なんでもボスザルの悟空を罠にはめてミカンを奪ったらしい。それで、もう弟子なんか取らないと心に決めたというのだ。

 その人たちがいなければ、私の弟子入りももっとスムーズだったかもしれない。迷惑なことをやってくれたものだ。だけど、そんなことはもうどうでも良いことだ。

 無事課題をやり遂げたのだから。これで弟子として認めてもらえる。

 そう思った私の前に「ほら」と片手で項燕さんが突き出してきたのは、大きな中華なべだった。

 右手で取っ手を持とうとしたら、あまりの重さに傾いた。左手も添えたが、とても耐えられなかった。なべの底が地面に当たって、鐘のような鈍い音を立てる。

「料理より道場で力をつけるほうが先じゃな」

 項燕さんは呆れたように言う。

 なべを調理場へ戻していくように告げると背を向けて去っていった。

 重い。踏ん張っても引きずるようにしてしか動かせない。

 師匠の方が私より体が小さいのに、こんな物を片手で持てるなんて。中国料理というのは一種の格闘技、拳法と通じるものなのかもしれない。

「なべに傷をつけるのは問題外じゃぞ」

 あまり底をゴリゴリやるものだから、音が届いたのだろう。項燕さんが扉から顔を覗かせて言った。


 こうして私は項燕師匠の元で修行を認められた。

 子供たちと同じ朱色の服も卒業。師匠と同じタイプの赤いカンフー着を手渡された。

 朝と晩は今までと同じ、道場で子供たちに混じっての稽古。その間に師匠の手伝いをする。

 手伝いといっても料理ではなく、食材の調達だ。これこそが料理人として第一歩。

 この山奥では自給自足が主。食材のほとんどは裏の山からもたらされる。師匠が管理している菜園が山の中腹にあるのだ。肥えた土があり、野菜作りには最適だが、農作業には過酷な地形。

 水遣りのために、バケツを両手に急な斜面を何度も上り下りしなければならない。野菜だけでなく、雑草の育ちも良く、抜いても抜いてもまたすぐに出てくる。きりがない。

 手伝いは菜園だけにはとどまらない。それだけでは食材が足らず、山菜取りも仕事のうちだ。

 季節の恵みを手にするために、時に子供達にも集合がかかる。皆で急な斜面を這うようにして上り、背負ったかごに入れていく。これも立派な修行だというのが師匠の言葉だった。

 山菜取りに役立ったのは、サルたちとの遊びだった。

 彼らは山で暮らしているから、生で食べられる物に関してはエキスパートだ。群れの移動に合わせて木々を渡り歩く。本物のサルになった気分だ。時に毛づくろいをしあったりもした。

 山菜の種類の多くは、この時覚えたものだ。

 だけど、サルの食性から外れたものは自分で学ばなければならない。特にキノコは色や形が似たようなものも多くて、食べられる物とそうでない物を覚えるのは大変だった。

 こんなものは体で覚えるのが一番だと、師匠は私が採ってきた食材を調理してくれた。

 師匠の手ずからの料理が不味いわけがない。どれも美味しく頂いた。

 問題なのは食後だ。下痢や嘔吐、悪心は言うまでもなく、笑いが止まらなかったり、しびれたり、恐ろしい幻覚を見たりと悲惨な体験をした。

 もっとも身をもって知ると、てき面。危険なものはすぐに覚えた。頭で覚えるよりは早かったのだという思いが慰めだ。

 また、項燕師匠は薬膳料理も極めた人だったので、山菜だけでなく、木の実やら木の皮やら草の根やらも採集していた。一応ざっと説明はしてくれたが、難しくて良く分からなかった。本腰を入れて何年もかけて修行するつもりがないなら、これ以上は教えないとはっきり言われた。

 また、猟師から直接買い取った猪やキジやウサギの肉を裁くこともした。

 まだ冷え切っていない体から羽をむしったり、皮をはいだりする作業は正直ぞっとした。

 いつも半泣きの状態で終えたのだが、これは今まで私でない人がしていて、知らなかっただけのことだ。食材に対する思いが深くなった。

 これらの体験は料理人にとっては基礎体力みたいなもの。なくてもそれなりに料理は作れるが、あるのとないのとでは大違いなのだと師匠は言った。

 初めて調理台の前で中華包丁を持たせてもらったのが弟子入り三ヵ月後。その頃には、中華なべもどうにか扱えるようになった。

「どうしてわしの弟子にこだわるんじゃ。日本料理だけじゃない。他にも学んだんじゃろう。どれも中途半端で極めたつもりか」

 ある日、項師匠に尋ねられた。

 私は正直に、あるところのコックを目指しているのだと告げた。そこでどんな要求にも応えられるコックになりたいと。

 きっかけである十歳のあの夜のことを話し終えたとき、「マスティマとな」と師匠は意味深に呟いた。

 私はぎくりとする。項燕師匠がその名を知っているはずはないと思ったから、話したのだ。

 マスティマは一般人に名を知られることのない、ブルーノさんでさえ全てをつかみきれていない闇の組織のはずだし。

「……ご存知なんですか?」

「知らん」

 恐る恐る尋ねたのに、あっさりとした返答に転びそうになる。

「じゃが、そんなところのコックなら、料理の修業だけじゃ足りんな。道場での修業ニ時間追加じゃ。朝四時から始めるぞ」

「そんなに朝早く……!」

 つい声が出てしまった。今だって六時開始で、とても遅いとは言えない時間なのに。

「年寄りは早く目が覚めるものなんじゃ」

 かっかと笑っているけど、師匠、答えになっていません。

 こうして、道場でも師匠とのマンツーマンレッスンが決定。

 体力の増進のためだけでなく、師匠は拳法の師匠を兼ねるようになった。


 そうして約一年後、ついに連絡が入った。マスティマがコックを探している動きがあると。

 しかし、色々条件があって性別は男に限って……とか続くブルーノさんの部下の言葉を遮り、「すぐにそちらに窺います」と告げた。

 電話口の相手は慌てて言葉を続けようとしたが、ここで話を聞けば長くなるだけ。止められるのは勘弁だ。すぐさま受話器を置く。

 イタリアまでは遠いのだ。それに、もたついている間にコックが別の人に決まったりすれば、チャンスは先に伸びてしまう。次がいつになるか分からなくなる。

 荷物をまとめ、項燕師匠への挨拶もそこそこにして屋敷を飛び出す。着替えをする間も惜しいから、カンフー着のままだ。

 すると庭のところで後ろから呼び止められた。

 円盤のように飛んできたのは大きな中華なべ。遠心力に振り回されないように踏ん張って捕まえる。

「修行修了証書じゃ。もっていけ」

 師匠は笑って手を振った。

 彼の後ろにはお世話になった娘さんや色々教えてくれた子供たちがいた。そして、遠巻きに山から下りてきた悟空を始めとしたサルたちの姿も。

「ありがとうございます。お世話になりました」

 私は中華なべを片手で振り上げ挨拶する。

 いつまでも見送ってくれる彼らを何度も振り返りながら、屋敷を後にした。

 こうして、私の修行の旅は終わったのだった。



【おまけ】マスティマの過去10年であったこと(順不同)


 ボスの代替わり。ディヴィッド、ボスへ。ジャザナイア部隊長へ。

 アビゲイルのマスティマ入り、即幹部へ。

 グレイのマスティマ入り、幹部昇格。レイバンのマスティマ入り、幹部昇格。

 アビゲイル、オスカー結婚。オスカー、ディケンズ警備会社からマスティマへ。

 プリシラ生まれる。

当小説の完結までお付き合いいただき、ありがとうございました。

あとがきを活動報告にて公開していますので、興味のある方はどうぞ。


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