第十一話 ペトラキアの七日間
完結保障、全68話。
毎日投稿予定。
ペトラキアは、帝国の道と山道が交わる場所にある、住民五百人ほどの小さな村だった。
山道の急な曲がり角を過ぎると石積みの家々がいきなり視界に現れた。急斜面に階段状に張りつくように建てられた家屋が岩肌の色と見分けがつかないほど馴染んでいる。
(……どこかで見た景色だ)
美月として生きていた頃、写真か何かで見た覚えがあった。強い太陽の下、白い家々が斜面にひしめき合う、古代のエーゲ海沿岸の村。時代も国も違うはずなのに、目の前の光景はその記憶とほとんど重なって見えた。
村に入る手前で気づいた。道が新しい。山間の村へ続く道としては不自然なほど整備された石畳が麓からまっすぐに伸びている。轍の跡が均等で深い。重いものを載せた荷車が何度も通った証拠だ。
(帝国の道だ)
この道がここまで来ているということは、村はもう帝国の地図の中にある。
ナイアの歩幅が昨日から小さくなっている。荒野の狩りだけでは食料が保たない。
村の入口に立つと数人の村人がこちらを見た。農具を持ったまま動きを止めている。三人連れと見慣れない大きな白い犬。警戒するのは当然だった。アレックが前に出て言った。
「入っていいですか?」
誰も答えない。視線が泳ぐ。
そこへ、村の中からのんびりした足音が近づいてきた。杖をついた老人が一人、右足を少し引きずりながらゆっくりと歩いてくる。白い顎髭が胸のあたりまで伸び、くすんだ緑の目が三人を一人ずつ眺めた。最後にクルを見て、少しだけ眉が動いた。
「どこから来た?」
「セリア国の山側から来ました」
アレックが答えた。
「一週間ほど泊めていただけませんか。働けます。金も出せます」
老人はしばらく三人を眺めていた。何かを計算するような間があった。
「セリアから逃げてきたのか?」
アレックが一瞬止まった。老人が杖の先でアレックの靴を指した。
「靴を見れば分かる。踵の減り方が片寄っておる。夜の山道を、休まずに下りた者の減り方だ」
「……そうだ」
「何から逃げた?」
「……」
言葉に詰まったアレックを見ながら、老人は杖の先を石畳に軽く打ちつけた。
「役に立つなら構わん。役に立たないなら帰れ。飯は出さん。軒先くらいは貸してやる」
「分かった」
「わしはベッサだ。この村の村長をしておる」
アレックたちも名を名乗った。ベッサは名前には特に興味がないようだった。
その時、石垣の陰から転がり出てきた小さな影が一直線にクルへ向かった。子供だ。8歳くらいの男の子が怖がるでも躊躇うでもなく、クルに近づいた。
「おっきい!」
大人しくしているクルの体を抱きしめる。クルはびくともせず、鼻先で子供の頭のにおいをかいでからペロッとひとなめした。ベッサが低い声で言った。
「タリス、離れろ」
「やだ、もふもふだ」
「うちの孫だ」
タリスは離れず、クルもされるがままだった。周囲の村人たちの表情がわずかに緩む。ナイアも小さく笑っていた。ベッサだけが額に皺を寄せたまま三人を見ていた。
その日の夕方から仕事が始まった。
若い人が少ないと聞くと、痩せた老人がそっけなく答えた。「帝国に行っておる。15から30くらいの男はみんな連れていかれた。兵や働き手としてな。いつ戻るかは分からん」。ベッサ自身も右足が悪く、重い仕事はできない。
アレックは黙って最も重い仕事を選んだ。ナイアは子供たちの相手をしながら炊事を手伝った。タリスはナイアとクルの周囲をずっとうろうろしていた。
アレックが火の魔法で竈の火力を一定に保ち、浮遊魔法で荷物を運び続けると、村人たちが驚いた。老婆が「あら?」と立ち止まり、子供たちが集まってくる。魔法は誰でも使えるが、それはマッチを擦るほどの火種か、ひと吹きの風程度のものだ。アレックのように精度と持続を伴う魔法は、若い男のいなくなったこの村ではもう見られなくなっていた。
リサは魔法を使えない代わり、崩れやすい斜面を見分け、石垣の積み方や排水の溝の角度を直して役に立った。ペルネアの畑で何度も見てきた作業だ。「なんで分かる?」と聞かれ「見れば分かる」とだけ答えた。
三日目あたりから、村人が自分たちへ向ける視線が変わってきた。
その夜、家畜が騒いだ。囲いの向こうに狼の目が二つ。クルが柵を回り込んで低く出ると、それだけで狼は退がった。アレックは崩れた石垣の穴を、夜が明けるまでかけて積み直した。
四日目の夜、ベッサが焚き火を囲もうと言った。井戸の近くの石囲いに火を起こし、ベッサとリサとアレックが座る。クルは火の側で横になっていた。
しばらく火を見ていたベッサが口を開いた。
「お前さん方、セリア国の山側から来たと言っておったな。この先、どこへ行く気だ」
「決めていない」
「なら、行き先から潰しておく。東はもう無い。鉱山の国が、二年で帝国の採掘場になった。人はまだ住んでおるがな」
「残りは?」
「セリアと仲の良かった国が、去年に手を切った。断れば次は自分だと分かったんだろう」
リサは足元の石畳を見た。道は、麓からこの村までまっすぐに伸びている。
「……この道と同じですね」
「ほう」
「攻める前に、道を通す。食い物を入れて、若い男を引き抜く。気づいた時には、働く手も戦う者も残っていない」
ベッサの杖が、石畳を一度だけ打った。
火が小さく爆ぜた。
「賢い選択とも言えるし、賢くない選択とも言える」
「セリアはどうなるのだろう?」
リサが呟くように言った。ベッサがくすんだ緑の目でこちらを見た。
「セリア国は大きい。すぐにはやられん。だが……」
言葉が続かなかった。「だが」の先は言わなかった。
セリアはリサとしての故郷。ナイアが生まれた場所。ドロスの工房があった場所。でも今、美月としての感覚がそれに重なった。国が滅ぶとはどういうことか、教科書の年号としてしか知らなかった。でも、ベッサの言葉は違う。武力で攻め落とすだけではない。道を通して食料を運び入れ、豊かにしながら、若者を引き抜いていく。骨を抜く。気づいた時には、働く手も、戦う者も残っていない。
(これが、帝国のやり方なんだ)
肌がひやりとした。
「よく知ってますね。この村にいながら、近隣の国のことまで」
アレックが言った。
「道が通れば人の行き来が増える。行商人は荷物だけでなく、情報も運んでくる。昔、わしも各地を回っておった」
ベッサは指で足元の石畳を指した。
「帝国がこの道を整備したおかげで行商が増えた。食い物が入るようになった。この冬は初めて、蓄えを削らずに越せそうだ。代わりに兵や働き手として若者が連れていかれた。孫のペトロスも二年前から戻ってきていない」
「孫」という言葉に、タリスの無邪気な笑顔が浮かんだ。あの子の兄がペトロスだ。ベッサにとっては二人とも大切な孫だった。
「帝国が作ったこの道は良い道なのか悪い道だったのか。まだ分からん」
リサは足元の石畳を見た。良いか悪いかを決められるのは、この道を歩いて帰ってくる者だけだ。
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五日目の朝は霧が出た。山の稜線が白く滲んで、村全体がやわらかい輪郭の中にある。
こういう朝があと何度あるだろうかと思った。思ってから、考えないようにした。
昼前、タリスがクルの背中に乗ろうとして見事に横腹に激突し、地面に転がった。
「痛った……」
クルがゆっくりと振り返り、転がったタリスの顔を鼻先で突く。子供たちが「もう一回やれ」と集まってきた。アレックが石垣から離れ、タリスの体を両手で持ち上げてクルの背中に乗せた。
「乗れ」
タリスが両手を上げて「やったー!」と叫ぶ。クルが低く喉を鳴らし、子供たちが、わっと声を上げた。
その日の午後、リサはタリスたちに捕まった。井戸の広場で「歌、教えて」とせがまれ、気づけば輪の中心にいた。この世界で覚えた歌は収穫の唄や作業唄ばかりだ。踊れる歌ではない。でも美月の記憶には別の引き出しがある。
リサは、ふっと笑いながら歌い始めた。単調で、同じフレーズが繰り返される、一度で耳に残る旋律。子供たちがすぐに声を合わせ始めた。タリスが一番大きな声で歌っていた。音程は外れていたが、そんなことは関係なかった。
ふと気が付くと、輪の端に金色の髪の小さな女の子が座っていた。誰も不思議そうにしていない。自然にそこにいた。目が合うと、女の子の唇の端が少し上がる。
メイルだった。
歌いながら歌詞を村の情景に合わせて変えてみると、タリスが「僕たちも守ってるよ」と言った。
「村の外れに、守らなきゃいけないものがあるって、じいちゃんに言われてる。僕たちはそれを守ってる」
「何を守ってるの?」
「分かんない。でも、守れって言われてるから守る」
メイルがそれを聞いていた。表情は変わらなかったが、目が少し細くなった。
歌が続いている間に、気がつくとメイルが隣にいた。
「お久しぶりー」
「なんでここにいるの?」
「そんなことどうでもいいでしょ」
「ペルネア村から子供が一人で歩いてこれるところじゃない」
「歩いて来るわけないじゃない」
首をかしげるリサに、メイルが少し真剣な目を向けた。普段の飄々とした感じとはちょっと違う。
「見ておいた方がいいものがある。今日のうちに。明日じゃ遅いのよ」




