第十九話 苦戦、黒銀の奈落!
街から北へ三日。切り立った断崖絶壁の底に広がる『黒銀の奈落』は、その名の通り異様な気配を放っていた。階層ごとに物理法則すら歪むと言われるSSランク指定の超高難易度ダンジョン。
「……くっ!」
薄暗い層の奥、ナタルは眉をひそめ、激しく地面を蹴って後方へ跳んだ。
漆黒の外套が切り裂かれ、わずかに朱の血が滲む。
(……速い。それに、こちらの動きが打ち消されている……?)
目の前に立ち塞がるのは、奈落の中層を守護する異形の魔物——重力を歪める『グラビティ・ガーディアン』。
これまで叩き伏せてきたアースドラゴンやリヴァイアサンとは異なり、このダンジョン特有の「歪んだ空間法則」そのものがナタルの攻撃軌道をわずかにズラし、威力を殺していた。
自慢の腕力や脚力をもってしても、空間そのものを歪められては決定打を与えられない。
「あらあら……珍しく苦戦しているじゃない、ナタル」
気配を完全に遮断し、岩陰から静観していたスターシャがくすくすと愉快そうに笑う。
「『黒銀の奈落』の物理法則の歪みは伊達じゃないと言ったでしょう? あなたがどれだけ凄まじい肉体スペックを持っていようと、届かなければ意味がないわ。……手助け、要る?」
「……余計なお世話だ」
ナタルは低く吐き捨て、血を拭った。
苦戦——それすらも彼にとっては絶好の「機会」でしかない。
「届かないなら……その『空間の歪み』の理ごと呑み込むまでのこと!」
ナタルは避けるのをやめ、あえて『グラビティ・ガーディアン』が放つ重力波の渦中へと自ら踏み込んだ。
肉体が激しい圧迫と衝撃に見舞われ、骨が軋む音が鳴り響く。だが、その激痛と引き換えに、ナタルの黒い手袋をはめた右手が直に魔物の核へと触れた。
——『概念吸収』発動。
【『グラビティ・ガーディアン』の空間歪曲・重力操作の概念を統合・最適化しました】
次の瞬間、魔物の体が激しく戦慄した。
敵の持つ能力を何一つ削ぎ落とすことなく100%保持させたまま、ナタルの体内に空間を歪め重力を自在に操作する『空間歪曲』の法則が瞬時にコピー・加算されていく。自身の「器」がまた一つ押し広げられ、周囲の重力場がナタルの意志に従って反転した。
ドォォォン!!!!
重力の枷から解き放たれ、重力操作の概念を自らの血肉としたナタルの拳が、空間の歪みを打ち破り、そのままガーディアンの胸腔を打ち砕いた。
静寂が戻った奈落の通路で、ナタルは呼吸を整えながら手袋をはめ直す。
「……ふん。少し手間取ったな」
「……本当に、信じられないタフさと強欲さね……」
スターシャは呆れたように息を吐きつつも、その瞳に底知れぬ恐怖と興奮を宿らせていた。
苦戦を糧にしてさらに異常な進化を遂げたナタルは、400年間誰も到達していないという『黒銀の奈落』のさらなる深層へ向け、静かに歩みを進めた。




