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第28話-終章-

 牛飼いの発した大きな濁声だみごえで真夏は思い出から引き戻された。


 背中に感じた清夏の体温を思い出しつつ、真夏は自分の顔が書かれた料紙を再び懐へしまった。これはこの先何かに悩んだり迷ったりした時に眺めることとなるだろう。料紙の中の自分、そう、何物にも揺るがない今の自分に立ち戻る道しるべとなるはずだ。


 体に大きな揺れを生じさせて、牛車が辻を曲がった。


「最後まで見送っていましたよ」


「そうか」


 随人の言にふと物見窓から外を見やり、偶々目に入った人物に真夏は思わず持たれかけていた背を伸ばした。


「車を止めてくれ」


 牛飼いは真夏の命令に慌てて牛を止めた。随人も急いで物見窓に近寄ってきた。


「どうされたのですか?」


「あの青年に話しかけてきてくれ」


 真夏の指さした先を随人も見る。


「何を尋ねれば良いでしょうか?」


「何でもいい、早く!」


 自分でも可笑しな命令だと思う。随人も小首をかしげはしたが真夏の言葉に従い、小走りで青年の元へ近づいて行った。


 随人と話す男の様子を見て真夏は確信した。


(清高だ)


 間違いない。髪の生え際、吊り上がり気味の眼、勝気そうな口元など清夏が描いた清高と同じだ。


 流石に曖昧な指示では長話も出来ず、二人は程無く別れ、清高は真夏の死角へ消えた。 


 随人も自信無さげにこちらへ戻ってきた。


「あのう、これで良かったでしょうか?」


「分かれた後、あの男はどちらの方向へ向かった?」


「我々が今来た道を行きましたが…」


 それを聞き、真夏は安堵の溜息をつく。


 我々は悲田院から来たのだ。だから、清高も悲田院にこれから向かうに違いない。真夏との約束を守ってくれるのだ。清高の行く先を確認せずとも何故かそう信じられた。清夏から初めて貰う文にはきっと清高との再会が書かれることだろう。願わくば、それが喜びに満ちた報告であればいい。


「よくやった、十分だ。変な使いをさせて悪かったな」  


 真夏は最大限の笑顔で随人をねぎらった。随人もつられて笑みを見せ、牛飼いに牛車を出させた。が、すぐに真夏は再び牛車を止めさせねばならなかった。


「帰り道が違うぞ」


 これに随人はバツの悪そうな顔を見せた。


「すみません。その…実は冬嗣様にあるお屋敷へどうしても真夏様をお連れせよと内々に言われておりまして…」


「弟が?」


 聞けば随人も行先は教えられたものの、目的までは聞かされていないらしい。先日冬嗣は政変の恩賞労功として式部大輔に任命された。彼の性格ならこれからぬかりなく、着実に出世の階段を昇っていくに違いない。その冬嗣が自分に内緒でどこへ連れて行こうというのか。


「わかった、出してくれ」


 とにかく行ってみなければわからない。随人は真夏が機嫌を損ねなかったことに安心し、木陰で休もうとしていた牛飼いを大声で呼び戻した。



 連れられ降り立った屋敷は敷地も広く建物もどっしりとした面構えだが、柱の色からしてあまり新しいものではない。しかも庭の到る所に最近急いで手入れをした形跡が見られる。日常的には使われていない場所のようだ。


「遅かったですね」


 背後からの抑揚のない声はまさしく冬嗣のものだった。政変の折、小一条第で会った以来の再会となる。


 随人は自分に言われたと思い身をすくませたが、冬嗣はわき目も振らす真夏の元へやってきた。


「こちらへ。もうずいぶんお待たせしているのです」


 真夏は驚きに息を詰めたが、その場では何も言わず、冬嗣と二人きりになった時点でようやく口を開いた。


「安殿様がみえているのか? お元気なのか?」


 真夏の信じられなさと心配を含んだ声に先を行く冬嗣は立ち止まり、声色と同様のものが顔にも表れている真夏を眺め、楽しげに眼を揺らした。


「政変以降は食が細く少し痩せられました。上皇様がどうしても兄上が任国に下る前に一度会いたい、と内々におっしゃりましてね。流石に他の者には頼めず私が動いたというわけです」


 確かに、政変の中心人物安殿と政変の一端を担ったとして配流となる真夏が政変後密かに会っていたとなれば、また世間が騒ぎたてるであろう。


「今上や父上はご存じなのか」


「今上には事前にお話し申し上げましたよ。痛くない腹を探られるのは嫌ですから。父上には…流石に話せませんでしたね」


 最後に冬嗣は、ははっと軽い笑いをした。


「時に兄上、先ほどは悲田院で涼子様にお会いすることができたのですか?」


 奈良で真夏が薬子付きの女房葛井から涼子宛の手紙を受け取ったことも、今日悲田院を尋ねることも冬嗣の息のかかった随人から聞いたのであろう。真夏はそれをわかった上で随人を使っているのであるから、冬嗣が知っている点に関して驚きはしない。


「ああ、息災であった」


「涼子様は、再び安殿様に仕える気はないでしょうか」


 思わぬ言葉に、真夏は眉をひそめた。


「…それも安殿様がお望みなのか?」


 もし亡き薬子殿の形代かたしろとされるつもりであれば諌言しなければならない。涼子様はもう十分辛い思いをなされ、そこから立ち直ったのだ。薬子殿も喜びはすまい。


 真夏の思いを読み取ったのか、冬嗣は苦笑を閃かせた。


「上皇様ではありません。自害という形で最愛の方を亡くしただけに上皇様のご落胆は目に余るものがありましてね、私がそれとなく上皇に申し上げてみただけです。流石にすぐご遠慮なされましたが、もしそうなれば今度は涼子様自身を見て大切にしていきたいともおっしゃっていました」


 罪滅ぼしのつもりかもしれない。だが、先程涼子様に会って感じたのだが、東宮妃でいらした頃より一段と薬子殿に似てきている。


(彼女を安殿様のそばに置くのはかえって安殿様にとってお辛いことになるのではなかろうか…)


 そこまで考えて真夏は首を振った。


「この件で決定権をもっているのは涼子様の方だ。例え安殿様の元へ上がるとしても、ご身分を明かすのは涼子様も望むまい。第一、安殿様の『東宮妃涼子様』は鴨川で入水してすでに亡くなったことになっているではないか」


 冬嗣は口の片端だけ器用にあげた。彼独特の微笑だ。これは子供の頃から変わらない。


「そうですね。しかし、本当の身分を明かさなくても良い方法はいくらでもありましょう」


 ということは、何かしら身分を偽るということだ。


「安殿様の元に常に侍従するのであるから、それなりの身分でなくてはならないぞ」


 冬嗣には何か案があるらしい。真夏は何気に鎌をかけてみる。それに冬嗣は乗ってきた。


「薬子殿の姉妹で先々帝に嫁がれた方がいらっしゃるのをご存じですか?」


「たしか…東子様であったか。すでにお亡くなりになったと聞いたが」


 姉妹とはいえ薬子と違い華やかさはなく、地味だが女性らしい温かさを持つ小柄な女性と聞いたことがある。先々帝との間には一人娘を儲けていたはずだ。


「まさか…」


 冬嗣は再び独特の笑みを浮かべた。


「そう、そのまさかですよ。東子様の御娘甘南備かんなび内親王様は薬子殿には姪、涼子様にとっては従妹にあたられる方。内親王様は生まれつきお身体が弱いそうで、屋敷からめったに出ないと聞きます。私も内親王様の顔を存じ上げませんが、彼女の顔が薬子殿に似ていても誰も疑問に思わないでしょう。もちろん涼子様に似ていてもしかり、です」


「涼子様が内親王様になり替わって安殿様の元にあがるということか。しかし、内親王様はまだ十代ではないのか? 涼子様はもう二十の声は聞いているぞ」


「ま、案の一つ、ということです」


 冬嗣はそう言って再び歩きだした。


 突飛な事でも可能性を見出し、考え、利用できるものは利用するのが弟なのだ。彼ならこれから藤原北家を父内麻呂が望むように発展させていくことができるだろう。


「父を頼むな」


 冬嗣の背中に真夏は呟いた。すでに父は高齢で、真夏が都を離れている間に何があるとも分からない。父にはこの度の政変で心労をかけ、本当に申し訳ないと思っている。


 冬嗣は小さくため息をついた。


「そう言うくらいなら兄上も葛野麻呂殿や真雄殿のように上手く立ち回ればよかったのですよ」


 藤原葛野麻呂や藤原真雄も真夏同様安殿の近臣で政変時安殿の傍にいたが、その時上皇の行動に諌止を行い、その功が認められて罪を免れている。


「あの時、無理やり安殿様と引き離してここに連れて来たのは誰だ? 彼らの様に諌止しようにも到底出来まい」


 真夏の反論に当の本人の冬嗣は肩を竦めた。


「たとえ諌止しても何だかんだ言って上皇様に甘い兄上ですから、泣きつかれれば上皇様をお止めするどころか一緒に行くところまで行ってしまったと思いますよ。そうなると政変も長引き、上皇側が勝てばまだしも、負けたなら兄上は今よりもっと重い罪になりますね」


「私は安殿様に甘いか」


 真夏は小さく笑った。彼の言う通りかもしれない。普段は理性的であろうとするが、事が安殿様となるとどうしても気持ちが先走ってしまう。同じ事は清夏にも当てはまり、真夏にとって二人は自分を素直な気持ちにさせてしまう特別な存在なのだ。


「甘いですよ。あの時いつもの兄上であれば政変でも経歴を維持し、出世も出来た筈です。少なくとも、今こうして人目を避けた都の外れにある屋敷で私の後を歩いてはいないでしょうね」


 冬嗣に心の存念を試されている、と真夏は感じた。が、出世や世間体など、そのように生きるにあたり窮屈な概念に今や捉われている自分ではなかった。


 真夏は冬嗣の言を笑い飛ばし、逆に問うた。


「お前は小一条第の納屋で私を超えて出世するといったな。夢が叶うというわけだ」


 冬嗣は相変わらずの無表情でちらりと後ろを振り返った。


「兄上は自らの考えでまつりごとの中心から身を引いてしまいました。それを兄上は惜しいとも思わず、むしろ以前より爽やかな感じさえします。そんな人とは勝負になりませんよ。初めから見ている方向が全く違うのですから」


 弟の言葉に真夏はそっと笑みを浮かべた。冬嗣も自分の真意を知っている一人と分かったからだ。


(今日はいい日だ)


 真夏は心からそう思った。


 長い渡り廊下も終わり、冬嗣は一つの房間の前で立ち止まった。


「こちらにいらっしゃいます」


 そういって冬嗣は脇へ退く。安殿と二人で会わせてくれるつもりらしい。


「ありがとう」 


 真夏は礼をいい、戸の前に立って姿勢を正した。


 安殿様は落飾したと聞いたので、きっと僧体姿でいらっしゃることだろう。


(良心に恥じることなく、安殿様の眼をしっかり見て会える事は有り難い)


 これからは安殿と離ればなれとなるが、心の繋がりはいままでと変わらない。以前のように表立って安殿を支えることはできないが、蔭ながらでも出来る範囲で精いっぱい彼を守っていこうと思う。それは薬子殿が最後に真夏に託した遺言であり、同時に真夏の意思でもある。


 真夏はゆっくりと戸に手をかけた。



ここまで読んでくださってありがとうございました。

感想等いただけると、励みになり有り難いです。よろしくお願いします。

また次回作でお会いできることを楽しみにしております。

ありがとうございました。

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