第11話
真新しい木の匂いには慣れたが、まだ辺では新しい長岡の都を整えるためにひっきりなしに造作の音が四方八方に響いている。
夕焼けに誘われた真夏の記憶は十二歳の頃に遡っていた。
(今日くらいは大工も遠慮すればいいのに)
少年真夏は軽く顔をしかめた。
今日、母の百済永継が身まかったのだ。
葬儀の用意で邸の中は混乱している。その上、部屋の奥からは赤子の泣く声が始まった。この騒々しさでは赤子もむずがるに違いない。そしてただでさえ忙しい女房に『子守』という仕事がまた一つ増えるのだ。
父はまだ屋敷に顔を見せない。弟の冬嗣は近くにはいなかった。彼の性格からして、一人で泣きはらし、葬儀には何事もないかのように出席するのだろう。こういう時は放っておくに限る。弟とは一つ違いの男同士と言う事でとても仲がいい、とまではいかないが、お互いに何を考えているかは分った。似たもの同士なのかもしれない。
母は父内麻呂との間に真夏を生むと同時に安殿の乳母となった。暫く乳母として安殿に仕えたが、帝の山部に見初められ、女嬬として後宮に上がった。今泣いている赤子は父内麻呂との子ではなく、母と帝との子だ。母を知らず育つその赤子に同情しつつ、真夏は葬儀の準備の邪魔にならないように庭へ出た。
(色がない…)
真夏はそう感じた。夕焼けに真っ赤に照らされた庭は西日のあまりの強さに全ての色が色あせていた。だが、真夏はぽっかりと心に穴が開いてしまった為に色あせた世界に見えるのではないかと思った。宮仕えで最近ではあまり会えなかった母なのに、彼女の存在感は驚くほどに大きかった様だ。急に不安に駆られた真夏は首に下げている翡翠の勾玉を握った。これは冬嗣が持っている物とと対になっており、翡翠は魔除けになると母がくれた物だった。
真夏は無色の中を歩み出す。
最後にたどり着いたのは母が自慢にしていた庭だった。病床についていた彼女はもうすぐ咲く菊の花を楽しみにしていた。
「みんなで菊に降りた露を集めましょうね」
渡来系である母の家では仙境の花であり、邪気払いと長生きの力があるとして菊の花を大切にしていた。菊の花についた露は香りも含み、それで体を拭うと不老長寿になるそうだ。流石に不老長寿になれるとは思わないが、母方の実家で育った真夏も自然と菊の花が好きになっていた。
真夏の指先は菊のまだ少し固い蕾に触れた。
(母上…)
一人であるという安心感からか、母との思い出が蘇ったからか、真夏の頬に一筋の涙の跡が出来た。弟のように自分も憚りなく泣けるうちに泣いておかなくてはならない。だが、誰もいないと思っていた庭に不意にがさり、と音がして、真夏は体を竦ませた。
「やあ」
「安殿様…」
この頃はまだ皇太子ではない安殿だったが、真夏には何故彼がここにいるのかが分らなかった。だが、真夏は急いでぐい、と手の甲で頬をぬぐい、顔を隠す夕闇に感謝した。
「真夏に会いに来たんだ。内緒で此処にくるのは大変だったよ」
そう軽く笑ってから安殿は真顔になる。
「永継が亡くなったと聞いたから飛んできたんだ。彼女は私の乳母だったしね。涼やかで、しなやかで、笑い声の綺麗な人だった。乳母の中では一番好きだったよ」
安殿は情が深い。後の話だが、彼の父帝が亡くなった際には喪に服して粥しか食べずに過ごした。帝になられる方の体に障ると父の内麻呂をはじめ臣下に毎日のように言われ続け、八日目で渋々とだがようやく止めたのだ。安殿は初め母永継の思い出を涙声で話していたが、最後には本格的に泣き始めてしまった。
(乳母といっても、自分の母でもないのに泣いてくださる)
安殿とは母が彼の乳母だった縁で同い年でもあり、幼馴染のように育った。だから真夏は安殿が理想家で頑固な所もあるが、心優しく相手を思いやる事も知っている。今も真夏の心を察して此処にやってきたのだろう。人一倍穢れを嫌う方なのに。
(しかも内緒で屋敷をぬけだして…)
今頃彼の屋敷では家人達が顔色を変えて安殿を探しているだろう。だが、真夏は安殿が来てくれた事がとても嬉しかった。素直に泣いてくれる安殿と彼に引き合わせてくれた母に感謝した。周りの庭も急速に色を取り戻しはじめた。きっと安殿の優しさで心の穴が閉じていったのだろう。
(私も彼の友としてこの優しさに報いよう)
真夏は愛すべき親友安殿に懐紙を渡し、涙を拭かせた。
「ありがとうございます」
素直に礼をいう真夏は再び夕闇に感謝した。夜へ移るこのほの暗さが真夏の心を正直にさせたのだから。
深々と頭を下げる真夏に安殿は照れたようだ。
「なんだ、他人行儀だな。早く顔を上げろ。お前の珍しい泣き顔をじっくりみてやる」
そうぶっきらぼうに言う安殿の様子を思い出し、真夏は笑顔を浮かべた。
「上皇様って、噂で聞くよりいい方ですね」
真夏の話に一心に耳を傾けていた清夏はぽつり、と呟いた。巷の噂で一番の悪者は薬子だが、女に良い様に操られている上皇も揶揄の対象になっていた。ただ、身分が身分だけに大っぴらに誰も言わないだけだ。
「そう、噂よりずっとな」
「ああっ、ごめんなさい」
軽率だった物言いに清夏は急いで謝ったが、真夏はさして気にしていない様で安心した。それどころか、今まで見たことのない少年のような笑みを浮かべた。
(こんな風にも笑えるんだ)
清夏の心が急に暖かくなった。清夏の心が真夏の言う様に鏡で出来ていて、今すぐ彼の顔を描いたらとびきりいい表情が描けるに違いない。
「清夏のおかげかも知れないな」
「え?」
真夏の言葉に清夏の鼓動が一つ跳ね上がる。彼の素敵な笑顔の源が自分であるならどれだけいいか…
「私、何もして差し上げられていません」
それが実情だ。本当はもっと役に立ちたいのだが、方法が分らないままでいた。軽く落ち込む清夏に真夏は横に首を振った。
「いや、清夏がいなければ暫く忘れていた気持ちを取り戻すことは出来なかっただろう。この心の軽さは久しぶりだ」
先程とは打って変わった柔らかな金色の陽の光に照らされた真夏の横顔に清夏の胸は急に苦しくなった。それは今まで感じたことのないものであり、ずっと感じていたい気もする。だが、真夏はそれには気づかず清夏に悪戯な笑みを向けた。
「でも噂に違わず、安殿様はこの頃から薬子殿にぞっこんだったよ」
「真夏様と同じ歳だから、上皇様もまだ十二歳だったんですよね? そんなに前からずっと尚侍様の事をお好きだったんだ」
晩熟の清夏が十二の頃はまだ外で走り回り、ここ最近真夏に対して生まれた言葉に出来ない判別しかねる感情でさえ勿論微塵も知らなかった。
「一途な方だから」
安殿上皇と薬子。清夏はこの二人が巷で噂されているほど悪い間柄ではないのではないかと思った。むしろ二人は出会うべくして出会った者同士なのではないだろうか。
清夏は安殿と薬子が羨ましくなった。運命の出会いと言うものが清夏にもあるのだろうか?
だが、少なくとも清高ではない。今でも彼は清夏の良い親友以上には思えない。
(そうだ…)
本当は清高が見つかるまでは、と思って棚上げにしていたのだが、平城に来る原因ともなった男の遺言とも言える緑の小瓶について真夏に話してみようと思った。上皇様に仕えているのだから自然と薬子の尚侍様にもお会いするだろう。
「これは…誰から?」
小瓶と共にあった文を読む真夏の顔が思いがけない驚きに変わった。
(もしかして今まで放っておいてはいけないものだったのかも)
清夏は落ち着かない心持ながら、なんとか真夏に悲田院前で出会った稲取という男の話と四条の貞本邸に行ったが受け取って貰えなかった事、そして平城に来るまでの経緯を手短に話して聞かせた。
「私も清高も文字が読めないので、それがどういったものか分らなかったのです。清高もあんなことになってしまって、彼がみつかるまではと思ったのですが…」
だんだん言葉尻が小さくなっていく。
(こんなことなら早く真夏様に渡せばよかった。いや、尼姉さまに文を見てもらうのであった。内容が判ればもっとはやく行動に移せたのに)
後悔ばかりが清夏の中に渦巻く。
「分らなかったのだから仕方がない。これは私が預かっていいだろうか?」
そう真夏はなぐさめるが、文字が読めない事にこれほど羞恥心を感じたのは初めてだった。自分の力の無さを感じ、清夏は真夏に託す事に決めた。落ち込んで頷く清夏の手の甲を真夏は励ますように軽く触れた。
(ごめんね、清高)
真夏の顔色から急を要する様子だし、清夏が自ら渡そうとするより確実に届くだろう。それに真夏は信頼できる相手だ。清夏はその点においては安心しきっていた。
(真夏様みたいな大人になりたい)
出会って間もない頃からそう思っていた。それに傍にいるだけで不思議と浮き立つ気分になる。
(そうか、真夏様に会って嬉しいのは憧れているからか。ああなりたいって強く惹かれているんだ)
納得のいく答えが見つけられて清夏は少し安堵した。そう、真夏は清夏みたいな誰も顧みない者にも何気に気を使ってくれる。
(でも、皆にお優しいんだろうな、きっと)
ふっと浮かんだ考えは急に清夏の心を寂しくさせた。
その心を思いやるかのように庭では鈴虫が静かに羽音を立て始めた。