表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/28

第12話

 まだ暑さから開放されないが、夜に鳴く庭の虫達は徐々に種類を変え始めている。


 薬子は女房から汲み立ての清水が入った器を受け取り安殿の元へ戻った。


 ここにいる家司をはじめ女房、雑色に至るまで安殿と薬子の細やかな愛情を知っているので誰一人として巷の噂のように悪口を言うものはいない。今も、薬子と安殿の二人の時間を邪魔しないようにと女房は気を聞かせ早々に姿を隠した。


 薬子は安殿に涼しげに水滴を浮かび上がらせた磁器の器を勧めたが、彼は手にしようとしなかった。


「どこか具合でもお悪いのですか」


 ここ最近は良かったが、今までの安殿は体が弱く、少しの事で体調を崩してしまいがちだった。日々続く暑さが体に堪えたのだろうか。心配して薬子は尋ねたが、安殿は首を振りつつもじっと薬子を見つめ続けた。


「私の顔に何かついていまして?」


 あまりに見つめられた薬子はわざとらしく袖で顔を隠した。


「いや、薬子は変わらないな、と思って」


 真面目に答える安殿に、薬子は声を立てて笑った。


「年をとりましたもの、嫌でも変わらずにはいられませんわ」


「いや、初めて会った頃と全く変わらない」


「お上手だこと。もう彼是何年になりましょうね…」




 安殿と初めて出会った頃。


 薬子はまだ十五歳で本名の都喜子と呼ばれており、政の中心は平安京でなく、安殿と薬子が今暮らしている平城京だった。


「都喜子、今日は式部省の詰め所へ行くが一緒にどうだ?」


 父の藤原種継が珍しく都喜子を誘った。


 都喜子にとって父種継は背が高く博識で自慢の父親だった。しかし、最近は造長岡宮使に任命され殆ど邸宅へ帰ってこない。寂しい、と都喜子は思ったが口には出さなかった。父が帰ってこないのは天皇の信任厚く、政の中心で活躍している証拠である。都喜子は生き生きしている父を見るのが大好きだった。


(私が男だったら、父様の片腕となって家を盛り立てていくのに!)


 父母に文句があるとすれば自分を男に生んでくれなかった事くらいだ。だが、女に生まれてしまったものは仕方がない。女でも出来る事はしようと漢詩や四書五経を兄の仲成の隣に無理やり座り共に学んだ。


「父上、隣に都喜子がいては気が散ります。どうにかしてください」


 都喜子が仲成よりも出来がいいのを老師が褒めるので、すねた兄は父に訴え出た。それを聞いた父は、学問は女には必要ないと都喜子を説得しようとした。だが、いくら好きな父の言う事でもこればかりは都喜子も折れなかった。逆に都喜子は父の為に役に立ちたいと切々と語った。


 都喜子の本心からの言葉だからか、なんだかんだ言っても都喜子に甘い種継だからか、最後には渋々だが学び続けることを許してくれた。ただ、今のままでは仲成が納得しないので、兄と一緒ではなく都喜子のために新たな老師を探してつけてくれた。


 女性には女性らしく内向きの事をしっかり支えて欲しいと考えている父だから、彼の職場に都喜子を連れて行くというのはとても珍しいのだ。


 一応誘った形を取ったが、都喜子が断る事はないと解っていた種継は既に車を用意しており、都喜子は父との二人だけの時間を満喫した。


「都喜子は学問が好きなのだな。老師が稀に見る才女だと手放しで褒めていたぞ」


「本当?」


 牛車に揺られながらの父の言葉尻には都喜子に対する誇りがにじみ出ており、都喜子はとても嬉しくなった。父のために頑張っていると言っても過言ではないので、報われた気持ちだ。


「出来の良い都喜子には最高の縁談を持ってくるつもりだぞ」


 その話になると、都喜子の気持ちは沈む。


 いつまでも父の娘でいたい。願いはだたそれだけなのに分って貰えない。しかし、もう婚姻の適齢期を迎えているのも事実だ。


「私…父様の決めた人なら誰でもいいわ」


 嘘であり、本当の事。


 父のように頭がよく闊達で才能のある人はそうそういないだろう。だから、結婚などしたくない。それが許されないのであれば、父が決めた人と一緒になりたい。


「ああ、任せておけ」


 種継は安堵のため息を吐いた。都喜子が何か反論すると思っていたのかもしれない。


(それで父の喜ぶ顔がみられるのですもの)


 都喜子はそう自分を納得させ、心内で頭を擡げ上げる寂莫感を笑顔で封印した。


 壬生門の近くにある式部省は礼式や文官の考課、選叙を担う重要な部署だ。その長官である卿が自分の父であると思うと都喜子は自然と笑みがこぼれる。軽やかな足取りで建物ヘ入っていた。


 中には多くの文書が積み上げられているが、乱雑な様子はなくきちんと整理整頓されていた。その間を縫うようにして文官達が急がしそうに働いている。今日は式部卿である父がいるからか、みな真面目腐った顔をしているのが都喜子には面白くもあり、ほほえましかった。


 父に暫くここにいるようにと言われたので、都喜子は式部大丞と共に建物内を見て回った。文官達は都喜子に声はかけないものの、ちらちらと目端で自分を追う視線を感じた。一人の年若い史生と目が合ったので微笑みかけると彼は照れ、慌てて顔を背けた。家からあまり出ることはなく、父や家司以外の男性にめったに会わない都喜子にとって、それはとても新鮮な反応に思われた。


 一番奥にある椅子に案内された都喜子は父が戻るまで手遊びに何か見せてもらえる様式部大丞に頼んだ。彼は礼儀正しい対応ですぐに儀礼に関する文書と喉を潤す為の水を持ってきてくれた。


 興味深く文書を眺めていると子供の声が耳に入った。


 都喜子が顔を上げると入り口付近に七、八歳くらいだろうか、男の子が一人の随人を引き連れ辺りを見回していた。


「安殿の皇子様だ…」


 式部大丞の呟きが都喜子の耳に届いた。安殿といえば今の天皇である山部と皇后乙牟漏の間に生まれた皇子である。


 都喜子はまじまじと安殿の姿を眺めた。 


(この方が安殿皇子…)


 今の春宮は今上の弟の早良親王だ。


 以前都喜子は父に皇太弟について尋ねたが、何事にもはっきり答える父にしては言葉をにごした。だが、ぽろりと『彼が次期の天皇になるとは限らない』と洩らしたのだ。その時都喜子は皇位継承に落ちる不穏な影を垣間見た気がしたのを覚えている。


(そして、今上の心内にある次期の春宮は安殿の皇子に違いないと推測したのだわ)


 今上はきっと皇太弟に代わり自分の息子を春宮にしたいのだろう。そして今上は父種継に目をつけたのだ。今上の懐刀であるし、安殿の母の乙牟漏は父や都喜子と同じ藤原式家の出身で、その息子の安殿が春宮、ゆくゆく天皇になれば式家の政に対する発言力は弥が上にも増す。双方の願いをかなえる人物こそ安殿親王で、多分父は内々に今上から安殿親王の立太子に関する相談を受け、了承したに違いない。


 そして都喜子は気づいた。


(今日父上がここに私を連れてきたのは偶然を装って私と安殿皇子を引き合わせる為だったのかもしれない)


 政に重きを成す父の屋敷に今はただの一皇子である安殿を呼べば皆いぶかしがり、早良親王方も警戒してしまうだろう。


 安殿皇子と目が合いそうになり、都喜子はあえて気にしていない様子を装った。父の決めた相手と結婚したいとは思ったが、すんなり父の策略通りになるのも少し癪な気がしたからだ。だが、安殿は都喜子の姿を認めると、わき目も振らずこちらへやってきた。


 隣の式部大丞が慌てて頭を下げる。一方の都喜子は文書をゆっくりと捲り続けた。目は文字を追っているが一向に頭に入ってこない。


「君はどこの子なの?」


 安殿は子供らしくおっとりした口調で都喜子に問いかけてくる。ここで初めて都喜子は安殿の顔を見た。


(柔和な顔立ち、ひ弱そうな体…父とは似ても似つかない大人になりそうね)


 都喜子と目が合うと、安殿は微笑んだ。掛け値なしに嬉しそうに。すると、彼の右頬に愛嬌のあるえくぼが浮かんだ。


(父とは正反対だけど、嫌いじゃないわ)


 心に飛び込んでくるような笑顔に都喜子も自然と微笑んでいた。


「あ、あの、この方は…」


「私はこの子に聞いているから。あなたは下がってていいよ」


 なかなか安殿の問いに答えない都喜子に気をもんでいた式部大丞が代わりに答えようとしたが、安殿に一蹴され、安殿と都喜子に頭を下げると力なくこの場を立ち去った。だが、都喜子は名を告げなかった。今上の懐刀の娘と知れると構えてしまうかもしれない。暫くどんな人か素の安殿を観察してみたくなったのだ。


 どうしてここにいるの? どこに住んでいるの? ここの省に勤める誰かの娘なの? 矢継ぎ早に多くの質問が彼の口から飛び出してくる。


(頭の回転は速いみたい)


 都喜子は心うちでそう判断しつつも適当にはぐらかしていった。


「今日はなんだか特に暑いね」


 話を続けたい安殿は隣の椅子に座り込むとそう言って手で顔を仰いだ。


「では、お飲みになります? 冷たいですよ」


 あれだけ一方的に話せば喉も渇くだろう。


 都喜子は先ほど式部大丞がもってきてくれた瓶から水を器に移すと安殿に差し出した。それを嬉々として受け取ろうとする安殿を随人の逞しい腕が遮った。


「駄目です。得体の知れないものを飲んではなりません」


 随人にしてみれば当然の任務の一つなのだが、その言葉に安殿は不満顔を露にした。頬を膨らまし、それはとても子供っぽく分り易い。都喜子は声を立てて笑った。


「では、こうしましょうか?」


 都喜子は器を手元に引き寄せた。






「あの時、薬子は毒見とばかりに私に差し出した水を飲んだんだよな」


 安殿は懐かしむ様子でぽつりと言った。


「よく覚えていらっしゃいますわね」


 薬子に安殿はやれやれと首を振った。


「ああ、嫌でもよく覚えているさ。薬子は最後まで名を教えてくれなかったからね。だから、仕方なく真夏と二人で毒見役の『薬子』って名付けたんだから」


「今では皆私をそう呼びますわ」


「真夏が種継殿の娘だと調べてきてくれたから種継殿にもう一度会いたいと頼んだんだ。しかしいつも『春宮になる方に差し上げたい』と話をはぐらかされて…、いざ春宮になった時はもう頼める状況ではなかったし…」


 安殿は言葉尻を濁した。彼が春宮になれたのは薬子の父、種継が長岡京で射殺されたのが引き金だからだ。


 薬子はしんみりとしてしまった雰囲気を変える為にあえて明るい声を出した。


「薬子の名を持つ私の怠慢でしたわね」


 そういって、先程から手をつけようとしない水の入った器を昔のように少し飲んで見せた。


「大丈夫、毒は入っていませんわ」


 笑顔で差し出す器を安殿は真顔で受け取った。だが、やはり口にしようとはしない。


(やはり、体調が良くないのかしら)


 薬子は安殿の額に手を当てようとしたが、不意にその手を掴まれた。そしてぎゅっと握り締める。


「薬子の願いを叶えてやりたいと思う」


「まあ、嬉しい。何を叶えてくださるの?」


 気軽に口に出せる望みなど一つもない。だが、何を言うか検討は付かないものの、せっかくの安殿の好意を無駄にしては申し訳ない。


 薬子は冗談口調で応じたが、安殿の口からは軽々しくなど言えぬ言葉が出て来た。


「もう一度、この手で政をする」


 余の事に薬子はすぐ言葉が見つからなかった。思わず辺りを見回したが、相変わらず女房達は下がっており、誰も聞いているものはいなかった。


「急になにを仰るのですか」


 小声でそう言うのがやっとだった。


「弟の神野は最近めっきり病弱と聞く。譲位も時間の問題だと仲成は言ってきた」


「春宮に御子息の高岳様がいらっしゃるではありませんか」


「ああ、高岳は賢い子だ。しかしまだ年若い。彼がしっかりするまで父として私が彼に道を示したいのだ」


 安殿はふと、遠い目を見せた。


「父が崩御し帝位が自然と転がり込んできた。それは当然の流れだと思っていたし、上手くいかなければ天皇など自分の望みではなかったと恨んだりもした。だが、一度政から身を引いた事で冷静になれたのであろうな、あの頃は周りや自分自身に甘えていたのが分った。そしておぼろげながら見えてきた。大切な人々や守るべき民達が。それが分ってから体調がよくなったのだ。私の御世の政治は間違っていなかった。今なら更なる善政を敷けるだろうし、その為にならどんな試練も耐えれよう」


「安殿様ならお出来になれましょうね、しかし…」


 そうなれば混乱は避けられないだろう。首を振る薬子に安殿は優しく続けた。


「それを生まれ育ったこの土地でもう一度やり直してみたい」


 言われた途端、薬子は視線を落とした。安殿は知っているのだ、自分が平安京を憎んでいることを。父の精魂込めて造り上げようとしていた長岡京の代わりに繁栄していく様は薬子にとって父への侮辱以外の何ものでもないと激しく感じていることを。


「薬子には長岡の土地の方がいいかもしれんが、今は無理だ。でも、政治が安定したら種継殿の意思を無駄にせぬよう何かしらの手は打ちたいと思う」


「安殿様…」


 言葉が続かなかった。



 この方は父の生きた証を残すという私の夢を叶えられる立場にいる。今まで語ることなく秘めてきた私の夢を。



 理性ではそんな簡単に事が進むはずがないと分っているのに、なぜか否定の言葉を出せずにいた。


「薬子はただ頷いてくれ。それだけで私は百人の味方を得たに等しい勇気をもてる」


 暫く薬子は安殿の顔を見つめ続けた。


「薬子」


 薬子はきゅっと苦しそうに瞳を閉じると小さく頷いた。


「ありがとう、薬子」


 安殿は口端にえくぼを模った。


 頷いてしまった。


(自分の願望を叶える為に私はきっとこの愛する人を苦しめてしまうのだろう)


 薬子は両手で顔を覆った。


「…ごめんなさい」


「泣くな。明日から忙しくなるな」


 優しく肩を抱き寄せる安殿に薬子は身を任せた。そして彼の素晴らしい御世を実現するために薬子はどんな事があっても安殿を守ろうと心に誓った。毒から玉体を守る薬子の役目どおり、その名に相応しく安殿の楯になろう、と。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ