雪解けの風
雪解けの風が吹いていた。
ついこの間まで地面を覆っていた白は、少しずつ薄くなっていた。家々の屋根に残っていた雪も、陽の当たる場所からゆっくりと形を崩し、軒先からぽたり、ぽたりと水滴を落としている。冬が完全に去ったわけではない。朝の空気にはまだ冷たさがあり、日陰には固く凍った雪が残っていた。
それでも、春は近づいていた。
風の中に、ほんのわずかな柔らかさが混じっている。
土の匂いが戻り始めている。
風杜を囲む木々の枝先にも、まだ小さいながら、新しい季節の気配が宿り始めていた。
競駆界もまた、新たな季節へ向けて動き出していた。
新聞の一面には、今年の競駆界の展望が並ぶ。
テレビでは連日、リュニーク特集が組まれる。
専門家たちは、雨月賞へ向かう有力駆人を取り上げ、前哨戦の意味を語り、今年の世代の厚さを論じていた。
その中でも、ひときわ大きく扱われていたのは、やはりリュニークだった。
駆人にとって、一生に一度だけ挑める道。
女駆限定のトリプルジュエル。
そして、三歳駆人によるトリプルクラウン。
雨月賞。
日本クラウン。
錦秋賞。
その三つの頂へ続く道は、多くの駆人にとって憧れであり、目標だった。
一つでも獲れば、名は残る。
二つ獲れば、時代を背負う。
三つすべてを獲れば、伝説になる。
そう語られるほどの大舞台。
そして今年、そのトリプルクラウンの主役候補筆頭とされているのが、ベルアマードだった。
昨年の最優秀二歳男駆。
デビューから無敗。
デザイアトロフィーを逃げ切りで制した二歳王者。
そして、伝説の女王アマルティアと、大逃げの旅人ウインドベルの初子。
テレビも、新聞も、専門家も、繰り返しベルアマードの名を挙げていた。
だが、その締めくくりはいつも同じだった。
『今年のリュニークはベルアマードだ。なんてったって、あの女王の子供なんだから』
その言葉は、風杜にも届いていた。
ベルアマードは、何度も聞いた。
朝のニュースで。
新聞の見出しで。
寮へ来た関係者の何気ない一言で。
最初の頃は、いちいち腹を立てていた。
今でも、腹が立たないわけではない。
けれど、三歳になったベルアマードは、少しだけその感情の置き場所を覚え始めていた。
苛立つだけでは、何も変わらない。
黙らせるには、勝つしかない。
母の名前を出す者たちに、自分の名を呼ばせるには、リュニークで勝つしかない。
厚い雲をかき分けるように、太陽が姿を見せ始めていた。
風杜のグラウンドの周りに残っていた雪が、陽射しを受けて少しずつ溶けていく。白く固まっていた端の部分が崩れ、水になり、芝の根元へ染み込んでいった。
外周を走り終えたベルアマードは、息を整えながらグラウンドの入口に立っていた。
肩で大きく息をするほどではない。
だが、冬の冷たい空気を吸い込んだ肺には、独特の熱が残っていた。
今年の冬は、雪が多かった。
風杜のグラウンドは何度も白く覆われた。
雪が降るたびに、トレーナーたちが雪をかき、芝の状態を見て、走れる範囲を整えた。ベルアマードも手伝わされたことがある。最初は不満げだったが、芝が見えてくるにつれ、その作業が自分の走る道を守ることだと少しずつ理解していった。
それでも、厳しい冬だった。
思うように全力で走れない日もあった。
外周中心の日もあった。
室内で身体を作る時間も増えた。
ベルアマードは何度も不満を漏らした。
だが春に勝つためなら。
雨月賞へ行くためなら。
母を超えるためなら。
朝の天気予報でも、冬の終わりが近づいていることが告げられていた。今週から気温は少しずつ上がるという。まさに、季節が変わろうとしていた。
ベルアマードはグラウンドへ入った。
青々とした芝を踏みしめる。
冬の間に何度も雪をかぶったはずなのに、芝はしっかりと足を受け止めた。まだ少し湿り気がある。けれど、沈みすぎるほどではない。踏んだ足裏に、柔らかさと芯の強さが同時に返ってくる。
ベルアマードは、軽くつま先で芝を押した。
悪くない。
そう感じた。
一生に一度のリュニークが近づいている。
もう、遠い未来の話ではなかった。
テレビの中の誰かが挑むものでもない。
母アマルティアがかつて成し遂げた伝説でもない。
今度は、自分の番だった。
母を超えるため。
自分の名前を呼ばれるため。
ベルアマードという駆人を、世界に刻むため。
その最初の舞台が、もう目の前まで来ていた。
今週末。
トリプルクラウン初戦、雨月賞の前哨戦。
『雪消雨賞』。
いくつかある前哨戦の中でも、一番早く行われるレースだった。
ここで勝てば、雨月賞への出走が正式に決まる。
ベルアマードにとっては、単なる前哨戦ではなかった。
二歳王者として、最優秀二歳男駆として、今年の主役候補として、最初に示さなければならない一戦だった。
勝って当然。
世間はそう見るだろう。
そして、勝てばまた言うのだろう。
さすがアマルティアの子だ、と。
ベルアマードは、その言葉を想像して、わずかに眉を寄せた。
だが、すぐに顔を上げた。
違う。
勝つだけでは足りない。
勝ち方だ。
誰にも前を譲らず、最初から最後まで先頭で走り切る。
母の名前ではなく、自分の走りを見せつける。
それができれば、少しずつでも変わるはずだった。
ベルアマードは空を見上げた。
さきほどまで厚く広がっていた雲は、少しずつ裂けていた。
その隙間から出た太陽は、いつの間にか雲を押しのけるように光を広げ、グラウンドを明るく照らしている。
雪の残る端が、光の中で溶けていく。
ベルアマードは息を吐いた。
白い息が、空気の中へ薄く消えた。
太陽が地面を照らしている。
芝が光っている。
風が、わずかに春の匂いを運んでくる。
ベルアマードは走り出した。
最初の一歩で、身体が前へ乗る。
二歩目で、風が頬を叩く。
三歩目で、グラウンドの景色が流れ始める。
次のレースへ向けて。
雨月賞へ向けて。
リュニークへ向けて。
そして、自分の名を示すために。
ベルアマードは、雪解けの芝の上を、誰よりも前へ行くように駆けていった。




