第96話 レオンの兄、イリア
◆エリック視点
──似ている。
エリックの頭に最初に浮かんだのは、それだった。
さっきまでレオンと向かい合っていたはずなのに、視線の先に立つ男を見た瞬間、思考が一拍遅れた。髪の色も、骨格も、立ち姿の静けさも、目の前の男は弟によく似ている。
(……顔、似すぎだろ)
兄弟だと言われて、そのまま腑に落ちてしまうほどの一致だった。
問題は名前の方だった。
「……久しぶりだね、イリア・ヴァレンティア」
オルフェが何気なく口にしたその姓が、エリックの頭を殴りつける。
(ヴァレンティア……?)
記憶が、嫌な速さで繋がっていく。ヴァルグレイス帝国の貴族階級の中でも最高峰に位置し、帝国の剣と呼ばれてきた軍事貴族の家。ヴァレンティア公爵家。
その名はエリックでさえ知っているほど有名だった。
(……嘘だろ)
喉が、ひくりと鳴った。
あのレオンが。学院に孤児として登録されていた、あのレオンが。
(しかも、兄貴……?)
目の前の男は、レオンよりもさらに完成されていた。力を誇示する素振りもなければ、こちらを威圧してくる気配もない。ただそこに在るだけで、部屋の空気を握っている。
理解した瞬間、エリックの背中を冷たい汗が伝った。
(いや、待て。それなら、今までの違和感も)
剣の腕。年齢に合わない判断力。人を従わせることに慣れた喋り方。ずっと引っかかっていたそれらが、そういう家に生まれた人間なのだと言われれば、説明がついてしまう。
イリアは、そんなエリックの混乱を楽しむように、軽く首を傾げた。
「……あれ?」
柔らかな声だった。それなのに、笑みの奥は底が見えない。
「君、今になって気づいた顔してるね」
エリックは、何も返せなかった。
「恐れないでいいよ。別に何かするつもりもない」
穏やかな声だった。
けれど、その一言で、エリックは理解してしまった。
(……違う)
この男は、何もしていない。剣も抜いていないし、魔術を展開してもいない。
それなのに、動けない。
膝の裏が強張り、呼吸が浅くなる。
背骨に沿って、冷たいものが這い上がってくる。
(……威圧、じゃない)
怒りでも、殺気でもない。
もっと根源的なもの。
格。
同じ空間に立っているだけで、自分という存在が、相対的に軽くなる感覚。
エリックは無意識に、半歩下がっていた。
(こいつ……レオンよりも)
思考が、そこで止まる。
同じ秤に載せてはいけない。
そう直感した。
目の前の男は、勝つとか負けるとか、そういう次元にいない。
イリアは、ふっと微笑んだ。
「そんな顔しなくていい。君は今夜、ちゃんと役に立った」
それが評価なのか、ただの感想なのか。
エリックには、判断がつかなかった。
***
オルフェは、地面に展開した封印陣の前に膝をついていた。
応急の止血だけを済ませた脇腹が、呼吸のたびに疼く。それでも、ファウレスの血の痕跡を残しておく方が、よほど危険だった。
細く、緻密な術式だ。血の魔力の残滓を、一点ずつ削ぎ落としていく。指先が震えれば、それだけで全体が崩れかねない繊細な作業だった。
「……残ってたら厄介だからな」
呟きは、独り言に近かった。
エリックも無言で補助に回り、魔力転写紙を押さえて位相を固定する。
その背後で、イリアが興味深そうに首を傾けていた。
視線が、封印陣の中心へと滑っていく。
「……あれ? ファウレスの血の痕跡、消してるの?」
まるで感想でも述べるような、軽い声だった。
「偉いねえ」
にこりと微笑んだ、その次の瞬間だった。
イリアが、何の躊躇もなく封印陣の縁に手を伸ばした。
「イリア、触るな」
オルフェが反射的に叫ぶ。
結界術師としての本能だった。今の術式は、他者の介入を一切許さない極限状態にある。触れられれば、暴走か、崩壊か、そのどちらかしかない。そのはずだった。
「……あ」
オルフェの喉から、間の抜けた声が零れた。
術式が崩れなかった。乱れもしない。むしろ、整っていく。
イリアの指先がなぞった箇所から、封印陣は正解へと収束していった。不要な魔力線が消え、位相が噛み合い、血の魔力の痕跡が、まるで最初から存在しなかったかのように拭われていく。
ほんの一瞬の出来事だった。
オルフェは、目を見開いたまま、言葉を失っていた。
やがて、低く呟く。
「さすがだな、お前の術は」
口をついて出たのは、技術者としての感嘆だった。皮肉を混ぜる余裕も、そのとき浮かばなかった。
イリアは楽しそうに笑っている。
「うん? そう? 難しいことしてるからさ。つい、手伝っちゃった」
その態度はあまりにも無邪気で、だからこそ異常だった。
オルフェは、ゆっくりと息を吐く。
(……やっぱりだ)
理論も、制御も、限界も、この男は最初から外側から眺めている。狂人でありながら、否定しようのない天才。それがこの男だった。
イリアは消え去った魔力痕を一瞥して、満足そうに言った。
「これでしばらく、面倒な連中は寄ってこないね。それじゃ、僕はそろそろ行くよ」
「待て……どこに行くつもりだ」
オルフェの言葉にイリアが足を止め、ゆっくりと振り返る。
「どこって、決まってるだろう。レオンのところだよ」




