第95話 白い闇
◆イリア視点
刃が振り下ろされる、その直前だった。
「レオン」
その声に、レオンの剣が空中で静止した。
エリックの喉元まで、あと指二本ぶんもない。
術式を使ったわけではない。命令したわけでもない。
ただ、名前を呼んだだけだった。
いつの間にか、レオンの背後に人が立っていた。
白いスリーピース。夜の闇にも血の匂いにも溶けないまま、そこだけが場から切り離されたような佇まいで、赤い瞳が魔導灯の光を淡く弾いている。
イリア・ヴァレンティアだった。
「……兄、さん」
レオンの喉から、掠れた声が零れた。
殺気が霧散していく。あれほど濃密に場を圧していた狂気が、呼吸ひとつ分の間に鎮まっていった。
イリアは剣先へ視線を落とし、ほんの少しだけ首を傾ける。
「だめだよ。今やるべきことは、それじゃないでしょ」
レオンの指が震えた。
剣が床へ落ちる。金属音が、やけに大きく響いた。
イリアは一歩前に出ると、レオンの頭へ軽く手を当てた。
「……久しぶりだね」
レオンの膝が揺れた。
崩れ落ちる寸前で、かろうじて踏みとどまる。
戦いは、そこで終わった。
***
少し前のことだ。
イリアは思っていた。──このところ、騒ぎが多い。
騒がしいのは嫌いではなかった。むしろ愉しい。
最初に耳へ入ってきたのは、模倣赤魔石の一件だった。その後にオルフェの研究施設が吹き飛んだと聞いたとき、イリアはほんの少しだけ眉を寄せた。あそこは禁術指定区域で、表向きは事故として処理されていたが、魔竜の森からそう遠くない場所にある。
そして先日、セリルの屋敷を訪ねてきた女がいた。
リゼ・シャルマン。裏で情報を売り買いしている女で、弟に仕事を回していた仲介人でもある。あの女を見たのは一度だけだ。その後セリルと何を話しているのかは知らない。セリルは必要以上のことを口にしないし、こちらから聞いても、当たり障りのない答えしか返ってこないだろう。
ただ、あの男が「任せてみよう」と言った時点で、盤の上では何かが動き始めている。それだけは分かった。
(ああ、これは。何か始まってる)
だから、迷わなかった。
賑わいから一本逸れた坂道を下り、蔦に覆われた黒い鉄門をくぐる。結界はすでに破壊され、門扉はひしゃげ、玄関の扉は内側から吹き飛ばされていた。
中は、無残だった。
床に散った肉片と、壁へ貼りついた赤黒い染み。焼けた鉄と薬品の臭いが、まだ空気の底に沈んでいる。イリアは足を止め、かつて人間だったものを淡々と見下ろした。
「……うん、これは」
薄く笑みが浮かぶ。愉快、という感情はこんな感じだろうか。
「面白いな。ほんとに、面白い」
階段を上がるにつれて、残留する魔力痕が濃くなっていく。乱雑で、力任せで、制御を失いかけている痕跡だった。
(……ああ)
確信する。
最奥の部屋の扉は半壊し、内側から凄まじい圧が漏れ出していた。
そこに、久しぶりに見る弟がいた。
蒼い瞳は濁り、呼吸は荒く、剣と魔術を同時に振るいながら、理性よりも先に殺意の方が動いている。相手は二人。理論馬鹿のオルフェと、もう一人、必死に剣を振るっている茶髪の青年。
「……ああ、なるほど」
戦況を理解するのに、時間はかからなかった。
レオンの剣が振り抜かれる。狙いは弱い方で、そこに迷いは一切なかった。
茶髪の青年の目に、覚悟が宿るのが見える。
(あ、これは)
イリアは、ようやく足を止めた。
間に合う。この距離なら。
そして、静かに声を落とした。
***
名を呼んだ瞬間、空気が変わった。
暴風の中心にあった殺気が、糸を切られた獣のように、ぴたりと止まる。
イリアはゆっくりと周囲を見回した。砕けた床と、歪んだ結界の残滓。血と魔力の混ざり合った匂いが、部屋中に淀んでいる。
やがてその視線が、部屋の隅に横たえられた少女の上で止まった。
「あの子、先に診せた方がいいよ。今やるべきことは、それでしょ」
順番が違う、と指摘している声だった。
レオンの肩がわずかに揺れた。
彼は剣を拾いもせず、一直線にレナの元へ向かう。膝をつき、躊躇なくその身体を抱き上げた。
レナの意識はなかった。呼吸は浅く、体温も低い。
レオンは何も言わない。ただ、その腕にかかる力だけが異様に強かった。
「……診療所に連れていく」
イリアは軽く肩をすくめる。
「うん。それがいいね。君も派手に暴れたみたいだし」
レオンは答えなかった。レナを抱いたまま、壊れた身体を引きずるようにして踵を返す。
出口へ向かうその背中からは、先ほどまでの狂気は消えていた。残っているのは張り詰めた沈黙と、壊れかけた均衡だけだ。
扉が開き、夜の冷たい空気が流れ込む。
レオンは、一度も振り返らなかった。
やがて足音が完全に遠ざかると、イリアは薄く息を吐いた。
「……さてと」
くるりと踵を返し、残された二人へ向き直る。
「オルフェ。久しぶりだね」
赤い瞳が楽しげに細まった。
「相変わらず、面倒そうなことに首を突っ込んでるみたいだけど?」
オルフェは結界を解きながら、静かにイリアを見返す。
紫の瞳に浮かんでいるのは、警戒とわずかな嫌悪だった。
「……久しぶりだね、イリア・ヴァレンティア」




