第92話 全ては敵
◆エリック視点
レオンが踏み込んだ。
一歩だった。
それだけで、エリックの目にはまだ数歩ぶん残っていたはずの距離が消えた。
剣が走る。
オルフェが前面へ展開した結界に刃が触れ、硬質な破砕音が響いた。一層目が砕け、間を置かず二層目、三層目へ食い込む。薄氷を踏み割るような音が、続けざまに館の廊下を震わせた。
「……っ」
背後で、オルフェの呼吸が詰まった。
結界は四層目で辛うじて剣を止めたが、表面には幾筋もの亀裂が走っている。研究棟でレナの魔術を受けて以来、オルフェの身体はまだ元に戻っていない。顔色は青白く、脇腹を庇うように立つ姿勢も不自然だった。
「エリック、前に出ろ! 動きを絞れ!」
「分かってる!」
エリックはレナを部屋の隅へ横たえた。
彼女の身体を包んでいるのは、戦闘に使う結界とは別に組まれた防護式だった。乳白色の光が、薄い繭のようにレナを覆っている。
そこだけは、レオンの剣も魔術も避けていた。
レナを傷つけないという正気だけを残し、それ以外を切り捨てている。
その方が、よほど恐ろしかった。
エリックは剣を抜き、レオンの正面へ入った。
剣と剣の間合い。
かつてSクラスにいた自分でも、正面から受ければ押し切られる。
最初の斬撃を外へ流した瞬間、右腕の骨まで震えた。
「ぐ……っ」
受け止めてはいない。
刃を斜めに合わせ、力を横へ逃がした。それでも親指の付け根が裂けたように痛み、握った柄が手の中でずれる。
レオンの左腕がほとんど動かないというのに、この重さだった。
次も正面から受ければ、剣ごと押し切られる。
エリックは半歩ずれ、返ってきた切っ先を辛うじて外へ弾いた。
金属音が跳ねる。
レオンの剣先が頬を掠め、遅れて熱が走った。
「今だ」
オルフェの声とともに、足元へ幾何学模様が広がった。
淡紫色の線が幾重にも組み合わさり、レオンの両脚を囲む。床が沈んだように見えた。重力を局所的に増幅させる拘束結界だ。
レオンの動きが、わずかに止まる。
エリックは剣を低く構え、脇へ回り込んだ。
剣を落とさせる、あるいは脚を止める。それだけでいい。
「……遅い」
レオンが舌打ちし、右腕だけで剣を薙いだ。
刃に纏った魔力が弧を描く。
拘束結界の術式線が中央から寸断され、床を這っていた光が弾け飛んだ。余波を受けたエリックの身体が浮き、背中から石壁へ叩きつけられそうになる。
その直前、硬い感触が背を受け止めた。
吹き飛ばされる先を読んで、オルフェが結界を置いたのだ。
「助かった」
「礼はあとだ。右へ飛べ」
エリックは理由を聞かず、床を蹴った。
直後、先ほどまで立っていた場所を青白い魔力弾が貫いた。拳ほどの大きさまで圧縮された魔力が石壁へ突き刺さり、壁面を内側から粉砕する。
石片が降り注ぐ。
レナを包む結界へ向かった破片だけが、見えない壁に弾かれて床へ落ちた。
エリックが体勢を立て直す間にも、レオンは止まらない。
剣を振るいながら術式を組み、魔術を放った直後には、すでに次の斬撃へ移っている。詠唱も、構え直す間もない。剣と魔術の境目そのものが存在しないようだった。
エリックは刃を外へ流し、返ってきた切っ先も弾いて逸らす。
そのたび、痺れは肘を越えて指先まで広がり、柄が手の中で滑りかけた。
それでも一歩下がれば、背後にはオルフェとレナがいる。
「言っとくが、俺はこいつと正面から斬り合えるほど出来た人間じゃねえぞ」
「分かってる。受けるな。流し続けろ」
「簡単に言うなよ」
エリックが身体を半歩ずらす。
レオンの剣が肩先を通り過ぎた。
体勢が右へ流れた、その死角。
レオンの背後に開いた小結界から、透明な刃が殺到する。
透明な刃は角度を変えながら、レオンの背中と右腕だけを狙っていた。
レオンは振り返らない。
剣を逆手に返し、そのまま背後へ走らせた。
結界の刃が触れるより先に、術式の根幹となる線が切断される。透明な刃は輪郭を失い、光の粉となって崩れた。
「構造まで見えてるのかよ……」
エリックの口から声が漏れた。
以前の模擬戦で、レオンがオルフェの多層結界を破ろうとしたのはこの目で見ている。
だが、今の斬撃には試合の遠慮がない。
結界を崩すだけではない。その奥にいる術者ごと斬るための剣だった。
レオンが踏み込む。
エリックは刃を合わせた。
火花が散り、視界の端で赤く弾ける。
剣を流したはずなのに、手首が折れそうなほど捻られた。靴底が石床を滑り、二歩ぶん押し戻される。背後から結界が支えなければ、そのまま倒れていた。
傍目には、互いに斬り結んでいるように見えるだろう。
実際には違う。
エリックは剣を逸らすだけで精いっぱいだった。オルフェの結界が足場と退路を作り、左腕を鎖の封印痕で焼けたレオンが本来の力を出せない。それでようやく、ここまで凌げている。
レオンの額には汗が滲んでいた。
左腕から流れた血が指先を伝い、床へ落ちている。呼吸は深く、身体は確実に限界へ近づいていた。
それでも、動きに迷いがなかった。
怒りに任せて剣を振っているのなら、いずれ勢いは鈍る。
視界が狭まり、攻撃は単調になるはずだった。
目の前のレオンは違った。
エリックの受け流す方向を読み、オルフェの結界が薄くなる瞬間を選び、レナから離れた場所へ冷静に攻撃を通している。
「……レオン」
オルフェが呼びかけた。
息を整えようとしているのか、声は普段よりわずかに低かった。それでも口元には、薄い笑みが残っている。
「このまま続ければ、誰かが死ぬ。それでもいいのか?」
レオンの剣が、ほんの一瞬だけ止まった。
碧眼がオルフェへ向く。
「それで構わない」
声には熱がなかった。
「俺の邪魔をするなら、お前たちも敵だ」
「レナがそれを知ってもか」
エリックが言った。
今度は、レオンの視線がこちらへ向く。
「俺たちを斬って、目を覚ましたレナに何て説明するつもりだ。邪魔だったから殺したって、そのまま言うのかよ」
返事はなかった。
だが、切っ先も下がらない。
「エリック」
背後からオルフェが呼ぶ。
「長くは持たない。機会を作る。レナを連れて逃げろ」
「お前はどうする」
「残るよ。結界の中にいる限り、俺は君よりは死ににくい」
「冗談になってねえぞ」
「悪いが、これは冗談じゃないんだ」
エリックは剣を握り直そうとした。
痺れた指が、柄の表面を滑る。
その動きを、レオンは見ていた。
碧眼がオルフェから外れる。
結界を張る術者ではなく、まだ自分の足で動ける人間へ。
レナを抱え、この場から連れ去ることのできる人間へ。
切っ先が、ゆっくりとエリックの喉へ向けられた。
「……俺からかよ」
軽口のつもりだった。
けれど、自分の声が乾いているのを、エリックは誤魔化せなかった。




