第68話 知らない方がよかった世界
◆レナ視点
レオンの睫毛が、微かに揺れた。
街灯の光が、その輪郭だけを薄く照らしている。
「……全てを言うつもりはない。だが、これだけは言っておく」
レナの胸が、音もなく沈んだ。
空気が一段暗くなる。
「学院の支給金じゃ、生活費にも装備にも足りない。知ってるだろう」
レオンの声は感情を削ぎ落としたようだった。
「任務も訓練も、金がなければ何もできない。生きるためなら、何だってやる」
「私のせい? 私に生活費を渡していたからこんなことを……」
レナは自分の声が震えていることに気づいた。
レオンの瞳が一瞬揺れた。
だが、すぐに首を静かに横に振る。
「違う。それは後の話だ。俺はその前から関わっていた。全部、俺が勝手にやったことだ」
風が吹いた。冷たかった。
二人の間を通り抜けて、路地の奥へ消えていく。
「……俺は、十の時に家を出た」
唐突だった。
レナは目を瞬いた。
レオンが自分の過去を語るのは、初めてだった。
一度もなかった。一言も。
「理由はどうでもいい。ただ、右も左もわからない子供が生き残るには何でもやるしかなかった」
レオンは前を見ていた。
レナではなく、街灯の光が途切れる先の暗がりを。
「最初は盗みだ。次に、殴って、殺して、奪った。指示されたことは全部こなした。人を売った。毒を盛った。嘘も、体も、全部武器にした」
「……っ」
喉の奥が、ひどく乾いた。
聞き返したいのに、どこから聞けばいいのか分からなかった。
その声の平坦さの奥に、レナには見えるものがあった。
刃の裏側に塗り込められた、乾いた血の色。
この人は、語れるようになるまでに、感情の全部を殺してきたのだ。
「綺麗ごとじゃ、生きられなかった」
レオンは目を伏せたまま、続けた。
レナは唇を動かした。だが、何も言えなかった。
違う、とも言えない。責める言葉も見つからない。
ただ、目の前の人が急に遠くなったようで、足元だけが頼りなく揺れた。
風が止んだ。
街灯の光が、二つの影だけを石畳に落としている。
静寂が降りた。
夜の街が、この会話に立ち入ることを拒んでいるようだった。
やがて、レオンはレナを見た。
その目が何を求めているのか、レナにはうまく分からなかった。
突き放しているようでいて、どこか怯えているようにも見えた。
「お前は知らないままでよかった世界だ。……でも、知った以上は、お前が決めろ」
声が低くなった。
「俺の過去を受け入れるのか、それとも──ここで終わりにするのか」
彼の生き方は残酷だった。
だが、それ以上に残酷なのは、レオンが、レナにすべてを委ねてしまっていることだった。
レナはすぐには答えられなかった。
答えてしまえば、何かが決定的に変わる気がした。
言葉が出なかった。
喉の奥が焼けるように熱いのに、指先は冷え切っていた。
十歳で家を出た。殺して、奪って、売って、生き延びた。
あまりに遠い。
レナの知っている世界から、あまりに遠い場所の話だった。
目の奥に、別の景色が浮かぶ。
小さな村。花畑。母の手の温かさ。毎朝交わす他愛ない言葉。夕暮れの台所に立ち込める煮込みの匂い。穏やかで、優しくて、永遠に続くと信じていた日々。
「……私は、十一歳まで母と暮らしてた」
レナの声がかすれた。
「友達もいて、村の人も優しくて、毎日が楽しくて……それがずっと続くって、思ってた」
レオンが十歳で路地裏に立っていた頃、自分は母の隣で笑っていた。同じ空の下で、同じ時間を生きていたはずなのに、見ていた景色が違いすぎる。
「村を襲われて、全部なくなって。逃げてからは、母に言われた通りにここに来て……。私には、レオンみたいな経験がない。何を思えばいいのか……正直、分からない」
分かったふりはできなかった。
この人の前で嘘を言えば、何かが壊れる気がした。
指先がスカートの裾を掴んでいた。
「……ひどいって、思った。怖いとも思った」
レオンの目を見た。
「けど、それだけであなたを全部否定していいのか……それも、分からない」
レオンは動かなかった。
碧い目が、レナを映している。まばたきもしない。呼吸すらしているか分からないほど、静かに立っている。
「あなたがしてきたことを、全部受け入れるなんてできない。今の私には、できない」
そこで、一度言葉を切った。
喉が震えている。でも、ここで止まったら、もう言えなくなる。
「……けど」
息を吸う。吐く。もう一度、吸う。
「知ってしまったからには……逃げないで、考えたい。ちゃんと、レオンのことを」
声は震えていた。
けれど、目は逸れなかった。
レオンの瞳の奥で、何かが揺れた。
ほんのわずかに、氷の奥へひびが入るみたいに。
レナはスカートの裾から手を離した。
ためらうように伸びた指先が、レオンのコートの袖に触れる。
指先が、触れただけだった。
レナの言葉が静かに終わった時、レオンは一瞬だけ目を伏せた。次いで、かすかに笑った。
「……甘いな、お前は。綺麗事で俺を見ようとするな」
どこか嘲るような、冷たい声だった。




