表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Fated Oath ─血に抗う者たち─  作者: りんごあめ
第二部 壊す者
69/82

第68話 知らない方がよかった世界

 ◆レナ視点


 レオンの睫毛が、微かに揺れた。

 街灯の光が、その輪郭だけを薄く照らしている。

 

「……全てを言うつもりはない。だが、これだけは言っておく」

 

 レナの胸が、音もなく沈んだ。

 空気が一段暗くなる。

 

「学院の支給金じゃ、生活費にも装備にも足りない。知ってるだろう」

 

 レオンの声は感情を削ぎ落としたようだった。

 

「任務も訓練も、金がなければ何もできない。生きるためなら、何だってやる」

 

「私のせい? 私に生活費を渡していたからこんなことを……」

 

 レナは自分の声が震えていることに気づいた。

 レオンの瞳が一瞬揺れた。

 だが、すぐに首を静かに横に振る。

 

「違う。それは後の話だ。俺はその前から関わっていた。全部、俺が勝手にやったことだ」

 

 風が吹いた。冷たかった。

 二人の間を通り抜けて、路地の奥へ消えていく。

 

「……俺は、十の時に家を出た」

 

 唐突だった。

 レナは目を瞬いた。

 レオンが自分の過去を語るのは、初めてだった。

 一度もなかった。一言も。

 

「理由はどうでもいい。ただ、右も左もわからない子供が生き残るには何でもやるしかなかった」

 

 レオンは前を見ていた。

 レナではなく、街灯の光が途切れる先の暗がりを。

 

「最初は盗みだ。次に、殴って、殺して、奪った。指示されたことは全部こなした。人を売った。毒を盛った。嘘も、体も、全部武器にした」


 「……っ」


 喉の奥が、ひどく乾いた。

 聞き返したいのに、どこから聞けばいいのか分からなかった。

 

 その声の平坦さの奥に、レナには見えるものがあった。

 刃の裏側に塗り込められた、乾いた血の色。

 この人は、語れるようになるまでに、感情の全部を殺してきたのだ。

 

「綺麗ごとじゃ、生きられなかった」

 

 レオンは目を伏せたまま、続けた。


 レナは唇を動かした。だが、何も言えなかった。

 違う、とも言えない。責める言葉も見つからない。

 ただ、目の前の人が急に遠くなったようで、足元だけが頼りなく揺れた。


 風が止んだ。

 街灯の光が、二つの影だけを石畳に落としている。

 静寂が降りた。

 夜の街が、この会話に立ち入ることを拒んでいるようだった。


 やがて、レオンはレナを見た。


 その目が何を求めているのか、レナにはうまく分からなかった。

 突き放しているようでいて、どこか怯えているようにも見えた。


「お前は知らないままでよかった世界だ。……でも、知った以上は、お前が決めろ」


 声が低くなった。


「俺の過去を受け入れるのか、それとも──ここで終わりにするのか」


 彼の生き方は残酷だった。

 だが、それ以上に残酷なのは、レオンが、レナにすべてを委ねてしまっていることだった。

 

 レナはすぐには答えられなかった。

 答えてしまえば、何かが決定的に変わる気がした。


 言葉が出なかった。

 喉の奥が焼けるように熱いのに、指先は冷え切っていた。


 十歳で家を出た。殺して、奪って、売って、生き延びた。


 あまりに遠い。

 レナの知っている世界から、あまりに遠い場所の話だった。


 目の奥に、別の景色が浮かぶ。

 小さな村。花畑。母の手の温かさ。毎朝交わす他愛ない言葉。夕暮れの台所に立ち込める煮込みの匂い。穏やかで、優しくて、永遠に続くと信じていた日々。


「……私は、十一歳まで母と暮らしてた」


 レナの声がかすれた。


「友達もいて、村の人も優しくて、毎日が楽しくて……それがずっと続くって、思ってた」


 レオンが十歳で路地裏に立っていた頃、自分は母の隣で笑っていた。同じ空の下で、同じ時間を生きていたはずなのに、見ていた景色が違いすぎる。


「村を襲われて、全部なくなって。逃げてからは、母に言われた通りにここに来て……。私には、レオンみたいな経験がない。何を思えばいいのか……正直、分からない」


 分かったふりはできなかった。

 この人の前で嘘を言えば、何かが壊れる気がした。

 指先がスカートの裾を掴んでいた。


「……ひどいって、思った。怖いとも思った」


 レオンの目を見た。


「けど、それだけであなたを全部否定していいのか……それも、分からない」


 レオンは動かなかった。

 碧い目が、レナを映している。まばたきもしない。呼吸すらしているか分からないほど、静かに立っている。


「あなたがしてきたことを、全部受け入れるなんてできない。今の私には、できない」


 そこで、一度言葉を切った。

 喉が震えている。でも、ここで止まったら、もう言えなくなる。


「……けど」


 息を吸う。吐く。もう一度、吸う。


「知ってしまったからには……逃げないで、考えたい。ちゃんと、レオンのことを」


 声は震えていた。

 けれど、目は逸れなかった。


 レオンの瞳の奥で、何かが揺れた。

 ほんのわずかに、氷の奥へひびが入るみたいに。


 レナはスカートの裾から手を離した。

 ためらうように伸びた指先が、レオンのコートの袖に触れる。


 指先が、触れただけだった。


 レナの言葉が静かに終わった時、レオンは一瞬だけ目を伏せた。次いで、かすかに笑った。


「……甘いな、お前は。綺麗事で俺を見ようとするな」


 どこか嘲るような、冷たい声だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ