第63話 あなたを知りたい
◆レナ視点
「こんにちは。……また会ったわね、レナちゃん」
「……はい。あの、こんにちは」
レナは立ち止まり、思わず袋を抱きしめ直す。
リゼは気づかぬふりで距離を詰め、柔らかい声を重ねた。
「偶然ね。学院の子が街にいるのって、なんだか新鮮で声をかけちゃった。買い物?」
「はい、参考書を……」
「まあ、偉いのね。休みの日にちゃんと勉強するなんて」
褒められて、少しだけ頬が熱くなる。
リゼの笑い方は明るくて、嫌味がなかった。
こういう大人の女性と話す機会はあまりない。
「ちょうど喉が渇いてしまって。もしよかったら、お茶でもどう?この通りの角に、落ち着けるお店があるの」
リゼの指先が喫茶店の看板を示している。
断る理由が思いつかず、レナは小さく頷いた。
ほどなくして、二人は穏やかな雰囲気のカフェに入った。
煉瓦造りの壁、吊るされたランプ、香ばしいハーブの香り。
「ここ、知ってた?」
リゼが席に座りながら尋ねる。
「はい、結構有名な喫茶店ですよね。紅茶が美味しいって聞きます」
店員が来て、リゼはレナの分まで自然に注文した。紅茶のブレンドと、焼き菓子を二つ。
「甘いもの、大丈夫?」
「好きです」
「それはよかった」
紅茶が届く。
温かい湯気が立ち上り、香りがふわりと広がった。
一口飲むと、本当に美味しかった。
緊張していた肩が、少しだけ下がる。
「落ち着くお店よね。学院の子も、こういう場所にはよく来るのかしら」
「えっと……人によると思いますけど」
「そう。じゃあ、あなたは? 誰かと来たことある? たとえば、レオンとか」
レナの肩がぴくりと揺れた。
「……一度だけ、ですけど」
「まあ。あの子、誰とも深く関わらないのに。珍しいこともあるのね。あなたのこと、守りたくなるのかもね」
声の調子は柔らかい。だが、目だけが笑っていない。
「どういうことですか……?」
「あなた、危なっかしいもの。あの子が放っておけないのも分かるわ」
レナの表情が固まる。
リゼは、その反応を味わうように微笑んだ。
「レオンのこと、知ってるんですか?」
「ええ。あの子が、学院に行くより前から付き合いがあるの。ねえ、あなたはレオンのこと、どこまで知ってる?」
「えっ……その、学院でのこととか……少しだけ」
「ふふ、そうなの。知らないままでいたい?」
リゼの声が、静かに落ちる。
「それとも――あの子のこと、知りたい?」
どちらを選んでも、逃げ道がない気がした。
その言葉がなぜか胸に引っかかる。
問いただす勇気はない。
ただ、紅茶が急に味を失った気がした。
「そういえば、あなた……生活、大変でしょう? 学院の子って、皆どこかで工面しているものね。もしよかったら、うちで働かない? そのときにレオンのこと、もう少し教えてあげるわよ」
「え……?」
不意の提案に、レナは目を丸くする。
「簡単な雑務だけよ。学院の近くだし、報酬も悪くないわ」
言葉は優しい。まるで救いの手を差し伸べるように。
「……でも、私、一人で決めていいのかな」
「大丈夫。彼には私から言っておくから。あなたから言うと、色々言われてしまうでしょ? 危険なことはないわよ。明日にでも内容を書簡で送っておくわ」
そう言って微笑む彼女の声は、糸のように細く柔らかい。
引けば切れそうなのに、離せば絡みつく。
喉の奥がきゅっと締まった。
「そろそろ行きましょうか」
リゼの声にレナは慌てて椅子を引き、伝票に目をやった。
「あの……私の分、払います」
鞄に手を入れかけた指先より早く、リゼが伝票を取る。
赤い爪の先で紙片を押さえたまま、彼女はくすりと笑った。
「いいのよ。今日は私が誘ったんだもの」
「でも……」
「気にしないで。大した額じゃないわ」
あまりにもさらりと言われて、レナはそれ以上言葉を継げなかった。
店員が頭を下げ、会計はあっけないほど簡単に終わる。店を出る直前、リゼは振り返り、やわらかな声で言った。
「そんな顔しないで。借りを作ったなんて思わなくていいわ」
にこやかなのに、その一言だけが妙に胸に残る。
「……はい」
小さく頷くしかなかった。
リゼは満足げに扇子を揺らす。
「また会いましょう、レナちゃん」
レナは寮へと歩きながらカフェでのことを考えていた。
──私は、何も知らなかった。
自分のことで精一杯だった。
誰かの歩んできた道に思いを馳せる余裕なんてなかった。
たぶん、知ろうとすらしてこなかったのだ。
レオン・ヴァレント。
偽名なのか、本名なのかも分からない。
孤児だと言っていたけれど、どこで生まれ、どう生きてきたのか――私は何ひとつ知らない。
最初の彼は、氷みたいだった。
ただ冷たいだけじゃない。触れば皮膚ごと切り落とされそうな、そんな冷たさ。
言葉ひとつに棘があって、視線だけで心臓が止まりそうになるほど怖かった。
それでも、少しずつ距離が縮まっていった。
一緒に魔術の制御を練習して、課題に追われて、怒られたり、助けられたり。
そうして過ごすうちに――勝手に、仲良くなれたと信じていた。
けれど、気づいた。
彼は、自分の過去を一度も語っていない。
出身も、何を恐れ、何を憎み、何を捨ててきたのか。
私はそのどれも知らないまま、彼の隣にいた。
知ろうともしないまま。
時々、レオンの目が怖いと思う瞬間がある。
誰かが視界に入っただけで、殺されてしまうんじゃないかと思うほどの目。
そんな彼を、私は止められない。
それでも――私は何度も救われた。
魔竜の森での暴発のときも、洞窟で魔物に襲われたときも、あの人がいなければ私はここにいなかった。
助けられて、守られて、何度も命を繋がれてきた。
だからこそ。
だからこそ、知りたかった。
あの人が、何を見ているのか。
どうしてそこまで私を見るのか。
どんな場所から、ここにたどり着いたのか。
レオンの隣にいるのなら、見ないふりはできない。
私はただ――逃げないで、知りたかっただけだ。
それが、どんな答えでも。
たとえ、私の世界が壊れる答えだったとしても。
寮の廊下は、夕刻の光を受けて淡く染まっていた。
扉の前に影が一つ――壁にもたれ、腕を組んだまま動かない人影。
「……遅かったな。どこに行ってたんだ」
レオンだった。
無表情に見えるのに、声の奥には確かな焦りが混じっている。
レナは胸の鼓動を押し隠すように、ぎこちなく微笑んだ。
「参考書を買いに行ってただけだよ」
リゼといたことは言えなかった。
言葉にした瞬間、なぜか取り返しのつかないことになる気がしたから。
レオンの視線が、ほんのわずか鋭くなる。
「あまり一人で出歩くな。危ないだろ」
「大通りだし、大丈夫だよ」
レオンが一歩近づく。
「夕飯、まだだろ。どこか食べに行かないか」
誘いは唐突で、不器用で、でもどこか嬉しかった。
返事をしようと口を開いたその瞬間――
視界がふっと揺れる。
「……っ」
足元がほどけ、重心が傾く。
レナの身体が前に崩れかけた。
「レナ!」
レオンの腕が即座に伸びる。
細い肩を支える指先に、力がこもった。
「大丈夫か!? 何があった」
「う……うん。少し休めば大丈夫……」
声は震え、息が上手く吸えない。
頭の奥がじんじんと痛む。胸が締めつけられる。
鍵を取り出そうとして、指先から力が抜けた。
金属の落ちる乾いた音──かしゃん、と床に響く。
レオンの眉がひそむ。
「……俺が開ける」
拾い上げた指先は冷たいのに、その手つきだけは異様に丁寧だった。扉が開き、部屋の空気が流れ込む。振り返ったレオンの瞳は酷く心配しているように見えた。
「歩けるか?」
「大丈夫だよ」
レナはふらつく足で部屋の中に入った。




