第5話 復学の噂
昼休みの鐘が鳴るより早く、エリックが廊下を駆け抜けてきた。
手にはひらひらとした一枚の紙。
「レナ、今日はケーキデーだ!」
「……けーきでー?」
レナが瞬きをする。
「ほら見ろ! 学院近くのカフェだ。期間限定ケーキ半額! “イチゴとミルクの夢の饗宴”だってさ!」
「えっ!行く!!」
レナ、一秒で釣れた。
「私も!」
サラも反射的に立ち上がる。反射神経が良すぎる。
「よし、じゃあ三人で──」
「四人だ。」
背後から、低い声。
振り向くと、金髪碧眼。黒い制服に完璧な無表情。
レオン・ヴァレントが立っていた。
「……え?」
レナが目をぱちくりさせる。エリックが露骨にため息をつく。
「いや、レオン。お前、ケーキとか興味ないだろ」
「レナが行くなら行く。問題あるか?」
「あるに決まってる!てか、Eクラスに来んな!」
エリックが声を上げた瞬間、レオンの碧眼がわずかに光った。
サラがすっとレナの後ろに隠れる。反射神経がまた発揮される。
「……仲良く行こっ?」
レナが慌てて間に入った。
「ケーキだよ、ケーキ。平和の象徴!」
レオンは無言。だが数秒後、微かに呟く。
「……お前がそう言うなら」
「うんうん、それでいいの! ほら、行こう!」
──そして四人は、学院近くのカフェへ。
***
「わぁ……! すごい!」
ショーケースの中に並ぶケーキを見て、レナの瞳が輝く。
イチゴ、チョコ、ピスタチオ。天国である。
「俺、イチゴショートにしてくれ」
レオンが即答する。
「お前絶対甘いもの好きじゃねえだろ!」
エリックが突っ込む。
「レナが好きそうだから」
「だからなんでお前の選択基準が全部レナなんだよ!」
「合理的だろう?」
「合理じゃねぇよ!」
もはや漫才の掛け合いになっていた。
「じゃあ私はミルクプリンにする~!」
サラが笑顔で注文。
「エリックは?」
「……モンブラン。甘いの食べたい。疲れるんだよ。疲れる原因、主にそこの金髪」
「…………」
レオン、静かにフォークを取る。
サラが小声で囁く。
「エリック、死ぬ気?」
「もう慣れた……」
(※慣れてはいない)
ケーキが運ばれてくると、レナが幸せそうに微笑んだ。
「ねえ、こうやってみんなで食べるの、楽しいね」
レオンがその横顔を見つめる。
無表情の中に、一瞬だけ“人間らしい”温度が灯るのをエリックは見逃さなかった。
***
午後の授業が始まる前、Sクラスの教室に、ざわめきが走った。
発端はエルマーの一言だった。
「──オルフェ・クライドが、復学してくるらしい」
その名を聞いても、レオンには何の感情も浮かばなかった。
ただ、どこか遠い響きに眉をひそめる。
「……オルフェって、誰だ?」
隣の席のマリアン・アロイスが、頬杖をついたまま振り向く。
黒髪の間から、冷たい笑みがのぞいた。
「ああ、あいつね。天才。……でも、狂ってるの。
結界の暴走で何人も巻き込んで──Sクラスですら死んだわ。あれがなければ、学院の頂点にいたはずよ」
教室の奥から、ジークが声を上げる。
「げえ……あいつ、処分もされずに戻ってくんのかよ。
マジで勘弁してくれ。俺、あの空気苦手なんだって」
「仲良くできる人間なんて、いないわよ」
マリアンは笑う。
けれど、その笑みには棘があった。
「授業にもほとんど出ないくせに、成績は首席。
いつも研究棟にこもってる。……まるで幽霊みたいに」
「研究者か」
レオンの呟きは、ほとんど独り言に近かった。
「研究ってもな、ヤバいのばっかだぞ」
ジークが声を潜める。
「禁術、結界、魂。……噂じゃ、死体を生き返らせようとしてるらしい」
「くだらないな」
レオンは興味もなさそうに言った。
だが、どこかでその名が頭に残った。
ノアがメガネの縁を指で押し上げながら、ぽつりと呟く。
「──でも、あの男は本気だよ。本気で、神の領域を覗こうとしている。そして、それができるだけの“力”を持っている」
その言葉に、教室の空気が一瞬、沈黙した。
窓の外を風が通り抜ける。
レオンは何も言わず、ただ視線を落とす。
知らぬ誰かの名前が、胸の奥でゆっくりと沈んでいくようだった。
***
エリックは、校舎の廊下を歩いていると嫌な噂を耳にした。校内のどこにいても、その名が囁かれていた。
まるで幽霊が帰ってくるみたいに。
「オルフェ・クライドが復学するらしい──」
囁きの端から端まで色がついて聞こえる。彼の胸の中で、古い記憶がざわついた。
(あいつが戻ってきたら、また誰かが死ぬだろう──結界を暴走させて、Sクラスの生徒や一般生徒を巻き込んだあの時のように)
そう考えながら足を速めると、中庭の影に白衣が見えた。制服の上に白衣を羽織った男が、陽の当たる石畳に立っている。
「……エリック・ハーヴィル。久しぶりだね」
声は静かで、しかし確信に満ちていた。振り返ると、オルフェ・クライドが立っていた。白銀の髪に紫の瞳。だが、そこに温度はない。
「オルフェ……お前、復学するのか」
エリックの問いかけに、オルフェは僅かに微笑んだ。
「ああ。これから教官に挨拶に行くところさ。魔竜の森の爆心地に行ってみたら、実に面白いデータが取れた。復学しないと研究が続けられないだろう?」
「また、誰かを殺すつもりか」
問いは皮肉として落ちる。オルフェの口元に浮かぶ笑みは、あくまで観察者の好奇だ。
「あれくらい止められない方が悪いよ。そういえば──君はもう、Sクラスじゃないんだって?」
「倫理観最悪なお前と一緒にいたくないからな。この学校の上級クラスにも嫌になった」
エリックは短く言い放つ。言葉の端は冷たく、だが確かな怒りを含んでいた。
「そうか、それはよかった。俺は君が嫌いだから」
オルフェは穏やかに頷く。
「俺もだよ。この学院は、お前のような危険な兵器でも、戦力になると踏めば利用するのが分かった」
エリックの吐き捨てる言葉は、遠い過去の傷を抉る。
「ここはそういう所だよ、最初から、ね」
オルフェは肩越しに空を見上げる。
エリックは何も返さず、中庭を抜けた。
石畳の上に、白衣の男は静かに立ち続けた。空気は変わらない。それでも、世界は少しだけ冷たくなっていた。