第6話 見つけた痕跡
※本話には軽い暴力・流血描写を含みます。苦手な方はご注意ください。
◆オルフェ視点
オルフェが魔竜の森の縁を踏み越えた瞬間、空気の密度が変わった。
焼け焦げた匂いと鉄のような匂いが、冷たい風に乗ってオルフェの頬をかすめる。
足元には、炭化した木片と砕けた大地の断片。かつて鬱蒼とした森だったはずの場所は、今や深い灰の窪地に変わり果てている。まるで巨大な手で掻き取られたかのように、地形そのものが抉られていた。
オルフェは無言のまま、灰に覆われた地表へ膝をつく。紫の瞳が淡く光り、魔力の粒子が彼の指先で微かに揺れた。
風も音もない。虫も鳥も、獣の気配さえ消えている。
「……魔竜の死骸もない。完全に消えたのか」
低く呟く。声は、灰の世界に吸い込まれて消えた。
(……人為的な処理)
彼の目は、クレーターを中心に広がる地形の歪みに注がれていた。爆発や崩落ではない。これは確実に、術式によって意図的に消された跡だ。
(高位の魔術師による掃除だ。痕跡の消去も、結界の遮断も)
オルフェの指先が宙をなぞる。残存するはずの情報を探るように。
微かに、わずかに──それでも確かに、残っていた。
目を細め、乾いた土をすくい上げて魔力感知の術式を走らせる。
じわ、と漂ってきたその残滓に、思わず眉が動いた。
(この魔術痕、どこかで……)
細く、深い、独特の波形。
その瞬間、腕が痺れるような感覚が走った。
知っている。これを、一度だけ感じたことがある。
***
あの夜。
カリグレア魔術学院最上位──Sクラス、休学中のオルフェ・クライドは、悪寒で目を覚ました。
白銀の髪が額に張り付き、汗が枕に滲んでいる。
学院が用意した静養用の別荘。山間の静けさのはずが、そのときは薄く軋んでいた。
(……なんだ、今のは)
世界の層が、ひとつ剥がれた気がした。
その感覚に引かれるように、手が首元へ伸びる。
封印式のペンダント。
自分の魔力を抑える結界核であり、外部の異常を拾う魔術具でもある。
彼の結界核が示したのは、その枠を逸脱した存在の痕跡だった。
オルフェはゆっくりと体を起こし、窓を開けた。
空気の層が歪んでいた。東の森の方向に、何かがいた。
「学院に戻るか」
紫の瞳の奥に、光が灯る。
何かが始まった。そう確信できるほどの、異常な力だった。
まだ名も知らぬ誰かが、今夜、世界の法則に爪痕を刻んだ。
彼は立ち上がった。
「異端、か……」
窓辺に立ったまま、首元のペンダントを一度だけ弾く。
結界核が、微細に鳴った。まるで近いと言っているみたいに。
その夜のうちに、オルフェは机に向かった。
便箋を一枚。ペン先は迷わず、文字は短い。
『復学を申請する。至急、許可を』
そして、もう一度だけ東の森の方向を見た。
***
あの夜と同じものだ。
別荘で拾ったものと、寸分違わない。
(これは、歴史の片隅に載っていた、途絶えた血脈……血の魔力? そんな馬鹿な。現代にそれがいるのか?)
膝をついたまま、指先で灰をすくう。
文献で一度だけ読んだ記述が、頭の底から浮かび上がってきた。
赤魔石。
膨大な魔力を封じ込めた結晶。その精製法を保有するのはアロイス家だけで、詳しい手順は外部に明かされていない。
その出自については、諸説ある。
(……もし、あの血脈の末裔が生きているなら。欲しい)
喉が渇いた。
手を止め、オルフェは顔を上げた。
吹き抜ける風が、髪を乱す。
通常の魔力では感知できない、微細な粒子となっていた。それを強引に押し潰した痕跡。緻密さはなくとも、力で捩じ伏せた跡がある。
(そして、力任せに消している、この痕跡。まさか、あの男が……ここに?)
学院で見た、金髪碧眼の少年──レオン・ヴァレント。
オルフェは立ち上がり、灰の窪地を見渡した。
(……セルトリアの国家魔術省が動かないはずがない)
これだけの反応が出て、後続が入っていない。
いや、と思い直す。入っていないのではない。
踏み荒らされた跡も、撤収した跡も、何ひとつ残っていないのだ。
(……綺麗すぎる)
力任せに潰された痕跡の上に、もう一枚、何かが乗っている。
読めるものが無い。無さすぎる。
空白の大地の中心に、彼はしばし立ち尽くしていた。
空気は澄んでいたが、何かが不気味なまでに整いすぎていた。
空は青く、森の境界の先に、学院の尖塔がかすかに見えていた。
***
学院に戻ったのは、陽が傾きかけた頃だった。
中庭の石畳に出たところで、足音が近づいてきた。
振り返らなくても分かる。ずいぶん久しぶりに聞く歩き方だった。
「オルフェ」
振り返ると、明るい茶髪に緑の瞳。
エリック・ハーヴィルが立っていた。
「……久しぶりだね、エリック・ハーヴィル」
名前を呼ばれても、相手の表情は緩まなかった。
「復学早々、ずいぶん派手に暴れたな」
「模擬戦のこと? 彼が思ったより強かったからね」
オルフェは首元のペンダントに指を添え、軽く言った。
「魔竜の森の異常反応は耳にしたかい? 先程見てきたところだ。空気が妙だった。復学しないと研究が続けられないだろう?」
エリックの眉がひそめられる。
「また、誰かを壊すつもりか」
皮肉の形をした警告だった。
オルフェは笑みを崩さない。
「結界訓練のこと? あれくらい止められない方が悪いよ」
あの日、教室を塗り替えたのは制御を失った術式だった。
熱と光が走り、悲鳴が遅れて追いついてきた。
オルフェの記憶にあるのは、そこまでだ。感情は、最初から付いてこなかった。
「そういえば、君はもうSクラスじゃないんだって?」
「倫理観最悪なお前と一緒にいたくないからな。学院の上層部も腐ってるよな。……お前みたいなのですら、利用できるなら何でも使う」
「ここはそういう所だよ。最初から、ね」
オルフェは肩越しに空を見上げた。
夕方の光が、まだ高い位置にある。
「それで、君はどうするの」
「お前には関わらない。もう誰も巻き込ませない」
即答だった。
その速さが、かえって面白かった。
この男は昔からそうだ。危険だからやめろ、命を軽んじるな──言うことがひとつも変わらない。
変わらないから、予測がつく。予測がつくものは、扱いやすい。
「君がそう言うなら、きっと関わることになるよ」
エリックの顔が強張った。
意味を測りかねている顔だ。
答えは返ってこなかった。
やがてエリックは何も言わず、中庭を抜けていった。
オルフェはその背を見送りながら微笑んだ。




