第29話 助けられたサラ
◆サラ視点/校舎裏
その日、サラは一人だった。
本当は「一人で行動するな」と言われていた。
だが──
レナに迷惑をかけたくなくて、ほんの数分で済むと思った。その結果、どうしても一人になってしまったのだ。
放課後、学院の購買でレナと別れたあと、忘れ物を取りに行くために校舎裏の資料棟へと向かっていた。
(忘れ物とったらすぐに戻ろう! 本当にそれだけだし! 校舎の裏だよ? 外に行くわけじゃない)
自分を奮い立たせるように思った。
夕方、赤く滲む夕陽が鈍く空を染め、細い小道には人影がない。風が止み、空気がじっとりとまとわりつく。
(……変だな。誰もいない)
その時だった。
──ざぁっ。
足音。自分のものではない、もうひとつの気配。
「……誰か、いるの?」
振り返るが、誰もいない。
(……気のせいじゃない)
そう思った瞬間、背後で空気が裂けた。
「っ──!」
反射的に飛び退く。
足元を黒い“何か”が這うように滑っていった。
人の形をしているが、関節の位置がおかしく、皮膚はただれ、魔力の濁流が呻くように漏れ出している。
「な、なに……あれ……!」
サラは結界を展開する。
だが、魔物の腕は術式をすり抜け、冷たい感触で彼女の腕を掴んだ。それは生きていない。“死”の感触だった。
「はなっ──してっ!!」
叫び声が響いた瞬間。
──バシュッ!
空気を裂く鋭い音。
黒い腕が焼け、魔物が悲鳴を上げる。
「っ……!」
サラは崩れ落ちるように尻餅をつき、目を見開いた。
魔物の背後に、学院の制服を着崩して白衣を羽織った青年が立っていた。
「……運がいいね。君」
低く、気だるげな声が響く。
無造作な銀髪、紫の瞳。
──オルフェ・クライド。
「学院の命で巡回してただけなんだけど……どうやら、間に合ったみたいだね」
サラは震える声で「ありがとう」と呟いた。
だが、麻痺毒に侵された腕は震え、力が抜けていく。
オルフェは無言のままその体を支えた。
***
◆オルフェ視点/医務室
医務室で、治療師のアリスが慌ただしく手を動かし、解毒と治療を施す。
「危なかったわね……でも、さすがSクラス。オルフェ、ありがとう」
「気にしなくていいよ」
淡々と答える青年の声は冷静そのもの。
周囲から見れば、彼はただの救い主だった。
だが。
(模造赤魔石……か。あの男の実験は終わっていなかった。今度は“学院”に手を伸ばしてきている。魔力を持った生徒たちを──)
思考の途中で、ふと浮かぶ一人の少女の姿。
──レナ・ファリス。
(……狙われる)
背筋に冷たいものが走る。
もしこの場にいたのが、彼女だったら。
もし、あの実験狂の手に渡ってしまったら。
次の瞬間、彼の中で何かが音を立てて捻じれた。
(ザイラスに奪われるのは困る。あの男の手でレナを粗雑に扱われるのは、研究価値の毀損だ)
静かな視線が、ベッドで眠るサラを見下ろす。
(……この女は、レナ・ファリスの友人、か)
***
◆オルフェ視点/現場
サラを医務室に預け、扉を閉じる。
静かな廊下に出た瞬間、オルフェの瞳から温度が消えた。
彼は再び、資料棟裏の現場に戻る。
焼けた匂い、崩れた壁、そして散らばった魔術の残滓に手をかざすと空間に刻まれた痕跡が淡く浮かび上がる。
──歪んだ転移陣の符号。
学院や軍部の体系とは明らかに異なる、粗雑で異質な構文。
(ザイラス・カイゼル……あの男の手だな)
残されたのは断片的な座標の一部。
完全な位置を割り出すことはできない。
だが、術式の揺らぎ方から、帰還先のおおよその方角を察することは可能だった。
北西。旧区画。
オルフェは静かに目を細める。
その唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「……なるほど」
それ以上は言わなかった。
けれど、その心の内にはもう、次の一手が形を成しつつあった。
***
◆レナ視点/学院近くの食堂
学院近くの食堂は、夕方の客でほどよく賑わっていた。
窓の外には、校舎の尖塔が遠くに見える。赤く沈みかけた空が、ガラス越しに揺れていた。
「……あの後、大丈夫だったかな」
テーブルに置かれたスープをほとんど減らせないまま、レナはぽつりと呟いた。
向かいの席で、レオンが手を止める。
フォークの先が皿の縁を小さく叩いた。
「誰の話だ」
「サラだよ。放課後にね、購買で別れたあと、忘れ物取りに行くって言ってたから……。一人で行動するなって通達あったのに、大丈夫かなって」
レナは指先でカップの取っ手をなぞる。
温度の下がった紅茶が、小さく揺れた。
「学院の敷地内だ」
レオンは淡々と答える。
「外に出たわけじゃない。警備も増やしている。……何かあっても、すぐ対処される」
「“何かあっても”って……」
レナは苦笑したつもりだったが、声には力がなかった。
「一緒にいたのに、サラを引き止めなかったの、ちょっと悪いことしちゃったなって……。『一人で行かないほうがいいよ』って言えばよかったのに」
レオンの視線が、ほんのわずかだけ揺れた。
「責任を抱き込むな」
短く言い捨てるように告げる。
「選んだのはサラだ。お前が傍にいたからって、全部防げるわけじゃない」
「分かってるけど……」
「それに」
レオンは立ち上がり、テーブルの端に会計用の硬貨を置いた。
動きはいつも通り淀みなく、整っている。
「サラなら、簡単には死なない」
何の根拠も示さず、当然のように言う。
「……どうして、そんなこと言い切れるの?」
「そういう奴だよ、あいつは」
レオンは入口の方へ歩き出しながら答えた。
「笑って危ない方に突っ込んでいくタイプだが、ああいう奴はしぶとい。死ぬなら、もっと派手に騒いでからだ」
レナは思わず吹き出しそうになって、すぐに表情を引き締めた。
「……それ、褒めてるの?」
「さあな。ほら、帰るぞ。送る」
返事とともに、扉のベルが鳴る。
レオンが先に外へ出ていき、レナは慌てて後を追った。
夕暮れの風が、赤い髪を揺らす。
(……大丈夫、だよね)
胸の奥に残る小さな棘のような不安を抱えたまま、レナは学院へ続く道を歩き出した。
***
◆ザイラス視点/地下室
「~♪」
薄暗い地下室に、狂気じみた鼻歌が響いていた。
ザイラス・カイゼル。
彼の前には、幾つもの装置と魔術陣が並ぶ。
管で繋がれた一般人や魔術師たち、そして学院の生徒──血を抜かれ、半ば白目を剥いた状態で転がっていた。
「ほらほら、もうちょい頑張ってよ。あんたたちの“魔力持ちの血”がなきゃ、精度が落ちるんだからさぁ」
ザイラスは愉快そうに笑い、抽出された血液が結晶化していく工程を見つめた。赤黒く光を放ち、鼓動のように脈動するそれ──赤魔石の亜種。
「やっぱりファウレス家の血じゃなくてもいけるじゃん。ちょいと精製が荒いけど……このサイズならマンティコア級に丁度いいね」
怯えた声が聞こえる。
「た、頼む……殺さないで……家に、娘が……」
「んー、娘?へぇ、良いこと聞いた。次はその子も使ってみよっかな。──血筋って、続いてると精度が良くなるんだよね、マジで」
無邪気な声で、彼は赤魔石を手に取り、ニヤリと笑った。
「さて、次のマンティコアの核は……どいつの血にしようかなぁ」
工房の壁には、記録魔法で映された街の地図が浮かんでいる。
次の標的を選ぶ、それはまるで「新しいおもちゃ」を探す子供のようだった。




