第22話 何もかもどうでもいい
◆レオン視点/公園の水場
公園の端にある、誰も寄り付かない古びた水場。
この場所は幸いキメラから壊されていなかった。
ひび割れた石の洗い台から、鉄臭い水が音を立てて流れ落ちていた。
レオンはそこで、血のついた手を洗っていた。
ぬるい水が、指先を伝う。爪の隙間に入り込んだ血がなかなか落ちず、何度も擦る。その動作は無感情で、ただ“汚れ”を落とすためだけのものだった。
(……まただ)
ぽたり、ぽたりと赤い血が流れていく。落とすたびに、自分が何かを“削いでいる”ような感覚があった。
(レナが怯えた目で、見ていた)
彼女の瞳にあった、怯え。助けたはずなのに。レオンは、水面に揺れる自分の顔を見つめた。その瞳は、どこまでも無機質で、口元は笑っていなかった。鏡のように揺れる水の中の“それ”は、もはや──“人間”ではなかった。
「……何を、守ったんだ。俺は」
ぽつりと呟いた声は、風に飲まれて消えた。
水が止まり、レオンは静かに手を払った。血の色はほとんど消えたはずなのに、指先にざらついた感触が残っている。背を向け、洗い場を後にして公園の小径に戻ると、レナが立っていた。
まだ震えたままだが、どこか不安げに、真っ直ぐに彼を見ていた。レオンの足が、自然と止まる。レナが、ぽつりと口を開いた。
「……ありがとう」
その声は、小さく掠れていた。
けれど、確かに届いた。
「……さっき、言えなかったから」
ただ、それだけの言葉だった。レオンは目を伏せた。その瞬間、自分の中に残っていた“人間”という名の何かが、わずかに息を吹き返した気がした。
(……ああ、そうか)
この言葉を、どこかで待っていたのだ。
あの“恐れの目”に、完全に沈まぬように。
彼女の一言だけで──救われるほど、
自分はまだ、“壊れきって”いなかった。
「怪我は、ないか?」
「大丈夫だよ」
「……騒ぎが大きくなる前に、ここを離れるぞ」
戦いが始まる前と何一つ変わらない冷静な声だった。
“あの”殺気を孕んだ人間と同じとは思えないほど、落ち着いた声。レオンはそれ以上、何も言わずに歩き出した。
***
◆オルフェ視点/公園
夕暮れの街に再び静寂が戻った。
先ほどまで暴れていたキメラの残骸は、破砕された肉片と焼け焦げた匂いを残し、公園の中央に横たわっている。
風が吹く。瘴気はすでに散り、ただの“屍”となったその中心にひとつ、足音が降りた。
石畳に靴音を刻みながら、白銀の髪の青年が現れる。
オルフェ・クライドだった。
ゆっくりと歩を進め、キメラの亡骸の傍に立った彼は、躊躇なく手を伸ばす。誰も近づけぬ死骸に、ためらいなく触れるその姿は──別の意味で恐怖を煽った。
手袋を嵌めると、ぬめりの残る肉の奥から、砕けかけた赤い魔石を取り出した。
掌に乗せ、光にかざす。多面カットの輝きは、確かに赤魔石特有の脈動を持っていた。
「……まがいもの」
ぽつりと呟いた声は、どこまでも冷たかった。
瞳に揺れる感情はない。
あるのは、分析と、否定だ。
「本物の赤魔石には……こんな歪な魔力の揺らぎはない」
言いながら、指先で石を弾く。赤い欠片が空中に浮かび、魔力の燐光を散らして消えていく。オルフェはそれを最後まで見届けると、何かを確認するように小さく頷いた。
「設計式は悪くない……でも、肝心の血が違う。“ファウレスの血”の反応じゃない。これは、普通の人間の血、か?」
彼はひとつ深く息を吐き、封印式のペンダントに手を添えた。
(赤魔石を模倣する者が現れた……)
手帳を取り出し、端のページに短く書きつける。
記録:キメラ/赤魔石模倣体
設計式:一部不明、複合型の構成
状況:市街地にて暴走 → レオンにより処理
対象:ファウレスの少女レナ無傷
評価:危険度・中
特記:赤魔石の模倣反応あり。血液系統に相違。黒幕不明。追跡要。
ページを閉じたとき、遠くで甲冑の音が聞こえた。
軍部の封鎖隊。ようやく、到着したのだ。
オルフェはちらと目をやり、小さく鼻を鳴らす。
「……ふん、遅いな」
そう呟いたまま、彼は背を向ける。
足音もなく、静かに、静かにその場を去っていった。
***
◆レナ視点/翌朝の学院
翌日。学院は朝からざわついていた。
「昨日の……あれ、ほんとに魔物だったって話だぜ?」
「しかもマンティコアだろ?嘘だろって……」
「学院生が、単独で戦ったって」
レオンはサラとレナと一緒に廊下を歩いていると、聞きたくもない噂が耳に入る。
レオンは鬱陶しげに耳を塞ぎたくなったが、代わりに大きくため息をついた。
「……騒ぎすぎだ」
「そりゃ騒ぐでしょ!」
サラが横から突っ込む。
「市街地に魔物、しかも学院生が戦闘! 新聞の一面ものじゃない」
「それに……」
レナは不安げに声を落とした。
「無許可で戦った学院生がいるって、教務局が怒ってるって……」
「そう。だから、急遽“新しい規則”ができたの」
サラは眉間を押さえる。
「市街地での無断戦闘禁止。違反者には監視と魔力行使の制限措置……だってさ」
「ふん、俺がいなければもっと被害が大きかったのにな」
レオンは吐き捨てるように言った。
その後、レオンは一応「指導対象生徒」として教務局から呼び出され、後日、魔力の行使と心理評価を受けることとなった。
その場で彼は、ザイラス・カイゼルの名を報告したが、学院上層部は「元学院生」という事実を世間に出すことを避け、公式には沈黙を貫いた。
一方、レオンはその力があまりに突出しているため、処分や強制的な制限までは至らなかった。
◆レオン視点/検査帰り
その検査の帰り道、レオンはふと呟く。
「……俺がいなけりゃ、どんだけの被害だったろうな」
皮肉でも自惚れでもなく、ただの事実を確認するような声だった。
公園に突如現れた“伝説級”の魔物。
動けたのはたった一人。
それで済んだから、今ここに“日常”がある。
だが──
「もういい。どうでもいい」
新聞で見る被害者の顔。
結界の脆さ。
学院側の形式的な対応。
そして「無許可戦闘禁止」のお達し。
まるで、救った側が「規則違反者」であるかのような扱い。
レオンの中で、何かが静かに冷えていった。
(レナがそこにいなければ、何が起きても構わない。被害が出ようが、誰が死のうが、俺の知ったことじゃない)
学院が求めた規律と平穏は、最も頼るべき戦力の「無関心」と引き換えに成り立つ──それに気づく者は、まだいなかった。




