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10,000年の恋 時間百合シリーズ  作者: あいだ
1000年後に殺される百合
15/15

10000年後に神話になる百合


【紀元後2055年1月】

 尚はいつも、生ゴミをちゃんと捨てなかった。シンクにべしゃりと投げて、そのまま放っておくのだ。もちろん何度もちゃんと捨ててくれと言った。端にある三角コーナーに入れるだけでいいのだからと。

「後でお皿を洗うときに片付けるよ」

 彼女は言うけれど、シンクの中でリンゴの皮やティーバッグは干からびていく。

 尚はいつも、本棚に並べた本の上に封筒を置いた。重い書類の入った封筒でも。本が痛むからやめてと言えば彼女は「うん」と答えるけれど、結局はやめない。

「これ、行ってみない? 新しく旅行が認可されたんだって」

 尚は遅い新婚旅行だと言っていた。だけどもう結婚して十年だ。何もかも今更だった。

「いいんじゃない」

 私は行き先も費用も尚に任せた。

 後になってから思えば、私はそのときもっと真剣に考えてみるべきだったのだろう。事務手続きもメールも嫌いな彼女がなぜ、突然そんなことを言い出したのかを。

 だけど私はいつだって後になってから気づくのだ。



【紀元前9805年1月】

 寒いと言われてダウンを着てきたけれど、それでも手が冷えていた。ここが日本とは思えないくらい、寒々しい風景が広がっている。

 ――こんなもんなんだ。

 それが私の一万年前に対する、第一印象だった。

「くれぐれも、指定のルートを外れないでください」

 添乗員は二橋という、生真面目そうな印象の中年男性だった。彼が背負っている機械が時間移動装置だ。携行が必要だが重いため、リュックのように背負う形になっている。

「わかってます、誓約書もそのために書いたんですから」

「彩華、なんでそんなにつんつんしてるの?」

「別に普通だってば」

 過去の改変は重罪。添乗員の指示に従い勝手な行動は厳禁。身勝手な行動はこの世界を滅亡させうる。

 もう何度も聞かされたのでいい加減に飽き飽きしていた。ほんとに?と私は思う。本当に世界を滅ぼせるの?

 出発前のテストで旅行を拒否された人が会社を訴えているとも聞いたから、よほど基準は厳しいのだろうと思っていた。だけど、私たちの旅行はあっさり許可された。目的が新婚旅行だし、私たちが中年女性だからかもしれない。

「せっかくの新婚旅行なんだから、楽しもうよ」

 尚は無理やりに楽しげな声を出しているように聞こえた。

「……そうだね」

 今だって私は別に彼女を嫌いなわけではない。だけどもう彼女がそばにいるだけで無敵に思えるような、沸き立つ気持ちはない。

 私は前を歩く彼女の、短く整えられた襟足を見る。尚は私より十センチくらい背が高い。

「彩華の仕事の参考にもならない?」

「どうかな……一応レポくらい書きたいけど」

 娯楽目的の一万年以上前への旅行だけやけに早く認可が下りたのは、旅行業界への配慮があったからだと言われている。

 説明会では人道的見地からホロコーストを歴史改変すべきと主張した老人がいて、あっという間に紛糾状態になった。あの質問者はきっとマークされ、旅行には行けないだろう。

 私は何も言わなかった。私はあくまでただの観光客なのだ。どうせ私に何かが変えられるわけがない。

「すごいよね、ほんとに一万年前だよ。一万年前の空気」

「空気なんて……何が違うの。一万年前だからって」

 そうとしか答えようがない。私の目に入ってくるのは、生い茂る緑と、荒れた茶色い大地だった。

 ここは縄文時代の日本列島だ。時間旅行の一番人気は、恐竜に会えるプランらしい。次がマンモスだ。近過去への旅行はまだ許可がおりていないので、自然とそうした時代が人気になる。

 一万年前はぎりぎりマンモスが絶滅しているかどうかの時代だが、会うのは無理だろう言われていた。農耕が始まる境目の時期でもあるが、他にこれと言った見どころはなくスペクタルには程遠い。だからこそ私たちも比較的早くにこうして旅行に来れた。

「もともと行ってみたい、って彩華が言ってたんだけどな、この時代に」

 尚は少し寂しげに言った。

「そうだっけ」

「言ってたよ、もう忘れたのかもしれないけど……新婚旅行なんだから、もっと早くに来たかったね」

「十年前にはこんなに一般化してなかったでしょ」

「そうだけどさ」

 十年前には、新婚旅行に出かける余裕などなかった。逆に今、時間と体力だけはあったあの頃のような元気はもうない。

 私たちはそれから、二橋の案内で場所を移動していった。この時代には縄文人が居住している。過去改変をしないため、接触を避けて移動するということだった。

 ブーツを履いてきて正解だった。縄文時代のぬかるんだ地面に、私の足跡がつくのは不思議な気がする。

 何がどこまで影響したら時代を変えうるのだろうか。例えば今、私のブーツの下で蟻が死んでいたら?

 私たちのプランでは、一万年前に滞在していられるのはわずかに二十分だけだった。新婚旅行にしてはやっぱりしょぼい。ハワイに一ヶ月行く以上の費用を費やす意味が、本当にあったのだろうか。

 来なければよかった、とつい思ってしまう。

 期待なんてするだけ無駄だ。もう尚とは別れた方がいいのかもしれない。

「それでは、もうすぐ時間になりますので……」

 二橋が機械を手元に下ろし、そう言いかけたときだった。尚が無理やり機械を奪い、二橋を突き飛ばした。

「……っ、何を」

 私は見ているものが信じられず、固まってしまった。尚は持ち前の瞬発力で、そのまま森の方に駆けていく。二橋は地面に転がりうめいている。私ははっとして尚を追った。

「尚!」

 振り向いた尚は機械を抱え、真っ青な顔をしていた。もう何年も一緒にいるのに、そんな表情は初めて見た。

「邪魔しないで」

「何を……」

「移動させて今すぐ! あの年に!!」

 尚が機械に向かって叫ぶ。私はとっさに彼女の腕を掴んだ。それから視界が真っ白く歪んだ。



【紀元後2040年2月】

 博物館の入場料は安い。

 国立だから当たり前なのかもしれないけれど、何時間もいられて人類の誕生以前から現代に至るまで、あらゆるものを見られる値段としては破格だと思う。

「うわ、寄生虫やば」

「やめようよ、あとでご飯食べられなくなる」

 特に尚と一緒に行くと、いくらいても飽きなかった。私たちはくだらないことを話し合ってはくすくす笑った。

 尚の隣はとびきり居心地がよかった。でもそれが友情なのかそれ以上のものなのか、まだ私は線引きできないでいた。

 私はそれまで、男の人が好きなんだと思っていた。

 尚は私の知っているどんな人とも違っていた。痩せて背が高くて、笑うと頬にえくぼができた。髪は短くすっきりしていて、私は凛とした彼女の首筋を見るのが好きだった。

「荒井さんは、どの時代が一番好き?」

「私は人間が生まれる前かな。人間なんてどうして生まれちゃったんだろ」

「またそういうこと言う」

 竪穴式住居に居住する縄文人の人形を横目に、私は尚の表情を盗み見てばかりいた。

 私が人類誕生前を好きなのは事実だ。宇宙について展示するコーナーで、何光年も先の無人の光景を想像すると胸がすっとする。でも、せっかく二人で出かけているのに言うべきでないことだったかもしれない。

「ごめん、別に深い意味はないの」

「何か嫌なことあった?」

 私はこの間クライアントから受けたセクハラについて思い返してしまい、必死で頭から消し去ろうとする。今は楽しい時間なのだ。だけど暴力は日常の中に忍び込み、何の気なしに私を踏み潰す。傷つけられた方はいつまでも忘れられないのに、傷つけた方はどうせ何とも思ってない。

「ううん……」

 次に展示されていたのは灰色の壁画だった。縄文時代に描かれたものを移設したらしく、黒い棒人間がたくさん描かれている。踊っているように見えたり、羽があるように見える人間や、雪だるまみたいな人間もいる。楽しげで、仲が良さそうな様子だった。

 解説によると、農耕を司る夫婦の神を祭っている様子らしい。中央にいる羽の生えた人間たちがその神らしかったが、なぜ羽があるのかなどの詳細はわからないという。

「私は、荒井さんが産まれてくれてよかったと思うよ」

 ふいにそう言って尚は私を見た。

「好きだよ」

 私はどっと脈が速くなるのを感じた。友情で?なんて聞き返せない雰囲気だった。

 焦りながらも私は無意識のうちに、これを待っていたのだと思った。

 もちろん後になって考えてみれば、私のセクシャリティだって揺らいでいるもので、もしかしたら別の、男性と結婚をする道もあったのかもしれない。それでもそのとき、私はずっと尚を待っていたのだと思った。

「急にごめん」

「私、私は……」

 尚の告白を喜びながらも、私はすぐには言葉を返せなかった。

「尚さんのこと、好き、だと思うけど……でも」

 尚のことを振るなんて選択肢はなかったのに、それでもすぐには受け止められなかった。

 私の仕事はまだ不安定で、名前さえ出ない単価の安い記事を書いて何とか食いつないでいる状態だった。両親にはちゃんと就職をしろとずっと言われている。この上女性同士で付き合い初めて、それでその先はどうなるのだろう。

「ゆっくり考えてくれていいよ」

 尚は優しく微笑んだ。その顔を見ていたら泣きそうになって、私は目の前の壁画に無理やり視線を向けた。

 このとき自信満々に見えた尚は、本当はひどく緊張していたのだと後になって教えてくれた。

 そんな答え合わせみたいなことも、私と尚が一緒にいたからできたことだ。

 私は不安で、揺れていた。

 そんなときにあの女に会った。

 尚と別れた帰り道、私の記憶が正しければ、それがその女に会った最初だった。

「武方尚と付き合うのはやめなさい」

 その女はグレーの服に身を包み、街灯の下に立っていた。

 さすがに夜に、見知らぬ女に話しかけられるのは怖い。更に尚の名前を出すということは、無差別に声をかけているのではなく私を待っていたのだ。

 私は足早に通りすぎようとしたが、女は追ってきた。

「私は知ってるの、この先何が起こるのか」

 ヒールが壊れているのか、彼女が歩くたびかつかつと足音が鳴る。

「け、警察呼びますよ」

「付き合ってはだめ」

「何なんですか!」

 私は思わず振り返ってしまう。頭のおかしい女と関わるべきではない。そう思っているのにその女の顔を改めて認めて、はっとした。その顔を、どこかで見たことがある気がしたからだ。

「とにかく、警告はしたから」

 そう言って女は私に背を向けた。

 犬に噛まれたようなものだ。変質者はどこにでもいる。忘れよう、と思いながら私はふと気づく。その女が、若い頃の母に似ていたことに。

 つまり、その女は私にとてもよく似ていたのだ。



【紀元後2034年1月】

 こじんまりとした建て売り住宅、張り渡された電線、遠くに見えるビル。見慣れた光景だった。とっさに私は自分の携帯を見る。私のそれはまだ2055年で、圏外だった。

「尚……!」

 電柱にある住居表示からするとここは千歳烏山だ。肌寒い紀元前の世界から突然二千年代に戻って来て、ダウンが暑かった。だけどそのせいだけではない汗を私はかいていた。

 尚があんなことをするなんて思わなかった。

 彼女の姿は見えない。同時に移動してきたはずなのに、はぐれてしまったらしい。

 このあたりには尚の生まれた家があるはずだ。私がそこに行ったのは、結婚の挨拶をした一度だけだった。家にいた彼女の父は、「これでもううちの家も絶えるんだな」と言った。私は何も答えられなかった。

 どこまで走っても景色は代わり映えしない。

 私は必死に、見覚えのある家を探そうとした。だけど探しても探してもわからない。何丁目だっただろうか。小さな庭木のある白い家だったけれど、住所なんてわからない。

 尚に倒された二橋は大丈夫だっただろうか。

 尚のしたことは犯罪だ。近過去への勝手な旅行は禁じられている。じきに会社から追っ手が来るだろう。その前に尚を止めないといけない。

 尚は根暗な私と違っていつも朗らかで明るかった。彼女が密かに思い詰めていることに、私は気づかなかった。

 自分は尚のことを思いやれていなかったのに、それでも尚に利用されたと思うとショックだった。彼女は許可されやすいよう、新婚旅行の名目を使ったのだろう。

 せめて今からでも、私は尚の気持ちがわかるだろうか。彼女はまず実家に戻るだろう。それから?

 尚の家が見つからなくても、彼女がいずれ現れるところは推測できる。

 


「なんで、なんでわからないんですか……!? 止めてください!」

「警察を呼びますよ」

 私はやっと駅で尚のことを見つけた。尚の髪は乱れ、皮肉にも彼女の言葉の説得力を減らしていた。対面する駅員はうんざりした表情を隠していなかった。

「尚、落ち着いて、ちょっと来て」

 私は彼女の腕を掴んだ。尚は疲れ切った様子で、大した抵抗もなくついてくる。

「何でこんなことしたの!? 犯罪だよ! 絶対に勝手なことするなって言われて……」

「わかってる」

 階段の裏で改めて見た尚の顔色はひどく悪かった。充血し血走った目をしている。

「わかってないよ! 尚はいつもそう!」

「何を言われてもいいけど、これだけはやるから」

 尚は私の方を見ていなかった。まるで言葉が通じていない様子に背筋が寒くなる。

「尚……」

 彼女の母親と弟はこの後に起きる列車事故により亡くなっている。乗客十二人が亡くなる大惨事だった。

「尚、私だってもちろん、事故は止められるなら止めたいと思う、でも……」

「全然うまくいかない……あと何をどうすればいいの? もう時間がない……」

 尚は混乱した様子で頭を振った。私は彼女の肩を抱き、何とか落ち着かせようとする。尚は震えていた。


 尚は既に、家族に電車に乗らないように忠告したらしい。だけど今の尚は、家族にとっては見知らぬ女性だ。何度尚本人なのだと訴えても、通じなかったのだという。

「昔の私も全然役に立たなかった、何を言っても聞いてくれなくて……」

 尚はそれからマスコミや警察、消防、あらゆるところに事故が起こると通報した。だけどまともに取り合ってくれることはなかった。名前も名乗らない女からの情報だ。乗務員の操作ミスと整備不良が重なることを伝えても、信じろという方が無理だろう。

「彩華、どうしたらいい……?」

 泣きそうな顔で尚は私を見た。胸が苦しくて、私は何も言えなかった。事故をなかったことにするのは歴史の改変だ。どこまで影響が起こるかわからない。一番正しい答えは、「そんなことは試さない」だ。

 私だって、不幸な事故で亡くなる人は少ない方がいいと思っている。でも、私たちはただのちっぽけな何の権限もない人間なのだ。

「尚……」

 何もせず、罰が軽くなるようになるべく早く元の時代に戻る。それしかない。

「こうなったら力ずくで電車を止めるしかないのかな」

「どうやって力ずくでそんなことができるの……」

「途中で踏切に車を止める」

「尚、それなら非常ボタンでもいい」

 私はなんとか尚を落ち着かせようとする。やけになった彼女が何か行動に出ても、うまくいくとは思えない。ごく普通の日に理由なく東京の列車は止まらない。

「じゃあ非常ボタンを押す」

 尚は私の静止も聞かずに駆け出した。そして一番近いホームの非常停止ボタンを押す。すぐにサイレンが鳴り出した。

 駅員がやってきて、さっきから変な言いがかりをつけている女だと気づいたのだろう、すぐに尚と口論になった。私は彼らの間に割って入り駅員に頭を下げたけれど、尚も引き下がらない。

 そうして揉めているうちに、周囲がざわめき出す。別の駅員がどこかに走っていっている。誰かが呟くのが聞こえた。

「大変だ、列車が脱線して……」

 さあっと尚の顔から血の気がひくのを私は見た。彼女はそのまま気絶しそうだった。

 ついさっき、尚の家族は死んだのだ。再度リアルタイムで経験するにはあまりに辛い出来事だ。

「尚」

 私は尚の肩を掴んだ。

「なんで、なんで……嫌、もう一回、もう一回やり直せば」

「ここにいたら旅行会社に見つかるよ。尚、こんなのだめ」

「ねぇ、なんで!?」

「なんででも、だめだよ。変えちゃだめ」

「どうしてそんなことを言うの? 彩華」

 尚の頬を涙が伝っていく。彼女が事故をなかったことにしたい気持ちは痛いほどわかる。そう、そうしたら多くの犠牲者を出さずに済む。事故の発生で今も、被害者たちは痛みを感じ苦しんでいるかもしれない。

「どうしてって……本当に、わからない?」

 私の今考えているのは、きっと身勝手なことなんだろう。死者は一人でも少ない方がいい。苦しむ人は少ない方がいい。

 でも私は気づかなかったことにはできなかった。家族を失ったばかりの彼女に告げるのは酷だとわかっていても、どうしても言わずにいられなかった。

「尚。私たち、別れよう」

「ちょっと、何、なんで今、そんなこと」

「今だからだよ。尚は、私と出会う世界を、消そうとしたんだよ」

 私と尚が初めて出会ったのは、2035年の追悼集会だった。この事故が起こらなかったら、私と彼女とはそもそも出会うこともなかった。

 尚がしようとしていたのは、そういうことだった。家族が助かり、私たちは出会わない。結婚もしない。そしてハッピーエンド。

「彩華、でも、それとこれとは違う」

「どう違うの?」

 私は微笑もうとしたけれど、うまくいかなかった。尚はまるで信じられないものを見るような目で、私を見ていた。

 不幸な事故から始まった関係は、やっぱり結末も不幸になるしかないのかもしれない。

「違う、そうじゃなくて」

「どうしてそうじゃないの?」

 自分が残酷な追い詰め方をしているとわかっていた。それでも止められなかった。

「彩華、それとこれとは違う。私は家族を助けたい、でも、彩華のことも愛してる。そりゃあ、最近うまくいってなかったのはわかってる、でも」

「尚、ここが私たちの終着点だよ」

 私はじっと、彼女の目を見つめて言った。サイレンの音がどこからか響いてきていた。

「私たちの結婚を、なかったことにしたい」

 私たちはこれ以上、一緒に未来には行けない。



【紀元後2046年11月】

 日本で選択的夫婦別姓が可能になったのは2037年だった。そして、同性婚が可能になるためには更にその翌々年を待たなければならなかった。その過程で私は耳を疑うような、醜い議論を散々耳にした。

 私は尚との関係をわずかに知り合いに伝え始めたばかりだったけれど、それでも嫌がらせには遭った。

〝女同士で付き合うなんて無駄だ〟

 私の元には、そんな匿名のメッセージが届くようになった。一通だけなら無視していればいい。だけど、アドレスやメッセージを変えてその嫌がらせは執拗に続いた。

 この人は、どうしてわざわざ一介のライターでしかない私にこんなことを言ってくるのだろう。私が何か危害を加えたわけでもないだろうに。気にしないようにと思っても、メールボックスを見るたびに陰鬱な気分になった。

「どうしたの? 彩華」

「いや……ちょっと、仕事で」

「元気出しなよー」

 そう言って、尚は私の頭を撫でる。私の髪は柔らかいから、撫でるのが好きだと彼女は言う。私も私の髪を撫でているときの、彼女の表情を見るのが好きだ。彼女には嫌がらせのことは言わなかった。

「今度二人で温泉にでも行かない?」

 私が今幸福であればあるだけ、バランスを取るために嫌がらせも増えるのだろうか。メッセージはたまにやけに具体的で、気持ちが悪かった。

「うん……そうだね」

 生返事を返しつつ、私は尚の話す楽しげなプランにいまいち乗れなかった。

「あ、ごめん私この日取材だ」

「そっかー、まぁいつでも行けるし、いいよね」

 尚はいつも明るく笑ってくれる。私はきれい好きで、彼女は大雑把。私は薄味が好きで、尚は濃いジャンクな味が好き。尚のことは好きだけれど、一緒に生活していると摩擦も起きる。

 せっかく両親も説得して、望んで一緒になったはずなのに、どうしてまだこんなもやもやした気持ちを抱えてしまうのだろう。

「また今度行こう、新婚旅行も行けてないし」

 朗らかに尚は言う。迷いなく未来を向けている彼女のことが、羨ましかった。



【紀元後2045年6月】

「なかったことって……どういうこと」

「結婚をやめさせる。私はちゃんと論理的な話をしたら理解できると思う。このときにはもう、時間移動のことはニュースでやってたわけだし」

 尚が今も背負っているこの機械で、どこまで時間を移動し続けられるのかはわからない。だが少なくとも、同じ時代に居つづけない方がいいことは確かだった。

 迷っている暇はない。会社はすぐに私たちを捕まえるだろう。私たちはすぐに十年後、結婚する直前に移動した。

「今から別れるんじゃなくて、なんでそんなこと……」

「女と結婚してたって世間に知られたら、再婚に不利でしょ」

 私は自分の言葉が尚を傷つけるとわかっていて口にした。

「私一人で、伝えてくるから。尚もいると余計に混乱すると思う」

 尚は、別れたくないとは言わなかった。ただ唇を軽く噛みながら言った。

「どうせ過去を改変するなら、列車が発明されない世の中にしたい」

「誰かの発明を止めても他の人がきっと開発するよ」

 極論に走っても、何も変えられないのは明らかだ。

「でも、何かもっと別の事故を防ぐ手立てはあるかもしれない。彩華は自分の家族じゃないから何だって言える」

「ああ、そうですね。どうせ私は冷たいから」

 思えば、こんなに性質の違う私たちがよく今までうまくやってこれたものだ。

 私は自分が一人暮らしをしていたマンションに近づいた。待ち伏せするのは簡単なはずだったが、過去の私は思いのほかなかなか帰ってこなかった。

「浮気してたの?」

「してるわけない」

「やけに遅いね」

「色々付き合いもあったんでしょ、覚えてないけど」

 私がやっと家に帰ってきたのは、もう日付も変わる頃だった。私は酒を飲んできたようだった。誰と飲んでいたのだろう。さすがに十年前のことはあまり細かく覚えていない。

「荒井彩華。話があるの、驚かないで聞いて」

「……何ですか」

 思い切り怪訝そうな顔をして、十年前の私は言う。さすがにそうだろう。今の私は、彼女にとっては見知らぬ女だ。

「尚との結婚はやめるべきだから、それだけ伝えたい」

「け、警察呼びますよ」

 十年前の私はがちがちに警戒していた。思ったより、か細くて気弱そうな女に見えた。

「信じないかもしれないけれど、私は十年後のあなたなの。だから、この忠告は聞かないといけない」

「な、にそれ……おかしいですよ」

 過去の私は怯えた目で私を見ていた。

「私はあなたなの。あなたのどんな秘密も知ってる、小学校の頃に書いていた日記帳の名前も、好きだった男の子も、そうあなたはあの頃男の子が普通に好きで……」

「普通とか言わないで」

 十年前の私は、殺されそうな小動物みたいに震えながら言った。この様子なら、きっと説得できると私は冷静に考えていた。

 過去の私に、今の私はよほど恐ろしく見えるのだろうか。もうちょっと脅せば、きっと屈するだろう。

「でも尚に会うまで付き合ってたのは男だったし、そもそも同性同士なんてことが間違いだった」

 私は私の傷付け方を知っている。何を言われれば深く傷つき悩むのか、私自身なのだからよくわかっている。

「……前にもいた人ですよね、あなた。ひどすぎる」

 過去の私は絞り出すように呟き、走っていってしまった。

 前にもいた?

 私は私の言われたら嫌なことを知っている。だって、かつて言われた記憶があるから。

 過去の私は、私だ。でも私には、未来の私に会った記憶なんてない。

 女同士なんておかしいと誰かに言われてすごく嫌だった記憶はある。職場の誰かだったのかと思っていた。でも思い返してみると、誰に言われたのかははっきりと記憶にない。

 かつての私の部屋に明かりが付くのが見える。

 私はやっと思い出す。この日は、実家で両親と一緒に飲んだのだ。私の結婚にずっと反対していた父が、やっと結婚を認めてくれたのだった。

 父は最後の方は「お前が結婚か……」とくり返して泣いていた。私は部屋に戻ってから尚に電話をした。帰り道で嫌な言葉を投げつけられたことを、頭の中から追い出したくて。

 出会ったのが本当に未来の自分だなんて、あの頃の私はかけらも思わなかった。ただ誰かに絡まれた嫌な記憶として頭から消した。

 生きていれば大なり小なり悪意をぶつけられることはある。忘れないと、いちいち傷ついていたらやってられなかった。

「彩華」

 ぐいと腕を引かれる。そこにいたのは私と同じ、未来から来た尚だ。

「機械に何かメッセージが来てる。移動しよう」

「尚」

 私は彼女の腕を掴んだ。

「……私の選択は、間違いだったね」

 十年かかって結局、私たちの関係は悪化していくばかりだった。ぐるぐると同じ所を回って、精神を消耗して、そのくり返しだ。彼女に対して抱いた感情に嘘はない。だけど、この関係には実りがない。

「彩華」

「もっと早く、別れた方がよかった」

 尚は真顔のまま、まっすぐに私を見ていた。

「ううん、付き合わなかった方がよかった」

 私も泣けなかった。ただただひたすら、胸が痛かった。

「彩華は本当に、そうしたいの?」

 私はゆっくりと、深く頷いた。

 そもそも先に尚が、この関係を消そうとした。私にとっても、彼女との関係はいらないものだった。

 それならいっそすべてを無に帰した方がいい。



【紀元後2043年12月】

 尚と付き合い始めて、私は初めてこの世に生まれてきた意味があると感じた。

 大げさかもしれない。それまでだって、恋人がいたこともある。でも、尚と過ごすことで本当に自分が透明じゃなくなったような気がした。

「ずっと一緒にいようね」

「どうしたの? 今日甘えたじゃん」

「うん……そう思って」

 裸のままベッドで過ごす休日は、どんなことより有意義だと思った。近所のコンビニより遠くに行かなくても。

 何かをするよりとにかく少しでも長く、お互いの肌に触れていたかった。

 何も確かなものなんてなくても、こんな一日があればずっと生きていける。

「……結婚しようか」

 何の前触れもなかった。尚のその提案は突然で、私も受け入れる準備ができていなかったし、言った側の彼女もしまったという顔をしていた。

「え?」

「いや、彩華が……嫌じゃなければ、そういう、形のある関係にもできるなって思って」

 尚は動揺したことを恥じるように、「いや、違うな」と言い直した。

「今が幸せだから、私はこの幸せを失いたくない。ちゃんと、責任を取れる関係にしたい」

 私はもともと、結婚願望もなかった。同性同士の婚姻が可能になったからといって、なぜする必要があるのだろうと思っていた。

 女同士なら病院に付き添っても不審には思われない。結婚という形を取らなくても同居はできるし、旅行にだって行ける。

 ――でも、私たちが付き合っているとは誰も思わなかった。

 二人で住んでいても、おそろいのネックレスを買っても、旅行に行っても、接する人達は私たちを恋人同士だとは少しも考えていなかった。

 私だって言わなかった。言ったらきっと、微妙な空気になるだけだから。恋人がいなくても女友達がいれば楽しいよね、というわけ知り顔のコメントを聞き流した。

「したい」

 私は思わず口にしていた。

「結婚、したい」

 わかりやすい形が欲しかった。

 きっと両親は反対するだろう。だけど、その反対にこそきっと意味がある。ほんの少しでも、私の触れる指先数センチ程度でいいから、何かを変えたかった。

「うん、しよう」

 柔らかく微笑んで尚は言った。私はたまらなくなって、彼女にキスをする。こんな夜のことを私はきっと、どれだけ時間が経っても忘れないだろう。



【紀元後2041年6月】

「そのデートには行くべきじゃない」

 私は何とか過去の私に伝えたかった。尚との関係は、十年かかっても結局は無為に終わる。だから早くにやめるべきなのだ。

 最初は正直に「未来から来た」と伝えたが、過去の私は相手にしなかった。

 それもそうだろう。私は自分の性格を知っている。保守的で冒険が苦手、合理的で慎重、旅に出る前から家に帰りたくなるタイプ。一応十年前には時間旅行のことも喧伝され始めていたと思うけれど、あまり興味はなかった。

 私は図書館やカフェなどでパソコンを借り、メールで私自身に伝えようとした。

「あの女とは別れろ」

「不幸になる」

「その関係には実りがない」

「後悔するぞ」

 臆病で慎重派の私は、尚との関係をこの頃はまだ誰にも言っていない。こんなメールが来たら……尚と会うこと自体が嫌になるだろうと思った。

 だけど少ししてから気づいた。あまりに嫌だったので、記憶から消していたのだ。私は確かに、そんなメールを読んだことがあった。その後しばらくはメールボックスを開くことも嫌になって仕事にも差し支えが出た。

 嫌な記憶がどんどん蘇ってくる。私は何をしているのだろう。

「彩華、こんなこともうやめよう……」

「どうして」

「彩華はムキになってる」

「なったらおかしい?」

 私は肩に載せられた尚の手を振り払った。

「どうしていけないの。もう無理だよ」

「彩華、私と別れるつもりならこれからそうすればいい」

「私は……! そんなことがしたいんじゃないの!」

 確かに私のしていることはめちゃくちゃだった。別れたいなら現代に戻って彼女と別ればいい。もちろん相応の罰や違約金を払うにしても。

「自分の望みのために、過去を改変する必要はない」

「尚がそれを言うの!?」

 頭にずっと血が上っている状態だった。尚が勝手に、二橋から機械を奪ってタイムスリップしたときからずっとそうだ。怒りと苛立ちと混乱で、頭がぐるぐるしている。

 ずっと尚のそばにいたのに、私は彼女の考えていることを少しもわかっていなかった。

 尚が先に始めた。彼女が先に、私をいらないと言ったのだ。

「彩華……」

 普通に別れるくらいなら、全部なかったことにしたい。この先も彼女はどこかで生きていて、新しい恋人を作り私のいない人生を送る。そんな様子を、一ミリも想像したくなかった。

「だいたいそもそもちゃんと生ゴミは捨ててよ」

「なんでそんなこと今言うの」

「料理は味濃すぎるし、十年前から四キロも太ったし、何でもいい、もう嫌なの」

 こんなことを言っても何にもならないと思っても、止められなかった。

 不安になってくる。私は本当は思い出せていないだけで、未来の私と会っていたのだろうか? 嫌なことも楽しいことも、たくさん覚えていると思っていた。なのに疑い始めると過去はどんどんあやふやになっていく。

「早く……なかったことにしよう。そうしたらこんな言い争いも忘れられる」

「彩華、聞いて」

「気が狂いそうなの」

 私の人生は何だったのだろう。尚を待っていたと思った。でも、そんな直感は過ちだったのだ。

「お願い」

 私が訴えると、尚はそれ以上何も言わなかった。



【紀元後2044年1月】

 マスクをして、髪型もメイクも変えた。さすがに未来の自分と称して会い続けることはやめた方がいいと思ったので、変装をすることにしたのだ。

 私は自分が一人でカフェで本を読んでいるときを見計らって、話しかけた。

「その本、面白いですよね」

「読まれたことあるんですか?」

 何しろ相手は私だ。私のツボを押さえた本の感想を話すなんてお手の物だった。私は趣味の合う年上の女性に対し、すっかり警戒を緩めている。何度か顔を合わせた相手だということは気づいていない。

「あ、すみません」

 過去の私が携帯を手に取る。

「彼氏から?」

「恋人です」

 律儀に過去の私は言い直す。

「いいわね、幸せそうで。お子さんはいるの?」

 唐突な問いに、少し私が動揺するのがわかる。

「いませんけど……」

「私は二人。やっぱり子どもといるときが一番幸せって思うの」

 過去の私は携帯を見ている。どんなメッセージのやり取りだったか、私は思い出せない。カフェで年上の女に話しかけられたことなどあっただろうか? 考えてみればあったような気もするけれど、思い出せない。

 私は自分が、こんなにやけ顔を他人に見せていたことを初めて知った。

「恋人って、どんな人?」

「……ちょっと私とは性格が違うんですけど。いつも元気で、一緒にいると楽しいんです」

「でも、いつまでも恋人気分だけじゃ続かないわよ。ちゃんと家庭を築かないと」

「……結婚しますから」

「今は同性同士でも結婚できるんでしょう? そんなの無駄なのに」

 過去の私は動揺さえ示さず、曖昧な笑みを浮かべているだけだった。

 いくら記憶を掘り返しても、思い出せなかった。この日のことも、やっぱり私は経験していたのだろうか? そして嫌なことを言われたから、結局封印してしまった?

 過去の私は何も言わなかった。きっと後になって、様々な文句を頭の中に思い浮かべるだろう。ネットに書き込みだってするかもしれない。だけどこうして直接ぶつけられて、私はやっぱり何も言えないのだ。私は私をよく知っている。

 そう思ったときだった。

「無駄とか、言い始めたらしょうがないですよ。でも、私には……私には意味があって、私は、幸せです」

 私は、本当は何を覚えているというのだろう。

 こんなことを言った記憶さえ、日常を生きていくうちになくしてしまうというのに。

 私はそれ以上、過去の私の前にいられなかった。

 未来から来た尚が、私のそばに寄ってくる。彼女を抱きしめたかった。でも、できなかった。

 俯く私の肩に手を置こうとしたのか、尚は少し迷うように手を上げ、結局はそのまま下ろした。

「過去はもしかしたら、変わらないのかもしれない」

 尚がぽつりと言った。

「……でも、絶対に過去を改変しないようにって言われた」

「だからといって別に、改変ができるという保証じゃない」

「でも、じゃあ誓約書だっていらなかった」

 どこまでの確信を持って、旅行会社は誓約書を書かせたのだろうか。どうしてホロコーストを止めないんだ、と叫んでいた説明会の男性を思い出す。

「そもそも過去を改変したら……今の私たちはどうなるのかな」

「そもそもそのくらいのことも考えてなかったの? あなたが始めたんじゃない」

 何度、どのように説得しようとしても、過去の私は尚と別れようとしない。

「たぶん、未来自体が変わって、今の私たちは別の形になるんだろうとは思ってたけど、わからない。私たちが出会ってなかったら、旅行にも出てないんだから、過去も改変できないことになる」

「そういう話はいいよ。どうせどっかでうまくできてるんでしょ」

 尚は何度、家族といた頃のことを思い返したのだろう。

 私はこの旅行に連れ出されるまで、過去について真剣に考えたこともなかった。家族での思い出もあるけれど、わざわざ掘り返したりはしない。

 でもそれは、尚のような悲劇に襲われたこともなかったからだ。

 どうにかして、人を裏切ってでも、何かを変えたいと思ったことはなかった。

 私が追悼集会にいたのはただ手伝いのためだった。尚との違いは、ただ家族があの列車に乗らなかったから、それだけだ。

 もし尚が事故に遭っていたのなら、私はどうしただろう。

「あんたは、どうしても過去を変えたかったんでしょ」

 尚は唇を引き結ぶ。

「私たちの出会いもなかったことにしても、そうしたかったんでしょ」

 私はさっき去っていった過去の私が、ほとんど憎かった。あまりにも羨ましくて眩しくて。

「私は彩華のこと、今でも愛してるよ。……でも、あの事故では、たくさんの人が死んだ」

「数の問題?」

「個人的なことより……自分の幸せより、みんなを襲った悲劇を止めたかった」

「……でも、尚が優先してるのは自分の家族で、それは個人的なことでしょ」

 尚が顔を歪める。彼女を泣かせたいわけではないのに、私は言葉を控えられなかった。

 過去の私がこんな私たちを見たら何と言うだろう。

 私には答えなどわからない。何にしたってもう過去は過去だ。

「なかったことにするなら、あの日だ」

 尚も過去と今の間で苦しんでいる。

 すべきことがやっとわかった気がした。私は私と尚を傷つけた記憶ごと、消し去るのだ。

 そうしたら私たちの、お互いを傷つけるだけの悲しいやり取りだってなかったことになる。

「彩華、私は嫌」

「変えるならあの日しかない。行こう、私たちの始まったあの夜に」

 彼女に惹かれ始めたあの夜を、私は消さなければならない。



【紀元後2035年1月】

 暗い公園に、ろうそくが灯っている。

 肌寒かったけれど、一万年前ほどではなかった。

 公園にはたくさんの人の気配があった。だが薄暗いので近づかないと顔までは見えない。ひそひそと語り合い、寄り集まって立っている。マスコミもいくつか取材に入っているようで、カメラがそこここに見える。

 このろうそくにはかつて、私も火をつけた記憶がある。私は事故遺族ではない。そのとき所属していたゼミの教授が追悼委員会のメンバーで、手伝いにかり出されただけだった。

 自分がこんなところにいていいのかな、と所在なかったことを覚えている。大きな悲しみを抱えた人達に比べて、自分は軽薄で何も中身がないように感じられた。だから黒い服を着て、ひっそりとすべりだいのそばに立っていた。

 そして私は、彼女に出会った。

「どうして自分の家族だったのだろうといまだに思います」

 まだ若い男性が、高校の制服を着てスピーチをしている。

 四十歳を過ぎた私と尚は、再びこの公園に来ていた。もし過去が変えられるなら、過去の私をどこかに呼び出すなりして、尚と出会わせなければ私たちの関係のすべてが消える。

「どうして僕でなく、お父さんだったのか。どうして十分早い電車に乗った人でなく、お父さんだったのか」

 切々と訴えるスピーチに、だけど何かがひっかかった。

「二橋さんだ」

「え?」

 薄暗くてその男性の顔は見にくい。だけど声も似ているし、考えてみれば年齢もつじつまがあう。

「喋ってるの、二橋さんだよ」

 私たちを一万年前に導いた添乗員の、若い頃の姿だった。確かに遺族の何人かがスピーチしたことは覚えていたが、個々の人の名前や顔までは記憶になかった。

「答えはありません。答えはない」

 彼は私たちに気づく様子もなく、話し続けている。ところどころで鼻をすすっているような音も聞こえる。

「夢だったらいいのにと毎朝思います。目が覚めたらお母さんもお父さんも、何事もなかったかのように朝食を食べている。そんな光景を何度も何度もくり返し見ました」

「歴史は変わらないんですね」

 背後から私たちに声をかけてきたのは、二橋だった。まだ若い彼ではなく、三十代の彼だ。未来の自分の存在に気づかず、若い彼はスピーチを続けている。

「最初から、あなたたちグルだったの?」

 考えてみると確かに、尚はただの旅行者にしてはあまりにスムーズにタイムマシンを奪った。

「違う」

 尚は首を振った。

「二橋さんが遺族だなんて、私は知らなかった」

「あなたは交流会にも出なかったですからね。私はこの後もずっと、遺族の中心メンバーとして活動を続けていた。音信不通になった人も多かったですが」

「じゃあ、知ってて……」

「さすがにうちの会社もそれなりのセキュリティ対策はしていますよ。誰でも自由に時間移動されたらたまらない」

 二橋は笑った。すぐそばでまだスピーチを続けている青年の、新鮮な声の張りはもうそこになかった。

 私は彼にかけられる言葉を持たなかった。彼は尚がマシンを奪うことを想定していた。だけどそれを見逃したのだ。何のためにといったら――もちろん、この事故を起こさないためだ。

「せっかく旅行会社に就職しても、私自身は何もできなかったので、あなたたちに賭けてみたんです。わざわざダイレクトメールも送ったりしてね。でも、何にもならなかったですね」

 薄暗い中で見る彼は、どこにでもいるくたびれた男性だった。

「二橋さん」

「改変をしないようにと会社があれほど言うのだから、私はそれが可能なんだろうと思ってしまった。でも、本当のことなんてただ誰も知らなかっただけなんですね」

 青年は言葉を詰まらせながら、父親への複雑な感情について語っていた。前に見える女性はハンカチで涙をおさえている。

「もういい」

 絞り出すように、目の前の男は言った。

「もういいんです、どうせ世界は変わらない。クソなままだ」

 二橋はそう言って、わずかに笑った。

「二橋さん、確かに私は過去を変えられませんでした、でも」

 尚が悲痛な表情で言う。

 彼や尚のように、私は事故の被害にあったわけではない。私は身勝手に、自分のためだけに歴史を移動した。

 それなら尚のしようとしたことの方がマシだった気がした。何を変えられなくても、もっと有効な使い方だってあったかもしれないのに。その可能性の膨大さを思うと今更ながら怖くなった。それなのに私がしたのは、ただ自分への嫌がらせだけだった。

「でも、永遠に過去が変わらない保証もないはずです」

 すぐに反論できる尚は本当にすごいな、と思った。私は何も言えないでいたから。

「もう無理ですよ。試すこともできない」

「二橋さん」

「これ以上の移動は無理です。会社も把握してる」

 私は視界の端に、見覚えのある人の姿を認める。それは喪服を着た、まだ若い尚だった。見た瞬間に、涙が溢れてきた。

 この後何が起きるのかを私は知っている。慣れないヒールを履いた尚は、私のそばで転ぶのだ。

 ――大丈夫ですか?

 ――あ、ごめん、ありがとうございます。

 私はいずれ多くを忘れる。過去は戻らないし私たちは変わっていき、幸せだった日々も手のひらからこぼれ落ちていく。

 でも覚えていることだって確かにある。

 この後に起こる何気ない会話も、初めて一緒に出かけた夜も、お互いを傷つけるだけの諍いも、優しいキスも、幸せだった朝も、多くを取りこぼしながらもでも、私は今はまだ覚えている。

 それは歴史とはまるで関係のない、ちっぽけな出来事だ。誰も記録なんてしていない。

 もしここで私たちが会わなくても、世の中に影響なんてきっとなかった。私も尚も、社会を大きく変えるようなことなんてなにひとつしていない。

 ただ普通の女が普通の女に恋をして、そして、一緒に暮らした。それだけのことだった。

「尚」

 私は手を伸ばして、恐る恐る彼女の手に触れた。

「……ごめん」

 どんな嫌な言葉を投げつけられても、過去の私は尚と共に生きる道を選んだ。その感情が私の中にある限り、過去は変わらないのかもしれない。

「……私こそ」

 尚が私の手を握り返してくる。

 涙でにじんだ目に、ろうそくの光がぼやけて見える。それだけの普通の日常が、暴力的に偶然に、奪われた人たちもいた。この公園のろうそくはそのために灯っている。

 せめてと思って私は祈る。隣で尚も、静かに目を閉じていた。

 そのとき急に、ぐらりと地面が揺れたように感じた。

「地震……?」

 あたりを見回すけれど、誰も慌てた様子はない。そんな私たちを、熱の籠もらない目で二橋は見ていた。

「会社に見つかったと言ったでしょう。あなたたちはもうここでゲームオーバーです」

 二橋は無感情な目で私たちを見ていた。

「待って二橋さん、もっとちゃんと……」

 私は彼の人生を知らない。あそこでスピーチをしている彼がこの年齢になるまで何を思い、どう努力してきたのかを知らない。だけどそれはきっと膨大な時間で、多くの苦労があったのだろう。

「どうせ過去も、歴史も変わらない。社会も、世界も、何も変わらない。全部クソだ」

「二橋さん!」

 私ははぐれないよう、尚の手を強く握った。この公園に過去の私もいたけれど、地震があった記憶はない。

 せいぜい足掻けばいい。そう二橋が言う声が最後に聞こえて、視界が白く歪んだ。



【紀元後2044年8月】

「ほんとにここでいいの?」

「え、何か不満あった?」

 二人で住む家を決めたのは八月の暑い日だった。駅から徒歩十五分、築四十五年のマンションの設備は古かった。

「いや、私は全然いいんだけど」

 私は自宅仕事も多いけれど、尚は毎日通勤する。彼女のためにはもっと便利な方がいいんじゃないか、設備も最新のものがあって、と私は頭を悩ませていた。

「私もいいよ」

 部屋は空っぽで、まだカーテンさえかかっていない。

「尚さんは」

「尚」

「尚は、何か我慢してない?」

 私は不安だった。尚はあまりに優しかった。不満や不平を漏らしがちな私と違って、何があっても「いいよ」「気にしないよ」と言う。そして決断がやたらと早い。

 私はまだ、彼女を呼び捨てにすることひとつでひどく緊張しているのに。

「してないよ」

 そう言って彼女は笑った。リビングの窓は東向きで、午前中は日差しが強かった。

「だって、早く一緒に暮らしたいし」

 照れ隠しなのか窓の外の方に顔を向けた彼女の首筋を、私はずっと見ていた。襟足の髪が日に透けて、茶色っぽく光っていた。

「早くカーテン買わないとね」

 振り向いた彼女が言う。うん、と私は答える。晴れた空には雲一つない。



【紀元前9805年1月】

 気がつくと、私と尚は地面に投げ出されていた。

「彩華、彩華!」

 揺さぶられて、私は目を覚ました。泣きそうな顔で尚が私を見ている。

 遠く雷が鳴っている。ひどく寒い。

「よかった……」

 頭が痛かった。私の記憶が確かではなかっただけで、あの夜に地震はあったのだろうか。あるいは本当に、今度こそ過去が変わってしまったのか……。

「ここ、どこ」

 体を起こした私は呟くことしかできなかった。

 私たちがいるのは薄暗い、洞穴のような場所だった。開口部から見える範囲にあるのは木々ばかりだ。外は雨が降り、雷が鳴り響いていた。ダウンの前をかき合わせても寒かった。

「たぶん、一万年前。最初に来たとこの近く」

 尚は少し前から目覚めていたのか、私よりもずいぶんしっかりした口調で言う。私は携帯を見るが、当然のように圏外だった。

「あの機械は……?」

「壊れてる」

 尚が背負ったままの機械は黒焦げで、バネのような針金が飛び出していた。冗談みたいな壊れように、私は思わず笑ってしまいそうになる。

 私たちがあれほど自分勝手に時間移動できたのは、おそらく二橋のおかげなのだろう。だけど彼は最後に、私たちを再度一万年前に戻したのだ。

「2055年に戻すんじゃだめだったのかな……」

「すぐに会社に捕まるよ」

「いやどっちがマシか難しいんだけど……」

 罪を償ったり、違約金を払ったり必要はあるだろうけれど、現代ならまだ勝手がわかる。

 この時代のことを、私は何もわかっていない。歴史の授業の内容なんてもうはるか彼方だ。サバイバルの知識もほとんどない。

「遠からず死ぬ気がする……」

「しょうがないよ」

 尚はちょっと二橋に甘すぎないだろうか。確かに私たちは勝手なことをしたが、この仕打ちはひどい。

「しょうがなくないでしょ。あの人ひどすぎない?」

「うーん、でも、私もああなってたかもしれない」

 尚はぽつりと言った。

「ずっと過去を変えたい、できることはなんでもしたい、って思ってた」

 私は何も言えなかった。彼女のそばにいて、私はその苦悩に気づかなかった。今も彼女の傷は消えていないのだろう。

「まぁ何とかなるよ、大丈夫」

 それでも尚は笑っている。

「……なんで尚はすぐにそう根拠なく言うかな」

 二人ぼっちになったのだ、と私は改めて思う。ここにはもう、私たちを責める声も、結婚という制度すらない。

「根拠ならあるよ。だって、彩華がいるから」

 そう言って尚は手を伸ばしてくる。私は改めてその手を握った。

「ごめん彩華、色々」

「私こそ、ごめん」

 どちらにしろ二人でいる以外、選択肢はもうない。

 どこまでが最初から決まっていたのだろう。私が私を傷つけて、尚から遠ざけようと何度試みても無駄だった。じゃあ過去の私がしたすべては、ただの当然の努力だったのだろうか。

「大丈夫だよ」

 尚の声に、涙が出てきそうになる。

 外では雷が鳴っていた。その光で、だんだん暗い洞窟内が見えてきた。

「あれ……?」

 灰色がかった岩肌にあるのは、最初は影かと思った。だけど違う。

 薄暗い中でも黒や赤、黄色の鮮やかな色彩がぼんやりと見えた。暴力的なまでに荒々しい、それは色の氾濫だった。さほど広くはない洞窟から溢れそうなほどの躍動感がある。

「何これ……」

 描かれているもの一つ一つは、単純な図形のようだった。人間らしき黒い棒人間、馬のようなもの、鳥、拙い図形が壁には描かれていた。その周囲を黒、赤、黄色が取り巻いていた。色は花のように、音楽のように線を飾り、咲き誇っている。まだ作業途中のようで、壁の半分以上は空いたまま残っていた。

「尚、似てない? これ」

「え?」

「博物館にあった……」

 博物館に飾られていた壁画にこんな色はなかった。だけど拙く描かれた人間の姿には見覚えがある。

「えっと、ああ……そうかも。でもあれはこんな色じゃ」

 私は必死に、あの壁画のキャプションに描かれたことを思い出そうとする。祭りの様子だと描かれていたような気がする。それと、何だったか。

 叫び声が聞こえて、私たちは入り口の方に振り向いた。汚れた肌と髪の、上半身裸の女性がそこにいた。私たちを見て、驚いた顔をして逃げていく。

「あ」

 私も尚も、何も言えなかった。よく見渡すと洞窟の中には顔料や石、動物の骨などが散らばっている。あの人は続きを描こうとしていたのかもしれない。

 外が再び光り、私と尚の影をまだまっさらな部分の壁に投げかける。

 尚の背には壊れてしまった機械が背負われたままで、飛び出したワイヤーが羽根のようだった。隣に立つ私のダウンで着膨れた姿は雪だるまのようだ。

 私は気づく。私たち二人の姿を、ずっと未来に見たことがある。

「あの人、びっくりしてたね」

 そうだ、確かこの時代に農耕がはじまる。そして祭りは、実りの象徴である夫婦の神に感謝を捧げるものだとあった。

 ――間違ってるし。

「うん、古語とか使えるかな?」

「いやそういうレベルじゃないでしょ」

 怯えて去ったあの人は、きっとそのうちに戻ってくるだろう。どうするべきか、私たちは考えないといけない。

 紀元前の空気を私は吸い込む。

〝社会も、世界も、何も変わらない。クソなままですよ〟

 追悼式の夜、とっさに私は二橋に何も言い返せなかった。取り返しの付かないことは確かにある。過去は変えられず、これから起こる未来のことさえ、すべては決まっているのかもしれない。

 だけどそれでも、何もかもがこれから始まるのだ。

 私はいつだって後になってから気づく。

 二橋に伝えたかった。きっともう二度と会うことはできないだろうけれど、彼もいつか、この壁画に描かれた私たちに気づくかもしれない。ちっぽけな私たちがここにいたことに気づくかもしれない。

 歴史は変わる。

「寒くない?」

 世界はちゃんと、変えられる。

「ちょっと寒い」

 私は彼女の手に指を絡ませる。私は思い出す。私が博物館で見た壁画の神が、今の私たちのようにしっかりと手を繋いでいたことを。隣りに立つ彼女の襟足を、雷の光が照らしている。

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