4 選択
翌朝、というか目覚めてもまだ夜だった。
吸血鬼の国は次元の狭間にあり、太陽が昇らない。そう聞いたことがある。
別に吸血鬼の弱点が太陽というわけではないらしい。夜の方が闇の魔力が満ちていて過ごしやすいからそういう場所に住んでいるだけだ。
クローゼットから適当に動きやすい服を出して着替えた。
姿見の前に立つと、改めて自分がシオンになったことを実感して憂鬱になった。すごく綺麗で可憐だけど、この体は吸血鬼。
「はぁ……」
眠ったことで多少すっきりした頭で考えてみた。
トキワに与えられた選択肢は、戦うか、子どもを産むかだ。
しかしもちろんそれ以外の選択もできる。
逃げることも、自殺することもできる。
この体は莫大な魔力を有する貴血種のもの。その気になれば、魔族や人間から逃げ延びることも可能なはずだ。
食事のこととかいろいろと問題はありそうだけど、野良の吸血鬼として生きるというのが、今のところ一番希望のある選択に思える。
死ぬのはやはり少し怖いから。
不思議と魔族や人間へ復讐してやろうという気にはならなかった。ものすごく憎いけど、今は悲しみや虚しさ、脱力感の方が勝っている。
全て忘れて、どこかで静かに暮らしたい。
「でも、簡単に逃げられないだろうな……」
トキワは私を逃がすくらいなら迷わず殺すだろう。当然だ。貴血種が人間側についたり、あるいは生物兵器として利用されたら堪らない。
とりあえず魔力を操作する練習をしてみた。
魔族の体では勝手が違い、少々手間取った。
「あれ……?」
魔力を少し動かしただけで、途方もない負荷が体にかかった。脳が揺れ、思わずその場に膝をつく。
「……う、お腹空いた」
これは燃費が悪すぎる。魔族が人間を食い散らかす理由の一端を知り、私は愕然とした。
「何をしている」
眩暈を堪えて蹲っていると、いつの間にかトキワが部屋に来ていた。ノックくらいしてほしい。
「……ちょっとこの体のことを知ろうと思って」
「あまり無理をするな。それはお前だけの体ではない」
その言葉にはいろんな意味が含まれていそうだったけど、鼻を掠める匂いに気を取られてどうでも良くなる。
「食事だ。飲め」
コップ一杯に注がれた赤い液体に、私は怯えると同時に喉を鳴らした。
「そ、それは……」
「地下で飼っている人間から採ったもの……と言いたいところだが、鴨の血だ。これなら抵抗は少ないだろう」
トキワの黒髪に羽毛がくっついていて、「本当は人間の血なんじゃ」と疑う気は失せた。この男はその手の小細工はしないだろう。
ありがたく頂戴することにした。鴨のものでも血を飲むなんて嫌だったが、これ以上飢えと渇きには逆らえそうにない。
直に噛みつけと言われず、わざわざコップに注いで持ってきてくれた気遣いには素直に感謝する。奇妙なところで意外な優しさを発揮する男だ。こういうところにシオンは惚れたのだろうか。
恐る恐る口をつけ、血を飲み干す。
あんまり美味しくなかった。味が薄い。空腹感も多少マシにはなったが、満たされるには程遠い。
「不味いだろう。人間のものが飲みたくなったら言え」
「いいえ。これでいい。……ありがとう」
めまいが治まった私は立ち上がり、彼の髪に付いた羽毛を取ってやった。
お互い何となく気まずい空気を味わった後、町の散策に誘われた。
「民が心配している。姿を見せてやってほしい」
「え、でも、シオンのフリなんてできないよ」
「当面は人間に頭をいじられて記憶を失くしたフリでもしてくれ。中身が人間だとバレるよりはマシだ」
迷ったものの、承諾した。逃げるためには町の様子を探る必要がある。
城を出ると、すぐに吸血鬼たちに囲まれた。
シオン様、シオン様、と無邪気に慕ってくる。正直怖かったけど、彼らの顔には安堵と喜びしかなくて、応えてあげなくてはという気持ちにもなった。
躊躇った末、私はトキワの陰に隠れつつ口を開いた。
「し、心配をかけて、ごめんなさい……」
「な!? シオン様が素直に謝った……!?」
民に間に動揺が走った。
そうだった。シオンは無表情で口を開けば文句ばかりの素直じゃない女だった。
「この通り、シオンは人間どもの術のせいで人格を歪められた。記憶も大部分を失っている。当面はそっとしておいてやれ」
ここぞとばかりにトキワが告げると、吸血鬼たちは殺気だった。魔力の圧が一気に上がる。
「人間め! 我らが姫になんてことを!」
「くそ! 殺してやる!」
「ああ、すぐにでも狩りに行きたいわ!」
人間へのぎらぎらした憎しみに、私はますます怯える。
シオンの中身が私だと知ったらどうなるのだろう。トキワの忠告の真の意味を今更痛感した。
城へ戻ってから、私はトキワに尋ねた。
一通り町を見て回って抱いた疑問だ。
民家の数の割に吸血鬼の姿が極端に少なかった。
忌々しげにトキワは息を吐く。
「食糧難で皆の魔力は弱まっている。だから戦争をしても前ほど圧勝できなくなり、むしろ犠牲者が多く出てしまう。民はここ数年、気軽に人間狩りにも行けていないのだ。最近はシオンが単独で人間を仕入れに行っていた」
今の状態で人間に町の場所を特定されたら非常にまずい。だから民は迂闊に町の外を出歩けない。
実際、トキワの兄が治める町の幾つかは人類に滅ぼされているらしい。シオンの両親も人魔戦争で亡くなっている。
「つまり、このままだと人類に負けそうなの? この町も危ない?」
「そうではない。断じてそのようなことは……俺がいる限り負けはない。だが、犠牲は覚悟しなければならないだろう」
歯切れの悪い様子に、私は確信した。
そう遠くない未来、吸血鬼は人類に負ける。
貴血種は別格の強さを持っているが、そもそも絶対数が少ない。出生率も低い。彼らさえ狩り尽くせば、人類が魔族を滅ぼすことも十分可能なのだ。
人間だった頃は思いもしなかった。
戦争は明らかに人類に分がある。
憎き仇の根絶は喜ばしいことのはずなのに、私の心はもやもやするだけだった。
それからしばらく、私は比較的穏やかな日々を過ごした。
「シオン様、遊ぼー……」
「弓を教えてください!」
町に行くと、大抵ヤナギとヒノキにまとわりつかれる。この双子は普通の吸血鬼の中では魔力が段違いに強い。そこを見込んだトキワとシオンに鍛えられ、懐いているらしい。
「弓か。できるかな」
人類の遠距離武器と言えば、銃。
魔狩人は鉛ではなく、己の魔力を弾丸にする。装填時間はいらないし、魔力がある限り弾切れもない。
今の時代、実戦で弓矢を使っている人間などほとんどいない。
一応授業の一環で習ったことはあるが、私の弓術は付け焼刃だ。
双子に連れて行かれた森の中には、大小様々な板の的が設置されていた。
「シオン様はよく弓の練習をしてました! 弦を弾いていれば、きっと昔のこと思い出しますよ!」
「体が覚えてるってやつ……なんかエローい」
「ヤナギ! 卑猥な発言はダメです! 姫の前ですよ!」
双子漫才を聞き流しつつ、私は試しに何度か矢を放ってみた。
コツを掴むと上達は早かった。本当に体が感覚を覚えていた。数百メートル先、枝に半分以上隠れた的を矢が穿つ。
いろいろとあり得ない。
魔力をろくに込めずにこの飛距離と精度だ。本気を出したら数キロ先の人間の心臓だって撃ち抜けそう。ていうか、視力が凄まじい。見たいところにピントが合う。望遠機能が付いているようだ。
でも、吸血鬼が遠距離攻撃の練習? なんだか似合わない。血、吸えないし。
何のために弓をやっていたんだろう。
トキワに対する憂さ晴らしだろうか。うん、多分そんな気がする。
白磁の城での生活は、特に不自由はない。
城で暮らせるのは貴血種だけ。この町ではトキワとシオンの二人だけだ。
ジェルトーラ王国のお城よりはかなり小さいけれど、男と二人で暮らしていると意識をしなくて済むくらいには広い。家事などは城勤めの民や使い魔が勝手にやってくれる。
トキワや町の皆は飼っている人間から食事をとっている。最初のうちは嫌悪感が強かったけれど、目が回るような空腹を体験してしまうと非難することはできなかった。恐ろしいことに彼らの食事風景にも慣れてしまった。これも自然の摂理なんだと無理矢理納得している。
それでも私は相変わらず動物の血肉で腹を満たしていた。正直物足りなくて、食事の回数自体は徐々に増えている。
「よくそんな粗食で耐えられるな。大したものだ」
「粗食だなんて……森の動物さんたちに謝りなさいよ」
私がむくれて睨みつけると、なぜかトキワは微笑んだ。
馬鹿にされているようで気に障る。
「何がおかしいの?」
「いや、シオンではあり得ないほど表情が豊かだなと思ってな。百年見てきた顔なのに、不思議と見ていて飽きん」
「……飽きるほど見てないだけじゃない?」
トキワはあまり町にいない。
民のために人間狩りに行ったり、父母や兄姉が治める町に行ったり、なんやかんやと忙しそうだ。
その間私は、着実に宵月の町から逃げる準備を進めていた。
魔力の使い方はだいぶ覚えた。町の出入り口も見つけた。動物に噛みつく練習もしている。トキワの不在時を狙えば、逃げられる。
トキワは私を見くびっている。ろくな食事をしていないから逃げる元気がない、あるいは、逃げてもすぐに捕まえられると思っている。
人間は魔族と比べ、体に内包する魔力量がとても少ない。だからこそコントロールして節制する術を身につけたのだ。魔力を垂れ流して生活している魔族とは違い、私はしっかりと管理して蓄えている。余力はある。
だけど、なかなか実行する気になれない。
私は療養を理由に全く働いていない。貴血種としての役目を果たしていない。
それなのに町の人々はとても優しい。
森で一緒に薬草を摘んだり、魔力で糸を紡ぐ方法を教えてくれたり、美味しいケーキをご馳走してくれる。
私の殺害に関わった双子すらだんだん可愛く思えてきた。
最初はシオンの心の残滓のせいだと思っていたけど、どうやらそれだけではない。
とてつもなく都合の悪い気持ちが芽生えつつあった。
ある日、兄王子の町から帰ってきたトキワが部屋を訪ねてきた。
「兄がお前のことを気にしている。もしも今後も娶る気がないなら寄越せとのことだ。そろそろ答えを出してもらおうか」
息を飲んで後退する私を見て、トキワは面白くなさそうに告げた。
「その気があるなら、後で俺の部屋に来い」
部屋に一人になってから、私はベッドに飛び込んだ。
あまりにも急な展開に、心臓が嫌な音を立てている。
「どうしよう……」
あれだけ躊躇っておきながら、いざとなると「なんでさっさと逃げなかったんだろう」と心が騒ぐ。
しょうがない。ここはとても居心地が良かった。
シオンを慕う民の顔が浮かんでくる。
魔族のくせに、ここのみんなは優しい。“シオン様”が大好きなのだ。
無表情で口を開けば文句ばかりの素直じゃないお姫様だけど、本当は民のことを大切に思っていて、危険を冒して人間狩りをしていた。鈍感なトキワとは違い、民はちゃんと彼女のことを分かっている。
ここにきて私の胸を占める感情は、シオンに対する羨望や嫉妬だった。
私には、ヴィオン・フロストルには、こんなに優しくしてくれる人なんていない。
ここから逃げてどこに行くの?
家族はいない。友達も失った。敬愛する主君のところに行けば、きっと死ぬまで兵器として使われるだろう。
でも、この町だって私の居場所じゃない。
みんなが好きなのは“シオン様”だもの。
彼女の中身が私だと知れば、あっという間に牙をむかれる。
それが嫌なら孤独に生きていくしかないのに、私にはその覚悟すらなかった。
一人ぼっちになれば、きっと私、この世の全てを恨む。憎しみを思い出してしまう。
私が私として安らげるような選択肢は、もう一つしかなかった。