3攻撃しない魔法使い
勇者の拠点へ向かう道は、森の中をゆるやかに伸びていた。
木々の隙間から差し込む光は細く、足元にはまだ朝露を含んだ草が残っている。湿った土の匂いと、葉のこすれる音が、歩くたびに静かに揺れた。
先頭を歩いているのはゼドだった。
白い外套の裾を揺らしながら、迷いのない足取りで進んでいる。けれど、その歩幅はときどきわずかに乱れた。
ほんの一瞬、息を整えるような間がある。
それに最初に気づいたのは、リテナだった。
「ねえ」
リテナが、少し明るい声で言った。
「そろそろ少し休まない?」
ゼドは振り返らずに答える。
「必要ない、まだ歩ける」
その声は子どもらしく高いのに、どこか偉そうだった。
勇者の前で見せていた従者としての静かな態度とは、少し違う。
リテナはむっとするでもなく、肩にかけた荷物をぽんと叩いた。
「あたしがお腹すいたの。村を出る前に軽食もらったでしょ?
せっかくだし、悪くなる前に食べようよ」
「勝手にすれば……」
ゼドはそっけなく言った。
けれど、足は止まっていた。
ケンサクはその様子を横目で見て、リテナの意図を察する。
(……ゼドが無理してるのに気づいたのか)
リテナは何も言わず、道の脇にある平らな岩場へ向かった。
木陰になっていて、休むにはちょうどいい場所だった。
「じゃあ、ここにしよ!」
リテナが荷物を下ろし、布包みを広げようとした瞬間だった。
「これは私が食べる!」
光がぴゅんと飛んだ。
ホタルが誰よりも早く包みの上に降り立ち、小さな焼き菓子のひとつに前足――のような光を置く。
ケンサクは無言でその光を見下ろした。
「お前が一番に選ぶな」
「えっ、なんで!?
こういうのは神に最初に捧げるのは自然な流れじゃない!?」
「自分で選んだら供物じゃないだろ」
「気持ちの問題だよ!」
「気持ちで食欲をごまかすな」
ホタルは不満そうに明滅した。
リテナはくすくす笑いながら、包みを丁寧に広げる。
中には、硬めに焼いたパン、干し果物、木の実、小さな焼き菓子が入っていた。
どれも素朴だが、丁寧に包まれている。
「あの子、これ美味しいからって持たせてくれたんだよね」
リテナは焼き菓子をひとつ手に取り、ゼドの方へ差し出した。
「ゼドくんも食べなよ。歩くなら、食べた方がいいよ」
ゼドは少し顔をそらした。
「いらない。僕は平気だ」
「でも、さっきからちょっと息切れてるよ」
「切れてない」
「じゃあ半分だけ」
「だから、いらないって」
「無理して倒れたら、もっと休むことになるよ?」
リテナの言葉に、ゼドは不満そうに眉を寄せた。
けれど反論はしなかった。
しばらくして、渋々といった様子で焼き菓子を受け取る。
「……そこまで言うなら、貰ってもいい」
「うん。どうぞ」
リテナは満足そうに笑った。
ゼドはその笑顔を少しだけ見て、それから気まずそうに視線を外す。
リテナから少し離れた場所に腰掛け、小さく焼き菓子をかじると、白い外套の肩から、ほんの少し力が抜けたように見えた。
ケンサクはその様子を見ていた。
白金に近い淡い髪。光を反射する、薄いミント色の瞳。
年齢に不釣り合いなほど整えられた服装と、胸元に下げた小さな守り袋。
ふと、視線がゼドの頭上へ向いた。
そこには、この世界の誰もが見ることのできる文字が浮かんでいる。
《ゼド》
《職業:魔法使い》
名前と職業。そこまでは、この世界の誰にでも見える表示だった。
けれど、ケンサクの目には、そのさらに下にもう一つ、淡い文字が見えていた。
《称号:信じる者》
ケンサクは、わずかに目を細める。
(信じる者……)
魔法使い。
勇者の仲間。
平和を乱すものを報告する少年。
その下にある言葉が、ただの肩書きではなく、もっと深い場所に刻まれたもののように見えた。
「なに見てるんだよ」
ゼドが不機嫌そうに言った。
ケンサクは視線を戻す。
「いや。魔法使い、なんだなと思って」
「見ればわかるだろ」
「まあ、そうだな」
ケンサクはパンをひと口かじり、少し考えてから続けた。
「ひとつ聞いていいか」
「なに」
「前に森で見たとき、お前は攻撃魔法を使わなかった」
ゼドの手が止まった。
リテナとホタルが楽しげに話している声が遠くで聞こえる。
ゼドはしばらく黙っていた。
それから、小さく鼻を鳴らす。
「使わなかったんじゃない。使う必要がなかっただけだ」
「防御と撹乱ばかりだったように見えた」
「それで十分だった」
「本当に?」
ゼドの眉がぴくりと動く。
少しだけ、空気が硬くなった。
リテナはケンサクとゼドが何か話していることに気がつく。
けれど、聞き耳は立てずに目をそらす。
ゼドは焼き菓子を見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「攻撃は、勇者様の役目だ」
その声は、先ほどまでの子どもっぽい偉そうな響きとは違っていた。
もっと静かで、もっと深いところから出ている。
「僕は、そこには踏み込まない」
ケンサクは黙って続きを待った。
ゼドは少しだけ視線を上げる。森の奥ではなく、もっと遠い場所を見るような目だった。
「魔法は、魔力を形にするものだよ。……でも、魔力だけあればいいってわけじゃない」
ゼドの指先に、淡い光が灯る。
それは小さな輪になり、空中でふわりと揺れた。
「守りたいと思えば、壁になる。隠したいと思えば、霧になる。惑わせたいと思えば、光になる」
光の輪は一瞬だけ薄い膜のように広がり、次に細かな粒になって散った。
「傷つけたいと思えば、刃にも炎にもなる」
その言葉のところだけ、ゼドの声はわずかに低くなった。
「魔法って……そういうものなのか?」
ゼドは呆れたようにケンサクを見る。
「気持ちだけじゃない。術式も、魔力量も、才能もいる。でも、最後に形を決めるのは、何をしたいかだ。
君、賢者のくせに本当に魔法について何も知らないんだね」
ケンサクは、ゼドの言葉を頭の中で整理する。
(魔法は意志に引っ張られる。だから攻撃する意志がなければ、攻撃魔法は形にならない……?)
ゼドは指先の光を消した。
「僕は昔、攻撃魔法も使えた。まだ今のように全員が神から与えられた職業を持っていなかったから、魔法使いも珍しかった」
ゼドは淡々と続けた。
「魔法が使える、さらに子どもは便利だからな。遠くから撃てる。隠れて撃てる。大人より小さいから、敵にも気づかれにくい」
「戦う道具みたいに扱われてたってことか」
ケンサクは、ふと思い出した。
先ほど、ホタルを「便利な道具」扱いした時、ゼドがほんのわずかに顔をしかめていたことを。
ゼドは否定しなかった。
ただ、少しだけ肩をすくめる。
「そういう時期で、そういう場所だった。それだけ」
その言い方が、かえって痛かった。
怒りも、恨みも、泣き言もない。
ただ、そういうものだったと受け入れている声。
「でも、勇者様が来た」
ゼドの瞳に、淡い光が戻る。
「勇者様は、僕に言ったんだ」
ゼドは焼き菓子を握る手に、少し力を込めた。
「君は、救われる側でいていいって」
森の風が、そこで一度止まったように感じた。
ゼドだけが、その言葉を大切な宝物のように抱えていた。
「それで、思ったんだ。もう撃たなくていい。
誰かを焼かなくていい。敵を倒すのは勇者様がやる。僕は、そこに踏み込まなくていい」
ケンサクは、ゼドの頭上に浮かぶ文字を思い出す。
《称号:信じる者》
「そう思ってるうちに、攻撃魔法は使えなくなった」
ゼドは、少しも悲しそうではなかった。
むしろ、誇らしげだった。
「使えなくなって、よかった」
「……よかったのか?」
「よかったに決まってるだろ」
ゼドは当然のように言った。
「敵でも、魔物でも、命を奪うのは辛い」
ケンサクは否定しなかった。
それを否定することは、ゼドが救われたと思っている過去そのものを否定することになる。
けれど、飲み込めたわけでもなかった。
ゼドはそこで一度、言葉を切った。
それから、自分の髪を指先でつまむ。
「この髪も、その時に勇者様の光に染まったんだ」
ゼドが顔を上げる。
「元から、その色じゃないのか?」
白金に近い髪が、木漏れ日を受けて淡く光る。薄い瞳も、同じように光を映していた。
「違う」
短く答えたあと、ゼドは胸元の守り袋に触れた。
「勇者様の光に触れたんだ」
その声には、はっきりとした誇りがあった。
「その時に、こうなった」
ゼドは自分の髪を一房つまみ、少しだけ持ち上げた。
「救われた証しだ」
ケンサクは息を止める。
傷跡。
後遺症。
そう呼ぶこともできるはずのものを、ゼドは迷いなく「証し」と呼んだ。
「だから、僕はこの色が嫌いじゃない」
ゼドはケンサクを見た。
少し偉そうに、けれどどこか幼い目で。
「勇者様は、僕を道具じゃなくしてくれた」
その言葉は、まっすぐだった。
あまりにもまっすぐで、ケンサクはすぐには返せなかった。
ただ、もう一度だけゼドの頭上を見る。
《ゼド》
《職業:魔法使い》
そして、その下にある言葉。
《称号:信じる者》
先ほどよりも、その文字は重く見えた。
ゼドは残りの焼き菓子を口に入れ、立ち上がる。
「休憩はもういいだろ。拠点まで、まだ少しかかる」
ケンサクは何か言いたそうにしていたが、最後には小さく頷いた。
「そうか」
ホタルがケンサクの肩へ舞い降りる。
「ケンサク〜!ずいぶん仲良さそうに話してたね!ねえ、何の話?」
「……なんでもない」
ケンサクは荷物を背負い直し、ゼドの小さな背中を見た。
白い外套。
白金の髪。
勇者の光に焼かれた、救いの証し。
そして、攻撃を失った魔法使い。
(救われた、か)
ケンサクは心の中で、その言葉を繰り返す。
けれど答えは出なかった。
ただひとつだけ、確かに思った。
ゼドは嘘をついていない。
この子は本当に、勇者を信じている。
だからこそ――その信じ方が、真っ直ぐすぎて痛ましかった。




