業人
───良い子にしてないと業人が来るぞ!
それは自分が幼い頃に何度も父親から言われていた言葉であった。
業人──地獄の業を背負った大罪人の妖怪変化──が夜中になると悪い子の枕元に現れ、その魂を無間地獄へと攫って行く。それはある種の土着信仰にも似た伝承の類だったように思う。
私のイタズラが見つかるたびに、「業人に連れて行かれるぞ」と脅し文句のように繰り返していた父。
幼いながらも「そんなの居るはずないじゃん」と心の中で笑っていたはずなのに、不思議なもので自分に子供ができてみると、あの日の父と同じ言葉を同じように子供達に伝えていた。
「悪い子のところには業人が来るぞー!」と眼を見開きながら脅す私を見て、まだ幼い子供達はまん丸な瞳に薄らと涙を浮かべながら「やだー!パパ怖いー!」と妻に抱きついて行く。
「あらあら、大丈夫よ。業人が来ても、きっとパパがやっつけてくれるわ」
そう言いながら、左右の脚にしがみ付く子供達の頭を撫でる妻と、庭先でそれを笑いながら見ている自分。今思えば、あれが幸せという物だったのかもしれない───
部屋の整理中に偶然見つけたアルバムを開くと、何十年も前の想い出がまるで昨日の事のように甦る。色褪せた写真を眺めながら、私は心地よい胸の痛みに浸っていた。
アレと外出する際は、出来るだけ目の届く範囲に置くように気を付けている。
目を離すと何をやらかすか気が気ではないのが1番の理由ではあったが、口煩い親がいる事で一定の抑止力になる、そんな考えもあった。万が一アレが何かをしでかそうとも、自分が傍に居ればすぐに止められる、そうも思っていた。
しかしその均衡は、あっけなく崩れ去る。
アレを連れて3人で買い物に出た帰り際、車から降りて玄関に向かう途中で、アレがふいに立ち止まる。
「順平どうしたの?早く家に入るわよ」
妻が振り返って声を掛けるも、何かに視線を奪われた様子のままアレは微動だにしない。
───何だ?コイツどこを見て───
その視線は、向かいの家──天神さん宅の庭先で遊んでいる女児達へと向けられていた。
どうも息子夫婦が子供を連れて帰省しているようで、この数日、可愛らしい姉妹の黄色い声が向かいから聞こえていた。
「おい順平、何をしとんのや」
その時、こちらの声を聞いた天神姉妹が顔を上げると、私たちの視線に気付いて笑顔で手を振る。その人懐っこい笑顔に、私の胸の内で急速に不安が膨らんでゆく。
「…おい順平!早く家に入れ!」
息子の上着の袖を掴んだが、もう手遅れだった。順平は私の手を荒々しく振り払うと、躊躇なく向かいの庭に踏み入る。
「ジブンラ、オラノガチコイ? シャムサンノ、カノジョニナリタイ?」
急に迫って来た不気味な男に怯え、姉妹は身を強張らせている。
「シットルカ?ショウガクセイデモ、ヌレルンヤデ」
恐怖に震え、姉妹はとうとう泣き始めた。
「何やっとんやお前!」
「何してんの順平!」
荷物を手放すと慌てて駆け寄り、妻と2人で順平を押さえ込もうとする。しかし年老いた自分達では、もう40歳の息子を止める事は出来なくなっていた。
「アンチハ、キエウセロ‼︎」
アレに乱暴に突き飛ばされ、庭石に腰を強かに打ち付けて倒れ込んでしまう。妻は軒先に頭をぶつけ、こめかみから血を流している。
痛みに顔をしかめる父を、頭を押さえてうずくまる母を、満足そうに見下ろしながらアレは醜く頬を歪める。
──ホラナ。モウ、オラノホウガツヨイダデ──
口には出さずとも、アレが何を思っているかは明白だった。その乾燥シジミのように縮こまった双眸の奥で、小さな瞳が歓喜の色に染め上げられていたから。
目の前で暴れ始めた怪物を見て天神姉妹は悲鳴をあげる。
「オカシタイ!ガンヅキシタイ!スカートニカケタイ!」
泣いている女児に抱きつくと、卑猥な言葉を吐きかけながら腰をヘコヘコ振り始める。
「やめろ順平!誰か…誰かアイツを止めてくれ!!」
立ち上がれない私は必死で叫び、騒ぎに気付いた息子さんが裸足で庭先に飛び出すと、アレを力任せに殴りつけて子供達から引き剥がす。
「キャケロビャッ!」
情けない悲鳴を上げ、轢かれた蛙のように地面に叩き伏せられても尚、アレは白目を剥きながら気が狂ったように抵抗を続けていた。
「オバエラ、オラニシットシトルンヤロ!アンチ、メッサツ!」
奥さんの通報で警察が駆けつけるまでの数分間、訳の分からないことを喚き続けるアレを遠目に見ながら、あの日の父の言葉が脳裏をよぎる。
───良い子にしてないと、業人がやってくる───
業人なんて居るはずがないと思い、あの日の自分は真面目に父の話を聞いていなかった。
いつかこうなると分かっていたのに決断を先送りにし、痛みを薄く引き延ばす日々を送っているうちに、その妖怪が産声を上げていたのだ。
───そうか、私が良い子にしていなかったから───
「オラハ、ワルクナイ!セイスプサレルホウニモ、セキニンガアル!」
私の目の前で、業人が叫び続けていた。




