№17_長い旅を終えて~3姉妹の時間旅行・完結編
ーー帰ってきた三姉妹ーー
――カタン。
古びた柱時計が、午後の時刻を鈍く打った。
次の瞬間、三姉妹は自分たちの部屋の畳の上に、テンカウントが決まった後のパイルドライバーのように転がっていた。
「いたたたた……!」
「ちょ、湍津! 肘が脇腹に入った! どんな関節技よ!」
「田心こそ髪踏まないでよ! 毟れる、神の毛が毟れるッ!」
三人は、芋虫のようにもつれ合いながら起き上がる。
そこは、見慣れた昭和の六畳間。学習机。積み上がった赤本。壁に貼られた「共通一次まであと〇日」の、今見ると心臓に悪い紙。窓辺のサボテン。すべてが出発前と寸分違わぬ光景だった。
長女の市杵がハァ~と息を整えながら、壁の日めくりカレンダーに飛びつく。
「……よかった」
彼女は、過酷な軍縮条約をまとめ上げた外務官僚のようなドヤ顔で深く頷いた。
「日めくりカレンダーもそのまま。時間も、お父さんに『実家から通えーっ!』って怒鳴られた直後から、3時間ぐらいしか進んでないわ。私たちの時間旅行は、どうやら無事に終了したようね」
「終了したようね、じゃないわよ……!」
次女の田心は、魂の抜けた顔で畳に大の字になった。
「江戸城で三十年分の人間関係とドロドロの政治と、ついでに将軍の後継問題を一気に浴びせられたのよ!? こちとら脳みそが、ゲーム中にバグったファミコンみたい、もう頭がピーマンなんだから!」
そう言いながらも、田心の顔には妙な充実感が漂っていた。
「でも……死ぬほどたいへんだったけど、歴史の裏側をナマで見てきたのはハイソな体験ね。あの時代に生きた人たちの心に触れられるなんて、バリバリに貴重な思い出だわ。あんなの、試験のための暗記中心の勉強とは全然違うもの。もし共通一次の前に経験してたら、日本史の偏差値が80ぶち抜けてたかも!」
「いや、どうかなあ」
三女の湍津は、早くも現世の堕落に染まり、ごろんと寝返りを打った。
「情報量が濃すぎて逆に詰むわよ。『徳川家重=言語不明瞭』っていう一問一答の暗記カードを見た瞬間にさ、『いや実際は猿楽オタクで、兄弟仲良くて、大岡忠光さんが胃痛で血反吐吐きながら通訳しててさあ……!』とか、試験中に脳内再生されてプッツンするのがオチよ」
「それはあるわね……」
「受験勉強は、やはり歴史のロマンより効率重視だね」
藝大志望とは思えぬ、極めて現実的かつ冷徹な湍津の発言に、市杵と田心が同時に吹き出した。大奥を生き抜いた女子大生、現実を見る目が一味違う。
その時だった。
ピシャァン! と、引き戸の襖が勢いよく開く。
「あなたたちー!」
現れたのは、昭和のエプロン姿が世界一似合う母・櫛奈である。その手に持ったハタキが、なぜか震えている。
「なんだか玄関に、すっごく妙なお客様が来てるのよ。不動産会社の方ですって」
「あ」
市杵の顔が能面のように固まった。
大学進学に向けて、夢の「三姉妹オシャレ新生活」用のアパートを探してもらっていた件である。
江戸幕府の命運を左右する超大型政治劇の直後に、未来の日本へ引き戻されるとは、因果応報にしては残酷すぎる。
「……そうだった」
市杵は遠い目をした。
「もう大学へ通う前提で話が進んでたんだった……」
「残念だけど、あのステキな賃貸物件はお断りするしかないわね」
やっと探し当てた、東京文京区の閑静な住宅地の木造アパート六畳一間・風呂トイレ付き物件を思い浮かべ、田心も絶望の表情で頷く。
「三人とも、あんな怒涛の経験をしたあとで、昭和の新生活にチャレンジできるメンタル残ってないわよ。お手上げよ」
「というか、今なら江戸城の長局(大奥の部屋)の方が、プライバシーないけどまだ住みやすかったかなぁ」
「あの頃はぁ……」と、湍津がどこか懐かしそうに遠い目をする。
だが、その感傷を市杵が即座に叩き切った。
「それはないわ!」
珍しく本気で語気を荒げる。
「大奥の人間関係なんて、ガチの地獄よ。二度とごめんだわ!」
派閥争い、陰口、足の引っ張り合い。
外交官志望の市杵ですら胃が痛くなるほどの世界だったのだ。
一方の湍津は、昔から“圧”で大抵の対人問題を突破してきたタイプである。市杵の繊細な悲鳴に、どこか他人事のような顔で肩をすくめた。
「まあ、昭和の女子大生アパートも、壁が薄すぎて別方向の地獄なんだろうけどね……」
そんな現実逃避の会話をしつつ、市杵はよっこらしょと立ち上がる。
「お母さん。玄関先で待たせるのも悪いし、とりあえずお通ししてもいい? お断りの話は私がするから」
「ええ、お願い。なんだか、ものすごーーく上品な人なのよ。普通の営業さんとは桁違いというか、彩雲を纏っているというか……」
三姉妹は顔を見合わせた。
――走る、電撃のような戦慄。
いやな予感がする。それも、実家が神社である彼女たちが最も警戒すべき、「神様案件」の強烈なにおいが。
◇
バタバタと廊下を駆け抜け、玄関を覗くと、そこにはダイアナ妃を思わせるようなファッションに身を包んだ美女がにこやかに佇んでいた。
「―――私のこと、覚えてる?―――」
その声を聞いて、三姉妹の思考が完全停止した。
そこにいたのは、以前来た、手汗まみれのパンフレットを握りしめていた愛想笑い全開の芋くさい営業マンではなかった。
身体のラインを完璧に美しく見せる、最高級のロイヤルブルーのスーツ。
1mmの乱れもない、流れるような夜色の長髪。
すべてを見透かすような、妖艶極まりない気品ある微笑。
実年齢を計測しようとすれば脳の計算回路が焼き切れるほどの、圧倒的「年齢不詳」。
引くほど鮮やかな光彩を放つスーツが、昭和の地味な木造平屋の玄関で狂ったように映えている。
そして何より――現世の物理法則を書き換えるレベルの、“場の空気を支配する、超ド級の圧(プレッシャー)”。
女性は、まるでパリの社交界にいるかのような優雅な仕草で、昭和の狭い玄関先から3姉妹に微笑みかけた。
「お久しぶりね、皆さん。お部屋探し、難航しているのかしら?」
三姉妹はそろって顎が外れんばかりに口を半開きにした。
「「「……そんなバナナッ……」」」
時が止まる。
最初に声の帯域を取り戻したのは、脳がオーバーヒート中だった田心だった。
「……も、もしか、して……っ!」
女性は、ふふっ、と大奥の庭園で桜を眺めていた時とまったく同じ、意味深な笑顔を浮かべる。
その笑顔の残像が網膜に映った瞬間、三姉妹の脳裏に、夜空を舞う怪しい狐火、そびえ立つ江戸城、嫉妬と権謀術数が渦巻く大奥、そして「現代では不動産会社」という超設定の文字が、凄まじいスピードでフラッシュバックした!
「「「お万様ァーーーーーーーッッッ!!!???」」」
三姉妹の鼓膜を破らんばかりの絶交が、静かな月島の住宅街に木霊した。近くの電信柱から雀が一斉に飛び立つ。
後ろからついてきた母・櫛奈が、目を真ん丸にしてハタキを落とした。
「えっ!? ちょっと、あなたたち、お知り合いなの?」
「知り合いっていうか!!」
「江戸城大奥の!!」
「千年以上生きてる神様レベルの妖狐で!!」
「関東稲荷大明神の総元締ーーーーーーーッ!!」
昭和の一般家庭の玄関先で、国家機密級のスピリチュアル暴露を口々に叫び散らす三姉妹。
しかし、そんな大騒ぎを前にしても、「お万様」こと万田美佐子は、ただ優雅に小首を傾げ、トドメの一言を放つのだった。
「あら、今はただの『万田不動産』の社長よ? さあ、あなたたちにぴったりの、大奥よりセキュリティーの厳しい物件を紹介しに来たのよ」
――三姉妹の昭和の日常は、戻ってきた瞬間に、別方向の超特急へと舵を切ったのであった。
◇
バタバタと騒ぐ娘たちを余所に、まずは茶の間へご案内する。
目的は言わずもがな。三姉妹の引っ越しに絶対反対の姿勢を崩さないガンコ親父、草薙須佐男を説得するためである。
茶の間の古いちゃぶ台を挟み、お万様――万田美佐子は、居住まいを正した。
先ほどまでの妖艶な微笑みは鳴りを潜め、その指先からつま先に至るまで、完璧に洗練されたビジネススタイルで名刺を差し出す。
白地に気品ある金文字で記されていたのは、『関東稲荷総合開発株式会社 社長 万田美佐子』の文字。
それを受け取った須佐男が、値踏みするような視線を向けた、その瞬間だった。
茶の間の空気が、一瞬にして凍りついた。
昭和の古めかしい木造住宅。擦り切れた畳。黄色い蛍光灯。それらすべてが、まるで太古の神域へと変貌していくかのように、厳かで圧倒的な静寂に包まれる。
万田社長は深く頭を垂れた後、背筋を美しく伸ばし、朗々とその口上を響かせた。
それはビジネスの挨拶などではない。神代より続く、厳かなる神前式の祝詞そのものであった。
ーーー
「掛けまくも畏き、建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)の大前を拝し奉りて、恐み恐みも白さく」
鈴の鳴るような、しかし地響きのように腹に染み入る声が、茶の間を震わせる。
「氏子、万田美佐子は、本日、初めて大神の御前にまみえ奉る栄ある御神縁を賜ひ、身に余る恐懼と感激に堪へざるなり。顧みれば、我が家門代々、この清き土地に生かされ、大神の広き厚き御恵みの下、平穏なる日々の暮らしを営み来りしこと、誠に忝く、有難き極みに存じ奉る」
三姉妹は息を呑み、母・櫛奈は思わず正座のまま深く平伏した。お万様の背後に、うっすらと神々しくも凄まじい、九本の尾を持つ黄金の狐の幻影が見えた気がしたからだ。千年以上を生きる妖狐の、これが本気の「祝詞奏上」だった。
「ここに初手のお目通りを許され、謹みて御神威の尊さを肌に感じ、氏子としての責任の重さを身に引き締むる次第なり。今後は、心を清く正しく保ち、日々の生業に励み、氏子としての務めを誠心誠意果たし奉ることを、大神の御前に誓ひ奉る。どうか、大神の御稜威を以て、我が家の生業と一族の上を長く護り導き給へ、と恐み恐みも白す」
一文字の淀みもなく一気に発せられた言霊は、神聖な光の粒となって茶の間を満たしていく。お万様、万田美佐子は深く、深く、再度伏令をして、美しく頭を畳につけた。
沈黙が流れる。
試されるような緊張感の中、ちゃぶ台の向こうで、ジャージ姿の須佐男が静かに目を閉じた。
だが、その双眸がカッと見開かれた瞬間、彼の放つオーラが「冴えない昭和の頑固親父」から、「海原と根の国を支配する荒ぶる絶対神・スサノオノミコト」へと完全に覚醒する。
須佐男は名刺を恭しく懐へと収めると、万田社長の誠意を真っ向から受け止め、重々しく、しかしどこか晴れやかな答礼を返した。
「謹んで承り候。これを深く我が心に納め、ご一族様の一層のご繁栄を祈念するもので候」
ドォン、と目に見えない衝撃波が走り、神代の契約がここに結ばれた。
「「「…………」」」
息を詰めて見守っていた三姉妹は、あまりの神聖さとド迫力に完全に圧倒され、声を出すことすら忘れて硬直していた。
(……っていうか、お父さん)
(……ジャージ姿のまま、めちゃくちゃカッコいい神様モードに入っちゃったんだけど……!?)
厳粛極まる挨拶の裏で、三姉妹の心の中だけは、別の意味で大パニックに陥っていた。
ーー三姉妹の新生活プランーー
「さて、ここからは、不動産会社社長の営業モードで参りますので、ご無礼ご容赦お願いいたしますね」
お万様はふっと上体を起こすと、先ほどまでの神聖なオーラを瞬時に霧散させ、代わりに鋭利なビジネスパーソンの笑みを浮かべた。その声音の軽やかな切り替えに、三姉妹の背筋に冷たいものが走る。
てっきりここから具体的な物件のパンフレットでも飛び出すのだろう――そう身構えた須佐男は、先手を打つように重々しく首を振った。
「せっかくのご提案だが、娘たちは家を出ずに、それぞれの大学に通うことにあいなった。片道2時間以上の通学もまた修行。学業に不屈の精神を養うにもふさわしい……」
だが、万田社長はその厳格な父親の言葉を、片手をすっと挙げて制した。物件情報の一枚すら取り出すこともせず、ただ真っ直ぐに、須佐男の目を射抜く。
「無礼承知で申し上げます。……頑固オヤジ」
その場にいた全員の心臓が止まった。
静まり返る茶の間。須佐男の顔が、怒りでみるみるうちに真っ赤に染まっていく。ジャージの奥の筋肉が、ピキピキと音を立てて膨張した。
「妖が、この儂に楯突くつもりか……!」
ゴゴゴゴ、と地鳴りのような地響きが草薙家を揺るがす。昭和の古い天井から、パラパラと埃が落ちてきた。嵐の神としての本源的な神威が解放されかけ、居間は一触即発、一歩間違えれば月島の一角が消し飛びかねない極限の緊迫感に包まれた。三姉妹は恐怖で身を寄せ合う。
その破滅の秒読みを止めたのは、静かに、しかし絶対の拒絶を孕んで立ち上がった母・櫛奈であった。
エプロン姿のまま須佐男の前に毅然と立ちはだかり、夫の荒ぶる視線を正面から受け止める。その佇まいは、荒波を鎮める聖母――クシナダヒメノミコトそのものであった。
「建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)よ、いと畏き御身にも似げなく、荒ぶる御気色を顕し給ふこと、まことに見苦しき限りに候ふ」
凛とした声が、須佐男の放つ狂暴な神気を一刀両断にする。
「妖異なりと卑しめ給ひて、誠心より出でし言葉を聞き捨て給ふことなかれ。願はくは、尊き御神威を損なひ給はぬやう、御心を鎮め給へかし」
妻の、威厳を帯びた痛烈な一喝。
さしもの最強の武神も、最愛の妻のこの大真面目な怒りには抗えない。須佐男の額に青筋が浮かんだままであったが、爆発寸前だった神気は、檻に閉じ込められた猛獣のように、どうにかその身の内へと収められていった。
嵐の前の静けさのような、張り詰めた沈黙が茶の間を支配する。クシナダヒメの仲裁によって辛うじて保たれた均衡の中で、お万様は不敵な笑みを崩さぬまま、次なる言葉を紡ごうとしていた。
ーー完璧なプレゼンテーションーー
「3人の愛娘――いえ、実は三身一体の聖剣『天羽々斬』ですからね。お手元から離したくないお気持ちは分かります」
お万様は、須佐男の痛いところを正確に突いて妖しく微笑んだ。
「しかし、子供の学業成就の前にはそれも控えねばなりません。通学の利便性を第一に考えねば。つきましては……私によい考えがあります」
パチン、とお万様が指を鳴らした瞬間、茶の間の明度が不自然に一段階下がった。
彼女が懐から取り出したのは、手のひらサイズの小さなフィルム――スライド写真だ。そしてもう片方の手をそっと掲げると、その指先に、青白く揺らめく怪しい「狐火」がぽっと灯った。
シュウウウ……と、狐火の光がスライドのフィルムを透過する。次の瞬間、草薙家の古ぼけた壁に、鮮明な都心周辺の地図がくっきりと投影された。半分は現代のテクノロジー、半分は千年生きた妖狐の妖術による、即席の幻灯上映会である。
「あれ、高校の授業で見たことがある。OHP(オーバーヘッドプロジェクター)ね! さすがお万様、昭和の最新機器を超える技術を使いこなしてる!」
田心が感心したように声を上げる。
すかさず湍津も身を乗り出した。
「江戸時代の大奥で見せてもらった狐火の術ね。あのとき見せてもらったベネチアの映像、今でも頭に鮮明に残っているわ!」
万田社長は2人の声を優雅に受け流しながら、長い指揮棒で壁の地図を指し示し、解説を続ける。
「東大、藝大、外語大と、地図ではこのように綺麗に離れています。しかも、ここ東京月島・佃島エリアは、現段階では非常に交通の便が悪い」
そうなのだ。のちのバブル期以降に地下鉄有楽町線が、2000年以降に大江戸線が開通するまでは、この界隈は「陸の孤島」とすら呼ばれる不便な立地であった。
「折角の最高学府で学ぶのに、毎日ここから満員電車とバスを乗り継いで2時間以上かけるなど、通学としては全くお勧めできません。3人の姫神様には、それぞれの大学に近い場所にお住まいいただくのが一番です」
そう言うと、お万様はもう一枚のスライドを指先で重ねた。狐火の光が強まり、地図の上に「3つの赤い点」がぼうっと浮かび上がる。
「この三つの赤い点は、人が居住可能な社のある稲荷神社を示しています。ここに『巫女』としてお勤め(バイトして)頂きながら、それぞれの大学に通うというのはどうでしょう? これなら防犯性も抜群、家賃はタダ、神職のお父様も文句なし。いかがかしら?」
昭和の茶の間に突如現れた、妖術ハイテクプレゼンテーション。お万様の完璧すぎる提案に、三姉妹は「その手があったか!」と目を輝かせ、頑固親父の須佐男はぐうの音も出ずに唸るしかなかった。
ーー更なるサポート体制ーー
「もちろん、大切なお嬢様方の初の一人暮らしですから、ご心配でしょう。それぞれの神社には私どもの息の掛かった管理人を置きます。それぞれの稲荷神社で2人暮らしとなりますね」
お万様がそう言って、さらに指先を艶やかに一振りした。
シュウッ、と茶の間に新たな3つの狐火が明滅する。青白い炎は生き物のようにのたうつと、次第に人間の輪郭を形作っていった。まばゆい光が収まった後に現れたのは、それぞれに個性の異なる3人の見目麗しい女性の姿だった。
「この3人を、それぞれの姫神様の世話役にいたします。……いずれも前世において、人々に大きな厄災をもたらした大妖。その罪を償うため、現代は更なる『徳』を積まねばならぬ身の上にございます」
お万様は、ふっと声音を再び厳かなトーンへと戻し、須佐男を見据えた。
「建速須佐之男命様の娘様――すなわち、かつて世界を救った聖剣の神霊をお世話するということは、彼女たちにとってこの上ない徳行となります。どうか、この者たちに免じて、姫神様方の自立をお許しいただきたく、伏してお願い奉ります」
お万様の言葉が終わると同時に、3人の女性たちは一斉に畳に手を突き、見事な伏礼を捧げた。そして、張り詰めた静寂の中で、それぞれが自己紹介を始める。昭和の茶の間に、かつて歴史の闇を震え上がらせた美女(元・大妖)たちの声が、恭しく響き渡った。
ーー三妖狐のプロフィールーー
伏見稲荷の深奥――幾千もの鮮烈な朱塗りの鳥居が連なる神域にて。
かつて「九尾」と恐れられ、世界の歴史をその妖力で捩じ伏せてきた三つの大妖は、長きにわたる悔悟と折伏(しゃくぶく)を経て、その昏き魂をようやく浄められていた。
もはや、甘言を弄して人を惑わす妖狐ではない。
稲荷大神の御前に額づき、永き贖罪の果てに「護る者」として新たな名を賜ったのである。
現代の世では、いずれも三十代ほどの麗しき人間の姿を取り、人の世に平然と紛れながら、密かに神域を支えるために動いていた。
――もっとも、現在の彼女たちは、草薙家の古びた六畳間にスーツ姿で美しく正座し、それぞれの「経歴」を順番に語らされている真っ最中なのだが。
一、伏見 朱乃(ふしみ・あけの)――妲己の転生
まず口を開いたのは、年の頃は三十四、五ほどに見える、落ち着いた雰囲気の女性だった。
艶やかな黒髪を長く結い、切れ長の瞳にはどこか妖しい光を宿している。かつて古代中国の殷王朝を文字通り滅亡へと導いた悪女「妲己」の記憶を持つ美女だ。だが、今の彼女はその天性の美貌を“人を狂わせるため”ではなく、“人の傷ついた心を鎮めるため”に用いている。
伏見稲荷の境内で、参拝者を優しく迎える茶屋で働いている。悩みを抱えて暖簾をくぐる者へ静かに温かい助言を与える存在として、隠れた人気を誇っていた。
笑うと非常に妖艶。だが、怒るとこの上なく怖い。
そんな彼女は、ちゃぶ台の向こうの須佐男へ向けて、にっこりと淑やかに微笑んだ。
「お初にお目にかかります、スサノオノミコト様。伏見朱乃と申します。……まあ、昔はちょっとばかり国を滅ぼしたりもしましたけれど、今の私はお茶屋の団子の味付け論争で白絵と喧嘩する程度に、すっかり落ち着いたものですわ」
極めてお淑やかな口調ではあるが、本気で怒らせると背後に巨大な九尾の影がゆらりと浮かび上がるという噂が絶えない。
二、那須 白絵(なす・しらえ)――玉藻前の転生
続いて、その隣に座る三十二歳前後に見える上品で知的な女性が、これ以上ないほど美しいお辞儀をした。
白金に近い淡茶のショートボブに、雪のように白い肌。かつて平安時代に鳥羽上皇を魅了し、国を揺るがした絶世の美女・玉藻前その人である。今でも和歌・香道・雅楽といった古典芸能に対して、異様なまでの深い造詣を誇っていた。
現在は、その手先の器用さと膨大な知識を活かし、京都の古美術修復師として活動中だ。失われた古文書や色褪せた仏画を現代に蘇らせる、極めて真っ当な仕事に携わっている。
口調はどこまでも柔らかく優美だが、その中身は恐ろしいほどの毒舌家であった。
「那須白絵と申します。大学へ通われる姫神様方には、雅な教養もお教えできるかと存じますわ。……それにしても、人間の権力欲や愚かさというものは、平安時代から何一つ進歩しておりませんわね。ですから、我が身を可愛いと思う頑固な殿方の御心など、手玉に取るのは容易でございますの」
涼しい顔でとんでもない辛辣さを放つ彼女だが、なぜか温泉旅行の計画で「栃木県(かつて玉藻前が討たれた那須野がある地)」の名前が挙がると、妙に機嫌が悪くなるという可愛い弱点もあった。
三、天竺 華蓮(てんじく・かれん)――華陽夫人の転生
最後に、三十代後半ほどに見える、どこか異国的なエキゾチックな美貌を持つ女性が、快活に笑って頭を下げた。
健康的に褐色がかった肌と、情熱的な深紅の瞳。ゆるやかなウェーブを描く巻き髪をラフに纏った彼女の正体は、かつて遠く古代インドのマガダ国を大混乱へと陥れた悪名高き華陽夫人である。
現在は「宗教文化研究家」という肩書きを名乗り、世界各地の神話や多種多様な信仰を飛び回って研究していた。特に“人の純粋な祈りが、いかにして共同体を支えるか”という高尚なテーマに強い関心を抱いている。
かつては人心を巧みに操って戦乱を引き起こすことに長けていたが、現在はその類稀なる才覚を、専ら「人間関係のトラブルや争いの仲裁」のために用いていた。
「天竺華蓮だよ! よろしくね、神主のお父さん! あたしは人心掌握が得意だから、お嬢さんたちの悩み相談なら何でも乗るよ!」
非常に頼もしいお姉さんキャラなのだが、いかんせん致命的に酒癖が悪かった。
夜の女子会でひとたび酔いが回ると、「あーあ! 昔はあたしも国ひとつ綺麗に燃やしたんだけどねぇ!?」などと物騒な武勇伝を管気味に語り始めるため、そのたびに朱乃と白絵から両脇を締められて強制送還されている。
この一癖も二癖もある三人は、裏の神職たちの間で現在、「稲荷三華」と密かに呼ばれ、畏怖されていた。
神域を乱そうとする不埒な妖異の監視、人の世に現れる怪異の泥臭い調停、そして時折“あちこちの問題児の神々”がやらかした大迷惑な神事の後始末までを完璧に請け負う、伏見稲荷の半ば非公式な最強の実働部隊なのである。
もっとも。
当の本人たちは、この過酷な現代社会の任務を至って気楽に捉えているようで。
「まあ、昔の国家転覆命の時代に比べたら、今の派遣社員ライフは実に平和な仕事よねぇ」
「ええ、本当に。今は命がけの呪術合戦じゃなくて、クレーマーの対応と書類作成ですもの。大したことはありませんわ」
「いやいや白絵、現代社会の満員電車と税金システムのほうが、ある意味で昔の陰陽師よりよっぽど怖いって……」
などと、夜な夜な有楽町界隈の居酒屋で油揚げを貪り食いながら、楽しげに女子会を開いているのが日常であった。
そんな最強の元・大妖トリオが、いまや完璧なビジネススーツに身を包み、じっと須佐男の返答を待っている。
三姉妹は、そのあまりにも濃すぎるメンツに完全に引きつった笑顔を浮かべ、頑固親父・須佐男は、ジャージの腕を組んだまま「……ううむ」と、人生で最大級に渋い唸り声をあげるのだった。
ーー巌窟王の陥落と黒幕の登場ーー
ついに須佐男の頑なだった心が折れた。彼はジャージ姿のまま姿勢を正し、万田社長に向かって深々と頭を下げた。
「……儂が頑固でした。娘たちの学業を最優先に考え、お言葉に従います。――万田社長、娘たちを、何卒お導きくださいますようお願い申し上げます」
その言葉を聞いた瞬間、三姉妹の顔には、ぱあっと満面の笑みが弾けた。
「やったぁー! 大変な時間旅行だったけど、お万様との出会いがこんな素晴らしい結果に結びつくなんて、本当に感激だわ!」
「でも待って、文一はここまで考えて私たちを江戸時代に送り込んだのかしら? だとしたら、ずいぶん回りくどいことをするわね!」
「ふふ、あの自称『神託の霊鳥』だもの。きっと現れたら『おまえたち、我輩の深遠なる計略に感謝し、崇め奉れ! 日々の美味なお供え物も欠かすでないぞ!』とか何とか、偉そうにふんぞり返るに決まってるわ」
三姉妹が口々にそんな噂話に花を咲かせていると、突如、茶の間の空間がぐにゃりと歪んだ。
「まったく、お前たちというやつらは不敬極まりないな。我輩より先に、まず礼を言うべきお方がいるのではないかね?」
どこからともなく響く文一の声。三姉妹がハッと見上げると、天井のあらぬ空間からまばゆい光が溢れ出し、そこから優雅に光臨する二つの影があった。
一羽の霊鳥・文一と――そして、あの江戸時代で「九文先生」と名乗っていた傑物、八意思兼命その人であった。
「須佐男様、お久しぶりですな」
八意思兼命は、かつて神代の時代と変わらぬ穏やかな笑顔を浮かべ、須佐男の前に進み出て美しく伏礼した。
先ほどまで大妖たちを前に威厳を保っていた須佐男だったが、この稀代の知恵の神の登場には流石に大慌てとなり、すぐさま深く頭を下げて迎える。
「これは思兼命様! その節(天岩戸事件)は、儂のせいで大変なご心労をおかけいたしまして、誠に面目次第もございませんでした……!」
隣にいた妻の櫛奈も、神妙な面持ちで畳に平伏した。
「思兼命様、この度は世間知らずの娘たちが大変お世話になったそうで、母として篤く御礼申し上げます」
八意思兼命は満足そうに目を細めた。そう、彼はすべてが己の思惑通り、完璧なシナリオ通りに運んだことを見届けに、わざわざ現世に現れたのだ。
「学業に支障があることは、私も見過ごせませんからね。これで、3人の姫神も初志貫徹ができることでしょう」
歴史の裏側を覗かせ、大奥の地獄の人間関係を経験させたのも、すべては彼女たちが現世で誘惑に負けず、自立して勉強に励むための壮大な教育的「仕掛け」だったのだ。知恵の神の回りくどさは伊達ではない。
「でもまあ、これでお万様の手配してくれた神社に住めるなら、すごく充実した学生生活が送れそう! 私、外交官を目指して大学院まで行っちゃおうかしら?」
長女の市杵が未来に目を輝かせれば、次女の田心も力強く頷く。
「医学の道は甘くないもの。大学4年が終わったあとも、臨床研修と専門研修がびっしり控えてるのよ。腰を据えて勉強するための、しっかりした基盤が必要だったから本当に助かるわ」
「私は日本画の大家を目指すから、静謐な神社って絶好のアトリエになりそうね!」
三女の湍津も嬉しそうに微笑む。
「何年でもじっくり創作活動に没頭できる場所なんて、そうそうないもの。ありがたいわぁ」
娘たちの頼もしくも、すっかり「実家を出る気満々」な会話を聞いていた須佐男は、ふと我に返った。
「お前たち……もう我が家から旅立って、しばらくは帰ってこないのだな……」
さっきまで嵐と雷を呼ぶ神としての威厳を示し、堂々としていた須佐男はどこへやら、肩をがっくりと落として、見る影もなくしぼんでしまっていた。最強の武神といえど、娘たちが一気に巣立つ寂しさには勝てないらしい。
そんな哀れな父親の様子を見て、万田社長がクスクスと笑いながら助け舟を出した。
「ふふ、ご心配なく、お父様。お嬢様方の新生活の様子は、ここにいる3妖狐が定期的にご報告に参りますから。それにね……」
お万様は、ロイヤルブルーのスーツのポケットから、今度は未来の都市計画図を取り出して見せた。
「今、都心では大規模な地下鉄建設計画が進行しているのです。近い将来、この月島・佃島エリアにも新しい駅ができるんですよ」
「何、本当か!?」
その言葉に、須佐男と櫛奈はパッと顔を見合わせて喜びを露わにした。
「駅ができるということは、そうしたら、儂もしょっちゅう電車に乗って娘たちの元へ行くことができるな!」
現金なほど元気が復活して叫ぶ夫の横で、櫛奈も嬉しそうに何度も頷く。
「ええ、そうですとも。これなら私も、定期的に娘たちの様子を見に行ってあげられますね。江戸城での話なんかも、聞きたいことはまだまだたくさんありますし」
「「「ええっ!?(来る気満々だ……)」」」
両親のやる気満々なセリフに、三姉妹は思わず苦笑いで顔を見合わせた。
どうやら、三姉妹が夢見る「完全な自立と自由な独立生活」が訪れるのは、まだもう少し先のことになりそうである。
ーー終わりーー




