№16_江戸城猿楽のステージ~九文先生の白熱教室
ーー江戸城、波乱の「猿楽」ーー
江戸城中奥、中書院。
そこは本来、天下の静謐を象徴する、重苦しいまでの沈黙が支配する場所である。
だが、本日ばかりは様子が違っていた。
「重教殿! よう参られた! 待っておったぞ!」
上座から飛んできたのは、威厳という言葉をどこかへ置き忘れてきたような、弾けんばかりの歓待の声。九代将軍・徳川家重である。
通常、将軍との謁見といえば、大名が控えの間でカチコチに固まって待ち、将軍がスローモーションのように登場。大名が「神がご光臨された!」という勢いで伏礼し、将軍が「面を上げよ」と命じる……という、一連の「伝統ルーティーン」が必要なはずだった。
しかし、今日の家重は一味違う。ゲストの前田重教が来る前に、すでに現場に「入り」して待っていたのだ。
「……ッ!!」
加賀藩主・前田重教は、入室した瞬間に光速の思考を巡らせた。
(将軍が先に座っている!? 詰んだ、これ切腹案件か!?)
重教は反射的に、物理法則を無視した「ジャンピング伏礼」を披露。畳に額をめり込ませながら叫んだ。
「将軍様をお待たせするなど、この重教、万死に値いたします! 誠に、誠に申し訳ございませぬーッ!」
「よいよい、気にするな! それより猿楽だ! 宝生流の面々はどこだ? 早く見たい、余は見たくてたまらんのだ!」
ニコニコと幼児のような笑顔を振りまく家重。その横で、苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔をしている男がいた。
側用人・大岡兵庫頭忠光である。
「……前田様、どうかお気になさらずに。我が上様は、『猿楽が来る』と聞いた昨晩から、遠足前日の子供のごとく興奮して一睡もなされていないのです」
「お、大岡殿……かたじけない」
忠光は、深く溜息をついた。
彼は五千石の旗本から、異例のスピードで従四位下・側用人へと駆け上がった宝暦の俊英である。将軍の言葉が不明瞭であることから、幕閣の面々は将軍の真意を量りかねていたが、忠光は即座に理解して「上様はこう仰せである(超訳)」という必殺技を繰り出すのであった。こうして大岡忠光は実質的な官邸の長として幕府を回していた。
「忠光! 重教殿と一座の者を早く中奥の奥舞台に案内せい!重教殿が困っておるではないか(将軍が困らせた)。それより、あの演目はやるのか? 笛の音はいつ鳴るのだ?」
「上様、まだ準備中でございます。前田様を畳にめり込ませたまま、話を進めないでくださいませ。……老中たちが見たら、また『側用人が将軍を甘やかしている』と私の陰口で茶会を開きますよ」
「はっはっは! 老中など放っておけ! 余と忠光が良ければそれでよいのだ!」
家重の全幅の信頼という名の「丸投げ」を受け、忠光の胃のあたりに鈍い痛みが走る。
八代吉宗が「側近政治はもうコリゴリだ」と廃止した側用人という劇薬を、家重は忠光へのゆるぎない信頼と敬愛ゆえに四十年ぶりに復活させてしまったのだ。
「いいですか、前田様。表向きには『将軍親政を支える強固な体制』などと言われておりますが、その実態は、私が上様の『通訳』兼『お守り役』を二十四時間態勢でやっているに過ぎません。……さあ上様、重教殿に『面を上げよ』と仰ってください。このままでは加賀様が畳の一部になってしまいます」
「おお、そうであった! 重教殿、面を上げよ! 苦しゅうない、さあ、猿楽の打ち合わせをしようぞ!」
こうして、幕府の公式行事とは程遠い、賑やかな(あるいは騒々しい)宝暦の政が今日も幕を開ける。
老中たちの不機嫌な顔などどこ吹く風。家重と忠光の「最強コンビ」は、今日も江戸城を独自のテンポで回し続けるのであった。
ーー30年後の大奥女中生活ーー
時は宝暦四年(1754年)。
神代の記憶を宿した三姉妹が辿り着いたのは、混迷極まる三十年後の江戸であった。
江戸城の奥深く、長い廊下に衣擦れの音が重なる。神代の記憶を持ち、現代の知性を備えた三女神——市杵、田心、湍津は、人目を忍んで長局の隅にある薄暗い一室に集まっていた。
「……信じられない。タイムトリップの座標が三十年もズレるなんて、最初からここに来ればよかったのよ」
市杵が、慣れない着物の袂を苛立たしげに整えながら言った。国立東京外大に合格した彼女の冷静な分析力は、今の理不尽な状況を整理しようとフル回転している。
「市杵、文句を言っても始まらないわよ。今は現状のバイタルチェックが先決。ここが宝暦四年(一七五四年)であることは、さっきの女中たちの噂話から確定ね」
田心が、職業病に近い手つきで自分の脈を測りながら応じる。東大医学部で学ぼうとする冷徹なまでの客観性が、混乱を辛うじて抑え込んでいた。
「ねえ、二人とも。それどころじゃないわよ」
湍津が、障子の隙間から外を覗き見ながら声を潜めた。
「さっき中奥を通りかかったとき、見たわ。あの大岡忠光って男。あれ、ただの通訳じゃないわね。家重公のあの『声』を拾って、幕府全体の政治を動かしてる……。私の色彩感覚から言わせれば、あの主従の周りだけ空気が異常に濃いの。完全に二人の世界よ」
「……側用人、大岡忠光」
市杵がその名を噛み締めるように呟いた。
「今は側用人が、絶大な権力を握っているわ。幕府としては四十年ぶりに復活した役職として、老中たちを差し置いて将軍の意思を独占しているわ。外交官を目指す私から見れば、あれは最高意思決定機関の『ホットライン』、究極の『窓口』ね。彼を通さない限り、この国のトップには一言も届かない」
「それ、医学的にも不健全だわ」
田心が眉をひそめる。
「将軍の健康管理さえ、あの忠光一人が握っているんでしょう? 素人の健康管理は危険極まりないわ。怪しいサプリとか、謎の肩甲骨体操とか、逆に体に変調を来たすのよ。私がミールプランニングして家重公の献立表や、ビタミン豊富な食事を提案しようとしても、あの男が『上様はそんなものお好みではない』と一蹴したら終わりじゃない?」
「でもね、田心。逆に言えば、あの忠光さえ攻略すれば、この時代はどうにでもなるってことじゃない?」
湍津が不敵な笑みを浮かべ、懐からこっそり持ち出した筆を弄んだ。
「私のパース(遠近法)を理解させ、この国の美意識を書き換える。そのためには、あの二人の間に割り込む必要があるわ」
「安易な考えは捨てなさい、湍津」
市杵がたしなめるように二人を見据えた。
「私は国際関係論の知識を駆使して、忠光の『通訳』としての矛盾を突き、家重公の真意に直接アクセスする。田心、あなたは内科的アプローチで大奥の衛生環境を掌握して。湍津、あなたは視覚芸術を通じて、この閉鎖的な社会の感性を揺さぶりなさい」
「わかったわ、市杵。江戸城の権力争いなんて宇宙飛行士の耐G訓練に比べればたいしたことないハズよ」
宇宙飛行士訓練などしたことがない田心が不敵に微笑む。
「面白そうね。藝大の講評会に比べれば、老中たちの嫌がらせなんて可愛いものだわ」
湍津も目を輝かせた。
ーー時の流れに身が肥えてーー
女中部屋の空気が、ふっと色を失い、古びた写真のようなセピア色に染まる。
廊下を走る女中も、揺れる行灯の火も、すべてが氷のように静止した。
「出たわね。エセ神託の、あの不吉な鳥」
市杵が、空間の裂け目から現れた霊鳥を見据え、冷ややかに言い放つ。
「ちょっと、文一! 今回のタイムトリップ、三十年も座標がズレてたことは明らかよ! 医療ミスならぬ『神託ミス』じゃないの!?」
田心が、現代の白衣(今は大奥の着物だが)を翻す勢いで詰め寄る。
「これで江戸時代トリビアが増えただろ、なんて誤魔化したら承知しないわよ。私のパースの狂いは、だいたいあなたのせいなんだから!」
湍津までが筆を構えて威嚇するなか、顕現した霊鳥・文一は、これ以上ないほど深い、深すぎるため息をついた。
「神託である……ハァ。……聞こえておるか? これほどの非難を浴びながら神の言葉を伝える、私のこの苦労を少しは労わってほしいものである……」
文一は翼で目頭を押さえる仕草をしたが、三姉妹の冷ややかな視線に、すぐさま居住まいを正した。
「……ええい、よいか! お主らが暴走して歴史を粉砕せぬよう、必要な知識を授けてやる。耳の穴をかっぽじいて聞くがよい」
文一はセピア色の空間で、講釈師のように翼を動かした。
「まず、今の将軍・家重公であるが、かつての『言語不明瞭な困った世継ぎ』ではない。弟の宗武、宗伊とはすでに和解し、今や兄弟仲は円満そのものよ。先代・吉宗公が田安家、一橋家という十万石級の分家を興し、ガッチリとサポート体制を固めたおかげよな」
「あら、意外に安定してるのね」
市杵が意外そうに呟くと、文一は鼻(嘴)を高くした。
「そうなのだ。そして、その兄弟を繋いでいるのが、『猿楽(能と狂言)』なのだ! 共通の趣味で盛り上がるオタク兄弟……もとい、高潔な文化交流によって、徳川の行く末は今や安泰。家重には嫡子・竹千代君も元気に誕生しておる」
「なるほど、だから家重公はあんなに趣味に全振りできてるわけね。政務をアウトソーシングして……」
田心の分析に、文一が「その通り!」と頷く。
「家重公は信頼する側用人に政を丸投げ……いや、全幅の信頼を置いて任せておる。そして、その側用人こそ——お主らが三十年前の世界で交流した、あの『源五郎殿』なのだよ!」
「「「…………!!」」」
三姉妹の動きが止まった。
「あの、将軍に振り回されて気丈に振舞っていた少年が?」と市杵が目を見開く。
「あの、錦絵の若侍みたいだった彼が?」と田心。
「あの、私の絵に注文をつけていたクソガキが、今の幕府の『官邸トップ』……!?」と湍津。
「左様。源五郎殿、改め、大岡兵庫頭忠光。彼こそがお主たちがこの時代で対峙し、あるいは交渉せねばならぬ、江戸最強の『通訳』であり『防壁』なのだ」
文一がそう告げた瞬間、セピア色の世界が弾け、再び色彩が戻った。
女中たちの足音と、遠くから聞こえる猿楽の笛の音。
三姉妹は顔を見合わせ、同時に不敵な笑みを浮かべた。
「……面白くなってきたじゃない。あの源五郎が、私の『外交交渉』の相手を務まるかしら?」
「三十年分のカルテ、じっくり拝見させてもらうわよ。兵庫頭さん?」
「私のパースを否定した代償、今の権力で返してもらうんだから!」
静まり返ったはずの大奥の一室で、三つの意志がかつてないほど激しく燃え上がった。
文一は空中で一回転し、「……やれやれ、これでは歴史の方が心配であるな」と独りごちて姿を消した。
ーー思い出の少年ーー
「……信じられないわね。さっき廊下の端で見かけた、あの人」
市杵が、遠い昔(と言っても、数時間前)を思い出したように表情を強張らせた。外交官を目指す鋭い記憶力が、三十年前の美少年と、先ほどすれ違った「幕閣の重鎮」を脳内でマッチングし始めたのだ。
「……嘘でしょう? あの、柳の枝のようにしなやかで、凛としていた源五郎様が……あんな、『働きすぎの管理職』みたいなことになってるなんて……」
「えっ、あれがそうなの!?……私の思い出のポートレートが崩壊していく……!」
田心が廊下に身を乗り出し、遠ざかっていく大岡忠光の後姿を凝視する。
「うそ……信じられない。三十年前はあんなにスリムで、代謝も良さそうだったのに。今のあの顔色の悪さ、確実に慢性的な睡眠不足とストレス過多よ。それにあの腰回り……完全にメタボリックシリアス(深刻な代謝異常)じゃない! 三十年で全部脂肪に変わったっていうの!?」
湍津が、頭を抱えてその場に崩れ落ちた。藝大生の彼女にとって、美少年の劣化は歴史の改竄よりも罪深い。
「聞いてないわよ! 私が描きたかったのは、竹林を吹き抜ける風のような美青年・源五郎であって、『深夜残業明けで牛丼大盛りを食べて寝落ちしたおじさん』みたいな兵庫頭じゃないわ! あの顎のライン、どこへ行ったのよ! 私のパースを否定する前に、自分のシルエットの膨張を否定しなさいよ!」
「……左様。源五郎殿は、家重公の無理難題と、老中たちとの板挟みという激務を十年耐え抜いたのだ」
消えかかっていた文一が、最後にもう一度だけ首を突っ込んで憐れむように言った。
「権力の座とは、脂肪と隈を積み上げる椅子でもあるのだ。……さらばだ」
三姉妹は、遠ざかる忠光の重たげな足音を聞きながら、しばし呆然と立ち尽くした。
「……決めたわ。私の最初の外交任務は、彼の『ワークライフバランス』の是正よ」
市杵が、震える拳を握りしめる。
「私は医学を目指す者として、あの内臓脂肪にメスを入れるわ。手始めに、江戸城全域でのラジオ体操を義務化してやる!」
田心も、決意を込めて拳を掲げた。
「私は……私は、彼をもう一度『絵になる男』に戻してみせる! 」
湍津の瞳に、かつてない芸術的闘志が宿る。
かつての美少年に突きつけられた残酷な「三十年」という月日。それを医学と芸術と外交の力で跳ね返そうとする三女神の逆襲が、今、不健康な江戸の空の下で幕を開けた。
ーーお万の方との再会ーー
セピア色の世界が弾け、止まっていた時間が再び脈動し始めた。廊下の喧騒、猿楽の笛の音、そして春の湿った空気が三姉妹を包み込む。
「皆さん、三十年ぶりね。息災だったかしら?」
艶やかな声に導かれ、三人が振り返る。そこには、御中臈・お万の方が佇んでいた。驚くべきことに、三十年という歳月を完全に無視して、彼女の美貌は一分一厘たりとも衰えていない。大奥に棲みつく妖狐——もとい、関東稲荷総代としての神威を纏った「お稲荷様」は、当時と変わらぬ余裕の微笑を浮かべていた。
「お万様! 本当に……本当にお変わりなくて。神様だというお話、今ようやく確信しましたわ」
市杵が驚きを隠せずに言うと、お万の方は扇子で口元を隠してクスクスと笑った。
「あなたたち三人が忽然と消えたあとのことなら心配いらないわ。私が少しばかり工作しておいたの。それぞれ実家で急ぎの縁談が決まって、大慌てで国許へ帰ったことにね。大奥の女中なんて噂好きだけど飽きっぽいの。今じゃ誰も覚えていないわよ」
「さすがはお稲荷様、事後処理が完璧ですね。危機管理能力が高すぎるわ……」
田心が感心したように頷く。お万の方は懐かしそうに目を細めて続けた。
「昼間に教授として登城される九文先生——八意思兼命様にもお伝えしたのだけれど、あの方は『また出会う時もあろう』と予言めいたことを仰っていたわ。本当にその通りになったわね。ただ……源五郎様、大岡忠光様だけは、あなたたちが去ったあと、本当に、本当に残念そうにされていたわよ」
その名が出た瞬間、三姉妹の脳裏には「キリッとした眼差しの若侍」と「先ほどすれ違ったメタボな重鎮」の画像が激しく火花を散らしてオーバーラップした。
「今はもう元服されて、大名にもなられた。大奥へは滅多にお見えにならないけれど、今日のように火急の用で将軍様をご案内なさる時は、凛々しいお姿を見せてくださるの。本当に、立派におなりになったわ……」
うっとりと目を輝かせるお万の方。どうやら神の目、あるいは狐の目フィルターを通すと、あの膨らんだ腹部も「威厳ある恰幅の良さ」にしか映らないらしい。
(((……立派……!?)))
三姉妹の心の声がハモる。
市杵は「これが外交的妥協というものなの?」と自問し、田心は「あのお万様の目、重度の乱視か白内障じゃないかしら」と本気で心配し、湍津は「狐の審美眼、アップデートが必要ね……!」と芸術家としての敗北感に震えた。
「さあ、いつまでもここに立っていては目立ちます。あなたたちは今、私の配下の女中として登録されているわ。九文先生や忠光様と『再会』する前に、まずはこの時代の空気に慣れることね」
お万の方は、三姉妹の心中にある「ダイエット・プロジェクト」の炎など露知らず、優雅に衣を翻して歩き出す。
「……まずは忠光さんの問診手控え、お万様から聞き出せないかしら」
「それより先に、あの腹部のパースを修正するための補正下着を開発するべきよ」
「二人とも、まずは外交ルートよ。彼が私たちの正体に気づいた瞬間のリアクション、しっかり記録しておかなきゃ」
お万の方の背中を追いながら、三姉妹はそれぞれの思案を胸に、広大な江戸城の迷宮へと足を踏み入れた。
ーー江戸中奥、兄弟の集いーー
江戸城の最深部、中奥。
「表」で行われる厳格な公務とは異なり、ここは将軍の私的な空間である。本日の「奥舞台」は、いつになく温かな活気に包まれていた。
本来、幕府の猿楽興行といえば、本丸御殿の「表能舞台」で譜代・親藩の大名たちが背筋を伸ばして居並ぶ重苦しい儀式だ。しかし、今日は違う。亡き大御所・吉宗の法事の打ち合わせを兼ねた、徳川三兄弟による私的な「仮演目」の会。舞台上では、加賀宝生流の一座が、新しい座員の顔見世を兼ねた準備を忙しなく進めていた。
「兄上、前田家の猿楽をこれほど心待ちにされるとは。やはり兄上は宝生流がお一番の贔屓ですな」
快活に笑いかけたのは、一橋家当主・宗伊である。彼は生まれ持ったコミュニケーション能力を存分に発揮し、ともすれば沈黙しがちな兄弟の会話を軽やかに繋いでいた。
「そういえば先日、尾張殿も『ぜひ一度、将軍様の前で自慢の一差しを舞いたい』と、熱烈なラブコールを送ってこられましたぞ」
宗伊は諸藩とのネットワークを大切にし、その調整能力で幕政を支える「徳川の潤滑油」のような存在だ。そんな末弟の言葉に、隣に座る田安家当主・宗武が、穏やかに、しかし重みのある口調で言葉を添えた。
「宗伊よ、あまり尾張殿を煽るな。能や狂言は武家の必須教養。ひとつの流派に拘泥せず、観世、金春、金剛……それぞれの流儀にある精神を味わうことこそ肝要である。加賀宝生には加賀の、尾張には尾張の、代えがたい美学があるのだからな」
宗武は、吉宗の息子たちらしく学問を好み、文化考察において非常に深い知見を持つ。彼の解説は、単なる趣味の域を超えた「文化人類学」的な響きすら帯びていた。
その二人のやり取りを、正面の上座でじっと聞き入っている男がいた。
第九代将軍・徳川家重である。
家重は、普段の政務で無理に見せつける険しい表情を一切消し、子供のように目をキラキラと輝かせていた。言葉が不明瞭な彼にとって、洗練された「所作」と「調べ」で物語を紡ぐ猿楽は、心を通わせる最高の言語だったのだ。
「……うむ! 誠に……猿楽は、いいのう!」
家重が、絞り出すような、しかし心底楽しそうな声を上げる。
その短い言葉に込められた純粋な歓喜を、宗武と宗伊は瞬時に感じ取った。二人は顔を見合わせ、満足げに頷き合う。
「左様でございますな、兄上。これほど素晴らしい舞台を三兄弟で囲めること、父上(吉宗)も草葉の陰で喜んでおられましょう」
血を分けた兄弟だからこそ通じ合う、柔らかな空気。
かつて世継ぎ争いの火種になるかと危惧された三人は、今、猿楽という共通の愛好を通じ、徳川の天下を支える強固な「三本の矢」となっていた。
舞台の袖では、大岡忠光がその光景を眩しそうに見守っている。
「……上様、本日の『最高のご機嫌』、これにて確定でございますな」
忠光は、そっと胃の腑の軋みを仕舞い込んだ。
天下の主である家重が、ただの「兄」として笑っている。この平穏なひとときを守ることこそが、自分の役目なのだと再確認しながら。
ーー恩師との再会ーー
江戸城の深奥、静寂が支配する長局の一角に、三姉妹——市杵、田心、湍津の姿があった。
三十年前の騒々しい日々が嘘のように、彼女たちは再び大奥女中としての日常に身を置いていた。しかし、流れた月日は残酷なまでに景色を変えている。
かつてこの廊下を走り回っていた竹千代君は、いまや元服して徳川家治となり、譜代や幕臣からも一目置かれる聡明な若君へと成長していた。
跡継ぎ問題であんなに揉めていたのに、いまや、家治が次代の希望となっていた。
その頃、江戸中奥では講義の声が部屋から漏れていた。その声の主こそ、三姉妹が「メタボ中年」と嘆いた大岡忠光であった。
中奥の対面所。家治は、目の前に積まれた書物を指し、感嘆の声を漏らした。
「誠に、忠光は博識であるな。四書五経のみならず、西洋の理まで解くとは。余は得難き師匠に出会えて幸せだと思うぞ」
その言葉に、忠光は深く頭を垂れる。かつて九文先生から授かった知識を、彼は三十年間、大切に、そして執念深く磨き続けてきた。
「何を仰います。家治様をご教導されたのは、先代・吉宗公にございます。私はただ、先君の遺された至宝を預かり、来るべき家治公の御世にさらなる輝きを増すよう、磨きをかけるだけの職人に過ぎませぬ」
謙虚な言葉とは裏腹に、忠光の顔色は冴えない。
不意に、彼は言葉を切り、鋭い痛みが走る胃のあたりを強く押さえた。
「……どうした、忠光。またか」
家治が案じるように身を乗り出す。
「顔色がひどい。政務も大事だが、お主が倒れては元も子もない。今日はもう下がって、養生せよ。これは将軍世継ぎとしての命である」
「……は。恐れ入り奉ります」
忠光は震える手で畳を突き、這うようにしてその場を辞した。
重い足取りで自室に戻った忠光は、行灯の火を灯す気力もなく、闇の中に身を沈めた。
「……ふぅ。……少し、詰め込みすぎたか……」
胃を掴まれるような激痛に耐え、彼は壁に寄りかかる。
三十年前、三姉妹に「おやつ」を横取りされ、追いかけ回されていたあの頃。あの瑞々しい日々の記憶だけが、今の彼を支える唯一のよすがだった。
だが、閉ざされた暗闇の中で、聞き慣れた——しかし、この三十年間一度も聞くことのなかった声が響いた。
「相変わらず、無理がすぎるのう。忠光殿」
忠光の身体が、痛みとは別の震えに襲われる。
ゆっくりと顔を上げたその先にいたのは、時代からも、老いからも切り離された、あの「知の怪物」であった。
「……九文、先生……?」
止まっていた時間が、再び深い慈しみと共に動き出そうとしていた。
大奥の喧騒から切り離された忠光の自室に、夜の静寂が満ちていた。
今の彼にとって、この一刻だけが重い官服と「側用人」という職責を脱ぎ捨てられる唯一の時間である。
かつて吉宗公の孫であり、今は聡明の誉れ高い世継ぎ・家治の師となった大岡忠光。家治は忠光の博識を「得難き師匠」と慕い、忠光もまた、先君吉宗から預かったこの「宝」を磨き上げることのみに心血を注いできた。
自嘲気味に呟きながら何の前触れもなく居室のそこに座る影を見て、心臓が跳ね上がるのを感じた。
「九文先生……っ!」
そこにいたのは、家重が将軍に就任した際、風のように姿を消した恩師・九文であった。
数十年。忠光が少年の瑞々しさを失い、政務の煤にまみれて「老い」を受け入れたその年月を、この男は完全に超越していた。その容貌は、出会ったあの日のままである。
「久しいの、忠光殿」
飄々とした、しかしすべてを見透かすような声。忠光は激しい動悸を抑え、震える膝をついて平伏した。師への礼を捧げるその背中は、もはや一国の政を担う重鎮のそれではなく、ただ教えを乞う一人の弟子の姿であった。
「お懐かしゅうございます。……今、この徳川の世が安泰にありますのは、すべて先生が私に授けてくださった知恵のおかげにございます」
震える声で感謝を述べる忠光に、九文は以前と変わらぬ、どこか世俗を離れた微笑を浮かべた。
「…今しばらくは、な」
不吉とも取れる言葉をさらりと流し、九文は傍らに置いた包みを解いた。中から現れたのは、見たこともない装丁の洋書であった。
「新しい知見を仕入れてきた。そろそろ世が変わる。一応、徳川家にも献上しておく」
欧州を見て回り、十年ぶりに戻ってきたという九文の言葉を、忠光は疑わなかった。この人は、東照権現様が遣わした守護霊か、あるいは日の本の行く末を見守る「知恵」そのものに違いないと、密かに信じていたからだ。
「別にこれを、昌平坂の教本にせよとは言わぬ。武士には引き続き、朱子学を通じて儒学の要諦を叩き込んでおきなさい。それが『倫理』となって、日の本の民の背骨となる。道を踏み外さぬための楔となるだろう」
九文は、忠光の顔色の悪さと、その手に力が籠もっている胃のあたりを、慈しむような目で見つめた。
「だがな、忠光。諸藩はすでに学び始めている。私は、そちらに先に種を蒔いてきた。……学ぶことを忘れなければ、徳川は絶えることはない。だが、知を止めた時、道は途切れる」
その言葉は、深い警告であり、同時に愛弟子への最後の教えでもあった。
「……先生、私は」
「わかっておる。お主はよくやった。家重公を支え、家治公という大輪の花を育てた。……しばし、共に書を読もうではないか」
九文の穏やかな声に誘われ、忠光は不思議と胃の痛みが和らいでいくのを感じた。
窓の外では、江戸の街が静かに眠っている。変わりゆく世界の予兆を孕んだ風が、江戸城の深い闇を揺らしていた。
ーー三姉妹との再会ーー
不意に、忠光の自室の闇が揺らぎ、天井に届かんばかりの眩い炎が立ち昇った。
それは熱を持たぬ、青白く澄んだ「狐火」であった。障子や畳に燃え移ることなく、ただ神秘的な光で室内を照らし出す。炎の中央が円を描くように抜け、そこから御中臈・お万の方がしめやかに姿を現した。
続いて、三十年前の記憶そのままの姿で、市杵、田心、湍津が静かに後に続く。四人が部屋に正座すると、荒れ狂うようだった火柱はふっと小さくなり、お万の方の手のひらへと収まった。
「……九文先生。そして、皆々様も」
忠光は、深い溜息とともに呟いた。目の前で、止まっていた時間が鮮やかな色彩を帯びて動き出したことに、言いようのない感慨を覚えていた。
妖の類だとは露ほども思わない。幼き日の長福丸——家重を守りたいと、ただそれだけを願って生きてきたあの日から、不思議な縁はずっと繋がっていたのだ。
「お主、汚れを見ておるのではないな……」
ふと、三十年前に市杵からかけられた言葉が蘇る。あの時、ただの一女中に過ぎなかった彼女たちは、家重の不明瞭な言葉の奥にある真意を聞き取り、若君が暗愚ではないことにいち早く気づいてくれた。あの出会いがあったからこそ、自分は九文という師に出会い、お稲荷様が大奥の守護であることを知り、ここまで歩んでこれたのだ。
導きは、すでに完うされた。
主を支え、次代の至宝を磨き上げた。もう自分の命など、いつ尽きても惜しくはない——。
忠光の心に、枯淡とした諦念が満ちていた。
「命を使い尽くしたと、そう思われるか? ……家重公を残して」
九文の静かな声が、忠光の心の内を容赦なく射抜いた。忠光はハッとして顔を上げる。
「忠光殿。お主には、生きて家重公と残りの人生を過ごす仕事が、まだ残っておる。お主の寿命は、持ってあと五年……。それまでは、家重公との貴重な日々を大切に過ごすがよい」
九文の言葉は、冷徹な宣告ではなく、慈愛に満ちた赦しのようであった。
「将軍家重公には、ご隠居していただく。英明なる家治公へ早々に将軍職を禅譲し、ご自身は大御所となられるのだ。お主もまた、その傍らにあればよい」
「……しかし、私は……私はまだ、家治公を補佐し、幕府の行く末を……」
忠光が食い下がろうとすると、九文は「それはどうかな」と微かに笑った。
「家治公は聡明であらせられる。お主が身を削らずとも、仕事のできる新たな側用人を付ければ、あの方は十分に政を回していけるはずだ」
忠光の脳裏に、ひとりの男の顔が浮かんだ。
七歳年下の小姓、田沼意次。
あの男の才覚は、既存の枠に収まらぬ危うさと、それを凌駕する実利を備えている。家治という明君であれば、あの劇薬のような男を使いこなし、幕府に新たな風を吹かせることができるだろう。
「……左様、でございますな」
忠光は、ゆっくりと胃のあたりから手を離した。
長年、自分を縛り付けていた「責任」という名の鎖が、音を立てて解けていくのを感じた。
側用人として、幕府の柱石として、必死に張り詰めてきた三十年。
だが、これからの五年間は、ただ一人の「源五郎」に戻り、愛すべき主とともに猿楽の音に耳を傾ける。それは、神仏が自分に与えてくれた、あまりに贅沢な休息のように思えた。
「お万様、九文先生……感謝いたします」
忠光は深く、深く畳に頭を下げた。
狐火の微かな光の中で、男の横顔からは「権力者」の険しさが消え、かつて長福丸の言葉を必死に拾い上げていた、あの清冽な少年の面影が静かに戻っていた。
ーー後日譚ーー
私たちが知る史実の歯車は、あの日、静かに、しかし決定的に書き換えられた。
九代将軍・徳川家重は、史実より五年早く隠居を宣言し、大御所となった。公務の重圧から解き放たれた彼は、念願であった「猿楽三昧」の日々に没頭することとなる。そしてその傍らには、常に影のように寄り添う一人の男――大岡忠光の姿があった。
忠光もまた側用人の座を退き、その職は若き田沼意次へと引き継がれた。
これが功を奏した。完成された主君を支えるのではなく、共に悩み、共に成長する若き将軍と若き側用人。
その背後には、吉宗が真に期待した「知恵」と「行動力」の体現者である田安宗武と一橋宗伊が控えていた。彼ら叔父たちの厳しくも温かい訓導は、田沼の専横を未然に防ぎ、後に彼は「王佐の鑑」として後世に名を刻むこととなる。
歴史は、三姉妹という「見えない刃」によって、より良き方向へと集約していったのである。
別れの時は、静かに訪れた。
文一のタイムトリップ・ミッションが終わりを告げ、三姉妹が元の時代へと帰還する刻限。江戸城の片隅、夜風が吹き抜ける中、田心は忠光と向き合っていた。
「そなたとの出会いが、すべてを変えたのだ。感謝の気持ちで、胸がいっぱいだ」
忠光の声は、かつての権力者としての重みではなく、一人の男としての素朴な響きを湛えていた。公務のストレスから解放され、田心が残した「健康管理手引書」を忠実に守ったおかげか、彼の顔色には血色が戻り、その命は史実よりも一年、長く引き伸ばされていた。
「そんな……。忠光様の真摯な思いが天に通じたに違いありません」
田心が微笑んで応える。医者として、そして一人の友人として、彼の健やかな余生を誰よりも願っていた。
忠光は少し照れくさそうに視線を泳がせると、懐から緋色の袱紗を取り出した。
「これを……そなたに」
手渡された包みを開くと、中から現れたのは、見事な細工が施された鼈甲の櫛であった。月の光を吸い込んだような、温かみのある黄金色の輝き。
「こんな素晴らしいものを、私に……?」
驚きに目を見開く田心に、忠光は自嘲気味な笑みを浮かべた。
「こんな中年になってから言うのは、実に恥ずかしいのだが……。わしは、そなたをずっと、自分の姉のように思っていたのだ。三十年前、これを渡そうと決めたその日に、そなたたちはいなくなってしまった。だから今日まで、肌身離さず携えていたのだ」
忠光は、少しだけ遠い目をした。
「ようやく……思いが叶った。三十年越しにな」
その櫛には、彼が側用人として、あるいは幕府の防壁として孤独に戦い続けた日々の、たった一つの個人的な「願い」が込められていた。
「大切にします。……さようなら、源五郎様」
田心が、かつての幼名で呼びかける。
忠光は満足げに深く頷いた。
次の瞬間、三姉妹の姿は眩い光の中に溶け込み、江戸の夜闇へと消えていった。
残されたのは、心地よい猿楽の笛の音と、主君と共に歩む静かな余生。
歴史の片隅で、一人の男がようやく肩の荷を下ろした、そんな優しい夜の出来事であった。
ーー続くーー




