55 自由を満喫しています①
◇◇◇
ルウが失踪してから二日後の朝。
ルウは厨房のバイトに来ていた。ひたすらりんごをバラの形に飾り切りにしながら、肉の冷製を美しく盛り付ける作業をかれこれ百人分ほどこなす。
「よっし、おしまい」
あとは冷やしておくだけだ。
「あれ、ルウちゃんじゃん。久しぶり。元気だった?」
魚介類の仕込み担当のホイットニーが出勤してきて、ルウに声をかけた。
「元気でしたよ。ちょっと別のバイトが忙しかったんです」
「お針子のほう? あっちは納期納期で大変だね」
「調理場の戦場具合には敵いませんよ。ホイットニーさんのナイフさばきはいつも見事で感動します」
ホイットニーはあっという間にエビの殻を剥きながら、苦笑した。
「わたしはそろそろ魚介類以外もさばきたいな。生臭くて困るんだよね。魚臭いのによく効くっていうオリーブ石鹸をずっと使ってるけど、全然ダメで」
ルウはふと考え込んでしまった。
「そういえば、お針子仲間のお姉さんに、そういうの詳しい人がいるんですよね。今度聞いてみます」
「ほんと? お願い。ずっとイジメられてるし、もう学校やめようかなって思ってるとこなの」
「それはよくないですね……担当代わりましょうか? 私も魚介類の仕込みやれますよ」
「え、いいの?」
「最近一人暮らしを始めたんですよ。誰にも気を遣わなくていいので、魚臭くても別に大丈夫です」
ホイットニーはぱあっと顔を輝かせた。
「ありがとう、ありがとうルウちゃん……!」
いいことをすると気持ちがいいものだ。
ルウは一時間ほどかけて昼食用のエビとキスの下ごしらえを済ませ、オリーブ石鹸で念入りに手を洗ったあと、別のバイト先に移動した。
お針子通りでトゥワイラが悲鳴を上げる。
「なあに、ルウ、その匂い! どうしたの!?」
「調理場で魚介類の仕込み担当に代わったんですよ」
「あー、魚のにおいって取れないよねぇ……」
ルウはくんくんと爪のにおいをかいでみた。多少の生臭さはあるが、鼻が慣れてしまったのか、もはや自分ではよく分からない。
後から登場したワッサも驚いていた。
「におい消しに心当たりありませんか?」
「魚ねえ……うちは農家だからね、ちょっと分からないねえ。どれ、皆にも聞いてみようかい」
ワッサが声をかけると、お針子たちが集まってきた。
「魚はねえ、塩とレモンだよ」
「レモンは高いよ。貧乏人が毎日買えるもんじゃない」
「お酢もいいって言うねえ」
「でもお酢の匂いもすごいじゃないのさ」
ああだこうだ言い合うお針子たちから、「そうだ」と声が上がる。
「ハンドクリームは? お酢で洗ったあと、相性のいい香りのハンドクリームを塗るとかなり緩和されるんじゃないかね」
「シトラス、ベルガモットあたりなら合うかも」
「それはよさそうですね」
「お店を覗いてきたら? 向こうの通りをまっすぐいって黄色の屋根を右だよ」
主婦が集まると知恵がすごい。有益な情報を得た。
ルウはバイトを早々に片付けて、トゥワイラと一緒にお店に行った。
そこは美容品を主に扱う薬局のようで、高い位置にバラ窓がある教会風の外観をしていた。内装も教会風で、天井が高く、床石は色違いの石が市松模様に並び、塵ひとつなく清潔に磨き上げられている。
どっしりとした作り付けのディスプレイ用キャビネットには、曇りガラスの美しい小ビンがいくつも並び、容器だけでもおしゃれなので手に入れたいと思わせる。
フロアの中央には名のある家具職人の作品であろう瀟洒な貴族風の長テーブルがあり、サシェ、ポプリ、石鹸、ローズウォーター、ボディオイル、そしてハンドクリームなどが所狭しと並べられていた。
「おっしゃれー」
客入りも上々で、主婦や町娘やお嬢様が入り乱れて熱心に商品を吟味している。作り付けのカウンターのバックにある重々しい陳列棚には青い絵付けの美しい陶磁器がいくつも並び、そこにある高価な薬を、店員が小さな匙でちょっと取り出しては量り売りにしていた。
「ねー。用もないのについ来ちゃうんだよね」
「分かります。店内のキラキラにやられて全部買っちゃいそう」
「真ん中にあるのはそうでもないけど、奥の棚にある香水とかはヤッバいよね」
「お給料いくらあっても足りませんねぇ」
ルウたちはテスターとしておいてある石鹸の切れ端や、ローズウォーターのムエットなどの香りを嗅いで、目を細めてゴージャス気分を満喫した。
「すっごいいい匂いすんだけど何この石鹸?」
「オリーブ石鹸ですって。獣脂が入ってないからいい匂いになるんだそうで」
「お高いわけだねえ。こっちのはアーモンド石鹸だってさ! 美女の香りじゃん。街ですれ違う貴族のお嬢様の香りだよ」
「あ、ほんとですね。この匂い、すごくかいだ覚えがある……」
「えー、こんなたっかい石鹸常用してる知り合いいんの? セレブか何か?」
元貴族令嬢のルウは笑って誤魔化す。
「バイト先のカフェには貴族の女性もたくさん来ますからね」
「劇場近いんだっけ? 女優さんとかも来るの?」
「来てますよ。皆さんオーラがあります」
「何かお探しですか?」
うるさくしすぎたせいか、店員さんがやってきた。
ちょうどいいと思い、ルウは選んでもらうことにした。
「お酢の匂いを……なるほど、そうですね。でしたら、こちらの柑橘系のものはいかがでしょう?」
店員さんは気を利かせて、お酢も持ってきてくれた。
ルウは勧められるままにレモン、ベルガモット、シトラス、グレープフルーツを少量のお酢と一緒に試し、ちょっと唸った。
「単品ではいいんですけど、お酢くさい手だとどれもちょっと酸っぱくなりすぎのような」
「そうですね……お酢の匂いの成分は柑橘類と同じものですから、柑橘系に交ぜて使用する甘い香料の方がいいかもしれませんね」
店員さんはさらに甘いフローラルとベリー、バニラ、蜂蜜などのハンドクリームを持ってきてくれた。
「カシスとバニラはいい感じだと思います。この二本を交ぜたらちょうどいいかも?」
ルウは二本のハンドクリームをそれぞれの手に持ち、じっと見比べてみる。お値段はそれなりだ。両方買えないこともないが、引っ越ししたてで出費が多い時期なので、必要最低限のもの以外は控えたい。
「とりあえずカシスかな」
「バニラも買っちゃえばいいのに」
「腐らせてもちょっと。ひとりでは使い切れません……」
言いながらふとルウはホイットニーのことを思い出した。彼女もまた調理場の匂いに悩む仲間だ。
――半分あげたら喜ぶでしょうか? でもパッケージ開封した化粧品って微妙ですよねぇ。
ルウはまた今度ホイットニーに会ったら相談してみようと思い、とりあえず一本だけ買った。
「せっかくだから全部見回ってみます。置いといてください」
店員さんに会計済みの商品のキープだけお願いして、展示品を順番に見る。
ショーケースつきのキャビネットに、『スライムネイルポリッシュ』と書かれた札があり、小さなガラスの小瓶がたくさん並んでいる。曇りガラスの小ビンを満たす液体は赤、青、黄色とカラフルで、テスターのガラスの板には、それぞれ同じ色の塗料が小さな刷毛で塗りつけられていた。




