青年の名前はヴィーリック、カブトムシ並みに容易く捕獲されました。
敢えなくラティの魔の手に落ちた青年。
彼を縛り上げる、銀の刺草。
刺草に縛められて、青年は己の指一本すらも動かせなくなった。
そのことはつまり、彼が平素から魔力補助の上で体を動かしていたことを…
『人間』にはできない生活を送る技能と、魔力量を有していることを意味していた。
「全く予想外です。まさか、銀の刺草効果で一歩も歩けなくなるなんて」
そんなこと、言われても。
青年は理不尽な妖精の怒りに、自分の方こそ怒りたいと嘆いた。
疲労感にぐったりとした体は、疲労だけではない何かが…
考えるまでもなく、この刺草だが。
とにかく、何かが原因でほんの少しも動かせない。
それを悟った瞬間に、青年はああ、俺の人生は終わったと諦めた。
何が何でも諦めず、逃げるつもりはあったのだが…
いかんせん、体が動かせないのだからどうにもならない。
これから当分、逃亡の隙を窺いながら大人しくしていようと思った。
そうすれば、もしかしたら妖精の油断を誘えるかも知れない。
そう思いつつも、体が動かせない現状では何もできないと溜息ばかりが出てきた。
「仕方がないですねー。ホント、どうしようもないので僕が運んであげますよ」
何故、少年はこんなに恩着せがましく言うのだろうか。
疑問に思ったのだが、青年は賢明にも口には出さない。
妖精の目的が何か、それが分からない内はひたすらに出方を窺うしかない。
青年はひたすらに、逃げることだけを渇望していた。
もしかしたらそれは…
昨夜からずっと続く『逃げたい』という欲求は…
この場から逃げたい、死地から逃げたいという理由だけではなく、過去から、自分を都合良く扱ってきた『人間』から逃げたいという気持ちの表れかもしれない。
ずっと思い続けつつも、生きる為に封じ込めた、消せない願望の現れかもしれない。
任務からの逃走を一度は成功させ、冷静になった青年は、そんな己に気付いていた。
そして、こうも思う。
他種族に捕獲された時点で、『人間』として自分は終わったようなもの。
このことで本当の意味で完全な過去との訣別、逃走を成功させられるかも知れないと。
ラティは捕獲した捕虜のことなど全く考慮せず、岩山の道を引きずって運んだ。
『人間』との関係が険悪化し手遅れ状態の昨今、他種族からの扱いなんてこんなものだろう。
その程度を察することができる程度の賢明さはあったので、青年は口を噛んで耐える。
痛みと衝撃を我慢しつつも、体は急用と手当を切望していた。
速く目的地に辿り着かないと、身が持たない。
この時ばかりは、逃亡よりも何よりも、妖精の目的地へ急ぐことを願っていた。
意気揚々と捕獲した青年を連れてラティが帰還した。
この時には青年は、顔中擦り切れて血が滲み、たんこぶだらけだった。無惨。
予想外のお土産に目を丸くしたラフェスが、急いでお土産を持ち上げる。
「生きてる?」
「………一応、生きてます」
脈を数えながら答えたのはメイラだ。
その顔は難しげで、ボロボロの青年にあまりいい顔はしていない。
されるがまま、抗議の声すら挙げない青年は、見る影もなく腫れた顔で口を開く。
口の端が切れていて、喋るにも痛みが滲んだ。
「お前等、捕虜の扱いが悪すぎだろう…何たる、大雑把」
この時にはあまりに酷い扱いにぐったり状態の青年も、すっかり反抗の気力をなくしていた。
未だ逃亡の意思はあるものの、心情としては「もうどうにでもしてくれ」といったところか。
「ラティ、何処で拾ってきたんだ? 生き物は面倒を見れなければ拾ってはいけないんだぞ?」
「そうだぜ、ラー坊。捨ててきな。『人間』は飼えないんだ」
「…さり気なく、俺は捨て犬扱いか」
「「似たようなモノだろう」」
声を揃えたアシュルー達に、青年は最後の気力を失った。
それと共に意識まで失い、青年は夢の世界に飛び立ったのだった。
次に青年が目を覚ました時、何故かそこは気持ちの良い寝台だった。
傍らには付き添いなのか、ラフェス達主立った顔ぶれが全員いる。
だが、青年は縛られることもなく、傷の手当てすらされているようだった。
服こそ白い寝間着に着替えさせられていたが、持っていた荷物は全て傍らに置かれている。
「………」
明らかに、捕虜の待遇ではない。
「お、目が覚めたか」
身を起こした青年に、アシュルー達は警戒もせずに寄ってくる。
「おい、体は大丈夫か? 眩暈はしないか」
「何か欲しい物とか、ありませんか? 水はいりますか? 消化に良い物であれば食事も用意して貰っています。運んで貰いましょう。ちょっと待っていて下さい」
「乱暴にして済みませんでした。怪我は痛みませんか?」
状況を把握できずにいる青年に、魔族達+妖精は構わずにはいられないという様子だ。
何かと青年の身を気遣い、申し訳なさそうな顔で覗き込んでくる。
何故こんなに親身に親しげなのかと、青年は頭が混乱してくるのを感じた。
「なぜ…」
喉からようやっと出てきた声は、ひび割れて掠れていた。
掠れた声が喉を通っただけで、咳が出る。
「お水、どうぞ」
「…ありがとう」
渡されたグラスに、「毒」という言葉が思い浮かぶ。
然しそれがあまりに意味の心配だと気付き、青年は水を飲みほした。
潤いいく渇きに、心が丸くなっていくのを感じる。
「何故、こんなに俺に対して好待遇なんだ?」
疑問を溜めておいても良いことはない。
いつまでもむず痒い待遇を受けていても、居心地が悪いだけ。
青年は心構えよりも先に、先ず疑問を問いかけていた。
だが、それに対して答える声はあまりにもあっさりとしていた。
「あ? 俺達は同胞にゃ優しいんだよ。苦労してっからな」
「ああ、この時勢だ。困った時にこそ、同族同士の助け合いは必要だからな」
なんでそんな当然のことをと、ラフェスの目が言っている。
青年に対する親切に疑問もない、そんな目立った。
「どう、ほう…」
反芻する言葉は、潤ったはずの喉尾を通ってさえ、掠れてしまう。
まさか今、その言葉を貰うとは思っていなかった。
『人間』として、『人間』に使われていた自分なのに。
魔族から見れば、自分はきっと醜い存在で、裏切り者のようなものだと思っていたのに。
なのに、そんな言葉をくれるなんて思わなかった。
「そうだろう? 純血ではないようだが、それでも君は魔族だ」
混血を気にする自分を恥じて俯く青年に、ラフェスは首を傾げる。
例え『人間』の血の方が割合として多くとも、彼の目に青年は魔族に見えた。
大分、『人間』の血が濃いということは分かったが。
それでも青年の目に確かな魔性が宿る限り、感ずる魔力の質がそうである限り。
彼にとって、青年は魔族そのものだった。
ただちょっと、『人間』の血が濃いだけだ。
自分の考えに疑問を持たない様子のラフェスに、メイラが苦笑する。
ラフェスの様に割り切り、あっさりと青年を受け入れる者は、必ずしも全てではないだろう。
魔族の中にも、青年の生い立ちが窺える姿に嫌悪感を持つ者はいるはずだ。
それでも、此処には居ない。
今この場に、そんな本人にはどうしようもないことを気にする者などいない。
それが全てで、良いと思った。
それを青年の全てにしてしまえば、良いと思った。
だって、明らかに青年は苦労している。
所持品を調べても、昨夜からの行動を追っても、それが分かる。
そして本人の顔を見たら、目を見たら。
なんだか、そう言うことで全て良いじゃないかと思ってしまった。
そう思ってしまうくらいに、青年の目は傷ついていて、悲しそうだった。
考えて、予想できてしまったのだ。
青年がこれまで置かれていた環境を。
苦労するのは無理もない。しないはずがない。
青年は、他種族を排斥しようとする『人間』の国にいたのだから。
事実、青年はこれまで汚れ仕事ばかりを請け負って生きてきた。
そのことはラフェスやメイラにも察することはできなかったが。
だが、青年は祖父だか祖母だかから魔族の血を引いている。
殆ど『人間』と呼べるくらい、その血が濃くても。
『混血の人間』がまともな職を得られる程、『人間の国』は甘い場所ではない。
生きていく為には、糧を得て、居場所を得る為には。
青年は、誰もやりたがらない様なことを、裏仕事ばかりをやらずにいられなかったのだ。
そうして自分の能力と役割を『人間』の役に立てなければ、彼は生きていられなかった。
とっくに、死んでいた。
『人間の国』とは、混血の者にとってそういうところであった。
俯いたきり、顔を上げない青年をそっとしておくべきだと、メイラは思った。
あまり今は離したい気分ではないだろうし、自分達への警戒も抜けまい。
敵前逃亡をしたからには、彼には帰る場所など無い。
だが、もしかしたら『人間』に忠誠を誓っているかも知れないという若干の危惧もある。
何か異変があれば駆けつけられる位置に控えつつも、一人にしておこうと、思った。
「どういう経緯で『人間』に使われていたのか知りませんが、大体予想はつきますよ」
心の整理が必要でしょう、と、メイラは優しいものになる様に心がけて笑った。
「私達は隣の部屋にいますから、何かあれば声をかけて下さい」
そう言って、メイラが他の者達に退室を促す。
どうせこの部屋は、隣の部屋を通らなければ外に出ることすらままならない。
思う存分悩んで、最後は自分達の方へ転べばいいと。
そう願いながらメイラが扉を開ける。
「待って」
青年の、小さな声がした。
振り返り、無言で見遣る。
「本当に、俺のことを同胞として、受け入れてくれる…と?」
「貴方に、その気があるのなら」
「そう…か」
暗闇に沈んでいた青年の瞳が、メイラの言葉に澄んでいく。
憑き物が落ちるようって、こういうことかと見ていて思った。
顔立ちすら柔らかくなる様で、警戒していた尖った空気も和らぐ。
でも、それは一瞬のことで。
再び警戒の衣を青年は纏ってしまったけれど…
瞳に宿った期待と不安だけは隠しきれていなかった。
予想外に幼い表情に、あれっと思う。
もしかしたら、この青年は、見た目よりも大分幼いのではないだろうか。
『人間』と魔族は寿命が違う。当然、成長速度も違う。
混血は血が濃い方の種族に引き面れるものだが…
偶にごちゃごちゃと混ざってしまって、両方の性質が出る者がいる。
そういった者は不安定なアンバランスさで成長を続けてしまい、どちらとも取れない体になってしまうのだ。どちらの特徴も持ち、長所も短所も訳あってしまう者。
目の前の青年も、それに入るのかも知れない。
外見に比べて幼い瞳に、メイラは苦笑した。
それらも全て、落ち着いてから聞けばいいことだ。
でも今、これだけは効いておこうと思った。
そうしないと、呼びかけるにも苦労するから。
「貴方、御名前はなんというのですか?」
メイラは問いかけた。
名前を聞くことに、貴方の存在を認めるという、魔族なりの意味を込めて。
青年は答えた。
魔族の持つ、名前を聞かれる意味を知らないのかもしれないが。
悩む素振りも見せず、何でもないことの様に答えた。
ただ何となく、名を聞かれたことを嬉しく思いながら。
「俺は、ヴィーリック。姓はないから、ただのヴィーリックだ」
「ただのヴィーリック、ですね。分かりました」
どうやらフルネームで答えたらしい青年に、メイラの苦笑が深まる。
彼は何も知らない。
魔族という、己のルーツの片割れでもある種族について。
その風習も、生活の知恵も、名前の持つ意味も。
あまりに多くのことを知らないので、これから学のは大変だろうと思った。
彼は魔族。既にそう、自分達は受け入れている。
これから身を以て学ぶことで、より魔族らしくなっていくだろう。
だけどまず、これだけは言っておかなければならない。
「名前、フルネームで名乗らない方が良いですよ」
「え」
「取り敢えずヴィ君と呼ぶことにしますから、当面はそう名乗った方が良いでしょう」
「ど、どうして?」
「それらも含めて、魔族のことは後でゆっくり教えてあげますよ」
きょとんとしつつも面食らった顔のヴィに、メイラはゆっくり言い含める。
「今はゆっくり休んではいかがです? また後で、離すべき事を話し合いましょう」
疲労色濃く、不安そうな青年。
体に無理がかかっているのは、見ているだけで分かるから。
メイラはヴィに急用を勧め、ぱたりと扉を閉じた。
一人残された青年は、暫く頭を悩ませていたけれど…
やがて疲労の限界が訪れ、倒れ込む様に眠ってしまったのだった。




