第30話:一本の剣
右手から、剣へ。
玲は先ほど一瞬だけ感じた感覚を逃さないよう、黒い長剣へ意識を集中させた。
無理やり押し込むのではない。脚や腕へ流す時と同じように、必要な分だけ。その先にある剣まで、自分の身体の一部だと思うように。
右手の紋章が熱を持つ。
もう少し。あと少しで何かを掴めそうな気がした。
「玲!」
美月の声が飛んだ。
玲が顔を上げた瞬間、目の前にレヴィアタンがいた。
「——っ!」
考える暇もなく剣を持ち上げる。
黒い刃へ、レヴィアタンの腕が叩きつけられた。
耳を打つような衝撃音。
両腕が痺れ、剣が大きく弾かれる。玲の身体も後ろへ仰け反った。
空いた腹へ蹴りが突き刺さる。
「がっ……!」
身体が石畳を跳ねた。肺の中の空気が一気に押し出され、一瞬息ができなくなる。
……立たなければ。
そう思っているのに、身体がすぐには動かなかった。
そんな玲とレヴィアタンの間へ美月が割り込む。
振り抜かれた刀を、レヴィアタンは首を僅かに傾けただけでかわした。
美月はすぐに刃を返す。
だが二撃目へ移るより早く、その手首を掴まれた。
「美月!」
玲の声とほとんど同時に美月の身体が宙へ浮き、そのまま石畳へ叩きつけられる。
「っ……!」
鈍い音が響いた。
美月はすぐに起き上がろうとしたが、左腕を押さえて動きを止める。包帯の下から赤い血が滲み、腕を伝って指先から地面へ落ちた。治りきっていなかった傷が、完全に開いている。
「美月!」
今度は椎名が動いた。
二本の短剣を繋ぐ鎖が飛ぶ。
だが、レヴィアタンは伸びてきた鎖を片手で掴んだ。
「っ!」
椎名はすぐ手を緩めようとするが、レヴィアタンの速さには敵わなかった。
強く引かれた鎖が、椎名の身体を一気に前方へと引き付ける。
「しまっ——」
椎名の腹へ拳がめり込んだ。
「——っ!」
身体が浮き、そのまま横薙ぎに払われる。椎名は崩れかけた壁へ背中から叩きつけられた。
瓦礫が落ち、砂埃が舞う。
「……っ、最悪……」
椎名は壁へ手をつきながら立とうとした。だが途中で膝が落ちる。
玲も。
美月も。
椎名も。
もう最初のようには動けない。
それなのに、レヴィアタンにはまだ余裕があった。
背中には美月がつけた傷が残り、肩には玲の刃も届いている。血も流れていた。
それでも、呼吸一つ乱れていない。
「なんで?」
レヴィアタンが玲を見る。
「君たち、もう勝てないよ」
玲は剣を支えにして、ゆっくり身体を起こした。
「……まだだ」
足が震える。腹は息をするたびに痛み、右腕も満足に上がらない。
——それでも剣だけは離さなかった。
レヴィアタンは不思議そうに玲を見る。
「まだ立つの?」
「当たり前だろ」
「どうして?」
その問いに、玲自身にも上手く説明できなかった。
後ろには美月と椎名がいる。
少し離れた場所では、かぐやがまだ人間たちを避難させている。
逃げきれていない者もいる。
……だったら。
「まだ俺が立てるからだ」
玲は再び剣を構える。
その言葉を聞いた瞬間、レヴィアタンの目が細くなった。
「……やっぱり嫌いだ」
レヴィアタンの姿が消える。目では追えぬ速さに、玲は反射的に剣を振った。
だが、それでもその速さには追い付けず手首を掴まれる。
「——っ!」
捻られた瞬間、指から力が抜けた。
黒い剣が石畳へ落ちる。
続けざまに胸を殴られ、玲の身体も地面へ叩きつけられた。
「玲!」
遠くから、かぐやの声がする。
玲は手を伸ばした。
剣がある。
あと少し。
だが、その前へレヴィアタンが立った。
「これがないと、何もできない?」
「……返せ」
「嫌だ」
レヴィアタンが剣を蹴った。
黒い長剣は石畳を滑り、遠くまで転がっていく。
「っ……!」
玲は立とうとした。腕に力を入れるが身体がもう持ち上がらない。
レヴィアタンは憐れそうにその姿を見下ろしていた。
「君は僕と違うと思ってる?」
「……何が」
「大切なものがあるから、強くなれるって」
「そんなこと……言ってねえ」
「でも、そう見える」
レヴィアタンの声が、僅かに揺れた。
「みんなそうだ」
家族。
仲間。
守りたい相手。
人間はいつも何かを持っている。
「僕には何もないのに」
その言葉だけは、今までよりずっと幼く聞こえた。
ゆっくりと、レヴィアタンが腕を上げる。
「君だけ持ってるなんて——」
「玲!」
美月が立ち上がった。
左腕を庇いながら、それでも玲の前へ向かおうとしている。
「美月、来るな!」
レヴィアタンの視線が美月へ移った。
次の瞬間には、その姿が消える。
美月は震える腕で刀を構えた。
【閃】を使える状態ではない。
それでも逃げなかった。
玲とレヴィアタンの間へ入ろうと一歩踏み出す。
レヴィアタンの拳が迫り、美月は刀を上げた。
激しい金属音が鳴り響く。
刀が弾かれ、それは美月の手から離れて宙を舞った。
「——っ」
玲は地面を掴む。
「やめろ!」
動け。立て。
頭では何度も叫んでいる。
それでも身体が言うことを聞かない。
レヴィアタンの腕が、美月へ伸びる。
——その瞬間だった。
何かが広場を横切った。
レヴィアタンが咄嗟に顔を逸らすと、鋭い刃がその頬を浅く掠める。
「……?」
一本の短刀が石畳へ突き刺さる。
レヴィアタンがゆっくり振り返った。
玲も息を切らしながら顔を上げる。
広場の入口に、一人の男が立っていた。
短い赤茶色の髪。
鋭い目。
見たことのない男だった。
「……誰だ?」
男はただ一度だけ玲の方へ視線を向ける。
ほんの一瞬、何かを確認するような目だった。
玲にはその意味が分からないまま、男の視線はレヴィアタンへ戻っていた。
「随分好き勝手やってくれたな」
聞き覚えのない低い声。
レヴィアタンは興味を向けるように男を見る。
「君も人間?」
「だったら何だ」
「僕と戦うの?」
男は答える代わりに、腰の剣を抜いた。
玲は思わずその武器を見る。
——黒くない。
その武器は紋章武器ではなかった。どこにでもありそうな普通の剣だ。
「一人で?」
レヴィアタンが笑う。
「十分だ」
その言葉に、レヴィアタンの姿が消えた。
「危な——」
玲が言い終えるより早く、男の剣が動いた。
正面から受け止めない。振り下ろされた腕を、刃の腹で僅かに横へ逸らす。それと同時に懐へ踏み込み、肘をレヴィアタンの腹へ叩き込んだ。
「……!」
レヴィアタンの身体が初めて大きく後ろへ下がる。
玲は痛みも忘れて、その光景を見つめた。
「なんだ……あいつ」
紋章の力はない。
美月の【閃】のような速度もない。
椎名の【縛】のような術もない。
それなのに、レヴィアタンと戦えている。
拳。
蹴り。
刃。
狭い間合いの中で、二人の攻撃が何度も交差する。
男の方が遅い。
力も弱い。
それでも、次にどこから攻撃が来るのかを知っているようだった。
動くのは必要な分だけ。
無駄に跳ばない。
無理に力で競わない。
逸らして。
かわして。
空いた場所へ刃を差し込む。
「……強え」
玲の口から自然と声が漏れた。
美月も傷を押さえながら、その戦いを見つめている。
男の刃がレヴィアタンの肩を掠めた。血が散るが、その傷は浅い。続く一撃も腕で防がれてしまう。
男はこの中の誰よりもレヴィアタンと戦えている。けれど、玲にも分かってしまった。
このままでは、倒せない。
男の技術はレヴィアタンに届いている。
しかし、仕留めるための力が足りない。
それでも男は退かなかった。むしろ少しずつ場所を移し、玲たちからレヴィアタンを引き離していく。
それは時間を稼いでいるようにも見えた。
誰かが立て直すための時間を。
「……なんで」
玲はどうにか上半身を起こす。
「誰なんだよ、あいつ……」
——その時だった。
広場の入口に、もう一つ人影が現れた。
風が吹き、黒い外套が揺れると、その間から長い白髪が広がる。
玲の目が大きく見開かれた。
白い髪、黄色い瞳。
見間違えるはずがない。
痛みも、呼吸の苦しさも。
その瞬間だけはすべてを忘れていた。
「……小夜?」




