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プロローグ:消滅

はじめまして。

『悪魔の子 ―― 君を殺すための旅。』をこれからよろしくお願いします。


 その日、玲(れい)は村が燃えていることに気づかなかった。


「かぐや! そっち行ったぞ!」

「分かっておる! いちいち叫ぶでない!」


 木々の隙間を小さな獣が勢いよく駆け抜けていく。

 玲は倒木を軽々と飛び越え、獣の進路へ先回りした。しかし両腕を広げて飛びかかった瞬間、その脇をするりと抜けられてしまう。


 直後、灰色の影が玲の横を駆け抜けた。


 狼——かぐやだ。


 鋭い牙が獲物へ迫った、その時だった。


「待った!」


 玲の声にかぐやは地面を削りながら急停止した。その隙に獣は茂みへ飛び込み、姿を消してしまう。


「……何のつもりじゃ」

「いや、あいつ子どもいるみたいだからさ。今日は逃がしてやろうぜ」


 玲が森の奥を指差すと、かぐやは鼻をひくつかせた。やがて諦めたように息を吐く。


 玲は昔から妙に鼻が利いた。十六歳になった今でもそれは変わらず、獣の匂いはもちろん、雨の気配や遠くの血の匂いにも気づくことができた。

 人間に対しても似たようなことがある。初めて会う相手でも、なぜか警戒したくなることがある。反対に見た目がどれほど恐ろしくても、不思議と安心できる相手もいた。


 理由は自分でも分からない。ただ、そうした感覚が外れたことは滅多になかった。


「腹減ったな」

「獲物を逃がしたのはおぬしじゃろう」

「帰ればなんかあるだろ。じいちゃんなら何とかしてくれるって」


 かぐやは玲が村長に甘えすぎだと文句を言ったが、玲は悪びれる様子もなく笑った。


 村長が玲を拾ったのは九年前のことだった。

 七歳の頃、村から離れた荒れ地を彷徨っていた玲を見つけ、家へ連れ帰ってくれたのだ。


 それ以来、村長は玲を本当の孫のように育ててくれた。

 村の人々も同じだった。悪さをすれば叱られ、腹を空かせれば飯を食わせてもらえる。玲にとって、この小さな村にいる全員が家族のようなものだった。


 だから、自分がどこから来たのか分からなくてもそれほど気にはならなかった。

 

 七歳より前の記憶がまったくないわけではない。

 誰かと暮らしていた。一緒に食事をし、笑い、時には叱られたことも覚えている。


 けれどその誰かの顔だけはどうしても思い出せなかった。

 ただ、一つだけ忘れられない言葉があった。


 ——大切な者を守れる人間になれ。


 誰に言われたのかさえ分からない。

 それでも玲はその言葉が好きだった。


「玲」


 かぐやの声に玲は顔を上げた。

 隣を歩いていた狼が立ち止まり、村の方角へ耳を向けている。


 玲も同じ方向へ顔を向けた。

 その瞬間、風が吹いた。


「……なんだ?」


 焦げ臭い。

 焚き火とは違う、大量の木が燃えるような濃い匂いだった。


 そして、その奥に混ざる鉄のような生臭さ。


 血だ。


 木々の向こうへ目を凝らすと、青い空に黒い煙が立ち昇っていた。


「……村?」


 次の瞬間、玲は走り出していた。

 枝が顔に当たり、棘が服を引っ掻く。それでも構わずただひたすらに村を目指した。


 森を抜けた瞬間、玲の足が止まった。

 見慣れた景色がどこにもなかった。


 家々は炎に包まれ、道には焼け落ちた木材が散乱している。畑は荒らされ、柵は壊されていた。


 そして、その間に人が倒れていた。


「おい!」


 玲は近くの男へ駆け寄り身体を抱き起こした。


 知っている男だった。

 畑の野菜を勝手に食べるたび、怒鳴りながら追いかけてきた男だ。結局は玲を捕まえられず、最後には野菜を一本投げて寄越してくれる。


 昨日も会った。

 それなのに、いくら肩を揺らしても目を開けない。


「……起きろって」


 男の腕が玲の手から力なく滑り落ちた。

 

 道の先にも、人が倒れている。

 井戸端でよく話していた老婆。狩りを教えてくれた男。玲を見るたび菓子をくれた女。


 誰も動かなかった。


「……悪魔に、やられたのか?」


 そう呟いた途端、ある人物の顔が浮かんだ。


「じいちゃん!」


 玲は村の中央へ走った。

 何度も名前を叫びながら、崩れた家屋の間を駆け抜ける。


 せめて、じいちゃんだけでも。


「じいちゃん!」

「……れ、い」


 微かな声が聞こえた。

 崩れた家屋の陰に、村長が座り込んでいた。


 玲は転ぶように駆け寄り、その前に膝をつく。


「じいちゃん! 大丈夫か!?」


 村長の服は腹の辺りまで赤く染まっていた。呼吸は浅く、傷口から血が流れ続けている。

 玲は慌てて傷口を押さえた。


「待ってろ。今、なんとかするから!」


 手の隙間から温かな血が溢れる。

 どれだけ強く押さえても止まらなかった。


「かぐや! なんかないか!? 布でもなんでもいい!」

「——玲」


 村長に名前を呼ばれ、玲は顔を上げた。


「わしの家の……床下に、地図がある」

「地図?」

「代々……守ってきたものだ。持って行きなさい」


 玲は首を振った。


 そんなものはどうでもよかった。

 今は少しでも早く血を止めなければならない。そう思うのに、何をすればいいのか分からなかった。


 村長は血に濡れた手を持ち上げ、玲の腕を掴んだ。


「この村を、出なさい。地図を持って……塔へ」

「行かねえよ」


 玲は即座に答えた。


「じいちゃんも一緒に行くんだよ」


 村長は何も言わなかった。


「美月だっていつか帰ってくるかもしれねえ。あいつが帰ってきたとき、誰もいなかったら困るだろ」


 声が震えた。


 村長はただ、玲を見つめていた。

 七歳の玲を拾った時から変わらない、優しい目だった。


「玲……前へ進みなさい」


 玲は唇を噛んだ。


「勝手なこと言うなよ」


 喉の奥が痛かった。


「美月もいなくなって……じいちゃんまで勝手に決めんなよ」


 握っていた手から少しずつ力が抜けていく。


「俺、まだ何も返してねえだろ」


 玲はその手を握り返した。


「なあ、じいちゃん」


 返事はなかった。


 周囲では家々が燃え続け、焼け落ちた柱が音を立てて崩れていく。


 玲は何度も村長の名を呼んだ。

 けれど、もう声が返ってくることはなかった。


 頬を伝った涙が握りしめた手の上へ落ちる。


「……なんなんだよ」


 誰がやったのか。なぜこんなことになったのか。

 悪魔の仕業なのかさえ、玲には分からなかった。


 ただ、昨日まで一緒に笑っていた人たちがもう誰も返事をしてくれない。

 それだけがどうしようもない現実だった。


 


 村長の家は半分ほど焼け落ちていた。

 玲は崩れかけた床板を剥がし、床下に隠されていた古びた筒を見つけた。


 中には一枚の地図が入っている。

 見知らぬ地名と記号。その中に、村から遠く離れた場所を示す印があった。


「……塔」


 村長の最後の言葉を思い出す。

 地図の印が本当に塔なのかは分からない。それでも、他に手がかりはなかった。


 玲は地図を畳み、服の内側へしまった。


「玲」


 振り向くと、灰色の毛を煤で汚したかぐやが立っていた。


「……行くのか?」

「ああ」

「どこへじゃ」

「塔」

「その先は?」

「知らねえ」


 かぐやは呆れたように目を細めた。


「おぬし……何も分かっておらんではないか」

「分かんねえから行くんだよ」


 いつもならここで笑い合っていたのだろう。

 けれど、玲はうまく笑えなかった。


 最後に一度だけ、村を振り返る。


 九年間暮らした場所はまだ燃えていた。

 明日になれば、また誰かが畑仕事を始める気がした。村長が朝飯を用意してくれて、美月もいつか帰ってきて、何もかも元通りになるような気がした。


 けれど、そんなことは起こらない。

 玲にもそれくらいは分かっていた。


 ——前へ進みなさい。


 村長の言葉が、耳の奥に残っていた。


 玲は前を向く。


「行くぞ、かぐや」

「……まったく。仕方のない奴じゃ」


 玲が歩き出すとすぐ後ろからかぐやの足音が続いた。

 どこへ続くのかも分からない古びた地図を頼りに、一人と一匹は塔を目指した。


 燃え続ける村を、玲はもう振り返らなかった。


お読みいただきありがとうございます。感想いただけると嬉しいです。次話もよろしくお願いします!

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