第72話 入坑許可票は、白紙から作れ
市庁の会議室は、いつもより人が多かった。
長机の端にバルガス市長の補佐役の役人が二名。中ほどにリオネル。ノラとミレナが隣り合って座り、ガルドが壁際の椅子を引っ張り出して腰を下ろしている。入口近くにはセルマが立ったまま腕を組んでいた。
アシュレイが机の中央に一枚の紙を置いた。
全員の視線が集まった。
紙には枠線が引いてある。左端に項目名が並んでいる。だが、その右側の大半は白い空白だった。記入欄がほとんど埋まっていない。
「これが、今日の作業の起点です」
アシュレイは席に着かず、立ったまま言った。
「入坑許可票の雛形です。今後、旧鉱山区画の第一坑道へ入るための正式な許可証になります」
補佐役の役人の一人が、少し前のめりになって紙を覗き込んだ。三十代の半ば、頬の丸い男で、名をコルテという。書類仕事を長くやっているらしく、普段は文書を前にすると顔が明るくなる人物だ。
「なるほど。書式を整えれば、まずは仮の許可を出せる、ということですか」
アシュレイは少し間を置いた。
「書けば許可が出るわけではありません」
「……と、言いますと」
「この票は、許可する紙ではありません。止める責任者を定義する紙です」
コルテが「は」と言い、口を半分開けた。
「入坑の許可は、複数の担当者が自分の担当欄を確認し、承認して初めて出ます。一人でも確認できていない欄があれば、その状態では入れない。……今日は、その欄を全部出そろわせる作業をします」
コルテがもう一度紙を見た。今度は先ほどと少し違う目で。
ガルドが腕を組んで低く唸った。
「で、何の欄を埋めるんだ、旦那」
「まず、今の時点で何が空欄かを確認します。最初にガルドさんから聞かせてください。入坑の際、支保工の確認は誰がやりますか」
「俺だ。それ以外にいるか」
「入口から何メートルまでを確認し、どの状態になったら立入を止めますか」
ガルドは少しだけ黙った。
「……止める条件か。今は決めてねえな。感触で止める判断は出来るが、それだと他の奴に伝わらねえ」
「そこが今日埋める欄です」
ミレナが手帳を開いてペンを走らせ始めた。ガルドが支保工の確認欄の担当者として入ること、止める条件の草案を今日中に出すことを書き込んでいく。
次にアシュレイはノラを見た。
「ノラさん。証拠採取の担当と、採取を中断する条件は」
「私が証拠管理をやるのは当然として、中断条件はまだ文書化していないわ。採取中に退避合図が出た場合の手順も、誰が指示を出すのかが曖昧なまま」
「その欄を追加してください。採取者、証拠番号の発番基準、中断条件、退避時の物品保全手順。四項目でいいですか」
「もう一項目。採取物の封かん確認者を別に立てたい。採取した人間が自分で確認まで行うと、改ざんの余地が残るから」
「入れてください」
ノラが机の上から予備の羊皮紙を引き寄せ、追加項目を書き始めた。
コルテが口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。今、どんどん項目が増えていますが……これ、全部埋めないと入れないということですか」
「そうです」
「それは少し……厳しすぎませんか。現場というのは、入ってみないと分からないことがあるものでしょう。最初から完璧な計画を立てるよりも、まず入って状況を把握して、そのあとで対応を考える方が実際的ではないかと」
会議室の空気が、少し変わった。
反論ではなく、珍しくもない意見だった。現場仕事をしたことのある人間の多くが一度は持つ考え方だ。コルテを責める気にはならない。
「その考えは分かります。入ってみないと分からないことは確かにあります。ただ、一つだけ確認させてください」
アシュレイは机の上の空欄の票を指した。
「今この状態で入った場合、もし支保工が想定外の動きをしたとき、誰が止めますか。退避の合図は誰が出しますか。証拠採取中に問題が起きたとき、採取物は誰が保全しますか。封鎖外の住民に何かが起きたとき、誰が対応しますか」
コルテが答えなかった。
「誰も答えられない状態で入れば、事故が起きたときに止まれません。止まれなければ、記録も証拠も壊れます。入った人間の安全も保証できない。……入ってみれば分かる、は正しい。ただ、入ってよい状態を作ってからでないと、入れません」
コルテはしばらく黙った。それから小さく息を吐いた。
「……はあ。分かりました。続けてください」
リオネルが机の上の票を引き寄せ、退避欄を見た。
「退避判断の担当は私で構わない。ただ、退避合図の種類と優先順位を決める必要がある。支保工側の止まれと、私側の退避は別の合図を使うべきだ。混線すると動けなくなる」
「合図の種類と優先順位を退避欄に追加してください。誰の止まれが最上位になるかも明記する」
「了解した」
リオネルは無駄のない動きで欄を埋め始めた。
最後にアシュレイはセルマを見た。
「セルマさん。封鎖外の物流迂回について、入坑当日の対応が必要です」
「そこまで票に入れるの」とセルマが言った。驚きではなく、確認の口調だ。
「入坑中に封鎖外で混雑や問題が起きれば、退避経路が詰まります。当日の物流迂回を管理する担当者と、封鎖外の通知範囲を票に入れてください」
セルマは少し考えた。切れ長の目が天井を向いて、また戻ってきた。
「……なるほど。外が乱れたら中の退避路が死ぬ、ということか。分かった。商人側の当日迂回と、封鎖外住民への事前告知の担当者名と連絡手順を追加するよ」
「ありがとうございます」
ミレナが最後に手を挙げた。
「住民への告知欄が、まだ入っていません。入坑当日の説明責任の窓口と、入坑中に住民から問い合わせが来た場合の対応も必要です」
「入れてください。告知の範囲と時期、問い合わせ窓口の担当者を」
「はい」
ミレナはすでに下書きをしていた。ペンが速く走る。
三十分ほどで、票は最初の姿から大きく変わっていた。空欄だった右側に、担当者名と確認条件と止める基準の草案が並び始めた。ガルドの支保工欄、ノラの証拠管理欄、リオネルの退避欄、セルマの物流迂回欄、ミレナの住民告知欄。それぞれに担当者の名前が入っている。
「これが入坑許可票の初版です」
アシュレイは全員が記入した票を見渡した。
「ただし、今日の状態では許可は出ません」
コルテが顔を上げた。
「え、また……?」
「各担当者が草案を出してくれました。ただ、まだ現地確認が終わっていません。ガルドさんの止める条件も、リオネルさんの退避合図も、実際に現場で確認してから番号を確定します。それが終わるまでは、この票は未確認の状態のままです」
「それは……つまり、今日は書いただけということですか」
「今日は責任の所在を決めた、ということです。誰が何を止めるかが決まっていなかった票に、担当者の名前が入りました。これは違います」
コルテはしばらく票を見た。空欄が多かった雛形と、担当者名が入った今の票を見比べるように。
「……なるほど」とコルテはつぶやいた。かみ合ったとも、まだ腑に落ちないとも言いがたい声だったが、反論はしなかった。
散会する前に、ミレナが票の写しを全員に配った。自分の担当欄だけが分かる形で折ってある。自分がどこに責任を持つかが一目で見える形にしてあった。
ガルドが受け取った写しを広げ、内容を確認した。それから折りたたんで工具袋に入れた。その動作の最後に、ガルドは机の端に広げたままになっていた別の書類に目を留めた。
旧坑道図の写しだった。封鎖初期に役所の資料室から出してきたものが、参考資料として会議室に置きっぱなしになっていた。
ガルドは無言でそれを手に取り、しばらく見た。
ミレナが立ち上がりかけて止まった。ガルドが動かなかったからだ。
「どうしました、ガルドさん」
「……この図面」
ガルドは坑道入口付近の角度を示す線を指で叩いた。
「入口の角度が、現地と合わねえぞ」
会議室の中が静かになった。
ガルドは票ではなく坑道図を手に持ったまま、しばらくそこから動かなかった。




