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追放された運用保守担当、辺境都市の障害を全部直したら英雄になった  作者: 結城ログ
第7章:別都市倉庫印と消えた資材台帳〜黒幕ではなく、経路を洗え〜
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第61話 倉庫印は、黒幕の名前ではない

 朝、廊下を歩いていると、囁き声が聞こえた。

 二人の事務官が、書類を脇に挟んだまま足を止めて話し込んでいる。アシュレイが近づくと、すぐに口を閉じて会釈した。目が泳いでいた。


(また広まっているか)


 昨夜、ノラが資料室から持ち出してきた小さな倉庫印。その話は、閉庁後に報告を受けた時点では極めて限られた人間しか知らなかったはずだった。それが一夜明ければこれだ。

 大会議室の扉を開けると、バルガス市長が既に席に着いていた。普段なら茶でも飲みながら待っているところを、今日は両手を膝の上に置いて正面を向いている。


「グラン君。……ちょうどよかった」


 その言い方で、用件の重さは分かった。


「ダリウスの一件と、あの王都大障害がまだ記憶に新しい。だから皆が敏感になっている」


 バルガスが続けた。


「倉庫印が王都と繋がるなら、残党が動いているんじゃないか、復旧工事の不正がイルダンへ飛び火してきたんじゃないかと。……廊下でそういう話が出ている。私の耳にも届いている」


「いつからですか」


「今朝の出勤時刻から、だろうね。誰かが話したのか、それとも自然に漏れたのかは分からない」


 アシュレイは窓の外に目をやった。通りを歩く住民の姿が見える。普通の朝だ。だがこういう空気は、普通に見えている間に根を張る。


「今日中に何か示せますか、という話ですか」


「……できれば」


「示せるのは答えではなく、方針です。それでよければ」


 バルガスは少しだけ眉を上げて、それから頷いた。

 ノラとミレナを呼んだのは、大会議室から引き上げてすぐのことだった。


 小会議室の机の上には、昨夜採取した倉庫印の写し、証拠品管理台帳の一ページ、それとノラが王都復旧資材調達記録から持ち出してきた写しの束が置かれていた。


「ノラさん。改めて確認します。昨夜見つけた倉庫印について、今の時点で言えることを」


 ノラは眼鏡を押し上げ、採取物の写しを指で示した。


「旧鉱山区画の魔力樹脂片に打たれていた刻印が、私が以前、王都復旧資材調達の監査をした際に見た外部倉庫の印と『似ている』。これだけよ。一致と断定できるほどの照合はまだしていない」


「その照合をこれからやる、ということですね」


「そのつもりだった。……ただ今朝の廊下を見ると、焦って答えを出せという圧力がかかりそうで」


 ミレナが手帳を開きながら口を挟んだ。


「さっき役所の前の通りで、商人ギルドの人が何人か立ち話をしているのを見ました。王都の話をしていたかどうかは分かりませんでしたけど……雰囲気が、いつもと違っていて」


 アシュレイは手帳に一行書いた。

 倉庫印=照合キー。犯人の署名ではない。


「倉庫印というのは、どの倉庫から出たかを示す識別情報です。それ以上でも、それ以下でもない」


 二人が顔を上げる。


「印が一致したとして、そこから先に何があるかはまだ分からない。その倉庫へ発注した者、輸送を手配した者、現場で受け取った者、実際に使った者。これらが全員同じ組織かどうかは、印だけでは証明できない。印は出発点であって、結論ではありません」


「じゃあ何を調べるんですか」


 ミレナが聞いた。遠慮のない声だった。


「五つに分けます。印の形状の比較。資材の種類。納品時期。契約名義。支払い経路。この五軸を独立して照合する。一つが一致したからといって、他も一致するとは限らない。逆に、一つがズレていれば、その経路だけ別の動きをしていることになる」


 ミレナはすでに書いていた。


「照合項目の一覧、作ります。五軸でいいですか」


「それで始めてください。ノラさんは王都復旧資材調達記録の写しを当たってもらえますか。同一と断定できなくても、形状の類似度と記録された納品時期だけでも先に押さえておきたい」


「分かった。……ただし写しだから、原本との照合が必要になれば王都側への正式照会が要る」


「ローデリクさんを通じて手配します。まず今日中に動かせる範囲を進めましょう」


 問題が起きたのは、それから一時間も経たないうちのことだった。

 廊下の奥から声が聞こえ、アシュレイが向かうと、中堅の役人が三、四人、ミレナを壁側に押しやるような位置に立っていた。


「……記録の写しを確認する前に、まず王都へ正式に抗議すべきだと言っています」


 ミレナが振り返って小声で言う。その肩が少し強張っていた。

 先頭の役人がアシュレイを見た。四十がらみの男で、表情に苛立ちと焦りが混じっていた。


「ちょうどよい。グラン殿にも聞いていただきたい。倉庫印が王都との関係を示すなら、まず市庁として抗議の文書を出すべきです。このまま調査だけ進めていても、街が守れない」


 アシュレイは返事をする前に、ひとまず廊下の中ほどまで歩いた。全員がそちらを向く形になる。


「お気持ちは分かります」


 穏やかな声だったが、歩くのは止めなかった。自然と全員が向き直る形になったところで、立ち止まった。


「ダリウスの件がある。あの障害がある。倉庫印を見て、また王都が動いているのではないかと思うのは、当然の反応です」


 先頭の役人が少し表情を緩めかけた。


「ただ」


 そこで一呼吸置く。


「今この時点で、私たちが持っている情報は『印が似ている』という一点だけです。正式抗議というのは、相手が反論できない証拠を積み上げた上で初めて有効になる。今の状態で突きつければ、先方から『印が似ているだけで何を言っているのか』と一蹴されて終わる。そうなれば、傷つくのはこの街の方です」


 誰も口を挟まなかった。


「私たちが今やることは、陰謀を暴くことではなく、経路を確かめることです。どの倉庫から出て、誰が契約し、誰が運んで、旧鉱山区画に届いたか。その連鎖を証明できれば、相手が王都であろうとどこであろうと、動かせる証拠になる。急いで犯人を指さすより、その方が確実に街のためになります」


 しばらく沈黙が続いた。役人たちが互いに目を見合わせ、それから一人ずつ廊下を戻っていった。最後の一人が曲がり角を消えてから、ミレナが小さく息を吐いた。


「……言いに来てよかったです、グランさん」


「気づいていましたか」


「廊下の話し声は聞こえていたので」


 アシュレイは手帳を開き、次の欄に移った。


「セルマさんへの話も今日中に済ませます。商人ギルド側の出荷記録を開いてもらうには、頼み方を間違えると逆効果になる」


 商人ギルドの窓口室は、昼前には珍しく静かだった。

 セルマが執務机の向こうで書類を整理していた。アシュレイが入ってきても、すぐには顔を上げなかった。書類に目を落としたまま言った。


「ミレナちゃんから聞いてる。出荷記録の照会がしたい、ってね」


「そうです」


「それがどれだけ面倒な話か、分かってて来てる?」


 セルマがようやく顔を上げた。切れ長の目が、値踏みするようにこちらを見ている。


「ギルドの記録は商人の信用そのものよ。疑惑を理由に外へ出せば、関係のない正規の商人まで巻き込まれたと思う。ギルド内はただでさえ今朝から落ち着かない。外で変な噂が広まれば、荷の動きが止まる。それは街が痩せることと同じだって、あなたも分かるでしょう」


「分かります」


 アシュレイは机の前の椅子には座らず、立ったまま続けた。


「だから、ギルドを疑って記録を出させたいわけではない。倉庫印に紐づく資材が、どういう経路でイルダンへ入ったかを照合したい。その過程でギルドの記録が正規の取引を証明してくれれば、むしろギルド側の経路が健全だという根拠になります」


「……証明、ね」


 セルマが腕を組んだ。


「隠す必要があるのは、後ろめたい部分がある側だけです。正規の記録を持っているなら、照合するほど疑いが晴れる」


 長い沈黙だった。セルマは一度、視線を窓の方へ逃がした。外では荷運びの声がしていた。


「……分かった。ギルド内の調整は私がやる。ただし出せる記録には限りがある。何が要るか、項目を絞って持ってきなさい」


「ノラさんと照合項目を詰めた後、改めてお願いします」


 セルマは返事の代わりに書類を一枚手前に引き寄せ、何かを書き始めた。アシュレイが扉へ向かいかけたところで、背後から声がかかった。


「保守官殿。一つだけ聞く」


 振り返ると、セルマは書類から目を上げずに言った。


「今回の件、王都絡みだったとして。あなたはそれを、証拠が揃うまで断定しないで進められる?」


「はい」


「……なら、話を聞く価値はある」


 午後の会議室に、関係者を集めた。

 アシュレイは短く、今日の結論を告げた。


「倉庫印に関連する資材について、一時的な取引停止と記録保全を命じます」


 場が少しざわめいた。


「逮捕でも告発でもありません。照合作業が終わるまでの間、証拠となりうる記録や物品が処分・書き換えられることを防ぐためです。疑っているのではなく、照合しています。それだけです」


 バルガス市長が低い声で言った。


「グラン君の言う通りにしよう。この件は、今日から感情で動く話ではない」


 反論しかけた役人が口を閉じた。

 その一言で、室内の空気が変わった。「誰が悪いか」ではなく「どの経路を調べるか」という方向へ、問題が静かに切り替わった瞬間だった。


 夕方、ノラは資料室に一人残っていた。

 王都復旧資材調達記録の写しを机に広げ、照合項目の一覧を手元に置いて、最初の軸から順番に当たっていた。


 印の形状。資材の種類。納品時期。

 ページをめくるたびに、慣れた手つきで数字と記号を拾っていく。窓の外はとっくに暗くなっていた。ランプの光だけが机を照らしている。


 そのまま進んで、あるページの欄外に差し掛かった時、手が止まった。

 インクが薄く擦れている。


 意図的に消された、というより、何かで擦った後がある。ランプを引き寄せて角度を変えると、擦り跡の下から、薄く数字の並びが浮き上がった。

 取引番号にしては桁が合わない。欄外に書いて消すような種類の情報ではない。


 ノラは証拠品管理台帳を引き寄せ、発見箇所と状態を書き込んだ。採取方法は目視のみ、採取時刻は今この瞬間。

 ペンを置いてから、もう一度その薄い数字を見た。


(消した者がいる。)


 それが誰で、なぜこの欄外だったのか、今は分からない。ただ、消されたという事実は、消えていなかった。

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