第30話 壊れる前の兆候
王都からのトップ監査官、ローデリクが帰途に就いた夜。
辺境都市イルダンは、ここ数年で最も深く、穏やかな静寂に包まれていた。
青玉色の結界が夜空を柔らかく照らし、南の水路からは澄んだ水音が聞こえる。
仮設区画の流民たちも、防衛隊の巡回のもとで安全な眠りについている。
この三ヶ月間、アシュレイたちが泥水と煤にまみれて構築してきた「壊させないための仕組み」が、街の寝息として確かに機能している証拠だった。
だが、役所地下の中央制御室に隣接する執務室には、まだ二つの影が残っていた。
「……ミレナはもう帰したわ。監査の対応で、あの子も限界だったから」
予算と台帳を管理する事務官のノラが、熱いお茶を二つのマグカップに注ぎながら言った。
「ありがとうございます、ノラさん。あなたも上がって構いませんよ。王都向けの膨大な資料の照合、本当にお疲れ様でした」
「私一人でやったわけじゃないわ。……でも、悪くない気分ね。王都の偉い監査官殿が、私たちの帳簿を見て言葉を失うなんて」
ノラはふっと、普段の冷徹な顔を崩して微かに微笑んだ。
彼女にとっても、自分のやってきた地味で孤独な記録管理という実務が、王国最高水準だと証明されたことは、大きな誇りだった。
「それで? あなたはなぜ残っているの、アシュレイ。今日の仕事はすべて終わったはずよ」
ノラの問いに、アシュレイは自分のデスクに置かれた一通の封書を見つめた。
「……裏口の私書箱に、これが」
それは、消印も差出人の名前もない、安物の羊皮紙で作られた封筒だった。
だが、封を閉じるために使われている蝋の押し型を見て、アシュレイはすぐに送り主の正体を悟っていた。
「王都魔導庁・都市基盤保守局。……私がかつて所属していた部署の、若手技師からの非公式な連絡です」
「あなたの、後輩?」
「ええ。エルリックという、不器用ですが数字には誠実な男です。私がすべての責任を押し付けられて追放された時、ただ一人、上層部に抗議してくれた……」
アシュレイは封を切り、中身を取り出した。
入っていたのは、手紙と呼べるような代物ではない。乱れ書きされた数行のメモと、数枚の『魔力網の稼働ログ』の束だけだった。
アシュレイはそのログを机に広げ、無言で目を走らせた。
一秒、また一秒と経つごとに、彼の顔から血の気が引き、瞳の奥に冷たい怒りの炎が灯っていく。
「アシュレイ……? 何が書かれているの?」
普段は感情を乱さないアシュレイのただならぬ様子に、ノラが思わず身を乗り出した。
アシュレイは無言のまま、ログの一枚をノラの方へ押しやった。
「ノラさん。あなたは数字の専門家だ。この『王都の魔力消費グラフ』を見て、どう思いますか?」
ノラはマグカップを置き、そのグラフを覗き込んだ。
王都南区画の、過去一週間分の魔力流量と電圧の推移を示すデータだ。
「……不自然ね」
ものの数秒で、ノラは眉をひそめて指摘した。
「消費量の折れ線グラフが、一定の閾値(限界ライン)の直前で、不自然に平坦になっているわ。どんなに負荷が集中しても、まるで『見えない壁』があるみたいに、それ以上数字が上がっていない」
「その通りです」
「それに、この下部の『通信・補助回路』のログ。ところどころ、数分間だけデータが完全に空白になっている。……アシュレイ、これ」
ノラは冷や汗を滲ませながら、アシュレイの顔を見た。
「数字を、意図的に抜いて誤魔化している形跡があるわ。帳簿の改ざんと同じよ」
「ええ。ログの改ざんです」
アシュレイは、エルリックの走り書きのメモを指差した。
『――グラン主任。お助けください。新規開発局が、また南区画へ規格外の大型魔導増幅器を強引に接続しました。マスターコア(安全核)は警告を発していますが、開発局の権限でアラートは握り潰され、ログのフィルターを操作して「正常値」として報告するよう強制されています』
そこには、技術者としての悲痛な叫びが綴られていた。
『末端の回路はすでに発熱し、断続的な通信障害と電圧降下が起きています。ですが上層部は、「計器上は緑色だから問題ない、工事を進めろ」の一点張りです。……このままでは、あの日のブラックアウトの比ではない規模で、王都の半分が吹き飛びます――』
ドンッ! と。
アシュレイの拳が、机を強く叩いた。
「……愚かな」
低く、地を這うような声だった。
「新しい設備を繋ぎ、目に見える実績を作ることしか頭にない。基盤の限界を無視し、警告が出れば、原因を直すのではなく『警告音そのものを消して』正常だと嘘をつく。……私がいた頃から、何一つ変わっていない!」
それは、かつてアシュレイが王都で見たのと同じ「握り潰された異常」の数字だった。
いや、ローデリクが言っていた通り、事態はあの時よりもさらに悪化している。
限界ギリギリまで膨れ上がった風船に、さらに魔力を注ぎ込み続けている状態だ。
爆発すれば、王都南区画の住民数十万人が、暴走した魔力の炎に包まれることになる。
「……ひどい話ね」
ノラが、吐き捨てるように言った。
「原因を隠蔽したまま無理やり繋いで、いざ壊れたら、またこのエルリックという若者に『お前たち保守部門の点検が甘かったせいだ』と責任を押し付ける気ね。……あのボルトンと同じ、腐りきった責任逃れの構造だわ」
「ええ。彼らは現場を見ない。書類上の数字さえ整っていれば、それでいいと思っている」
アシュレイは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
王都魔導庁での最後の日。
どれだけ危険性を訴えても、誰も耳を貸さなかった。
『保守なんて、壊れたものを直すだけの裏方だろう。黙って上の言う通りにしていればいい』と嘲笑され、すべてを奪われて追放された、あの孤独な日の空気。
あの時のアシュレイは、孤立した一人の保守主任にすぎなかった。
技術はあっても、それを組織に認めさせる政治力も、現場を動かす権限もなかった。だから、壊れるのを見ていることしかできなかったのだ。
――だが。
アシュレイはゆっくりと目を開き、地下室の壁に貼られたイルダンの巨大な見取り図を見上げた。
そこには、ガルドが書き込んだ配管の修正跡がある。
ミレナが色分けした、美しい情報の伝達経路がある。
セルマが手配した物流のルートがあり、リオネルが定めた防衛の優先順位がある。
そして、ノラが命懸けで守り抜いた、完璧な資産の台帳がある。
今の彼は、孤独ではない。
この三ヶ月間、辺境の泥の中で、彼らと共に一つの「完璧な実務のシステム」を作り上げてきた。
王都のエリート監査官ですら手も足も出なかった、現場と事務と防衛が一体となった『本物の運用保守』の証明が、ここにあるのだ。
「……王都の開発局は、私を追放した時、『君のような旧式の手法しか持たない人間は不要だ』と言いました」
アシュレイは、机に広げられた改ざんログを一つにまとめ、手帳の裏表紙にしっかりと挟み込んだ。
その瞳には、かつての徒労感や諦めは微塵もない。
あるのは、己の実務と仲間への、揺るぎない確信だけだ。
「ですが、私たちイルダンのチームは、その『地味な保守』こそが都市を救い、維持するための最強の盾であることを、すでに証明しています」
「アシュレイ……。まさか、あなた」
ノラが、信じられないものを見るような目で彼を見つめる。
「ええ。王都の連中に、運用保守の何たるかを叩き込みに行きます」
壊れた後に呼ばれて、ただ修理して責任を押し付けられるだけの存在ではない。
ログを読み、兆候を掴み、大事故が起きる前に「仕組み」でシステムを止める。それこそが、実務者としての本当の戦い方だ。
アシュレイは立ち上がり、工具入れのベルトを力強く締め直した。
「準備をお願いします、ノラさん。明日、ガルドさんたちも集めて会議を開きます。……王都の崩壊を止めるための、最悪の事態を想定した作戦会議を」
「……ふふっ」
ノラは呆れたように肩をすくめた後、どこか楽しげに笑った。
「仕方ないわね。臨時都市基盤責任者の命令とあらば、予算の枠取りから交通手段の手配まで、完璧にこなしてあげるわ。王都の腐った役人どもに、辺境の事務官の恐ろしさを教えてやるのも悪くないしね」
二人の間に、頼もしい笑みが交わされる。
役所を出ると、夜の冷たい風がアシュレイの頬を撫でた。
再建されたイルダンの街は、深い眠りの中で静かに、そして力強く脈打っている。
しかし、その静けさの向こう――遠く離れた王都の方角では、もっと巨大で致命的な破綻が、暗闇の中で大きく口を開けて待っている。
アシュレイは手帳を取り出し、新しいページを開いた。
そこに書き込むのは、もはやイルダンの修繕記録ではない。彼を追放した国そのものを直すための、巨大な保守計画だ。
アシュレイは手帳を閉じ、王都の空を見据えて、静かに言葉を紡いだ。
「……今度は、壊れる前に止められるかもしれない」
彼らの戦いの舞台は、辺境の泥の中から、因縁の王都中枢へと移ろうとしていた。




