第125話 名簿のいちばん古い頁
名簿の写しは灯りにかざすと、思っていたよりも薄かった。
監査院の裏手の部屋でノラは頁を一枚ずつ繰っていった。統轄部がよこした写しには都市の名が十九、古い書式で縦に並んでいる。切り離し条件が届いているのはそのうちの二つきりだった。残りは名前があるだけで、核がどれだけ痛んでいるかはどこにも書かれていない。
「これ、危険を数えた帳面じゃないわ」
ノラは頁の余白を指の腹でなぞった。
「危ないものを集めた台帳なら危なさが書いてあるものでしょう。劣化の度合いとか、最後に見た日とか。……ここには在り処しかないの。それも妙に正確」
「危険評価のためではないということですか」
「そう読めるわね。在り処だけを几帳面に。……こういう帳面はたいてい、数えた理由のほうを書きたがらないのよ」
アシュレイは並んだ名を上から追った。イルダン。カダル。ドラン。聞いた街も名しか知らない街も同じ間隔で並んでいる。等しく数えられている。まるで初めから一つの表の上にあったものを、あとから写しただけのように。
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いちばん古い頁は綴りの奥にあった。
紙の色が他より濃く、書式も一つ前のものだった。都市の名の並びは変わらない。ただ名の脇に小さな枠が刷ってある。新しい頁にはその枠が無い。
枠はどれも空だった。
「符号を入れる枠ね」
ノラが眼鏡の縁を押し上げた。
「新しい頁はこの枠ごと消えてる。古い頁には枠だけが残って中身が無いの。……書き忘れにしては、古い頁のぶんがそっくり空でしょう。十九のうちのいちばん奥だけが」
アシュレイは枠の一つへ顔を寄せた。写しの筆は丁寧で、枠の線もまっすぐ引かれている。だが枠の内側だけ、刷った者の筆が迷ったように途切れていた。何かがそこにあって、写す段になって既に無かった。そういう途切れ方だった。
「写した人も迷ったんですね。……ここに何が入るのか分からないまま空の枠だけを写した」
「原本を見ないと、これ以上は言えないわ」
ノラは頁を閉じた。
「写しは、無いものは写せない。削られた跡が削られたものなのか、初めから空だったのか。それは紙の地を見ないと分からないの」
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原本の閲覧はローデリクが手続きで通した。
「集約案は退けました。ですが、統轄部が握る名簿は監査の外に置かれたままです」
ローデリクは翌朝、統轄部への照会状を卓へ置いた。文机の隅には、閲覧を認めさせるまでにやり取りした書付が幾重にも積んである。
「監査の透明化を補則の条件に含めます。……資格制を王国標準へ乗せる以上、その名簿がどんな出所のものか、監査院が地の紙で確かめる。それは越権ではありません。手続きです」
統轄部は渋った。だが拒む筋の立つ理由も無かった。名簿は今も部署の手にある。査察の権も残っている。ただ地の紙を一度だけ監査院の立会いのもとで検める——その一点は退けられなかった。
マーロウは立会いに現れなかった。代わりに寄越されたのは鍵を持つ書記官が一人きりだった。
「出所はお答えできかねます」
書記官は原本を卓へ置くと、それだけ言った。
「当部署がいつから、どういう指図で数えてきたか。……記録がございませんとだけ」
「記録が無い、のですか」
「はい。数えていた事実だけが残っております」
アシュレイはその言い方を胸に留めた。数えた者はいる。数えた理由は消えている。誰かが理由のほうだけを丁寧に抜いていた。残されたのは、どこに何があるかという在り処ばかりだった。
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原本のいちばん古い頁を灯りへ寄せる。
枠の内側に傷があった。
紙の地がそこだけ薄い。表の繊維が起き、うっすらと毛羽立っている。刃物の腹のようなもので字の上を何度も撫で、掻き取った跡だった。強く一度ではない。浅く、幾度も。下の地を破らないように慎重に。
ノラが懐から一枚の紙を出した。証拠管理の通し番号が隅に振ってある。
「これ、去年の南のあれ」
拓本だった。イルダンの南区画外縁、あの旧い排水溝跡の設備から据え付けの基点符号が削り取られていた——その削り跡へ紙を当てて写し取った、ノラが証跡に残していた一枚だ。
二枚を枠の中で重ねる。
削りの向きが同じだった。
右上から左下へ、浅く、幾度も。終いに向かって力を抜く、その抜き方まで揃っていた。別の紙の、別の街の、別の設備。それでも掻き取った手の癖が一つだった。
「同じ手つきだわ」
ノラの声が低くなった。
「南の排水溝跡を削った手と、この名簿のいちばん古い頁を削った手。……別々の場所で同じ癖で削ってる。偶然にしては癖が揃いすぎてるのよ」
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エルリックが原本の頁と自分の綴りを見比べていた。
「符号の型は地方都市規格の古いものです。……都市外縁の補助核へ振る、据え付けの基点符号。それが十九、初めから一枚の頁に並んでいた」
若い技師は指を止めた。
「この並び順、意味があります。近い街どうしが隣り合っている。……在り処の順でも、名前の順でもない。核と核を繋ぐとしたら、こう繋ぐという順です」
「系統図ということですか」
「断定はしません」
エルリックは慎重に言った。
「ですが、もしこれが繋ぎ順だとすれば、線の集まる先は……王都の方角です。うちの旧式安全核が据わっている、あのあたりへ束が寄っていく。……あくまで頁の並びから見た向きです。それ以上はこの紙からは言えません」
アシュレイは頁を見た。十九の名が繋ぎ順に並んでいる。かつて一つの系統だった頃の配置の写し。誰かがその系統の名を——設備が何に属していたかを示す符号を——一つずつ削り取り、在り処だけを残して数え続けていた。
上の系統を探して去ったあの元技師の言葉がふと過った。動かさないのは停滞だと彼は言った。彼が探し続けている上の系統。その名残が削られた符号の下にまだ薄く残っているのかもしれなかった。
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書記官が灯りの外で咳払いをした。閲覧の刻限だった。
アシュレイは頁から手を引いた。ここから先は今の権限では踏み込めない。誰が削ったのか、いつ削ったのか、なぜ在り処だけを残したのか。問いはいくつも立つ。だが問いを立てる根拠はまだ削り跡の一致、その一点きりだった。
「今日はここまでです」
アシュレイはノラへ言った。
「ですが、空手ではありません。……削られた符号が二つの場所で同じ手つきだった。それは確かに掴みました。南のあれを削った者と、この名簿を数えた部署はどこかで繋がっている」
「記録には残すわ」
ノラは拓本と原本の頁を通し番号で結んだ。
「同じ手つきという一行を証跡にしておくの。……いつか削った手が見つかったとき、この一行が指を差すのよ」
ローデリクが綴りを閉じた。
「名簿の透明化は補則に乗りました。統轄部はこれを監査の外へはもう戻せません。……一歩です」
一歩だとアシュレイも思った。集約を退け、資格制を立て、名簿を監査の下へ引き入れた。壊れた日常を直す手は確かに増え始めている。一つ名簿を明るみへ引けば、次に手をつける場所も見えてくる。
だが、卓の上の古い頁は別の問いを差し出していた。削られた符号をいつ、誰が、何のために削ったのか。それを辿れば、この部署が名簿を数えてきた本当の理由に届くはずだった。
届く。ただし、その糸の先は——エルリックが束の寄る向きと言った、王都のあの方角。名簿を数えた部署よりも、旧式安全核よりも、もっと深いところへ。掻き取られた符号の下に薄く残る系統の名は地面の下に張られたきり、まだ誰も辿りきっていない大きな一本へと続いていた。




