第123話 一人でないから間に合った
線の束は思っていたよりも多かった。
台の裏は狭く灯りも届かない。コルトは折り畳んだ紙を口にくわえたまま開いた。ノラの引いた赤と黒。黒のほうは指で触れれば分かるほど太い。暗がりで読むかもしれないからと、あの眼鏡の女はそう言っていた。
今それが効いている。
床の下の音がまた一段せり上がった。
「接点を外せと言っている!」
官吏の声が上ずった。部下の一人が壁際を這う線へ手を伸ばす。
「触るな」
コルトは紙を口から外して怒鳴った。
「それ、黒だ。太いほうだ。そいつを切ったら合図の線が死ぬ。……この核は今まさに合図を探してんだよ。探してる最中のやつから探し先を取り上げたら、どうなると思う」
手が止まった。官吏が振り返る。
「では、どうしろと」
「あんたらが繋いだ接点を、抜くんじゃなくて黙らせろ。問いを送ってる元を止めるんだ。……台の上の、そいつだ」
官吏は測定器を見た。それから自分の手を見た。ためらったのは一呼吸だけだった。
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問いが止まると、せり上がってきた音は上がりも下がりもしなくなった。天井の梁がわずかに鳴っている。まだ何も終わっていない。
コルトは紙を灯りへ近づけた。エルリックの照合票の下段には、その街の待機の帯の見本が刷ってある。上段には旧い正規の起動手順がなぞる線。二本の形は、今この施設に流れているものと同じ向きに傾いていた。
「奥に赤がある」
コルトは束の中ほどを指した。
「臨時で足された枝だ。もう死んでる。ここを一本だけ切る。切ったら半日、誰も触らねえ。……それが条件だ」
「半日も待てるのか」
「待つんじゃねえ。観るんだよ」
コルトは工具を抜いた。それから、抜いた手をいったん止めた。
「あんた、そこに立っててくれ」
官吏が眉を寄せた。
「私が、あなたの指図を受ける立場では」
「指図じゃねえ」
若い声は、そこで初めて低くなった。
「おれが間違えた線を掴んだら、腕を掴んで止めろって言ってんだ。……おれ一人じゃ触らねえ。そういう決まりになってる」
官吏は長く黙っていた。やがて封鎖線の内へ足を踏み入れ、コルトの背の後ろへ立った。
「……どこを見ていればいい」
「太いほうだ。おれの手がそっちへ寄ったら、止めろ」
工具が入った。乾いた音がして、細い一本が落ちた。
床下の音は、すぐには変わらなかった。半呼吸、一呼吸。それから、せり上がっていたものが、ゆっくりと元の高さへ戻っていった。測定器の針が、振れの幅を半分に落とした。
コルトはその場に座り込んだ。工具を持った手が、今になって震えていた。
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王都寄りのバルクスでは、査察はもう始まったあとだった。
エルリックが着いたとき、前夜のうちに一度、確認命令が通されていた。核の待機の帯は荒れたまま戻っていない。査察団は「異常なし」と記録し、次の継ぎ目へ移ろうとしていた。
「異常はあります」
エルリックは台へ照合票を並べた。
「昨日の帯と、今朝の帯です。同じ核のものです。……揃っていません。これは、揺れているのではなく、戻れなくなっている形です」
現地の設備番が、そばで自分の日誌を開いた。三日前の音と昨夜の音は違う、と老人は言った。図面は読めない。ただ毎晩聞いている。
エルリックはその証言を紙の余白へ書き取り、老人に署名を頼んだ。それから死んだ枝の一本を、老人に立ち会わせて切った。
「僕が切ります。あなたは、僕の手が黒へ寄ったら止めてください」
「わしが、あんたをか」
「はい。あなたが」
ゲイルの入ったコーレンでは、そもそも命令が押されなかった。ゲイルは査察団の手順書を借りて、王都で暗がりから安全核を起こした夜の記録と並べて見せただけだった。順序が同じだと分かった時、率いていた官吏は自分から手を引いた。
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メレンでは、翌朝もう一度、査察団が別の継ぎ目へ回ろうとしていた。
テオは前の晩から一睡もしていなかった。それでも先に立った。
膝を突き、非接触の測りを継ぎ目へ当て、帯を紙へ写す。写した紙を昨夜の紙の横へ置く。
「戻ってない」
テオはそれだけ言った。
「昨日より細い。……今日は触らない」
査察団の官吏が待ったをかけようとした。テオは顔を上げなかった。
「触るなって言ってんじゃねえよ。今日はって言ってんだ。半日置いて、帯が昨日の太さに戻ったら、そんときに、あんたらの前でおれが自分で測る」
隣で白髪の設備番が屈んでいた。ハイムは何も言わなかった。手首を掴む必要が、今度はなかった。
テオは震える指で日付と時刻を書き込み、自分の名を紙の隅へ入れた。ガルドに教わったのはそこまでだった。教わっていない部分は、昨夜、自分の手が掴みかけた線が教えていた。
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アシュレイのいたカルネで、査察は押し返された。
エルリックの刷った照合票と、その場で測った帯の二枚を並べ、これは点検ではなく起動だと繰り返した。押し問答は夜半まで続き、確認命令は押されないまま、査察団は施設を出た。
それが済んだあと、アシュレイは施設の外壁に背を預けてしばらく動けなかった。自分の受け持った街は止まった。だが、残りの五つのことは何も分からない。継送の便は遅い。届く頃には、もう終わっている。
最初の報せは三日後に来た。
メレンのハイムが、字の下手な短い紙を寄越していた。灯りは落ちていない。若いのが自分で止めた、と書いてあった。
次がコーレン、その次がバルクス。リーデンからの紙がいちばん遅れて届いた。文字は荒く、行はまっすぐでない。
――切った。一本だけ。半日置いた。帯は戻った。おれ一人じゃ触ってない。
最後の一行が、他の行より濃く書き足されていた。
アシュレイはその紙を、しばらく畳めなかった。
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王都へ戻ると、ノラが監査院の裏手の部屋で紙を並べ替えていた。
「止めた紙が、六枚そろったわ」
ノラは眼鏡の縁を押し上げた。
「六つの街ぜんぶ。灯りはどこも落ちてない。いちばん南の一つなんて、査察団が着く前に現地が自分で止めてたわ。報せだけ後から来たの。……どれも同じ形なのよ。触る前に測って、帯を紙に写して、赤を一本だけ切って、半日置いて、二人目の署名がある。誰も相談してないのに、六枚とも同じ形をしてるの」
六枚のうち、アシュレイの名が入っているのは一枚だけだった。
残りの五枚には、コルト、エルリック、ゲイル、テオとハイム、そしてコーレンとリーデンの官吏の名が並んでいる。止める側に立った、という覚えのために書かれた名前だった。
ローデリクが低く息を吐いた。
「六つの街で同時に核が刺激され、六つとも止まった。……集約していれば、統轄部は一つの街にしか手を回せていません。残りの五つは、今ごろ暗がりです」
端の椅子で、ハーケンが紙の束を受け取った。痩せた監査官は一枚ずつ丁寧に繰り、最後の一枚で手を止めた。リーデンの、行のまっすぐでない紙だった。
「止まりました、では足りません」
抑揚のない声が言った。
「なぜ止まったのかを、紙にしなさい。……腕でも運でもなく、型が止めたのだと。そう読める形にしないと、統轄部は『たまたまだ』の一言で片づけます」
「書きます」
アシュレイは頷いた。
「六枚とも、同じ形をしています。腕の違う六つの手が、同じ形で止まった。……それが、いちばん強い証拠です」
ハーケンは紙を返し、それ以上は言わなかった。
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その夜、アシュレイは六枚の写しを卓へ並べたまま、長く座っていた。
自分がいなかった五つの街で、核は止まった。一人は線を読み違え、一人は半日待つと決め、一人は査察の官吏を自分の止め手に立てた。どれも完璧ではない。だが、どれも止まっている。
馬を替えて回るのではなく、条件を配ることのほうが速かった。集めるのではなく、手を増やすことのほうが安全だった。今回はそれが、紙の上に六枚ぶん残った。
ただ、危機が去っただけだ。
統轄部の集約方針は、退けられたわけではない。名簿は今も王都の一部署の手の中にある。査察の権限も、そのまま残っている。マーロウは、六枚の紙を見せられて何と言うだろうか。運が良かった、と言うだろう。あの人はそう言わなければ、あの日のことを抱えていられない。
骨は立った。肉はまだ足りない。
アシュレイは卓の端に置いた四つの行の紙を引き寄せ、その横へ六枚を並べ直した。次は、この六枚を、あの人の前へ持っていく番だった。




