第117話 触れ方を知らない手
アシュレイは手順書をマーロウの卓へ戻さなかった。
握ったままその白髪の男へ向き直った。
「これを点検とは呼べません」
マーロウの眉がわずかに寄った。
「言葉が過ぎる。それは正式な段取りだ。応答の波形を測るだけの確認の手順ですよ」
「順にこの線を確かめ次にこの合図線へ問いかける」
アシュレイは手順書の一節を指でなぞった。
「――待機している核へ確認命令を通す。この一行をあなたは点検と読む。私は起動確認と読みます。書き手が違うだけで通す命令がなぞる線が旧い正規手順の目覚めさせる段取りと見分けがつきません」
マーロウはしばらく黙ってその指の先を見ていた。
「それはあなたの見立てだ」
「ええ。私の見立てです」
アシュレイはそこは退かなかった。
「ですから確かめさせてください。この段取りが点検なのか起動なのか。私の見立てでなく記録で」
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エルリックが呼ばれてきたのは半時ほど後だった。
王都の日常運用を回す側に立ったあの若い技師は卓に広げられた査察の手順書をしばらく無言で読んだ。それから自分の抱えてきた綴りをその隣へそっと並べた。
王都の旧式安全核を暗がりから立ち上げたときの記録だった。切れていた安全装置を生かし直し冷えた炉へ順に合図を送っていったあの夜の段取り。
「……ここです」
エルリックが両方の紙の同じ高さを指で押さえた。
「待機の核へまず確認命令を通す。応答を測る。次の合図線へ移る。……並べると分かります。ほとんど同じ順です。うちが核を起こすときに踏んだ順と」
「起こすときですか」
マーロウが静かに聞き返した。
「はい」
エルリックは上役の顔色を窺うような癖をこの一年で少しだけ手放したらしかった。
「うちの旧式安全核は上の系統がまだ生きていました。だからこの順で無事に目を覚ました。……ですがドランの核は待っている合図の相手をもう失っています。同じ順を踏めば核は返ってこない合図を探しに動く。目を覚ましかけて行き先を見失う」
部屋が少し静かになった。
紙の上で点検と起動の境が消えていた。整った手順書は整っているぶんだけ旧い段取りに忠実だった。
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「――では査察を退かせてください」
アシュレイはマーロウへまっすぐ言った。
だがその先に壁があるのは口にする前から分かっていた。
「私には退かせられない」
マーロウの声は乾いたまま揺れなかった。
「あれは当部署が正式に送り出した点検です。監査官殿あなたは横断の監査権をお持ちだ。ですがその権が当部署の査察をその場で止められるとはどこにも書かれていない」
「書かれていません」
アシュレイは認めた。
核に触れられるのは自分一人。その一人に査察を止める権はない。触れられる者と止められる者が別の手に分かれている。ちょうどそこに隙間があった。誰の権でもあの手をいま退かせられない。
「ならば私が行きます」
アシュレイは手順書を外套の内へしまった。
「止められないならその場で受けます。査察が最初の命令を通す前に私がドランに立ちます」
「間に合うと」
「間に合わせます」
ローデリクが卓の脇から口を挟んだ。手続きの男のいつもの静かな声だった。
「監査院として当部署の査察の越権性を正式に問い合わせます。ただし返事が来るのは早くて数日先だ。……その数日をドランの核は待ってくれません」
「ええ」
アシュレイは外套を掴んだ。
「だから紙の照会はあなたに預けます。私は現場へ」
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ドランへ着いたのは翌々日の夕暮れだった。
街は聞いていたとおり痩せていた。冬の供給が細って灯りは間引かれ通りの半分が暗いまま沈んでいた。この街が名簿に載りながら核の劣化度すら測られていなかった理由が着いてみるとよく分かった。誰も測りに来なかったのだ。名前だけが王都の帳面に几帳面に記されていた。
街の外れにリオネルが先に立っていた。
イルダンを出るときアシュレイが王都へ回るのと入れ替わりに北へ送っていた。危機の報せが届いたその日のうちに。
「封鎖線は二重で引きました」
リオネルは来訪の礼も抜きで状況から入った。
「核のある旧い施設の外と内に。退避の動線も二筋確保した。……ですが査察団は封鎖の内にもう入っています。止めろとはこっちも言えなかった。向こうは正式な点検だと」
「無理に止めなくていいんです」
アシュレイは暗い施設の影を見上げた。
「止めるのは封鎖線ではありません。命令のほうです」
ミレナもそこにいた。
現地の詰所へ掲示を届けに回っていたという。イルダンでいつも作るあの掲示だった。いつ封鎖が解けるかではなく何が揃えば次へ進めるか。ここではそれを査察団の点検の前に街の者へ配っておく必要があった。
「現地の保守の方が待っています」
ミレナが詰所のほうへ目を向けた。
「ヨナスさんと。……この街でたった一人核のそばを見てきた人です」
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ヨナスは痩せた中年の男だった。
この街の灯りを細りながらも去年からずっと間引いて凌いできた手だった。アシュレイを見るとまず警戒より先に疲れた顔で頭を下げた。
「王都から来た人らはあれを点検すると言う」
ヨナスは施設のほうへ顎をしゃくった。
「おれは素人だ。図面もろくに読めん。だがあれのそばに長くいた。……ここ半年あれは前よりうなり方が変わった。低く途切れがちに。おれはそれが気に入らねえ」
「うなりが途切れる」
アシュレイはその言葉を掬い上げた。
「途切れるというのは応える力が細っているということかもしれません。あと一度大きな問いかけを受けたら踏ん張れるかどうか。……あなたが気に入らないと感じたのはたぶん正しいんです」
ヨナスの目に初めて警戒でない色が差した。
「査察団はなんと」
「異常が出たら止めると。そう言うとります」
「異常が出たら」
アシュレイは施設の暗い入り口を見た。
「それがこの核のいちばん危ういところです」
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封鎖線の内で査察団は粛々と支度を進めていた。
悪意で動いている者は一人もいなかった。それがかえってたちが悪かった。誰もが正式な手順書を握り正式な段取りを順に踏もうとしていた。台に測定器を並べ核の待機の波形を測るためにまず確認命令を通す。手順書のあの一行を。
率いる官吏はアシュレイの割り込みを丁寧に押し返した。
「監査官殿。私どもは規定の点検を行うだけです。危険があるかどうか確かめる。……危険を確かめるなとおっしゃるのですか」
「確かめること自体を止めているのではありません」
アシュレイは声を荒らげなかった。
「確かめ方を変えてくださいと言っています。核へ命令を通して応答を測る。その順はこの核には重すぎる。応える力がもう細っている。あなたがたが確認命令を通したその瞬間に異常が始まる。そしてこの核の異常は――始まった時点でもう止まりません」
「異常が出れば直ちに中断します」
「出てからでは遅いんです」
押し問答は紙一重で平行線だった。
官吏は面子ではなく職務で退かなかった。異常が出るまでは点検を続けるという手順を忠実に守っていた。その忠実さが旧い起動の段取りへ一歩ずつ街を運んでいた。
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アシュレイは外套の内から二枚の紙を取り出した。
王都でエルリックと並べたあの二枚だった。査察の手順書と旧式安全核を起こしたときの記録。同じ高さの同じ順をエルリックが指で押さえたあの一致。
「これを見てください」
アシュレイは台の端へ二枚を並べて置いた。
「あなたがたの手順書のこの一行。核へ確認命令を通す。……王都の核を暗がりから起こしたときに踏んだ順と同じです。書き手も目的も違う。ですが通す命令がなぞる線が同じなんです」
官吏が二枚へ目を落とした。
その目が二つの紙の同じ高さを往復した。読み流せる違いなら笑って退けられたはずだった。だが並べられた二つの順は読み流せるほど離れていなかった。官吏の手が手順書の端でわずかに止まった。
「……これは」
「点検の手順ではありません」
アシュレイは静かに言った。
「起動の手順です。書いた人がそうと知らずに旧い段取りをなぞってしまっています。悪意ではありません。ただこの核がどういうものかを知らないまま正しく書いてしまっただけなんです」
紙の上で点検と起動の境が査察団の目の前でも消えた。
だが消えたのは境だけだった。手順そのものはまだそこにあった。台には測定器が並び確認命令を通す支度はもうほとんど整っていた。
官吏は二枚の紙と台の上の支度とを見比べた。それから迷いを振り払うように部下へ短く目配せをした。紙の一致は確かに目を止めさせた。だが正式な点検を途中で投げ出す理由にはまだしていなかった。
「……確認だけ通します。応答を一度測るだけだ。異常があればそこで」
「待ってください」
アシュレイの声が初めて少し鋭くなった。
部下の手が核へ繋がる測定器の最初の接点へ伸びていた。
その一度がこの核には目覚めへの最初の問いかけになる。応える力の細った核が返らない合図を探しに動き出すその引鉄に。触れ方を知らない手がいまいちばん危ない一手へ指をかけようとしていた。




