第109話 手順は前提が消えると凶器になる
コルトの名が入った記録紙は、間に合った。
夜のうちに火入れの支度が始まったという報せを受けて、アシュレイは据え付け場へ戻る前に、まずオルセンのもとへ足を向けた。強硬派の手を止めるには、順序があった。火を止めるのは、その次だ。まずこの起動の段取りを組んだ張本人に、いちばん肝心な一枚を見せておかなければならない。
オルセンは市庁の一室で、あの革紐で束ねた図面をまた広げていた。据え付けの進み具合を記した控えらしい紙が、その脇に積まれている。アシュレイが入っていくと、老技師は顔を上げた。目の下には疲れではなく、間近に迫った仕事への昂ぶりがあった。
「据え付けは順調だ」
オルセンはそう言った。挨拶より先に、仕事の話だった。
「あとは火を入れるだけだ。あなたが何を測っていたのか私は知らんが……もう間に合わんよ。この街には、待つ余裕がない」
「その火を入れる前に」
アシュレイは卓に四枚の紙を、順に並べた。
一枚目はカダルの核の暫定接続図。二枚目は昨夜コルトが自分の手で拾った、待機の波形。三枚目は王都からエルリックが送ってきた、合図を失った核の暴走直前の波形。そして四枚目は――イルダンで洗った、先の起動企図の痕跡だった。
「四つ、見ていただきたいものがあります」
オルセンの目が、四枚の紙の上をゆっくりと動いた。
「一枚目。この核の接続の図です。二本線が出ています。一本は旧い系統の奥へ。もう一本は街の中心へ。けれどあなたの手順が前提にしている上位の系統――主基盤へ繋がる線が、どこにもありません。図の上にその線を引く場所が、空白のままです」
「まだ見つかっていないだけだ」
オルセンは動じなかった。
「探せばある。この地方のどこかに眠っている。それを繋げばいい」
「二枚目を見てください」
アシュレイはコルトの波形を、指で押さえた。
「これはこの核が眠りながら漏らしている脈です。健やかに眠っている核なら、静かで揃っている。でもこの核の脈は途切れがちで、乱れています。眠っているだけで、踏ん張るのに精一杯なんです」
それからその隣に、王都の波形をそっと寄せた。
「三枚目。これは王都で合図を失った核が暴れ出す一歩手前に描いた、脈です。見張り役を失って、自分でどこまで出力を上げていいか分からなくなり、際限なく踏み込んでいった――その直前の乱れです」
二つの波形は、ぞっとするほど似ていた。同じ手で書いたのかと思うほど、針の飛び方が、跳ね方が重なっていた。
オルセンの手が、図面の上で止まった。
「……偶然だ」
声がわずかに掠れていた。
「二つの核がたまたま似た脈を打っただけかもしれん」
「四枚目を見てください」
アシュレイは最後の一枚を、卓の中央へ置いた。
それはイルダンで洗った、先の起動企図の痕だった。倉庫印を経由して運ばれた仮固定材の、受け渡しの帳面。その隅に並ぶ走り書きの数字。頭を丸く大きく書き、桁の区切りに細い縦線を一本引く――几帳面で、古い流儀のあの書き方。
「この数字の癖に、覚えがあります」
アシュレイは静かに言った。
「先日あなたが図面を巻き取るとき、隅の走り書きに同じ癖の数字がありました。イルダンで同じ核を起こそうとした試みがありました。半年ほど前のことです。けれどイルダンの核は待つ気質で踏ん張って、起動を撥ね返した。――あの試みを組んだのは、あなたですね」
沈黙が部屋に落ちた。
オルセンは四枚目の紙を、長いこと見ていた。否定の言葉は出てこなかった。やがて彼は低く、絞り出すように言った。
「イルダンの核は……起きなかった。手順どおりに火を入れたのに、うんともすんとも言わなかった。私はあれを、核が弱っているせいだと思っていた。だが」
「弱っていたのではありません」
アシュレイは首を振った。
「あの核は待っていたんです。主基盤の合図を。合図が来ないうちは動かない――そういう気質でした。だから起きなかった。あなたの手順が正しく火を入れたのに核が応えなかったのは、手順が間違っていたからではなく、後ろで見ているはずの相手がいなかったからです」
「見ているはずの相手」
「あなたの手順は、いちばん初めにこう断っています。〈主基盤の応答を確認のうえ、これを起動せよ〉。手順が安全だったのは、後ろで主基盤がずっと見張っていたからです。核が踏み込みすぎたら、止めてくれる相手がいた。その相手が今はいない。イルダンの核は、いないと分かって動かずに待った。……でもカダルの核は、もう待つ余力すら使い切りかけています」
アシュレイは二枚目と三枚目の波形を、また並べた。
「待てないんです、この核は。合図が来ると思い込んで火を入れれば、来るはずのない合図を待ちながら、限界まで出力を上げ続ける。そして王都のこの脈を、そのままなぞる。冬を越すために起こした核が、冬の前に街の芯まで焼きます」
部屋の外で遠く、据え付け場の物音がした。木を打つ音。人の掛け声。火入れの支度は、この会話の間にも止まらずに進んでいた。
オルセンは長い息を吐いた。
「では聞くが」
声にはまだ、譲らない硬さがあった。
「主基盤を探せばいいのだろう。見つけて繋げば、この手順は完成する。足りないのはそれ一つだ。あなたは私に、探す時間すら惜しめと言うのか。この街を凍えさせろと」
「凍えさせろとは言っていません」
アシュレイは静かに受けた。頭ごなしに駄目だと言えば、この誇り高い技師は耳を閉じる。彼が信じてきた「地方を救う正しい方法」を、まるごと否定することになる。
「主基盤が今どこにあるか。生きているのか、壊れているのか。誰も知りません。あるはずだ、では街の命は預けられない。それに――探すには時がかかります。見つけて繋いで、手順が本当に完成する頃には、この街はとっくに凍えている。冬に追われれば、いつか誰かが見つからないまま、ないよりましだと火を入れます。足場を探すことと、足場のないまま起こすことは、途中でするりと入れ替わる。あなたの手順は間違っていません。間違っているのは、手順が寄りかかっていた足場が消えたことです」
「足場が消えた」
「正しい手順を足場のない場所で使えば、正しさがそのまま凶器になります。あなたが悪意で街を危険にさらしているとは、私は思っていません。むしろ逆です。正しく習った人だからこそ、迷わず火を入れてしまう。それがいちばんこわいんです」
オルセンは答えなかった。だがその沈黙は、先日のような譲れないという沈黙とは少し違っていた。彼は四枚の紙をもう一度、端から端まで目でなぞっていた。
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その頃ミレナは、市庁の広間で住民の前に立っていた。
イルダンから遅れて合流した記録係は、告知の板に日付を書かなかった。代わりに条件を書いた。
「いつ核が動くか、ではありません」
ミレナは集まった人々に、努めて分かりやすく告げた。冬支度に疲れた顔が、板を見上げている。
「何が確かめられたら動かしていいか。何が確かめられないうちは動かしてはいけないか。それを書きました。今確かめられているのは、この核が眠っているだけでうなされているということです。動かしていい体かどうかは、まだ確かめられていません」
「じゃあ、いつ確かめ終わるんだ」
列の後ろから、苛立った声が飛んだ。
「そんな悠長なこと言ってる間に、うちの子が凍える。イルダンから来た連中は、結局うちの核を動かしたくないだけじゃないのか」
「動かしたくないのではありません」
ミレナはその声を、正面から受けた。
「動かしたら落ちると分かっているものを、動かすなと言っているんです。ここに王都で暴れた核の記録があります。この街の核の脈と、そっくり同じでした。それをカダルの若い保守の方が、自分の手で測りました。私たちが言っているのではありません。この街の人が確かめたことです」
広間の空気が、わずかに変わった。よそから来た監査官の言葉ではなく、コルトという名前が出たことに、幾人かが顔を見合わせた。
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だが言葉が届く速さより、火の支度のほうが速かった。
その日の夕刻、セルマが据え付け場から駆け戻ってきた。息が上がっていた。
「アシュレイさん。強硬派が動きを速めてます」
声が低く、鋭かった。
「あなたの権限が査問で宙づりのままだって、向こうも知ってるんです。今のうちに、と。オルセンさんが渋ってる隙に手順書だけ借りて、自分たちで火を入れる算段を始めてます。……もう明日の朝にはって話ですよ」
「オルセンさん抜きで」
「ええ。手順を知ってる本人が迷い始めたら、かえって邪魔になるって腹です。段取りはもう半分頭に入ってる。あとは命令を一つ核へ入れるだけ。……向こうにしてみりゃ、待つほど冬が近づくんです」
アシュレイは卓の上で、指を組んだ。
止めに来た街で歓迎され、そして今、止めるべきものだけが自分の手の届かないところで先へ動いていく。権限は宙づりで、火の支度は明日の朝。ほどく糸はまだ二本とも、手の中にあった。カダルの核と、自分にかけられた疑いと。
「否定から入っては駄目です」
アシュレイは低く、自分に言い聞かせた。それは独白のときの、少し硬い声だった。頭ごなしに叫べば、冬に追われたこの街はよその監査官の言うことなど跳ね返してしまう。効くのは熱ではない。いつもどおり、記録だ。
彼は四枚の紙を、丁寧に束ね直した。オルセンの心を半分は動かした。だが火のほうが速い。据え付け場の松明が、もう明日の朝を待っている。
「リオネルさんに退避の段取りを頼みます。捕まえるためではありません。もし火が入っても、街の芯まで波及する前に人を逃がすためです。それと――ガルドさんに、暴走の引き金になる線を先に見ておいてもらいたい」
アシュレイはコルトの名の入った波形を、いちばん上に置いた。
「この核は動かせないのではありません。あと一度の命令で落ちます。それを明日の朝が来る前に、火を入れようとしている人たちに届けなければなりません。――間に合うかどうかは、まだ分かりませんが」
窓の外では据え付け場の火が、夜の中でいくつも揺れていた。その火の一つが明日、核へ移されようとしていた。アシュレイは束ねた四枚を掴んで、立ち上がった。




