第106話 正しかった手順
据え付けが半分がた進んでいるという報せを受けて、アシュレイはイルダンから二人を呼び寄せた。
現場の目を持つガルドと、王都の旧式安全核を今も預かるエルリックだ。手順の正体を確かめるには、噂を集めるより現物を読める人間が要る。二人が着いた翌日、アシュレイはカダル市庁の一室でオルセンと向き合った。
オルセンは白髪を短く刈った、痩せた老技師だった。卓に革の綴じ紐で束ねた古い図面を、丁寧に広げていく。手つきに迷いはなかった。
「非常時起動手順。若い時分に、みっちり叩き込まれたものだ」
オルセンの声には職人の誇りがあった。
「今の若い連中は、核をただ怖がって遠巻きにするだけだ。だが正しい順番で正しく火を入れれば、核は応える。私はそれを正式に習った、最後の世代の人間でね。この街をこの冬に凍えさせるわけにはいかん」
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アシュレイはその図面を、頭ごなしに退けなかった。
ガルドを呼び、まず手順そのものの善し悪しを現場の目で読んでもらう。ガルドは図面の上に屈み込み、線を指でたどり、時折低く唸った。しばらくして顔を上げた。
「手順はまともだ」
ガルドの口ぶりに世辞はなかった。
「起こす順番、圧のかけ方、逃がし弁の開き加減。どれも無茶がない。荒っぽい素人仕事とはわけが違う。この通りにやれば、たしかに核は行儀よく目を覚ますだろうよ。――少なくとも、紙の上ではな」
「紙の上では」
「ああ。物として、手順は正しい。それは認める。だが正しい手順ってのは、いつも何かの前提の上に立ってる。その足場が今もあるかどうかは、手順書には書いてない」
その足場を確かめる材料は、ローデリクが監査院のルートで送ってくれていた。オルセンの手順の元になった規格書の原典。数日前に照会をかけたその写しが、ちょうど届いたところだった。
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アシュレイはオルセンの図面と原典の写しを、卓に並べた。
一語ずつ照らしていく。条項の番号、起動の段階、圧の数値。二つは寸分違わず重なった。オルセンの手順は彼が言うとおり、勝手な思いつきなどではなかった。かつて正式に定められた、本物の非常時起動手順だった。
「合っています。あなたの手順は、確かに正規のものです」
アシュレイがそう言うと、オルセンは満足げに頷いた。
「だろう。だから案ずることはない。正規の手順に従えばいいのだ」
「ただ」
アシュレイは原典のいちばん初めの一項を、指で押さえた。
「この手順は最初に、こう断っています。〈主基盤の応答を確認のうえ、これを起動せよ〉。――この手順が正しかった時代には、主基盤が現役で動いていた。核を起こすと、主基盤がそれを見ていて合図を返す。核はその合図を待って、初めて本気を出す仕組みだった。手順が安全だったのは、後ろで主基盤がずっと見張っていたからです」
オルセンの表情が、わずかに動いた。
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「では聞くが」
オルセンは身を乗り出した。
「主基盤なら、探して繋げばいい。この地方のどこかには、まだ眠っているはずだ。それを見つけて手順どおりに繋げば、書いてある通りに安全に起動できる。足りないのは主基盤ひとつだ。それさえ揃えば、この手順は完成する」
「私はこの手順で、いくつもの街を冬から救ってきた。眠った核を起こして、灯りを取り戻す。それが私の生涯の仕事だった。今さらできませんとは言えんのだ。……この街の子らが薪の取り合いをしているのを見てしまった以上はな」
善意の確信だった。老技師の目に、疑いの色はない。手順が正しいなら、欠けた前提を補えばいい――理屈としては真っ直ぐだった。
その真っ直ぐさに、アシュレイは静かに首を振った。
「主基盤が今どこにあるか。生きているのか、壊れているのか。誰も知りません。あるはずだ、では命は預けられない。合図を返す相手がいるかどうか分からないまま火を入れるのは、手順に従っているようで、いちばん肝心な一行目を飛ばすことです。それに主基盤を探すには、時がかかります。見つけて繋いで、手順が本当に完成する頃には、この街はとっくに凍えている。冬に追われれば、いつか誰かが見つからないまま、ないよりましだと火を入れます。足場を探すことと、足場のないまま起こすことは、途中でするりと入れ替わる。その入れ替わりが、いちばんこわいんです」
横でエルリックが、王都から持ってきた綴りを開いた。旧式安全核の系統ログだ。
「裏づけがあります」
エルリックの声は抑えていた。
「王都で合図を失った核が、どう振る舞ったか。その記録です。見張り役を失った核は、自分がどこまで出力を上げていいのか分からなくなる。止めてくれる相手がいないと思った瞬間、際限なく踏み込んで――暴れます。王都の核はそのとき止め方が分からずに、自分で自分の炉を灼き切る寸前まで行きました。ログの波形が、そうなっています。手順どおりに起こしても、後ろに主基盤がいなければ、この波形をなぞることになる」
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アシュレイはイルダンのあの核のことを、思い出していた。
あの核が無理な起動に踏ん張って街を壊さずに済んだのは、もともと「主基盤の合図を待つ」設計だったからだ。合図が来ないうちは、動きださない。その待ちの気質が、暴走の一歩手前で核を踏みとどまらせた。逆に言えば――待つ相手をいると思い込ませて火を入れれば、核は来るはずのない合図を待ちながら、限界まで出力を上げ続ける。カダルの核がその気質を持っていないなら、踏ん張りすら期待できない。
「オルセンさん。あなたの手順は間違っていません」
アシュレイは努めて静かに言った。
「間違っているのは手順じゃない。手順が寄りかかっていた足場が消えたことです。正しい手順を足場のない場所で使えば、正しさがそのまま凶器になる。あなたが悪意で街を危険にさらしているとは、私は思っていません。むしろ逆です。正しく習った人だからこそ、迷わず火を入れてしまう。それがいちばんこわいんです」
オルセンはすぐには言い返さなかった。だがその沈黙は、納得の沈黙ではなかった。譲れないという顔で、彼はまた図面の一項を指で叩いた。主基盤はある。探せばいい。その一点だけは、彼の中で揺らいでいなかった。
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会談が終わり、オルセンが図面を巻き取るとき、アシュレイの目がその紙の隅の走り書きに留まった。
起動の試算らしい数字の並び。その走り書きの癖に、覚えがあった。数字の頭を妙に丸く大きく書き、桁の区切りに細い縦線を一本引く。几帳面で、古い流儀の書き方だった。イルダンで先の起動企図の痕跡を洗ったとき――倉庫印を経由した仮固定材の、その受け渡しの帳面に同じ癖の数字が並んでいた。
アシュレイの背に、冷たいものが走った。
カダルの核を起こそうとしているオルセンは、初めてここへ来た他所者ではなかった。前に一度、イルダンで同じことを試みていた。だがイルダンの核は待つ気質で踏ん張り、起動を撥ね返した。撥ね返された手順は、より供給難が深く、より藁にすがりたい街を求めて――このカダルへ流れてきていた。イルダンで止まったものが、ここでは止まる保証がない。アシュレイは巻かれていく図面を見送りながら、白紙の綴りにもう一行、静かに書き足した。この手順は一度、イルダンで牙を折られている。二度目の相手に、カダルが選ばれた。




