計画
エリザ・カウフマンは党から廻された車から降りた。黒塗りのむやみに大きい高級車で、車幅も全長も普通車の倍ほどもあり、窓ガラスは偏光で中が見えないという凶悪な姿をしていた。
降りながらエリザが前を見ると運転手が運転席から首をねじ曲げて歪んだ表情でこちらを見ていた。彼がドアを開ける前にエリザがさっさと自分で降りてしまったことに、大いに戸惑いを感じているようだった。エリザが見ていることに気づいて慌てて車から降りて近づいてきて、エリザの前で深々と頭を下げた。
「申し訳在りません。ドアを開けるのが遅れまして……」
「構わないで。私は自分のことを自分でやるのが好きなだけだから」
そういうとひどく矜持を傷つけられたような顔をしたので、しょうがなく付け足した。
「ごめんなさいね。私修道院の出身だから、そういう癖が付いてるの」
その言葉で運転手は納得がいったようだった。修道院というのはどんな奇矯な性癖を持っていてもその一言で分かったような気にさせることが出来る特別な力を持つ言葉である。すべてを神に捧げ尽くした禁欲的生活--そんな生活をしていればおかしくなって不思議はないという考えがあるのだろう。エリザが修道院出身だというのは事実だった。だからこそ二十四歳という年齢で評議会議員になることが出来た。修道院出身という教団のエリートを約束された人材で在ればこそ、教団が母体となっている政党の公認候補にさせてもらえた。もちろん、そこまでの道のりが容易だったわけではない。教団内部には修道院出身者は決して少なくはなく、さらに評議会議員という表舞台への教団からはほとんど唯一のパスポートを手にしようとする者の数は多い。激しい競争を戦い抜いた結果が、今のエリザの立場なのである。誇っても良いはずだった。
だが--エリザの心の内には常に一つの影がある。エリザがここに、教団内部でも自らの才覚と運とを誇ることが出来るはずの立場にいてもなお、消えない暗い影がある。
エリザが犠牲にした一人の少年の姿。
そしてエリザをしてどうしても評議員にならなくてはならないと思わせしめた存在。エリザの二歳年上なのだから、もうすでに少年ではないはずだ。
だがエリザが思い浮かべる彼の姿は常に少年のままだった。
十四年前別れたきり会ってないからだけではない。彼が、イマニエルが成長した姿が想像できないのである。
永遠の少年--イマニエル・ゲルトハイマーはそんな印象の子供だった。汚れを知らない、無垢、無邪気--汚れたこの世界にいることに戸惑っているような笑顔しか思い浮かばない。もしかしてイマニエルは現実の存在ではなく、エリザが夢想の中で生み出した天使なのではないか、とさえ考えてしまう。それほど非現実的だった。だが、確かに彼はいるはずなのだ。この大地の上に、しかもこの基地の中に--。エリザは平べったい蟹のような基地を眺めた。第2765拠点防衛本部。膨大なコンクリートの塊を練って造り上げた居住性とはおよそかけ離れた思想から建設されたパンドラの箱。ここから人間らしいといわれるすべての罪悪--殺人、破壊、嫉妬、等々--が運び出され大地にばらまかれてきた。そして、また新たな災厄がこの地を片親として産まれようとしている。
人間の業を背負った人々の一人が基地の方から近づいてくるのが見えた。エリザが車から降り立ったのを見て、迎えに出てきたのであろう。その容貌には見覚えがあった。先日、党本部で見せられたファイルに写真が付いていた。基地司令のハインリヒ・ブレヒト准将である。五十過ぎにしては頑健な身体と、ほとんど基地の外に出ることがないためか奇妙に青白い肌を持った男だった。身長は高い。百九十以上あるだろう。金髪に砂漠迷彩の軍服がよく似合っている。だがなによりも印象的なのは戦傷で神経がやられたのかと疑いたくなるほどの無表情ぶりだった。准将という階級は伊達で手にすることは出来ないから、少なくとも以前は有能な軍人であったはずである。軍内部の派閥抗争に敗れ、このような辺境の基地司令に任じられることとなったらしい。以来、戦いらしい戦いも行っておらず、ただ周辺警戒と、やはり無能故にこの辺境に回されてきた部下たちとで長閑な訓練の日々を送っているとエリザは聞いていた。
隣に副官らしき将校の姿も見えた。
エリザが立ち止まると、ブレヒトは大股に近づいてきてエリザの前で足を止め、どのような表情を取っていいか分からない様に無表情のまま首を傾げた。代わりに隣に立つ副官が敬礼し、さらに一歩前に進み出てエリザに握手を求めてきた。
「ようこそ第2765基地に。隣にいるのが基地司令のブレヒト准将です。私は准将の副官をさせていただいてますヨゼフ・マンハイム大尉であります。よろしく」
マンハイム大尉と名乗った男は如才のない口調でそういった。マンハイム大尉は美男子といってもいいような容貌の持ち主で、無機質めいた無表情さを感じさせるブレヒト准将と並んで立つとひどく好対照だった。
エリザは言葉を発したマンハイム大尉に対して挨拶するべきか、それとも階級的にブレヒト准将に対して挨拶するべきか迷ったが、結局
「初めましてブレヒト准将。私は--」
しかし、マンハイム大尉がエリザの言葉を途中で遮って不必要に大げさな動作で手を振った。軍人というと合理的な思考法を持っている印象があるが、マンハイム大尉は違うらしい。いちいち動きが芝居がかっている。
「存じておりますとも。昨日、大本営の方から連絡が入りました。教団出身の若手評議員がおいでになるとね。女性だとは伺っていたが--これほど若く美しい方だとは驚きました。軍隊というものはどうしても男所帯になります。自然、女性と接する機会はどうしても少ない。その方が気が高ぶって戦闘は強くなるというものだが、実際美しい女性をこうして目の前にすると--全く目の毒ですな。いや、失礼。それほど美しい、ということです。とりあえずよろしくお願いします、エリザベート・カウフマン議員--エリザさんとお呼びしていいですかな?」
マンハイム大尉の口調にエリザは不快を感じた。この手の軟派な男は好きではない。しかし口に出したりはしなかった。せっかく友好的な対応で向こうが出てきたのである。こちらから破棄するのは損であるし、そもそもこちらに「お願い」があって来たのである。相手の機嫌を損ねて、有形無形に嫌がらせをされでもしたらたまらなかった。マンハイム大尉のようなタイプは好意をはねのけられると悪意を持ち出すものである。
視線を横に向けるとブレヒト准将が、副官であるはずのマンハイム大尉の出しゃばりな行動にもまったく動じた様子もなく、笑顔らしい表情を浮かべ頷いた。無表情のままの仮面が割られそのパーツを笑顔に見える位置に並べ替えられた、そんな印象があった。だが不思議と魅力的な笑顔だった。笑顔には見えないが、心の底からの笑顔であるだろうことは明らかだった。エリザはどこか人慣れていないこの基地司令に好感を持った。顔が自然とほころんだ。
エリザが笑顔を浮かべたことで、マンハイム大尉は、先ほどより幾分馴れ馴れしい口調で訊ねてきた。
「こちらにはどういう用件で--? 評議会の査察は先日あったばかりですが……」
「電話でも話したとおり、ごく私的なことです」
「ほう……私的ですか」
疑わしそうにマンハイム大尉が顎に手を当てる。その横のブレヒト准将の方は相変わらず何を考えているのか分からないまま立っていた。よく見ると斜視気味で、そのことがより表情を分からなくさせているらしい。考えてみれば先ほど出会ってから一度も発言していない。基地司令として仮にも評議員相手の態度としてはどうだろう。少々心配になってくる。
対照的に表情をコロコロと変えるマンハイム大尉は、考え込む振りをしていたのをやめて、また笑顔を造った。
「--とにかく、中へ。冷たいものでも飲みながらお話をお伺いしましょう」
それがいい--というようにブレヒト准将も頷いた。
ブレヒト准将の執務室の隣にある応接室に通され、エリザの前には紅茶、ブレヒト准将とその副官の前にはコーヒーが出された。エリザがやや出すぎている様に見える紅茶に形ばかり唇を付け、ソーサーに戻した。マンハイム大尉は猫舌なのかコーヒーをしきりに吹いて冷ました後啜っていたが、ブレヒト准将は黙ってエリザの方を見ているだけでコーヒーに手をつける様子はなかった。
会話がないまま数分が過ぎた。
ブレヒト准将はもともと何か話すつもりなど無いようで、マンハイム大尉の方はエリザが具体的な内容を話すのを待っているようだった。さて、どこから話をするべきか。エリザがこれから話そうとすることは、百パーセント私的な動機から行われている。しかし、私的な動機からスタートしていても走り始めたあとの全てまでもが私的な領域かというとそうではない。公的な手続きによってここに居るからだ。迂闊な言質を与え、軍と党との関係を悪化させることは出来なかった。
「連邦軍の動きはどうですか?」
まず当たり障りのないところから始めるべきだった。
エリザの質問にブレヒト准将は鈍い表情を浮かべた。数秒経ち、返答があった。
「--特に変化はありませんな」
エリザが初めて聞くブレヒト准将の声だった。よく通る声だが、かすれていた。戦場枯れとはこういう声質をいうのかも知れないとエリザは思った。
「……そうですか」
続きを引き取ったのはマンハイム大尉だった。マンハイム大尉は、滑らかに舌を動かした。
「ええ。一週間に一度、偵察機が周回してきますが、こちらの有効射程距離ぎりぎりで戻っていきます。一応、その度に高射砲を向け、空中駆逐艦を待機させておりますが、実際に動かすほどのことではありませんよ」
「なるほど」
エリザは再び紅茶に手を伸ばし、琥珀色の液体を啜った。
「相対している敵の軍備は--?」
「一個師団であると推測しております。空中戦艦二、空中駆逐艦十五、空中砲艦三十。歩兵はおよそ五千人という規模で、我々とほぼ同等です」
「戦えば勝てる自信はおありですか?」
その質問にマンハイム大尉はちょっと驚いたような顔をして、それから答えた。
「もちろん、充分な準備期間と必要な援護があれば、勝つことも可能でしょう。我々はそのためにここに展開しているのであり、命令があれば戦闘を開始します。しかし、戦力は均衡しており、絶対に勝てるという確信はあり得ません。敵もまた我々に対して備えをしており、そしてその軍備は我々に勝るとも劣らないものです。勝つか負けるか分からない博打。それが戦争なのです」
エリザはしまったという表情を作った。殊勝な顔で頭を下げ、
「何も知らない素人の発言で気を悪くされたのなら謝ります」
「いえ……」
「--戦争とは難しいものなのですね」
ブレヒト准将は微笑を浮かべ、マンハイム大尉が口に出して答えた。
「ご理解いただいて幸いです」
「……先ほどのお話ですとここにも一万人近い兵士がいるのですか?」
「はい。正確には一万二千二百二十五人。ちょっとした町と同等です。なかなかのものでしょう」
「では、准将は基地指令といっても、全員の顔を把握することは不可能ですね」
エリザが顔を向けると、ブレヒト准将は苦笑を浮かべ、三度ばかり何かいおうと口を開き、ようやく「そうですな。全員の顔と名前が一致することは正直不可能です。一応、士官は分かると思いますが」といった。
エリザは小さく唾を呑み込んだ。それから可能な限り自然にいった。
「イマニエル・ゲルトハイマーという者がこの基地にいるはずですが……」
ブレヒト准将は眉を動かし、マンハイム大尉の方を見た。マンハイム大尉はあからさまに顔をしかめた。
「イマニエル・ゲルトハイマー軍曹をご存じですか?」
「昔の知り合いです」声が震えないようにするのになかなか努力が必要だった。
マンハイム大尉の顔に戸惑いが浮かんだ。
「ほう、それは……」
マンハイム大尉は再び目の前のコーヒーに手を伸ばし、それを啜ってから言葉を選ぶようにゆっくりといった。
「彼は……なかなか個性的な軍人です」
「そう、ですか?」
「イマニエル・ゲルトハイマー軍曹とはどういったご関係で?」
「古い知り合いです。古い……」
エリザは胸の奥で早鐘のようにうち続ける心臓を無視してそれだけいった。
結局、エリザ・カウフマンは到着した日の内にイマニエル・ゲルトハイマーに会うことは出来なかった。遠回しに申し出てみたところ、言を左右にして断られた。エリザにとってイマニエルとのことは私事であり、強いて要請することは出来ず、引き下がるしかなかった。それに自分自身の気持ちの整理がまだ付いておらず、本能的に問題を先送りしたい願望もあり、拒否されたことで、ほっとしたことも事実であった。
エリザにあてがわれた部屋は司令室に近い一室で、隣には三十代前半に見える癖っ毛の士官が宿泊している様子だった。一度、廊下ですれ違い会釈だけはかわした。軍人には珍しいひどく知性的で同時に油断ならない悪童めいた顔をしていたのが印象に残っている。マンハイム大尉に聞いたところ、顔をしかめて「参謀本部から来た者です」との返事だった。なるほど参謀本部の軍人ならばああいう顔つきになるのかも知れないと思った。
エリザはベッドの隅に腰を下ろし、長いため息をついた。
それからふと気づいた。
この同じ屋根の下にイマニエル・ゲルトハイマーがいるのである。同じ空気を吸い、同じ地面を歩いているのである。
胸の奥に今まで感じたこともない感情がわき上がってきて、気が付くと抑えることが出来なくなっていた。
奇妙な感覚だった。
まるで、長年離れていた半身と出会ったような、恥ずかしいような嬉しいようなそんな感覚。
イマニエル・ゲルトハイマー。
名前だけとってみても、エリザにとって呪文のように特別の力がある言葉である。
イマニエル・ゲルトハイマー。
エリザはイマニエル・ゲルトハイマーと出会った日のことを覚えている。
あれは今にも雨が降ってきそうな曇った日だった。
エリザの脳の中で、それは薄暗く湿っぽい空気の記憶と共に、たちどころにありありと蘇ってくる。
両親を失ったエリザ・カウフマンはクルダに入れられることになり、ひどく怯えていた。クルダとは財団法人で一種の孤児院である。
エリザの両親は病院を経営していたのだが、スーリヤ共和国の独立運動に参加するために軍医と看護婦として戦地に向かい、そこで死んだのだった。
両親といってもエリザがまだ六歳の時に死んでしまったため、エリザは顔も覚えていない。母親の形見として持っているロケットには両親の写真が入っていたが、その笑っている三十前後の男女の顔を見ても、今となっては違和感を覚えるだけである。
しかし、保護者を失って、クルダという今まで経験もしたことがない奇妙な社会に放り込まれたエリザは孤独だった。その孤独を唯一分かち合える相手がイマニエル・ゲルトハイマーだった。少なくとも少女エリザはそう信じた。初めて話しかけた瞬間からそう信じ続けてきた。
そのはずだった。
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一つの社会を形成する基地には憲兵という警察機構がある。この「社会」には三権分立は存在しておらず、司法と政治は同じ機構が握っている。司法機関がある以上、そこには罰則もあり、その罰則の一つとして懲罰独房が存在している。基地敷地内の西の端、別棟として独立している平屋の建物内部にずらりと並んだ懲罰独房の一つに一人の青年が座っていた。
一見、青年というよりは少年と呼んだ方がよいようなひどく幼い表情を持った男だった。銀色の髪に黒い瞳、背は普通だが痩せていて、実際の背よりも高く見える。彼の名はイマニエル・ゲルトハイマー。階級は軍曹。
イマニエル・ゲルトハイマーは窓から見える雲一つない空を眺めていた。唇のはしには微笑が浮かんでおり、そこが独房でさえなければまるで自宅のベランダで空を眺めているようなそんな雰囲気さえ漂っていた。しかし実際は独房の中であり、無機質なコンクリートの打ちっ放しの壁が閉所恐怖症の人間ならば発狂してしまいそうな圧迫感で迫ってきており、さらに据え付けのベッドの上には薄っぺらな毛布が一枚きり掛けられているだけで、いかにも人間味がなかった。さらに今季節は冬であり、夜間ともなれば気温は氷点下にまで下がるはずで、一枚きりの毛布で果たしてまともに寝ることが出来るのか、一般人が見れば非常に不安を感じることであろう。しかし今その部屋の住人はそんなことはまるで気にならないように空を見ていた。その姿はどこか絵画のような趣があった。
イマニエル・ゲルトハイマー軍曹が命令不服従の罪状でこの独房に入れられてすでに一週間が過ぎている。食事は日に二回。焼きすぎのパンと煮込みの足りない野菜スープ。排泄物の回収は日に一度。入浴は棟内にある施設で週に一度。あとは見回りさえなく、ぼんやりと日々を過ごすこととなる。イマニエルはその間、飽きもせず空を眺めていた。
不服従の理由は些細なことだった。それは実際のところ、不服従でさえなかった。イマニエル・ゲルトハイマーが所属する第2765基地防衛空軍定期訓練の最中、自らが操縦する空中砲艦を作戦通りに動かしながら、彼がその窓の桟に止まった小鳥に視線を奪われているのを空中砲艦内部に取り付けられた監視カメラで見た中隊長が激高したのだった。もともとイマニエル・ゲルトハイマーのどこか超然とした態度を憎んでいた軍隊秩序至上主義の中隊長はわざわざ作戦を中断するとイマニエル・ゲルトハイマーを地上に呼びつけた。中隊長は叩き上げの中尉で決して無能というわけではなかったが、融通が利かせられないという意味で軍隊にもっとも多いタイプの男だった。中隊長は部下である兵士を家族のように大切にし部下に対しては家父長的な態度で接する代わりに、その絆をそのまま軍の秩序と見なし、その秩序からはみ出す者を軍そのものを損なうものとして憎悪しているのである。そしてイマニエル・ゲルトハイマーはいつも意味不明の微笑を浮かべていてしばしば上官の命令も聞いているのかどうか分からないようなところがあり、にもかかわらず勲一等鳳凰章を授かった英雄である点が中隊長には気にくわなかった。中隊長のような軍隊秩序至上主義者にとっては、イマニエル・ゲルトハイマーはもっとも扱いづらい相手で、憎悪すべき対象であった。
イマニエル・ゲルトハイマーを呼びつけた中隊長はカメラの録画映像を示し何をしていたのか詰問した。イマニエル・ゲルトハイマーは鳥を見ていたのだと答えた。
「去年、ユマと名付けて仲が良かった足白鳥に似ていて、そうかどうか訊ねていました」
「訊ねる?」
「はい」
「で、結果はどうだったんだ?」
「違いました。ユマの子供だということです」
「いう? 誰がいったんだ?」
「ユマの子供です」
「待て、何をいっている? 先ほどの話ではそれは鳥じゃなかったのか?」
「鳥です。足白鳥です」
「……鳥がそう答えたのか?」
「はい」
微笑を浮かべたままイマニエルは頷いた。中隊長は一瞬、呆気にとられ、怒鳴りつけるきっかけを失ったまま唇を震わせ、怒りを体内に蓄積した。それが噴出したのは、一匹の足白鳥が飛んできて、イマニエルの肩に止まり、それに向かってイマニエルがチチチと舌を鳴らすと答えるように足白鳥がチチチと鳴き返した瞬間だった。
「何をしているっ!!」
中隊長の怒号は空気を震わせ、鳥はそれに驚いて飛んで逃げていった。イマニエルはそれを視線で追ったあと困ったように首を傾げ寂しげに「逃げてしまったな」と呟いた。その瞬間、イマニエルの独房送りが決定した。中隊長はイマニエルにそこで頭を冷やせと命じた。イマニエルは微笑み頷いた。
そしてイマニエルは独房の中にいる。
彼自身は別にこの状況を楽しんでもいなかったが辛いと思ってもいなかった。というのはイマニエルはこのような状況には慣れていたからだった。彼はもともとクルダと呼ばれる施設の出身である。戦争やその他の事情で親を失った子供たちの養護施設で、悪名高い血と鉄騎士団の温床となっている場所だった。イマニエルがいたデューレンという市は最前線に近く、空中艦隊が行き交う爆音を聞きながら彼は育った。そのころからイマニエルは奇妙な子供だった。もちろん、彼自身は認識していなかったが、扱いづらい子供であったようである。常に静かで他の子供たちのように親を求めて泣いたりあるいは他の子供たちと喧嘩したりしない代わりに、黙って微笑んだままずっと一カ所に座っている、という子供であったらしい。クルダは政治結社血と鉄騎士団から多額の寄付を受け、さらに血と鉄騎士団から教育係も送り込まれてきていたため、ただ子供を成長させれば良いというものではなく、より優れより盲目的な血と鉄騎士団員を創り出さなければならなかった。その資質にイマニエルは決定的に欠けていた。そのため血と鉄騎士団の指示によって各クルダに新たに創設された瞑想室に放り込まれた。瞑想室は内側にゴムを貼られた幅六十センチ、奥行き二メートル、高さ一・八メートルの空間で窓も無く防音機能が付いており、外側から鍵が掛けられる仕組みになっていた。扉の上部にスピーカが付いており、そこから規定の時間に血と鉄騎士団の教育講義が流れた。内部に持ち込めるのは、血と鉄騎士団の聖書ともいえる『ツァラトストラの奇跡』という一冊の書物のみで、それは明確に拷問及び洗脳を目的とした空間だった。イマニエルはその空間で一ヶ月のほとんどを過ごしたことさえあった。しかし彼は何も変わらなかった。大人でさえ、一週間ほどで音を上げるその洗脳に何の影響も受けず、相変わらずどこか超然とした態度のままでいた。
今、こうして独房の中にいてもそのころの記憶が蘇り、懐かしい気持ちになるだけのことである。それ以上でもそれ以下でもなく、ここにこうしていても中隊長が望むような兵士になれるわけもない。
にもかかわらず、イマニエルはこの現実を多少哀しいことだと感じていた。イマニエルがここが独房であることを理解していたからである。牢獄とは人に役に立たないばかりか人の迷惑になる人間を入れる場所だと、子供の頃教えられた。だとするとイマニエルは人の迷惑になっていることになる。それは寂しい事実だった。
イマニエルが視線を床に落とし、かすかなため息をついたところ、そのため息を吹き飛ばすような笑い声が聞こえてきた。イマニエルは聞き覚えのあるその笑い声に振り向いた。鉄格子の向こうの通路に彼にとってはもっとも懐かしい顔の一つであるヤコブ・アイゼンク中佐が立っていた。長身のアイゼンク中佐は、癖のある金髪をいつものようにベレーから収まり悪くはみ出させながら牢の中を覗き込み、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていた。イマニエルはなぜヤコブ・アイゼンク中佐がここにいるのか分からなかった。確か首都近郊の大本営内にある参謀本部にいるはずではなかったか。しかし、懐かしい顔にイマニエルの顔はほころんだ。ヤコブ・アイゼンク中佐もニヤニヤと笑いながらいった。
「懲罰独房の居心地はどうだ?」
懐かしい声だった。イマニエルは微笑んだまま答えた。
「悪くないですよ」
アイゼンク中佐はその答えにゲラゲラと声を出して笑った。
「そんなこったろうと思ったよ。お前を牢に入れたところでなんの役にも立ちやしない。飯を食わせるだけ無駄ってもんだ。どうせなら鉛筆でも削らせておいた方がまだ人の役に立つってもんさ」
「僕は鉛筆を上手く削れません」
「じゃあ、鉛筆削りを覚えて一石二鳥じゃないか。手に職つけて、軍隊辞めたあとも困らないって寸法だ」
イマニエルはさすがにムッとした。
「何しに来たんですか?」
「お前の顔を見に来ただけだよ。どうせへこんじゃいないだろうと思ってたが、もしへこんでたなら、見逃す手はないからな」
「じゃあ、帰ればいいじゃないですか。中佐にだって仕事があるだしょう?」
「もちろんあるさ。勲一等鳳凰章を授けられた英雄が何がどうなってこんな懲罰独房に一週間も入れられているのかって謎を調べるのがとりあえず俺の現在の仕事だな」
「……僕が悪かったんです」
「そりゃそうだろうさ。操艦をそっちのけで小鳥とお喋りしてたら、そりゃ給料を払っている側としては腹も立つだろう」
イマニエルは驚いた顔をした。
「知ってるんですか?」
それからひどく落ち込んだ顔で視線を落とした。
「……そうですよね」
「お、へこんだか?」
「僕は上手に生きられないらしいんです。ずっと前、子供の頃そんな風にいわれました」
「--そうかもしれないな」
「--はい」
「しかし、まぁお前は上手くやっているよ。その歳で勲一等鳳凰章なんてなかなか手に入るもんじゃない」
「……ありがとう」といってイマニエルは微笑んだ。泣いた子がもう笑った、そんな感じだった。
イマニエルと話をしていると実際に任務を忘れてしまいそうで、ヤコブ・アイゼンク中佐は小さく咳払いをして視線をそらせた。
いつ話しても奇妙な男だった。
イマニエル・ゲルトハイマー。
ヤコブ・アイゼンクがまだ新任の少尉であった八年前、彼の下に配属された新兵が彼、イマニエル・ゲルトハイマーだった。
その頃、アイゼンクの所属するスーリヤ共和国はフッパーダールの鉱山奪還に躍起になっており、そのもっとも激しい戦闘区にアイゼンク少尉はいた。
アイゼンク少尉は上級国防学校のシュタウフェンベルク前参謀総長ゼミを卒業しいくつかの基地勤務を経て初めて経験した実戦で、戦争というものは授業とは異なり理論も理屈も騎士道精神も存在しないまま展開する地獄であることを知り、そしてその事実に慣れ始めていた頃だった。そんな時、信頼に足る軍曹の一人が頭を吹き飛ばされて戦死し、その替わりに送られてきたのがイマニエルであったわけである。初めて出会った時はおつむが弱いのかとさえ思った。最前線で戦っている軍にこんな野郎をよこしやがってとただでさえ腹が立つ後方の人事に今さらながら頭に来たものだったが、やがてイマニエル・ゲルトハイマーが知性面で決して劣っているわけではないことにアイゼンク少尉は気づいた。ただ人と見ているものが違うだけなのだ、とアイゼンクは知り、イマニエルを頭から馬鹿にするようなことはなくなった。叩き上げの小隊長ではこうは行かず、軍隊秩序を乱すものとしてイマニエルは遅かれ早かれ戦死するように味方の手によってし向けられていたことだろう。そうならなかったのは、小隊長であるアイゼンク少尉が上級国防学校出身のエリートで、叩き上げの少尉にいわせれば「甘ちゃん」であったからだった。
勲一等鳳凰章。イマニエルを英雄にしたこの勲章を、アイゼンクもまた同じ理由で授与されている。
イマニエルがまっとうな軍人なら気づくこと無いある事柄に気づき、それを利用することで敵の要塞の一つを壊滅に追い込んだことが授章の理由だった。
その契機となった戦いとは鉱山を巡るものだった。空中艦の造艦に必要なレアメタルを産出する鉱山は常に戦略的な最重要拠点であり、ウシャスⅡという惑星の上で闘争の気配がもっとも激しく渦巻いている空間である。その拠点の一つフッパーダール鉱山をスーリヤ共和国の手から奪還した汎ヤーキス連邦はそれを死守するためにすぐ隣の丘を有質量砲でハリネズミの様に飾り立て要塞化した。さらにビーム兵器を拡散させるα粒子で覆うことで、いっさいの光学系兵器を無効化させ、その上遊撃部隊として駆逐艦十二隻による艦隊を用意し、盤石の布陣でスーリヤ共和国軍を待ち受けたのである。
汎ヤーキス連邦が要塞化した丘は、高い山に囲まれた盆地の中にあり、地形的に守り易く攻め難く、さらに上方を駆逐艦艦隊、下方を要塞砲が固めることで一種の挟撃を完成させ、それによって迫り来るスーリヤ共和国軍の艦隊を撃滅した。フッパーダール山系は一万人以上のスーリヤ共和国軍兵士の巨大な共同墓地となった。スーリヤ共和国側も何とか要塞を破壊しようと、戦車を中心とした地上部隊に突撃を掛けさせたが、上空から駆逐艦に狙い撃ちにされ山腹にむなしく破壊された車体を晒しただけで終わった。戦線のバランスを崩してまで投入すべき余剰戦力は存在せずスーリヤ共和国首脳部がレアメタル鉱山を諦めかけた頃、イマニエルが呟いた。「あの丘に地下には水脈があるはずです」と。訝しく思ったアイゼンクが理由を尋ねると、あの丘には汎ヤーキス連邦が要塞を構築するまでは野生動物が生息していた証拠があり、そして野生動物は水源が無いところを自らのテリトリーとはしない、そして川が流れている様子がない以上、泉の形で地下水が漏れ出す地点があったはずであるというのである。この言葉はアイゼンクの頭の中で軍事的化学反応を起こした結果、要塞を一気に破壊する計画に結晶化した。調査してみるとその美しい紡錘形をした丘は火山の噴火によって出来た隆起物であり、事実その内部に大量の水を抱えていた。水も大量に集まれば兵器となりうるのである。作戦を立案したアイゼンクは、上層部の許可を得て地底湖まで隧道を掘った後、砲艦の大容量ビームを地底湖に撃ち込み、大量のH2Oを一瞬で気化させ、疑似水蒸気爆発を起こらしめたのだった。丘が吹き飛ぶほどの爆発で、要塞は一瞬で使いものにならなくなり、それに呼応して進撃したスーリヤ共和国軍艦隊によって、汎ヤーキス連邦艦隊は撃ち減らされ、フッパーダール山系は三度その所有者を変えた。
アイゼンクはその功によって本来の希望である参謀本部に呼び戻され、そして二等兵であったイマニエル・ゲルトハイマーは軍曹に昇進した。
あの時の小隊の面々は勲一等鳳凰章授章による栄転のためバラバラになったが、いまだ連絡を取り合う仲は続いている。激戦を一つの部隊として生き抜いた者同士しか持ち得ない特別の親しさは、部隊を別にしても弱まることなく、その十二人(三人戦死している)はアイゼンクにとっておそらくもっとも気の置けない仲間たちであるはずだった。
今回、ヤコブ・アイゼンク中佐が、2765基地に来たのにはある任務のためだった。その任務の存在は、スーリヤ共和国の政府においてさえ一部しか知らず、軍に至っては、三人いる上級大将の内ユーデンキュニヒ上級大将とこの作戦を立案した参謀本部しか知らない最高機密であった。そしてその最重要任務を果たすべき地にイマニエル・ゲルトハイマーがいると聞いたアイゼンク中佐は、験でも担ぐ様な軽い気持ちでやって来たのだった。
驚いたことにイマニエル・ゲルトハイマーは彼と別れた時の階級、軍曹のままでありしかも懲罰独房の中にいた。その事実はアイゼンク中佐を不快にさせた。アイゼンク中佐は、参謀本部付きの中佐であり、正確には特務中佐と呼ばれるべき地位にある。特務中佐は通常の軍では大佐に当たり、よほどのことがなければ行動をとがめ立てされることはない。彼の権限でイマニエルを強引に独房から出すこともできたが、参謀本部はその性格上非常に清廉である必要があり、不必要な問題を起こすわけには行かなかったため、アイゼンク中佐はルールに則ってイマニエルとの面会を求めた。
したがってアイゼンク中佐がこの場にいるのは所定の手続きを経た後のことである。その証拠にアイゼンク中佐の背後には監視役の憲兵が付いており、肩に小銃を吊したまま鋭い視線をこちらに向けてきていた。おそらく参謀本部付きの特務中佐と札付きの能なし軍曹とがいったいいかなる関係にあるのか、疑問とそして好奇心を抱いているのであろう。アイゼンク中佐は名も知らない憲兵の好奇心を満足させるつもりはなかったので、イマニエルに小声で訊ねた。
「……真面目な話だ。資料によるとお前は一週間もここに入っているらしいが、本当か?」
「うん」
あっさりとイマニエルは頷き、アイゼンク中佐は呆れて天を仰いだ。
「なぜ、再審査申し立てない。高々あんな理由で一週間も懲罰独房に入れられて黙っている奴がいるか。申し立てをしろ。憲兵はそのために独立組織になっているんだ。せっかくのシステムを利用しないと損するぞ」
イマニエルは困った顔でアイゼンク中佐を見た。
「何だその顔は?」
「……でも僕が悪いんです」
「イマニエルが悪い? お前は馬鹿かも知れないが悪くはないそれは俺が一番良く知っている」
「駄目なんです。どんなに上手くやろうと思っても上手くやれないんです。周りに迷惑をかけてる」
「そんなことはないとさっきいっただろう。ちょっと軍隊的思考が苦手なだけだ。それだって軍隊が全部同じ考えしかできない奴らばっかりなら組織が腐って駄目になる。お前は必要なんだ。それに--」
「それに?」
アイゼンク中佐は思いだしていった。
「あの時を思い出せ。水蒸気爆発を起こすために使った空中砲艦で俺たちがどれだけのことをやったか。たった一隻の空中砲艦で駆逐艦四隻撃破だぞ。その全てをやったのはお前だ。お前の砲術士としての能力は図抜けている。参謀本部付き特務中佐様の保証付きだ。お前の勲一等鳳凰章は伊達じゃない。もっと自信を持て」
アイゼンク中佐はイマニエルの肩を叩いた。しかしイマニエルの方はどこかピンとこないようで、相変わらず困ったような微笑を浮かべているだけだった。しかし、実際思い出してもそれは驚くべき光景だった。たった一隻の砲艦が、高速機動しながらビーム弾を吐き続け、その度に敵の駆逐艦の装甲が砕けどこかを損傷し、やがて沈んでいったのである。その数、なんと四隻。しかも戦果が四隻で終わったのは、撃沈されたわけではなく、エネルギーが尽きたためだった。たった一隻の砲艦でそれだけの戦果を挙げたのは、ウシャスⅡ戦史上類を見ないことであり、それは一種の天才といっても良かった。通常、この時代の艦同士の戦いはほぼ自動で行われる。敵の予想進路は通常コンピュータによって計算され、戦術スクリーンに映し出される。それは明確な線ではなく確率分布として表示され、そしてもっとも確度が高い場所に自動的にビーム弾がたたき込まれるようになっているのである。この時代の艦隊戦はいわばコンピュータとコンピュータの戦いであり、戦術プログラムと戦術プログラムの戦いだった。しかし、イマニエルは砲艦を動かすのに当たり、全ての自動設定を切り、戦術プログラムを停止させ、監視プログラムによって鳴り始めた警報を無理矢理壊して止めた静寂の中、磁気脳波感知システムによって全ての機器を自分で制御し、マニュアルのみで操艦したのだった。発射のタイミング、発射確度は全てイマニエルの「勘」によってコントロールされ、そしてそれはことごとく命中した。オートでやると平均二十%の命中率を、百%にまで押し上げたのである。
その才能は「異能」と呼ぶべきであって、イマニエルの上げた「戦果」は軍上層部の「常識」の厚い壁に阻まれていまだ公式には認められていない。しかし、目の前でその光景を見ていたアイゼンク中佐たちにとっては紛れもない「事実」だった。そして、イマニエルという特殊な個性の持ち主ならばそういう力があってもいいかも知れない、とアイゼンク率いる小隊の面々は誰もがそう思った。イマニエル周囲の人々をそんな気持ちにさせる青年だった。その「天才」は牢の中からひどく困った表情をアイゼンクに向けてきていた。
結局、最後まで自ら申し立てをすることを肯わないイマニエルに、「じゃあ、俺が勝手にやってやる。それなら文句ないだろう」と奇妙な捨てぜりふを残してアイゼンクは懲罰独房を去った。言葉に嘘はなく、アイゼンクはさっそく第2765基地所属憲兵中隊の中隊長シャイデマン少佐に掛け合いに向かった。シャイデマン少佐は、上級国防学校の後輩であり、面識もあったため話はしやすかった。久闊を叙した後、アイゼンクが行った要請に、シャイデマン憲兵少佐は「再調査はしてみます。しかし、イマニエル・ゲルトハイマー軍曹を直ちに懲罰独房から出すわけには行きません」と当然の返事を返してきた。
「もちろんそれで構わない。余計な風波を立てるのは避けたい」
「分かってます。……しかし、今をときめくアイゼンク中佐がこんな辺境の基地にいらっしゃるとは--何かあるのですか?」
上級国防学校出だけあって何か情報を掴んでいるのか、シャイデマン憲兵少佐は探るような目でアイゼンク中佐の目を覗き込んできた。アイゼンクは相手の質問を笑い飛ばした。
「俺もたまにはのんびりしたいさ。実は簡易空中艦隊発着所を建設することになった。その候補地選びで、参謀本部付きの士官があちこちに飛んでいる。その一つを任せてもらって羽休めをしようというわけだな。ここは景色も綺麗だと聞く。楽しみだ」
「……基地内にはバーもありますし、近くに小さいながら町もあります。よろしければご案内しましょう」
「ありがとう。さっさと仕事を済ませて身も心も楽になってから遊び回ってやるさ」
「楽しみですね。先輩と飲むのはずいぶん久しぶりだ」
「おごってやろう。参謀本部は給料は変わらないが、使う暇が無いことで有名だからな。俺の口座にも今まで見たことがないような数字が並んでいる」
アイゼンクの軽口に、シャイデマン憲兵少佐は微笑を浮かべたがそれが表面的なものであることはよく分かっていた。憲兵とはそういうものだ。ましてこの最高機密に関する尻尾でも何がしかを掴んでいるのなら、それに関する情報をこの機会にアイゼンクから可能な限り引き出してしまいたいと思うのは当然の思考法である。一方、アイゼンクは自らが抱え込んでいる軍機を可能な限り隠しておくつもりである。そしてそのためには逆に誘いを断るわけには行かなかった。誘いを断ってしまえば相手はいよいよ何かあると調査の手を強めるのは明らかであったからだった。
狐と狸の化かし合いだな、と醒めた気持ちで自分たちの道化芝居を眺めつつ、アイゼンクは、迷彩通信システムのある部屋を貸してくれるよう頼んだ。シャイデマン憲兵少佐は微かに眉を動かしたあと、その申し出を了承した。道化芝居の続きだった。
用意された迷彩通信システムがある部屋は、第2765基地司令室の向かいにあった。迷彩通信システムというのは、最高レベルの暗号化機能、三系統以上の密閉型ケーブル、盗聴防止機能、シードラゴン級のファイヤーウォールが完備された部屋のことをいう。師団規模の基地には、そういった部屋が五つ以上用意されているのが通例となっているが、アイゼンクが敢えて司令室に近い場所に案内されたのは、参謀本部付きの士官である彼の行動に対する牽制の意味があると思われた。この待遇にアイゼンクは露骨に不快を示した。しかし返ってきたのは「他の部屋は埋まっております」という形ばかりのいい訳だった。
もちろん、アイゼンクが不快を示したのは、演技であって本気で怒っていたわけではない。部屋に入り、念のため自らの手で部屋のチェックを済ませ、問題が無いことを確認したあと、備え付けのエスプレッソメーカーで濃いエスプレッソを入れた。一息つき、基地の周辺を見回ろうと部屋の外に出たところ、基地の無骨な雰囲気にはあまりにも異質な、軍服姿以外の女性を見かけた。二十代半ばで、なかなか美しい容姿をしている。化粧っけはほとんど無く、清潔な印象がある女性だった。
思わず見とれていたアイゼンクに気づいたのか相手は頭を下げた。その襟元に光るバッチを見て、アイゼンクは納得した。星の福音党所属の議員を示す本を意匠化したものであったからである。この年齢で議員になっているということは、おそらく修道院出身なのだろう。去っていく後ろ姿を眺めて、首都ミュンスターに残した妻、ローザのことを思い出していると、彼を呼ぶ声が聞こえた。振り返ると昨日、到着したときに挨拶した基地司令ブレヒト准将が立っていた。ブレヒト准将は表情が読みにくい男であるが、その代わりに隣に立つ副官が感情を代弁するシステムになっている。副官のマンハイム大尉に関しては少なくとも上機嫌でないことは明らかだった。いらだたしげに腕を組んだまま指で自分の腕を叩き続けていたからである。
「ヤコブ・アイゼンク中佐、ちょっと……」
「--何でしょう?」
マンハイム大尉は顎をしゃくり、司令室に来るように命じた。辺境の基地司令副官程度に顎で使われるのはしゃくであったが、この段階で面倒を起こす気はなかったので素直に従った。
第2765基地の司令室に入るのは初めてだった。アイゼンクは物珍しげに周囲を見回した。向かいの壁には銅版画が飾られていた。なかなかよくできているように見えた。硬い線のみで風景を描いているようである。それが司令室の調度と相まって不思議に暖かい雰囲気を醸し出していた。これを選んだのがブレヒト准将であるならば、芸術に関してなかなかの目があるに違いないと、見直すつもりでブレヒト准将の方を見た。相変わらず何を考えているのか分からない眠たげな顔をしていた。ブレヒト准将の横に立ったマンハイム大尉はそんなアイゼンクの分析を知る由もなく、不機嫌に口を開いた。
「シャイデマン少佐に聞きました。懲罰独房に入れられている軍曹を一人、外に出すよう彼に要請したそうですね」
「その通りです」
シャイデマン少佐はしっかりと自分の仕事をしたらしい。これは酒をおごってやるにしても酒の格を一ランクあげてやってもいいなと、アイゼンクは思った。
理由を説明しようとしないアイゼンクに、マンハイム大尉はいらだたしげに指を動かした。次にブレヒト准将が何かいうことを期待したのか准将の方を向いたが、准将はデスクの上を指で叩いただけで何もいわなかったため、結局マンハイム大尉自身が口を開いた。当然、いっそう不機嫌な口調になっていた。
「我が基地内部のことに口出しするのはやめていただきましょう。それとも貴官はそのような権限を持って参謀本部からやって来たのですか? だとしたらあらかじめいってもらわないと困ります」
「いえ、そういうわけではありません」
マンハイム大尉は頷いた。
「ならば口出し無用です。この要請は無かったことにします。--退室してもらって構いませんね?」
最後の科白はブレヒト准将に向けられたものであったが、ブレヒト准将は何の反応も示さなかったので、アイゼンクは動かなかった。もちろんそれだけではなく、マンハイム大尉の態度に腹を立てたということもあった。退室しようとせず相変わらずデスクの前で立ったままのアイゼンクに気づいたマンハイム大尉は眉をひそめた。
「なんです? まだ何かあるのですか?」
アイゼンクは首を傾げた。
「これは、准将閣下の意向のもと行われたと考えてよろしいのですね?」
「私はブレヒト准将の副官です。当然、ブレヒト准将の意向が反映されています」
「なるほど」
「なんです? 何かいいたいことがあったらいったらいかがですか?」
いらいらとした口調のマンハイム大尉に向かって、アイゼンクは満面の笑みを浮かべた。
「方面軍司令のシラー中将は、シュタウフェンベルク前参謀総長ゼミの先輩でして以前より親しくさせていただいています」
「……それが何か関係あるのですか?」
「2765基地現司令は参謀本部の要請に対し、非協力的です。今後、参謀本部の立案の作戦を遂行するに当たり、重大な問題が発生しないとも限りません。そういったことが起こらないように、この事実を報告し、対処をお願いするべきかどうか……准将はどう思われます?」
マンハイム大尉は一歩前に出ると机を平手で叩いて叫んだ。
「貴様、我が基地を脅迫するのか!?」
しかしアイゼンクは涼しい顔でその狂態を眺めた。
「しかも基地司令を補佐するべき副官も自制心にもかけている。とても基地司令の任を果たすことは期待できない、と付け加えるべきですかね」
マンハイム大尉の顔が真っ赤に膨れ上がった。何かいおうとして言葉が上手くまとまらないのか、口が無意味に開閉した。
「貴様……っ」
ようやく実際にいえたのはそれだけだった。それをアイゼンクは冷然と眺めていた。いい過ぎただろうか、と反省も多少あったが、かまいはしないと思った。今後、一ヶ月ほどはこの基地周辺で活動する必要があり、その時、何かある度に横やりが入ったのではたまったものではないと考えたのである。そうならないためには今の内に、主導権を奪っておく必要があった。シラー中将と個人的に親しい仲であるというのは事実であり、ブレヒト准将を更迭することは任務を鑑みても可能なことであった。シラー中将に頼まなくても、ユーデンキュニヒ上級大将に上申すれば、大事の前の小事と翌日には別の基地への異動が書かれた辞令が届くことだろう。
アイゼンクの態度に、その言葉が事実であることを悟ったのか、マンハイム大尉は目を激しくしばたたいた。助けを求める表情でブレヒト准将の方を向いた。ブレヒト准将は顔をしかめた。何かいうのかと思ったら、くしゃみをして、ポケットからハンカチを取り出して鼻をかむと、それをポケットに戻しながら煩わしげに手を振った。
「貴官が何をしに来たのかは知らない。シラー中将に報告したいのならばすればよろしい。ここもなかなか気に入っていたが、ここでなければならないという理由はない。どこにでも命じられれば行こう。ここからさらに左遷する場所があれば、だが。私は構わない。しかし不必要に基地部隊を引っかき回すのはどうだろうか。基地部隊の反感を買えば--」それからアイゼンクの方を見て「貴官の後の計画にも支障を来すのではないか?」と続けた。
今度はアイゼンクが目をしばたたかせる番だった。目の前の男は何か知っているのだろうかとアイゼンクは思った。少なくとも知っている口振りであったし、そう見えた。知っているとしたらどこまでだろう。いっそ全てを明かして全面的な協力を要請するべきか。猛烈な勢いで思考を回転させるアイゼンクの前で、ブレヒト准将は鼻がぐずぐずする方が気になるのか、視線を逸らすと指を鼻にあて、それから思い出したように続けた。
「--軍曹を懲罰独房から出す件だったな?」
「はい」
「許可しよう。副官の無礼に対するわびだと思ってもらいたい」
この科白で、ブレヒト准将がいったいどういう人物なのかアイゼンクにはいっそう分からなくなった。無能なのか有能なのか。協力を要請するべきなのか、それとも全てを秘したまま計画を続行するべきなのか。ブレヒト准将に関するデータが足りなかった。部屋に戻ったら参謀本部に連絡を取って、ブレヒト准将に関するあらゆるデータを再調査する必要があるだろう。
とりあえず今回は素直にアイゼンクは感謝の意を示した。
ブレヒト准将はその場で、鼻をぐずぐずさせながらイマニエル・ゲルトハイマー軍曹の懲罰解除の指令書を書き、アイゼンクはそれを受け取った。マンハイム大尉はその間中ずっとアイゼンクを睨み続けていた。そんな副官をちらりと見てからため息をついたブレヒト准将はアイゼンクに握手を求め、切り出した。
「……シラー中将と連絡を取るのかね?」
アイゼンクは微笑んで答えた。
「いえ。中将閣下をお忙しい方ですし、いずれ機会があれば久闊を叙することもあるでしょうが、近々連絡を取る予定はありません」
ブレヒト准将はマンハイム大尉の方を再びちらっと見てその表情が安堵に変わったことを確認した後、
「……すまんな」
「いえ」
一礼してアイゼンクは基地司令室を去った。
この出来事以来、2765基地はアイゼンクにとって多少なりとも行動し易い場所となった。ブレヒト准将は、アイゼンクの行動に便宜を図ることを約束してくれ、専用のジープに運転手まで用意してくれる厚遇ぶりだった。マンハイム大尉の方は苦手意識を感じたのか可能な限り接触してこないようになった。これもまた、行動し易くなった理由の一つだった。結果として、イマニエルを独房から出そうと動いたことはプラスにこそなれマイナスにはならなかったことになる。
翌日の昼、さっそく兵舎に戻ったイマニエルを連れ出して、アイゼンクは基地西の巨大な荒野にジープで向かった。ずいぶん軍秩序を無視した行動だったが、かまいはしなかった。何しろ、もう少しで軍は消えて無くなるのである。そしてそのためにアイゼンクは極秘裏に行動しているのだ。
ブレヒト准将が用意してくれた運転手役の軍曹は断り、自分でハンドルを握ったのだが、初めてでも迷いようもないただむやみに広い荒野だった。もともとこの荒野はかつてテラフォーミングの際に、酸素を創り出すための触媒反応で消え去ってしまった湖があった場所である。百年近くたった今でも、かつて湖底であった名残はあちこちにあり、空気もどこか生臭さを感じた。地面にはガラス質の細かな石が敷き詰められたように続いていて、それが昼の真上からの太陽光にきらきらと反射して、何ともいえない不思議な光景を創り出していた。風はなく、アイゼンクとイマニエルとが乗ったジープの車輪が巻き上げる土煙だけが一筋に伸びていた。
すり鉢状の底の部分でアイゼンクはジープを止め、周囲を見回した。
「広いなぁ」
思わず言葉が出た。イマニエルはそれに反応したように辺りを見回した。
「--広いね」
「ここが俺たちが産まれ育った星だ」
「うん」
「--悪くない」
アイゼンクは一人で頷き繰り返した。
「まったく悪くない」
それからイマニエルの方を向き、
「良く覚えておけ。人間が生きていくには故郷が必要だ。俺たちの故郷は地球ではなく、このウシャスⅡという星だ」
訝しげな顔をしたイマニエルを無視して、アイゼンクはゆっくりと視線を周囲に巡らせた。
その顔には満足とも悲しみともつかない表情が揺れていた。
その日の夜、アイゼンクは迷彩通信システムでユーデンキュニヒ上級大将に一つの暗号文を送った。それを所定の手続きで開けば、『問題ナシ。諸条件ニ適ウ土地ト見ル』という文章になるはずだった。




