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動乱


 イマニエル・ゲルトハイマーは産まれてすぐ捨てられ、早朝の路上で凍死しかかっていた。

 彼を救ったのは牛乳配達の青年だった。

 牛乳配達の青年は力無く泣くイマニエルに気づき彼をすくい上げ、迷ったあげく顔見知りだった私設養護園の園長に預けた。イマニエルは園長の養子として育てられることになった。ゲルトハイマーというのはその園長の姓であり、彼の生得のものではない。

 この養護園での時期がイマニエルが幸福だった唯一の時代だと言われている。

 だが、イマニエルが入園して六年後に、イマニエルは私設養護園から、クルダと呼ばれる施設に移された。

 戦火の拡大によって私設養護園が閉めざるを得ない状況になったためである。

 クルダというのは一種の教育機関で、全人格教育を標榜し、当時、親を亡くし行く先のない子供を大量に受け入れていたのだった。


 イマニエルの受け入れ先であるクルダに迎え入れたのはW・ガルテネーレという七十歳を過ぎた老人だった。

 ガルテネーレは六歳の何も持たない少年イマニエルを観察しながらクルダの私設を説明した。

 ガルテネーレの目には少年は上の空に見えた。

 その時期、クルダはすでに血と鉄騎士団という名の政治結社に牛耳られていた。

 一方、イマニエルはクルダでも、その独特のペースを崩すことはなく、大人たちを困惑あるいは激怒させた様である。血と鉄騎士団の幹部達は自らの役に立たないばかりか他にも悪影響を与えかねないイマニエルをクルダから放逐するべきかどうかという会議まで開かれたらしい。当時のクルダの指導者たちの困惑顔を思い浮かべるとエリザは楽しい気持ちになった。

 もっともイマニエルはクルダにおいて完全に孤立していたわけではなかった。彼に好意を持っている相手が二人だけ存在した。一人はクルダの教師であるW・ガルテネーレ。もう一人はイマニエルと同じ孤児であった少女エリザ・カウフマンだった。

 W・ガルテネーレは七十才を過ぎた老人で、クルダのもともとの創設者シュトリッカーの仲間の一人でありクルダの最高顧問の一人だった。エリザもうっすらと記憶に残っている。クルダの創設者であり民間ボランティアの指導者であったシュトリッカーには数人の気の置けない仲間たちがいて、その一人がガルテネーレであり、そして血と鉄騎士団の創設者であるゴットフリートだったわけである。シュトリッカーはすでに亡く、クルダはゴットフリート率いる政治結社血と鉄騎士団に掌握されていて、血と鉄騎士団にとってガルテネーレは団の命令に従わないやっかいな相手であったが、若い頃彼と共に運動を行ったゴットフリートの「老い先短い老人のことだ。せめて死ぬまでは好きにさせてやれ」という言葉によって、放逐されずにクルダに留まることが出来たのであった。その替わりに希望者の少ない最前線にあるクルダへの転属を命じられ、そしてガルテネーレはイマニエルと出会った。

 ガルテネーレ老人はクルダの中で特定の授業を受け持っていたわけではなかった。授業の間は各教室を巡って後ろに立ってニコニコしながら授業の風景を眺め、休み時間はクルダの中庭に置かれた滑り台の横に腰掛け、庭で遊ぶ子供たちを楽しそうに眺めていた。

 ガルテネーレが遊んでいる他の子供たちと離れて一人で庭の隅に座っているイマニエルのことに気づいたのは赴任してきて二週間ばかりしたころだった。ガルテネーレが奇妙に思ったのは、イマニエルの周囲にはたいてい鳥がいて、人に慣れないはずの野鳥がなぜかイマニエルには何の警戒もなく近づき、まるで会話しているかのようにイマニエルが舌を鳴らすと答えているという事実だった。それはまるで一幅の宗教画のような静謐に満ちた光景だった。小鳥や動物と会話をする古代宗教の聖者の逸話がガルテネーレの脳裏に浮かび、興味を持ったガルテネーレがイマニエルに話しかけた。

「なんて鳥だい?」

 そう訊ねたガルテネーレをイマニエルは見上げ、微笑み、やや舌足らずな口調で「フランツ」と答えた。フランツという鳥の種類はガルテネーレの記憶には無く、鳥に詳しいんだねというようなことをいうと、イマニエルは首を振った。彼がいうことには「フランツ」というのは鳥の種類ではなくたった今イマニエルの指にとまっているその鳥の名前なのだということだった。さらに同じ種類の鳥が周囲に三匹ほどいて、それぞれに名前を付けているということだった。ガルテネーレにはどれも同じに見えて「間違えたりしないかい?」と訊いたところ、「全然違うよ」とイマニエルは答えた。

「人を間違えたりしないでしょ? それと一緒だよ」

 ガルテネーレは身に震えるような何かが走ったのを感じた。何か大切なことに気づいたようなそんな感覚だった。

 ガルテネーレは手を差し出した。

「友達になろう」

 イマニエルは大きな黒い目を見開いてしばらくガルテネーレを眺めていたが、やがて微笑み、出された皺だらけの手を握った。

 二人は親しくなった。イマニエルはガルテネーレをクルダの教員とは認識しておらず、あくまで友人と思っていたようである。一方、ガルテネーレはイマニエルの特殊な性情にすっかり魅せられてしまった様であった。この時期、ガルテネーレはクルダ中央本部に数多くの書簡を書き送っている。それは冷静な目で見れば妄想と願望に彩られた狂人の手紙でありイマニエルのことを「救いの御子」と断定し、彼をこのウシャスⅡという惑星の未来のために直ちに中央に戻し、特別な立場に付けるべきだというようなことが連綿と書かれていた。ガルテネーレは最高顧問の一人であったが、すでに主流派からは完全に外れており、その全ての書簡は黙殺された。にもかかわらず四年近くもの間、書簡は送られ続けた。

 一方、エリザ・カウフマンは初め、イマニエルではなく、彼の周囲で戯れる小鳥に惹かれて近づいてきた。当時四歳であったエリザは戦災孤児であり、施設にはイマニエルの二年後に入り、そしてこのクルダに一週間前に送られてきたばかりだった。来たばかりのエリザには当然友達はおらず毎日が孤独であり、小鳥に慰めを求めて近づいてきたのだった。しかし、エリザが近づくと小鳥は警戒して逃げてしまい、そのことで泣き出したエリザにイマニエルが困った口調で話しかけた。

「みんなはそのきらきら光るものに驚いたみたいだよ」

 エリザは母の形見であった首飾りをいつも首に掛けており、その光の反射に驚いて小鳥たちは去ったとイマニエルはいったのだった。エリザは泣きやみ、イマニエルの顔を初めて見た。イマニエルはひどく優しそうな顔をしていた。エリザはイマニエルの忠告通り、今度は首飾りを外して大切にポケットに仕舞ってからイマニエルの隣に座った。十分ほどしてまた小鳥たちは戻ってきた。今度は逃げなかった。普段他人に見せない優しい表情で小鳥たちと鳴き交わすイマニエルの姿をすぐ隣でエリザは眺め、それからおずおずと手をさしのべた。最初、小鳥は首を傾げるばかりで移ろうとはしなかったが、イマニエルがチチチと舌を鳴らすと、きょろきょろと周囲を見回したあと突然ぴょんとエリザの指の上に飛び移った。エリザは笑った。


 痛みや悲しみがあったとしてもおおむね平穏なクルダの日々に終わりが訪れたのは、一瞬のことだった。イマニエルが十二歳。エリザは十歳の時である。幸福な日々は惑星ウシャスⅡ上に存在するスーリヤ共和国以外の唯一の国家であり、敵対国である汎ヤーキス連邦の侵攻によって一夜で潰えた。この日、三個師団によって「突出」作戦を開始した連邦軍は、イマニエルの所属するクルダがある町を占領し、クルダは四分五裂した。


 連邦軍がこの時期、大攻勢に出たことにはいくつか理由があるが、それにはイマニエルやエリザが住むウシャスⅡという名の惑星の当時の状況について説明しなければならない。

 まず、ウシャスⅡにおける二勢力の片側、汎ヤーキス連邦である。汎ヤーキス連邦は、本国を惑星クリシュナに持つ巨大星間国家で、もともとがテラフォーミングを生業とする造星企業から発生した。二十五の恒星系、百以上の惑星、二十三の居住可惑星を持ち、総人口は推定六十億。現在銀河に広まった人類の国家群の内、四番目に巨大な国家であり、その武力は第二位。上に地球連邦を有するのみであるが、地球連邦の軍備が旧態依然としたものであることを考え併せると、勝っているのは数字上のことだけであり、実態は第一位であるという声も多い。汎ヤーキス連邦はCEOと呼ばれる終身大統領制を導入している。CEOを解任することが出来るのは、元老委員会と呼ばれるわずか三十名から構成される会議のみで、基本的にCEOは元老委員会に対してのみ責任を負う。CEOは汎ヤーキス連邦の宇宙軍、そして汎ヤーキス連邦における流通を握っているが、政治的支配権が及ぶのは主星クリシュナのみである。したがって各支星の政治は支邦知事と呼ばれる代理人が行う。支邦知事は選挙によって選抜され、CEOに承認を受ける。支邦は基本的に独自の法律と軍を持つことが出来るが、CEOの巧妙な介入により、たいていは骨抜きにされているのが現状であった。

 一方、スーリヤ共和国は、汎ヤーキス連邦内ウシャスⅡ支邦国から独立運動によって発生した国家である。人口二億。独立を指導した星の福音教団によって、やや宗教的色彩が強い国家であるが、ウシャスⅡ上においては汎ヤーキス連邦と同等の軍事力を有している。その大部分は、かつて汎ヤーキス連邦ウシャスⅡ支邦軍に所属していたものであり、装備に関しても遜色ない。もちろん国家全体の規模を俯瞰的に眺めれば、片や巨大星間国家で、もう片方は一惑星さえ支配し切れていない現状であるから、いわば象と蟻の戦いであるが、汎ヤーキス連邦はその巨大な体躯ゆえ、あちこちに火種を抱えており、人類最大といわれる武力を一カ所に集中することは出来ないでいる。そしてそれが象に抵抗する一匹の蟻、スーリヤ共和国の寿命を延ばしていたのだった。

 この時期、汎ヤーキス連邦がスーリヤ共和国に対して攻勢に出た理由としてまず上げられるのは、銀河中心部、三キロパーセク腕あたりで行われた汎ヤーキス連邦と人類第三位の勢力ラフレシア遊星旅団との会戦が終了し、軍の一部をウシャスⅡに送ることが出来たことであった。

 三キロパーセク腕で行われた大会戦は、約七年間もの間続いた銀河史に残る大規模なもので、幾多の英雄を排出し、その英雄の多くを死なせた。一応、汎ヤーキス連邦にとっては、勝利と辛うじて呼べなくもない終わり方であって、残った軍の一部をとみにきな臭くなってきたウシャスⅡに送るだけの余裕があったのである。

 もう一つの理由は、ウシャスⅡにおいて支邦知事の選挙が行われ、鷹派のコンディヤックが第六十五代支邦知事となったこと、であった。コンディヤックは汎ヤーキス連邦主星クリシュナからの移民二世で、父親からクリシュナでの悲惨な生活を聞いてきたらしく独立そのものに対しては否定的ではなかったが漸次独立推進派であり、暴動をきっかけに成立したスーリヤ共和国に対しては将来的な独立運動を損なうものとして苦々しく感じていた。実際、公約として、スーリヤ共和国に対して大規模な攻勢に出ることを掲げており、この出兵は公約を守ったといえる。

 コンディヤック第六十五代支邦知事の要請もあって送られてきた汎ヤーキス連邦宇宙軍の一個師団であったが、単純に宇宙から地上に砲撃を加えればよいというものではなかった。というのは、ウシャスⅡはいまだマイケル・アウンサン博士の基準によるところの文明度Aの惑星であり、人類法によって大気圏外からの艦砲攻撃は禁止されていたのである。そのため、三キロパーセク腕から送られてきた艦隊は地上に降ろされ、地上軍として再編される必要があった。およそ一個宇宙師団、地上における三個師団は、基本的に空中艦隊である。空中艦隊はビーフェルド・ブラウン効果を応用した反重力機関を搭載した艦艇によって構成されており、ウシャスⅡ上におけるもっとも基本的な兵種であった。

 この到着によって、長年膠着状態に陥っていた戦力のバランスが崩れ、汎ヤーキス連邦側に大きく傾いた。その機を逃すことなく、コンディヤック知事は「突出」作戦の指令書にサインをしたのであった。


 汎ヤーキス連邦の宇宙軍第四師団司令スタンザ中将は、巨大な体躯と分厚い胸をもった壮年の男性であった。白兵戦闘力が宇宙空間の戦闘においてまったく役に立たなくなってから数百年が過ぎているが、彼はそれでもなお軍人の能力は実際の体力によって補強されると信じている人物であった。そのため、彼の乗艦であるテウタテスには1Gのトレーニングルームが作られており、今時珍しい金属製のダンベルやアレイが揃えられており、日に二時間ほどそこで肉体を鍛えているスタンザ中将の姿を見ることが出来た。現在では筋肉の強化を望む者は、電気刺激を定期的に流すことで筋肉組織を肥大させる技術によって理想の肉体を得るのが常識となっているため、それは異様な光景といえた。

 スタンザ中将はまた、地上軍に対して不可解な侮蔑心を持っていた。これは彼が汎ヤーキス連邦主星クリシュナの出身であり、クリシュナでは地上戦の必要はなく宇宙軍しか存在しなかったことが原因となっていた。クリシュナにおいて治安を守るのは武装警察の仕事であり(クリシュナにおいても騒乱がないわけではなかったため、治安部隊は必要であった)、地上軍は「軍隊」ではなく「警察隊」という印象があったようである。「軍隊」を「警察隊」よりも上位に置くこと自体そもそも間違っていたが、スタンザ中将にそのことを忠告しようとする者はいなかった。スタンザ中将の人間における好悪の対象は明確で、四角張った忠告を何よりも嫌っていて、そのタイプの人物はすでに遠ざけられ、周囲には彼の縮小再生産の成果というべき、「勇猛な軍人」タイプしか存在しなかった。

 「突出」作戦の指令書を受け取ったスタンザ中将は即座に麾下の軍を動かし始めた。彼の幕僚、各艦の艦長たちも彼の好み通り機敏に動いた。地上軍に対する根強い侮蔑のため、スタンザ中将にとって恐れるべき敵も頼りになる味方もこのウシャスⅡには存在しなかった。彼は地上に来たことで、三個師団に再編された軍の総司令という立場にあり、その軍をもってスーリヤ共和国の息の根を止められると考えていたようである。

 第十一臨時師団、第十二臨時師団、第十三臨時師団と名付けられたもと宇宙軍は、空中戦艦三十、空中駆逐艦十二、空中砲艦六、さらに地上軍二万という膨大な数の軍であり、高度を二百メートルに固定したその艦隊は地上にまるで行進用の絨毯を敷いていくかのように戦車隊を従えながら、整然とスーリヤ共和国内に侵攻していった。その姿は総司令であるスタンザ中将の好みを良く表しており、つまり極めて示威的な艦隊行動であった。地上二百メートルという高さは、艦隊行動に決して適しているわけではない。乱戦になった場合、その様な中途半端な高さに展開する奇策も存在したが、通常は地形を障害物として利用するためにより低きか、あるいは敵を一気に覆滅するためにより高きに展開するのが常識であり、敢えてその常識を無視したのは、この軍の偉容を見せることによって市民に心理的な圧迫を与える意図があったからであろう。そしてその艦隊の先頭に、誇らしげなスタンザ中将の旗艦テウタテスの姿があった。

 さて、スタンザ中将の思惑とは別に、「突出」作戦には、大まかに次の流れが存在した。まず、宇宙から降下してきた全軍をもって国境中央部よりスーリヤ共和国内部に侵攻し、巨大な陣地を形成する、さらにこの陣地を死守することで、敵の注意を引きつけ、その間に地上軍が別ルートから侵攻し、一気に共和国首都を落とすというものであった。これは、宇宙から降りてきたばかりの「新参者」に手柄を持って行かれたくないという軍部の思惑と、「信頼のおけない」地上軍と行動を共にしたくないというスタンザ中将の意志とが微妙に絡んだ結果だった。スタンザ中将の軽々とした行動とは裏腹に、現在各地前線に展開中の他の師団の動きは遅れていた。そのため、景気良く進軍中のスタンザ中将のもとに、全軍の総司令官という地位にいるニーメラー元帥から「作戦を遵守するように」という指令が入った。その指令をスタンザ中将は、予定よりも四里ほど突出した地点で受け取った。

 旗艦テウタテスの艦橋で、ニーメラー元帥の命令を事務的に伝える参謀長の映像が消えると同時に、スタンザ中将は制帽を床に投げ捨て踏みにじって怒りを表した。が、結局、元帥の命令通り陣地の造成に入った。


 スーリヤ共和国国境中央部には当然防衛部隊が展開していたが、わずか一個師団であり、高射砲を数発撃ったのみで、後退を開始した。寡兵で多兵に当たる愚を避けたのである。後退は速やかであり、スーリヤ共和国側はこの事態をある程度予測していたことが分かる。空中艦隊の移動はよほど注意を払わなければ隠蔽不可能であり、すでにこの国境周辺に汎ヤーキス連邦が軍を集結させているという情報はほぼ正確に掴んでいた。しかし、事態を知ったとしても戦略拠点に配置している各師団を呼び戻すことは戦略的に不可能であり、予備として温存している第三師団、及び第七師団を投入するしか方法はなかったが、この第三師団、及び第七師団は先の戦闘によって巨大な被害を被ったまままだ完全な再編は済んでおらず、その戦闘力を少しでも増すために、中央部に展開させていた精鋭第二師団と合流させる必要があったのである。

 第二、第三、第七師団は無事合流を果たし、首都の前方に防衛ラインを形成し、敵軍を待った。しかし、スーリヤ共和国軍総司令部の予想に反し、汎ヤーキス連邦軍三個師団は進撃をいったん中止し、拠点を作り始めたという連絡が入った。


 スーリヤ共和国軍第二師団の師団長ウォルフラム中将は、国防学校を首席で卒業し、順調に階梯を上げてきたエリートであった。エリートでありながら、決して傲ったところは無く、謙虚な人格者で部下たちからも好かれていた。唯一の問題点は、そのどこか教師のようにも見える謹直な外貌とは裏腹にどうしようもない女好きで、しばしば陣を抜け出して売春宿(星の福音教団の運動によっても根絶されていない)にしけこんでしまう点だった。もちろん、愚か者ではなかったので、状況が許せば、ということであり、一大事が起こったときに師団長がいないという事態はまだ存在しなかった。

 そのウォルフラム中将は、彼の旗艦ザルツァの会議スペースで、もじもじと股の間を動かしながら、第三、第七師団長のレッシング少将とユーデンキュニヒ少将との会見に望んでいた。ユーデンキュニヒ少将はまだ三十代の若い提督で、ウォルフラム中将の麾下で働いていたこともあり、若々しい顔に苦笑を浮かべた。

「また--ですか?」

 ウォルフラム中将は顔をしかめ、ひどく重々しい口調で「そうだ」と頷いた。会話の中身が分からないレッシング少将が視線を泳がせていると、ユーデンキュニヒ少将が耳元で囁いた。

「……毛虱ですよ」

「毛虱?」

 ウォルフラム中将は兵士に安心と自信とを与えるという低いバリトンで「うむ」といった。

「どうも、三日前のマリア嬢から移されたらしい。痒くてかなわないから、さっさと終わらせてしまおう」

「分かりました」

 ユーデンキュニヒ少将が苦笑を浮かべながら答えた。どうもおかしな気分だった。ウォルフラム中将は謹直そのものの顔であり、声も生真面目であるため、何をいってもまるで真剣に話しているように聞こえる。毛虱の件も同じである。たとえばそれがユーデンキュニヒ少将自身やレッシング少将であったなら、そもそも痒くても我慢するだろうし、我慢できなかったら、ずいぶん身を小さくしながらいい訳するだろう。しかし、ウォルフラム中将は堂々たるものであり、まるで毛虱にかかったのが、仕事上やむを得ない事態であったかのように聞こえるのである。

 これは人徳だろうとユーデンキュニヒ少将は結論づけた。同席しているレッシング少将は地方自治体の監査官的杓子定規さで有名であり、普通ならそのような私事を公務に持ち込むことに猛反発するであろうところ、ウォルフラム中将の雰囲気のためにいい出すきっかけを失って、文句らしいことをまだいっていない。ウォルフラム中将の貫禄勝ちといったところである。

 とりあえずマリア嬢は毛虱を持っているらしいから気を付けようと考えながら、ユーデンキュニヒ少将は用意しておいた報告ディスクをデスクの上に置いた。

「再生してください」

 ウォルフラム中将は「ふむ」とユーデンキュニヒ少将の方を向いたあと、副官を呼んでディスクを再生機にかけるよう命じた。

 ディスクに収録されていたのは、監視衛星の超望遠で捉えた汎ヤーキス連邦の陣地の様子だった。それは「大げさなものだな」というウォルフラム中将の感想に集約されていた。

 汎ヤーキス連邦の光学妨害のせいなのかピンぼけで非常に見にくい映像であったが、それでも汎ヤーキス連邦が大規模な陣地を造成していることは間違いなかった。最前線に近い町、デューレンの西であった。

 ユーデンキュニヒ少将は映像が映し出されている投射スクリーンの前に立ち、ポインターである箇所を示した。

「ここを見てください」

「ほう--」

「三百ミリの有質量砲です。こんなものまで主星から運んできたようです。このことからも分かるように汎ヤーキス連邦はかなり本格的な対空中艦隊用防衛線を建設しているようです。これに三十隻の空中戦艦、十二隻の空中駆逐艦、六隻の空中砲艦が付いているとなると、かなりやっかいなものとなるでしょう」

 ユーデンキュニヒ少将が手柄の片翼を譲るためにレッシング少将の方を向いた。レッシング少将は頷いて、一枚の紙に書かれた資料を差し出した。

「最前線の町デューレンの西に汎ヤーキス連邦は野戦陣地というよりは永久陣地と呼んでも良いような要塞を築こうとしています。そのことから、いかなる戦略を採ろうとしているのか、参謀本部に推測させました。--これがその結論です。一言でいえば、両面作戦、ということになります」

 レッシング少将の説明は、「突出」作戦の概要そのままであった。つまり、敵地内部に武力の突堤を築き、そこに敵の武力をおびき寄せることで敵の防衛システムを攪乱し、その隙をぬって大きく迂回した本隊が敵本営を急襲するというものである。

 参謀本部はかなり正確に汎ヤーキス連邦の意図を見抜いていた。しかし、その意図をくじくには戦力が絶対的に足りなかった。

「極めて危機的状況です」

「……だな」

「しかし策はあります」

 続けてレッシング少将が口を開く前に「ゲリラ戦か」吐き捨てるようにウォルフラム中将はいい、「お分かりでしたか?」とレッシング少将は驚いた顔をした。

「分かるもなにも無い。他に方法は無いだろう。ゲリラ兵を使って早期にデューレン西の永久陣地を無力化し、しかる後に全軍でもってやってくる敵本隊を迎え撃つ、というわけだな。……しかし、民間人に頼らざるを得ないゲリラ戦などで勝利したとしても、それでよいのか?」

 憮然とした表情のウォルフラム中将にレッシング少将は平然と答えた。

「勝利しなければ、あらゆるものは無価値になるのです。手段はどうでもよろしい。まず、勝利することです。念のためいっておきますが、これは意見を求めているわけではありません。すでにこの作戦は元帥閣下の了承を得ています」

「ワイス元帥閣下と命令とあれば仕方がないが……貴君らはそれで良いのか?」

 ウォルフラム中将の質問にレッシング少将は頷く必要さえ認めず、ユーデンキュニヒ少将は微かに視線をそらせて恥じていることを示し、その態度の違いが二人の性格を良く表していた。


 作戦の根本原理に疑問を呈したとはいえ、ウォルフラム中将の作戦遂行能力に疑問の予知はなかった。ウォルフラム中将はまず星の福音教団に連絡を取った。星の福音教団は公然たる政権第一党であり、この連絡は私的なものではなく正式な手続きに乗っ取った要請であり、この要請に対して星の福音教団は、枢機卿の一人マルティン卿を第二師団の旗艦ザルツァに送り込んだ。

 マルティン卿は、修道院の出身の神父で主に教団の情報統制を担当しており、その敏腕ぶりは軍情報部が「顧問に来てもらいたいものだ」と冗談混じりにいうほどであった。マルティン卿は、小柄であるが精力的な顔をした男で、現れウォルフラム中将に挨拶するなり、口を開いた。

「--用件は聞いております。結論から申し上げれば血と鉄騎士団を利用するがよろしいでしょう」

「血と鉄騎士団ですか?」

 その名前を聞いてウォルフラム中将は顔をしかめたい気分だったが、もちろんそんな表情はおくびにも見せず、なるほどと微笑みを浮かべて頷いた。マルティン卿はウォルフラム中将の顔を貫きかねない強い視線で見つめたあと、見つめたままいった。

「血と鉄騎士団とは私は太いパイプを持っております。お役に立てると思いますが……」

「--血と鉄騎士団というのは、政治結社ですな、確か」

「そうです。民間ボランティアのゴッドフリート氏によって創設された政治結社で、その主張は明快。対汎ヤーキス連邦との戦闘において、自らを民衆を守る騎士と規定し、血と鉄によって勝利を購うという意図のもとに活動しています」

「私は軍こそが民衆を守る騎士であると思っているのですがな」

 思わずこぼれた本音にマルティン卿の目が鋭く光ったように見えたのは気のせいだったろうか。しかし、マルティン卿は「もちろんその通りです」と答えただけだった。

 結局、ウォルフラム中将はマルティン卿の提案を受け入れざるを得なかった。デューレン近くに配備されていた第二師団はすでに全て引き揚げてきており、皮肉なことにウォルフラム中将の指揮が優れていたために、ただの一人の脱落者も存在しなかった。今からデューレンに潜入するのは不可能といっても良く、そのため志願兵を募るのなら、それは現在デューレンに居住している人間でなければならず、ゲリラとして死ぬのなら、平凡な一般民衆よりも狂信者の方がトータル的にはまだましかと自分自身にいい訳している自分に気づいて、ウォルフラム中将はひどく酒が飲みたくなった。ウィスキーの熱でこの身体の中に溜まった不純物を焼き尽くしてしまいたかった。もちろん、そんなことは出来るわけが無く、ウォルフラム中将は代わりに一人の女性を思い浮かべた。その女はマリアという名前で、ウォルフラム中将に毛虱を移したと思われる最有力容疑者だった。

「……しかしいい女だった」

 謹厳な顔で呟くとウォルフラム中将は大股に艦橋に向かった。


 「突出」作戦の始動により、人口十五万のデューレン市は汎ヤーキス連邦軍の完全なる統制下に入った。

 政治、通信、交通が汎ヤーキス連邦軍のコントロール下に置かれ、デューレン市民は出入りの自由さえ無くなった。

 しかしデューレン市民よりも過酷な状況にあった者たちがいる。スーリヤ共和国軍の関係者と、そして共和国軍に巨大な閥を生成しているクルダの関係者であった。

 クルダは連邦軍の重点攻撃目標の一つに組み入れられており実際一艇の強襲揚陸艦がわざわざクルダ上空に現れ武力制圧を行ったが、クルダには軍事的武力は存在せず、クルダの上空に滞空した連邦軍歩兵分隊が見たものは、庭に立つたった一人の白髪の老人だった。

 怪しんだ連邦軍分隊長が赤外線探知で調べさせたところ、間違いなく残っているのは彼一人で、他はすでに逃げ出してしまったらしかった。しかし庭に立ち強襲揚陸艦を見上げるその老人--連邦軍はその名前を知るわけがないがガルテネーレという名のクルダ最高顧問の一人で、逃げるのを拒否して一人そこに残ったのだった--の姿はあまりに堂々としていたため、何かの策謀、たとえば地下に爆薬が仕掛けられていて連邦軍の突入と共に爆発させる意図があるのではないかという推測がたてられた。その意図をくじくのに、余計な作戦は必要なかった。現在は戦争中であり、敵対行為に対しては、武力と暴力でもって応対するのが是とされている時間帯である。艦砲がガルテネーレに向けられ、その艦砲の一撃でガルテネーレの肉体は粉砕された。文字通り粉々になり、彼の肉体は彼がその成立に青春の全てを費やしたクルダの地所に均等にばらまかれた。

 もちろん連邦軍はクルダのみならず、デューレン前にあった軍事基地及び国境線に展開していた防衛線を、あるものは破壊し、あるものは接収したが、結局のところ敵を倒すという一点においては充分な戦果を収めることは出来なかった。それほど共和国軍の撤退は水際だっていたのである。

 スタンザ中将は、デューレン市の市長の執務室にいた。市庁舎はデューレン市の中で最も高い建物の一つである。市長執務室はその最上階にあり、眼下にデューレン市を一望することが出来る。スタンザ中将は昨日まで市長が座っていた椅子に深々と腰を下ろし、振り返りもせずに訊ねた。

「では軍は撤退したというのだな?」

 部屋には暴力を誇示するような筋肉質の男たちが十人近くと、その一人相手にまとめてかかっても敗北しそうな文弱の徒が三人いた。文弱の徒はデューレン市の市長と助役と市議会議長だった。スタンザ中将の質問に、市長が答えた。

「て、撤退しました。間違いありません。従ってデューレン市に抵抗する力も、その意志もありません。どうか、このまま素通りしていただきたい」

 スタンザ中将は市長の言葉が聞こえないように立ち上がり、巨大なガラス張りの壁に歩み寄り、下を眺めた。市長のいうとおりにしてこんな市など放り出して、一気に敵首都に迫りたいのはやまやまだったが、ニーメラー元帥の命令がそれを不可能にさせていた。スタンザ中将は汎ヤーキス連邦の軍人である。汎ヤーキス連邦における軍人の立場は決して高いものではない。たとえばラフレシア遊星旅団などでは、軍人はすなわち貴族で、特に提督ともなれば爵位を持つ大貴族であることがほとんどであったため、非常に独立自尊の気持ちが強く、皇帝の命であっても己の利害に絡むとなれば逆らうことがあるという。しかし汎ヤーキス連邦軍はシビリアンコントロールがよく行き届き、命令を違反するという発想は基本的にはない。そして命令ではこの西に陣地を造成しないとならないのである。西を眺めると荒れ地が広がっており、さぞかし巨大な陣地を造れると思われた。

 スタンザ中将は舌打ちと共に部屋の真ん中を振り返った。市長はくどくどとデューレン市を出ていくよう要請し続けていたが、それを無視して麾下の幕僚に訊ねた。

「敵軍が完全撤退したということに間違いはないな?」

「はい。基地はすでにもぬけの殻でした」

 それ見ろといわんばかりの市長の顔に鋭い一瞥を向け、

「戦闘は?」

「軍養成施設と思われるクルダ上でわずかな交戦があっただけです。他は、自動になっていた高射砲の数射程度で戦闘らしい戦闘はありませんでした」

「では、敵は戦力を保ったまま撤退したわけだな」

「はい」

 敵軍の人的被害が少ないという事実に汎ヤーキス連邦軍ウシャス支邦第十一、十二、十三臨時師団総司令スタンザ中将は嫌な予感を覚えた。敵は殺すか捕らえるかしなければ、必ず新たな武器を携えて戦場に戻ってくる。しかし、障害物の少ない宇宙ではレーダーという絶対の「目」があるが、地上ではそういうわけにはいかず追撃戦は困難であり、断念せざるを得なかった。

 どうも宇宙戦とは様子が異なり、スタンザ中将は勝手が分からず戸惑い続けた。幸いその当惑は外側には漏れず、今のところスタンザ中将は自信満々軍を率いている姿を演出することに成功していた。迷いを振り切り、スタンザ中将は予定通り、デューレン市の西に永久陣地の造成を進めた。

 資材は支邦から運んできて、ブルドーザーやショベルカーなど造成用の機械類はデューレン市から徴用したものを使った。

 急ピッチで作業が進められる中、いくつかの事件がスタンザ中将に報告されてきた。それは、銃器を使用した市民の反抗で、犯人は捕まらず、初めは楽観していたスタンザ中将であったがその数が二桁に及ぶに至って、激しく舌打ちした。嫌な予感が当たったと思ったのである。

 敵のゲリラ的行動に手を焼いたスタンザ中将は歩兵の中から、二千人を割いて治安維持部隊を任じ市内巡回を命じた。しかしこの処置はテロの減少に繋がらないばかりか、これ見よがしに肩から小銃を吊るし装甲車両に乗って市中を巡る姿が市民の反感を買い、結局火炎瓶の投擲などよけい事件を増やす結果となった。火炎瓶を投げた犯人はすぐに逮捕されたが、デューレン市在住の学生で背後関係がない単独犯であることがしばらくして判明したため、犯人を重装備で追い回した治安維持部隊は市民の失笑を受けた。

 デューレン西の陣地造営は着々と進んでいたが、デューレン市民による反抗はますます強まり、それはスタンザ中将にとっては初めて出会う類の悩みであった。

 もともと彼は戦場において、衝撃力に優れた結果を出す猛将型の提督であった。事実、先の三キロパーセク腕会戦において、スタンザ中将は麾下の一個宇宙史団を率いて多大な損害を被りながらも二度にわたり敵防衛陣を突破し、敵戦線の寸断に成功している。しかし、陣地防衛という発想はそもそも宇宙戦闘には存在しなかったため、スタンザ中将はいわば未知の領域に踏み込んでいたのである。スタンザ中将は性格的にも能力的にも占領地の統制には向いておらず、彼を補佐するべき人材は彼の幕下には存在しなかった。スタンザ中将は、日に数度、ひどい時には一時間の内に三度ほど、このデューレンという土地を丸ごと荷電粒子ビームで焼き払ってしまいたい衝動に駆られた。もちろん、彼自身の未来とそして自尊心のためそんなことは出来なかった。


 イマニエルとエリザはデューレン市内にある星の福音教団関係者の自宅マンションの一室にいた。そこは教団の古い信者の老夫婦が暮らしているマンションで、娘が住んでいた一室にイマニエルとエリザそして、クルダ職員のカブリービという名の二十七才の青年の三人が息をひそめていた。カブリービは暗い目をした中肉中背の平凡な外見をした青年で、どこから調達してきたのか銃を持っていた。拳銃ではなく軍用小銃だった。

 ある日、老夫婦あてに長い電話がかかってきて、その後老夫婦とカブリービとが一室で長時間話し合い、それからカブリービは時折二人を部屋に残してマンションを出くようになった。出ていくときには必ず軍用小銃を目立たないようにバイオリンのケースに入れて持っていき、帰ってくると硝煙の匂いをさせていたため、何をしに出かけているのかは明らかだった。事実、ケーブルTVでは連邦の軍人がテロによって襲われている事件を連日報道していた。

 殺人が彼を変えたのか、カブリービの暗い目は徐々に狂的な光を帯びるようになり、エリザはカブリービと一緒の空間にいることをひどく恐れるようになった。イマニエルの手をギュッと握って離さず、イマニエルの陰に隠れカブリービの視線から身体を隠そうとした。イマニエルはその澄んだ目をカブリービに向けるだけで、特別恐れる様子はなかった。そのことがエリザを安心させた。イマニエルと一緒にいると、イマニエルの手を握っていると辛うじてカブリービの恐怖から逃れることが出来た。

 エリザにとってイマニエルの他にもう一人、頼りになる保護者が存在した。マンションを貸してくれている老夫婦だった。夫のシュトレーゼマン老人は、かつて軍に在籍しており、大佐にまで昇進した男だった。今はその過去がとうてい想像できないような、穏やかな微笑を浮かべたどこにでもいる老人で、妻のジュディを愛する家庭人だった。シュトレーゼマン老人とジュディは、エリザを孫とだぶらせたらしい。実際には老夫婦の娘に子供はおらず、存在しない孫を、エリザの中に見たのだろう。

 シュトレーゼマン夫婦はエリザを可愛がった。服を買い与えようとしたがは戒厳令下であったため結局娘の古着を与えた。謝りながら娘の古着の中でもっとも高価なものを手渡し、エリザがそれを着ると手を打って歓んだ。

 老夫婦の娘の晴れ着で着飾り夫人が焼いたケーキを食卓に並べて三時のティータイムを楽しむのが、エリザの習慣となった。その傍らにはイマニエルもいた。シュトレーゼマン老人はイマニエルに対しても並々ならぬ興味を払った。イマニエルが例の特技--小鳥との会話をベランダで行ったからである。それを見た信心深い老人の心には古い聖者の伝説が蘇った。シュトレーゼマン老人は星の福音教団の熱心な信者でそのバイブルの一節に描かれた聖者、ビーレフェルトのマタイの物語を良く知っていた。ベランダで指の先にとまったハタオリスズメと言葉を交わすイマニエルの姿を見たシュトレーゼマン老人は、少年の心を傷つけないように細心の注意を払いながら訊ねた。

「今、その小鳥はなんといっているのだろう? 教えてくれないかね」

 イマニエルは振り返って微笑んだ。それから答えた。

「早く行かないと遅れるぞって」

「遅れる? なにに、だね?」

「--南に向かう季節なんです」

 イマニエルはそういって視線を南に向け、目を細めた。羽があれば今すぐにでも飛んでいきたい、という目をしていた。

 イマニエルは信心深い者に特別な影響力を持つらしい。このかつて共和国軍で大佐を勤め今は星の福音教団の教会に毎週日曜日欠かさず通う老人もイマニエルに何かを感じたようだった。シュトレーゼマン老人は、教区の司教に連絡を取った。星の福音教団は常に人材を求めていて、教団の付属学校は寝る場所と食事の付いた全寮制で、イマニエルは孤児だったから、まったく問題は無いと思われた。本来ならばシュトレーゼマン老人はまずカブリービに相談するべきだったのかも知れない。そうしなかったのは、軍での長年の経験から、カブリービが信頼するに足る人物ではなく、さらに現在行っているテロリズムを五体無事に全うできると思ってなかったからだった。自らが犯罪者であることに怯えるカブリービは常に落ち着かない様子で視線を左右に泳がし、物音がする度に上着の下に隠した大振りのナイフの柄に手を伸ばした。挙動不審は明らかで、捕まるのは時間の問題に見えた。シュトレーゼマン老人はまた自らも連邦軍に対するテロリズムに協力したかどで捕まることを覚悟していた。それだけの気骨のある人物であったし、自分の行動に対して責任を取る古い軍人の思考法を残していた。しかし、老人にとってエリザとイマニエルは巻き込まれる筋合いがない人間で、交通整理の警察官でさえ職務質問をしてみようと思い立つに違いない挙動不審のカブリービの巻き添えを食うのはあまりに哀れと考えたのである。

 シュトレーゼマン老人の頼みで、教区のシェリング司教が現れた。シェリング司教は一室でイマニエルと会い、いくつか質問をした。その後イマニエルに部屋の外に出るよう命じ一人で何事か考え、それからシュトレーゼマン老人を呼んだ。「付属学校に推薦文を書きましょう。彼は特別な才能を持っているかも知れない」

 シェリング司教の言葉にシュトレーゼマン老人は感謝の意を示し、さらにエリザのことを話し、彼女も付属学校への入学の許可は取れないか、と訊ねた。しかしシェリング司教は首を振った。

「難しいでしょう」

 なぜか訊ねるシュトレーゼマン老人にシェリング司教は答えた。

「教団と血と鉄騎士団とは上手くやっています。現在、たいへんいい関係なのです。クルダとは血と鉄騎士団の人材養成施設であると聞いています。そして、人材はどこの組織にとってももっとも大切なものです。一人ならばともかく、二人も騎士団から教団に引っ張ることは血と鉄騎士団との関係を悪化させかねません。それは私の立場上出来ないことです」

 シュトレーゼマン老人は強いてと頼んでみたが、シェリング司教の首を縦に振らせることは出来なかった。しかし、アドバイスは得ることが出来た。自分の養子にしたいと申し出てみてはどうか、というのである。シュトレーゼマン老人はさっそくそのために動き出した。しかし、クルダ本部の担当係の女性はシェリング司教に輪をかけて強情だった。クルダ所属の児童の動向に関しては、所属クルダの施設長が決めるべきことであって、現在所属クルダが存在しないデューレンのクルダの児童に関しては、受け入れクルダが決定しない限り、いっさいの変更は出来ないとの一点張りで、何をいっても無駄だった。初めは丁寧な応対を心がけていたシュトレーゼマン老人であったが、最後には「この強情っ張りめっ!」と罵声を浴びせるに至った。結局、養子縁組は不可能で、シュトレーゼマン老人は焦燥に駆られた。少なくとも子供たちをここに置き続けることは出来なかった。いつ何時連邦軍がやってくるか分からないのである。かつての自分のコネクションを使って、軍にも連絡を取ってみたが、逆に「騎士団に圧力をかけられることはあっても、圧力をかけることは出来ないですよ」とため息混じりにいわれる始末だった。万策尽きたシュトレーゼマン老夫婦が、居間で途方に暮れていると、シェリング司教がやってきて一通の封書を差し出した。

「なんですか?」

「デューレン市のクルダの子供を一人、星の福音教団が引き取る件に対する許可状です」

「もう届いたんですか?」

「組織と組織の友好関係はこういう形で表れるのです」

 釈然としない表情でシュトレーゼマン老人は封書を受け取り、中を開いた。そこにはシェリング司教がいった通りの内容の文章が書かれていた。シュトレーゼマン老人はそれを力無く眺めたあと、ふと顔を上げた。

「--名前が書かれていないようですが」

「ああ、電話で伝えたのでおそらく綴りが分からなかったのでしょう。書き込めばいいんですよ。では、イマニエル・ゲルトハイマー君は責任を持って星の福音教団が預かりましょう。彼はきっと良い布教者になるでしょう」

 その申し出をしばらく待ってくれるようシュトレーゼマン老夫婦は頼んだ。せめてあとほんの少しでもイマニエルとエリザを一緒に居させてやりたかったのである。デューレン市民によるテロはますます激しくなり、連日どこかが爆破され、銃撃戦が行われた。その騒音をBGMにシュトレーゼマン家では家族ごっこが繰り広げられた。いよいよ、最後の日、冷凍庫にあったとっておきの牛肉を使ってジュディ夫人は御馳走を作った。何も知らないイマニエルとエルザが、作法をどこかに置き忘れて料理を食べていると、シュトレーゼマン老人が微笑みながら涙を流していた。イマニエルがそれに気づき、微笑んだ。

「--どうしたの?」

「いや……年寄りは涙もろくなるもんだよ」

 イマニエルは首を傾げた。それから食事を再開した。その様子を見ていたジュディ夫人がシュトレーゼマン老人に目配せし、困った顔の夫に耳打ちした。

「……いつ話すんですか?」

「困ったねぇ」心底困った顔でシュトレーゼマン老人は答えた。

 しかし時間は無限にあるわけではなくいつまでもいわないでおくわけにはいかなかった。料理が全部二人の子供のお腹の中に消え、デザートのイチゴのミルフィーユが出てきたところで、シュトレーゼマン老人は重い口を開いた。

「……クルダは楽しいかね?」

 即答したのはエリザだった。

「つまんない」

 イマニエルはエリザの顔を見て微笑んだだけだった。

「つまんないよ。だって、ご飯は美味しくないし、勉強はなんだか同じご本を読むばっかりだし、お友達はなんだか変な人ばっかしだし」

「……そうか」

「でも大丈夫。イマニエルがいるから。イマニエルが居れば平気」

 シュトレーゼマン老人は話すべき言葉を失った。シュトレーゼマン老人はクルダがどんな場所か良く知っていた。どんな「教育法」が行われているかも話に聞いていた。クルダを出るとどうなるかも知っていた。血と鉄騎士団出身の兵士として軍に入れられ、血と鉄騎士団の勇猛さを示すために常に最前線で戦わされるのだ。しかしどんな地獄でも二人で居ればそれは地獄でないのかも知れなかった。二人で居ること--それは彼らが地獄で身につけた地獄を生き抜く技術なのかも知れなかった。

 何もいえなくなったシュトレーゼマン老人に代わって話をしたのはジュディ夫人だった。夫人は精神的な意味ではシュトレーゼマン老人よりも強かったのかも知れない。ジュディ夫人は汎ヤーキス連邦ウシャスⅡ支邦からの亡命者で、冬山で遮られた国境を徒歩で越えた際に、シュトレーゼマン老人率いる部隊に保護されたのが付き合うきっかけだった。ジュディ夫人はイマニエルにターゲットを絞った。彼に星の福音教団の施設に入ることがどんなに必要か話した。話し続けた。無邪気に反応したのはエリザだった。

「そんないいとこだったらあたしも行く」

 さすがのジュディ夫人もこれには多少たじろいだ。しかしすぐに言葉を重ね、エリザは行けないことを伝えた。直接的表現ではなく、間接的な表現であったためなかなかエリザには理解できず、ようやく理解できるとエリザの目にみるみる涙が滲み始めた。シュトレーゼマン老人が慌てて口を開いた。

「そこに行けるのは一人だけなんだ。でも大丈夫、エリザもあとからきっと連れていって上げるから。受け入れクルダが決まったらすぐにおじいさんの養子になってもらって、それから星の福音教団施設に入り直せばいい」

 しかしエリザの涙は止まらなかった。シュトレーゼマン夫婦がおろおろしているとイマニエルがデザートを食べながらこともなげにいった。

「一人だけしか行けないならエリザが行けばいいよ」

 驚いてシュトレーゼマン老人はイマニエルを見た。口を開いたのは、ジュディ夫人の方だった。

「……イマニエルはどうするつもりなんだい?」

 イマニエルは顔を上げ微笑んだ。

「僕はクルダもそんなにつまんなくないから」

 エリザが泣いていたのはどうやら星の福音教団の施設に行けないからではなく、イマニエルと離れ離れにされそうだということを感覚的に察したからで、イマニエルの提案も結局のところエリザが望むかたちではなかったが、シュトレーゼマン夫婦の心には「そっちの方がいいのではないか」という思考が明滅していた。いずれにせよ二人ともクルダから連れ出すのなら、今はとりあえず年齢も幼く女の子でより弱者であるエリザを星の福音教団の恵まれた施設に移しておき、この混乱が収まってからイマニエルを正式な手続きに則ってクルダから出せば良いのではないか。シュトレーゼマン老人はイマニエルの顔を覗き込んだ。

「あと一年くらい、大丈夫かい? 我慢できるかい?」

 イマニエルは笑顔のまま頷いた。

 泣いているエリザを夫人が慰めている横で、シュトレーゼマン老人はシェリング司教が持ってきた封書を開き、書かれていない子供の名前のところに「エリザ・カウフマン」と書き込んだ。ひどく震えた文字になった。


 エリザが星の福音教団に引き取られた翌日に、デューレン騒乱と呼ばれる事件が起こる。デモを組んだ市民と治安維持部隊の間で武力衝突が生じたのである。初めは火炎瓶など「市民デモ」らしい武器が使用されただけだったが、紛れ込んでいた血と鉄騎士団の団員たちが銃器を使用したことによって、枯れ野を火が燃え広がるように騒乱は拡大していった。血と鉄騎士団は小銃のみならず、手榴弾、対戦車榴弾を装填した迫撃砲など重火器まで使用したため、ほぼ全市で戦闘状態となり、市のあちこちで夜の闇を裂く砲弾の曳航光を見ることが出来た。砲声は雷鳴のように轟き続け、夜の静寂を破り続けた。スタンザ中将は緊急事態に備えて艦隊を宙空に上げ、さらに最低限の守備部隊を除いて陣地に入っていた歩兵部隊のほぼ全軍をデューレン市に投入した。それでも事態の収拾には丸二日かかった。

 このデューレン騒乱は共和国軍が仕組んだものとする説がある。共和国軍は真っ向から否定しているが、翌日、夜通し緊張を強いられて精神的に参っている連邦軍に、共和国軍の第二、第三、第七師団艦隊が襲いかかったのは事実である。だとすればデューレン騒乱で死んだ二千五百二十三人の市民の命は、連邦軍をデューレンから追い出すために利用したことになり、これは人類国家において非難を免れ得ないだろう。真相に関しては、共和国軍は否定し、騒乱のもとを作ったとされる血と鉄騎士団は沈黙を守っているため杳として知れない。もちろん、その二千五百二十三人の中にかつて共和国軍で大佐を勤めていた退役軍人シュトレーゼマン夫婦の名があったことに気を止める者はいなかった。


 スタンザ中将は連邦軍旗艦テウタテスの艦橋内にいて、むしろ笑っていた。兵士たちはすでに疲労困憊で簡易興奮剤を使用しても取り除ける限界は超えており、とうてい笑える状況ではないはずだったが、指揮官であるスタンザ中将のみ笑っていた。

 理由は明確で、状況が彼が良く知っている戦いの次元に戻ってきたからだった。

 敵の急襲攻撃は見事といって良い内容で、空中戦艦三十、空中駆逐艦十二、空中砲艦六の威容を誇った麾下の艦隊は、すでに空中戦艦二十、空中駆逐艦二、空中砲艦一にまで撃ち減らされていた。

 敵は急襲のためであろう、駆逐艦、砲艦を主体とした機動力に優れた艦隊を造り上げてきていた。速度には優れているが、攻撃力は犠牲にされており、強力な守備力を誇る戦艦を破壊することは難しく、駆逐艦、砲艦を減らすことに主眼を置いているようであった。

 戦闘開始後しばらくして、スタンザ中将は敵の意図に気づき駆逐艦、砲艦に戦艦の背後に隠れるよう命じたが、時にすでに遅く、手持ちの戦力はほとんど戦艦のみとなっていた。その戦艦も五体無事な艦は存在せず、スタンザ中将自身が乗る旗艦テウタテスでさえ銀色に輝く優美なフォルムのあちこちから白煙を吹き上げていた。敵の砲艦の荷電粒子ビームがα粒子の膜を貫いて四層複合装甲を傷つけたのである。しかし、テウタテスは汎ヤーキス連邦が誇る巨艦の一隻だけあって被弾してなお航行にはまったく支障が無く、充分な戦闘力も残していた。麾下の残存兵力も同じで、とりあえずの航行及び、艦隊戦には問題なかった。

 せっかく造った陣地を失い、歩兵も散り散りで、連絡が届く範囲で戦闘力を残している部隊は宇宙から降ろしてきた艦隊しか残っていない。その艦隊も満身創痍で果たして満足に動ける艦がどれほどあるというのか。しかし乱戦の中、宇宙でスタンザ中将が鍛え上げてきた艦長たちは艦レベルで見事な反撃を行い、とりあえず砕けた戦線を立て直し艦隊として再集結すること成功していた。残存兵力は肉食獣の襲撃に怯える鹿の様に密集し、結果的に対空砲火力を集中することで、敵をいったん後退させるに至った。

 現在、敵は再攻撃の意志も高らかに十キロ前方で見事な弾丸陣を形成していた。中央部に遅れてきた無傷の戦艦を厚く配置し、その左右に駆逐艦、砲艦を配置して紡錘形を造り上げているのである。突破力と掃討力ともに優れた見事な陣形であった。張りつめた緊張と程良い昂揚とが目に見えるようで、おそらく敵には有能な指揮官がいるのだろう。

 敵の弾丸陣を見て、スタンザ中将は残った二十隻の戦艦を横一列に並べて横陣を布いた。横陣は残った火力を余すことなく利用するための陣形であるが、数において勝る敵にどれだけの効果があるのかいささか疑問であった。

 しかしスタンザ中将に逃走の意志はなかった。むしろこの状況を楽しんでいた。これほどの危機は、先の三キロパーセク腕会戦でも無かった。スタンザ中将は三キロパーセク腕会戦で獅子奮迅の活躍を見せていたが、自分自身ではもしさらなる戦場を与えられれば、それ以上の活躍ができたはずだという確固たる自信があった。スタンザ中将の主観的に表現すればその自信を証明できる機会が巡ってきたのである。実際、スタンザ中将はこの時間帯を可能な限り貪欲に楽しむつもりだった。

 果たしてこの戦力でいかなる戦いを繰り広げることが出来るだろうか?

 戦いはスタンザ中将の血を沸き立たせてくれる。

 連邦軍旗艦テウタテスの艦橋の大スクリーンには記号による陣形図が映し出されている。リアル映像を映した場合、戦闘状況の変化で艦橋が無用に混乱してしまう(自軍の艦隊が次々と沈められていくのを見ながら平然と指揮を続けられる指揮官は少ない)可能性があり、それを避けるために、まるでここが遙か後方であるかのような長閑な陣形図が映し出されているのである。

 しかし、紛れもなくここは、陣形図の味方側の中央に位置する旗艦テウタテス--味方を示す白い三角形に旗艦を示す旗の記号が立てられている--の中であり、そしてあの陣形図が示すとおり、四キロ先には敵が弾丸陣を布いて、進撃の号令を待っているのだ。

 敵がどんな風に考えながら自分の横陣を前にしているか--それを考えただけでスタンザ中将は心が浮き立ってきた。戦略レベルとは異なりおよそ戦術というものは相手をどれだけ理解できるかにかかっている。相手を十二分に理解した上で、裏を掻くか、あるいは裏の裏を掻くか決断しなければならない。そしてその決断によって、自分の生命が現世か彼の世かいずれに落ち着くかが決定するのである。全ては情報量によって左右される。当然それは敵軍の士気の高さ、練度の高さ、そして指揮官の性格にまで及ぶ。すでに汎ヤーキス連邦軍側は敵旗艦のシルエットと戦術コンピュータのデータバンクとを照らし合わせて、目の前の敵がユーリヒ・ウォルフラム中将に率いる軍であることを理解していた。

 スーリヤ共和国軍中将ユーリヒ・ウォルフラム。

 彼に関する詳細なデータが汎ヤーキス連邦軍には存在している。性格、身長、体重、体格、瞳の色、容貌はいうまでもなく、幼年学校から国防学校・上級国防学校での成績、家族構成、父母との関係、さらには性的嗜好までファイルされている。それによるとユーリヒ・ウォルフラム中将は攻勢・守勢ともに安定した強さを発揮する万能型の提督ということになる。特殊な局面において戦況を覆すような力を発揮するわけではないが、常に標準以上の能力を示す有能な提督であるという意味である。事実、国防学校を首席で卒業してからの彼の軍歴は、極めて安定したもので、その事実は、現在数において若干ながらも劣勢に立たされているスタンザ中将にとって、もっともやりにくい相手であることを意味するものだった。

 実際、ウォルフラム中将はデータファイルが示すその性格通り奇をてらわずこの状況にもっともふさわしい攻撃的な弾丸陣を布いている。弾丸陣は前進が容易で、最前列が粉砕されてもすぐに後衛が穴を埋めることが出来、劣勢の敵を真っ正面から噛み破り引き裂くのにふさわしい陣形だ。

 一方、スタンザ中将は、守勢的な横陣を布いている。横陣はその全火力を同時期に使用することが出来ることで、もっとも戦闘力を発揮する陣形の一つであるが、左右と連携しながら前進することは難しく、ある地点に留まり出てきた相手を叩く受け身の陣形である。

 しかしスタンザ中将に受動的な思考は存在しなかった。

 もし、敵軍がスタンザ中将の性格についてのデータを持っていたとしたら、そこにはこう書かれていることだろう--極めて攻撃的。能動的攻撃を好む。

 スタンザ中将は唇の片側に笑みを浮かべた。そして、あろうことか麾下の艦隊に前進を命じた。


 やはり巨大スクリーンに映し出された陣形図を見ながら、共和国軍旗艦ザルツァの中のウォルフラム中将は眉をひそめた。

 陣形図は、敵軍が前進し始めたことを示していた。

 これは、兵法の常道からはあまりにも外れた行為であった。横陣が不用意に動けば、戦列が乱れ、その戦力に致命的な穴が空く。そこを敵に食い破られると戦線を維持できなくなり、軍は崩壊し個々に潰走することになる。横陣は、ゆっくりとした圧迫前進はあり得ても、急進撃は不可能というのが戦術的常識なのである。

 そんな常識も知らないのか、とウォルフラム中将は困惑しながらも、この機を逃すことがないように、全軍に進撃を命じた。共和国軍もまた一斉に動き始めた。

 共和国軍を示す白い三角形が前進を開始する。

 驚くべきことが起こった。

 巨大スクリーンの中でスタンザ中将率いる連邦軍が、戦線を完全に保ったまま、驚くべき速度で進んできたのである。それは奇跡的な何かが起こったのかと思わせる光景であった。横一列に並んだ艦隊は、遅れる艦も突出する艦もないまま、共和国軍に急迫してきた。

 その圧力に圧迫されて、共和国軍艦隊に乱れが生じた。

 ウォルフラム中将は、麾下の混乱を収めるために若干の速度ダウンを命じた。しかしそのことが逆に共和国軍の混乱を助長した。速度を落とし過ぎる艦と、ほとんど落とさない艦とが現れたためであった。

 一方、連邦軍は見事なまでのシンクロニシティを見せながら進んできた。

 結果、ウォルフラム中将率いる共和国軍は弾丸陣のちょうど鼻面を連邦軍の火線の集中する地点に突き出す形になった。

 慌てた共和国軍各艦艦長が各個に砲撃命令を下す前に、連邦軍の荷電粒子砲が一斉に火を噴いた。

 荷電粒子砲の高熱が空間を切り裂いた。

 たちまち共和国軍は被弾し白煙を上げ始めた。戦線を離脱する艦も現れる。共和国軍の陣形は崩壊しつつあり、各艦が各個に対応している状況となった。

 前進は完全に停止していた。弾丸陣は前進してこそ力を発揮する陣形である。厚みのある中央部隊で敵陣に穴を開け、その穴を両翼が自動的に広げるための形であったが、前進がとまってしまえば両翼は参戦のきっかけを失い遊兵となってしまう。いわば無駄な兵力となってしまうのだ。

 ウォルフラム中将はザルツァの艦橋でわずかに眉をひそめただけだった。

 このおよそ戦術的常識から乖離した曲芸まがいの横陣突撃を可能にしたのは、スタンザ中将が師団内の人事権を使って自分とよく似た性質の部下ばかり好んで集めていたおかげでこの劣勢下においても艦長レベルでは臆するような人物が居なかったこと、またスタンザ中将麾下の軍が宇宙で幾多の戦いを経てきた歴戦の軍団であったことなどが理由として上げられる。

 一方、ウォルフラム中将も敵司令スタンザ中将に関して情報を集めていたが、スタンザ中将はもともとが宇宙を活躍の場としていた人物であり、スーリヤ共和国には宇宙部隊は存在しなかったため、手に入る情報は非常に少なかった。さらにデューレン市の統制における失策を見ていたウォルフラム中将が、スタンザ中将を多少なりとも見くびっていたことも否定できない。結果、第二幕で共和国軍は劣勢に立たされてしまった。

 第二ラウンドは共和国軍の敗北である。しかし、ここからウォルフラム中将はその非凡な戦術腕を発揮し始める。

 艦長のルビッチ大佐の見事な操艦によって奇跡的に被弾を免れていた旗艦ザルツァの艦橋で平然と顎を撫でていたウォルフラム中将は、ふと思いついたように通信士官に有線連絡用の粘着弾頭弾を近くの味方戦艦に撃ち込むよう命じた。盗聴傍受の怖れがあるため戦場での通信は基本的に、通信筒を小型艦艇で直接運ぶ方法か、通信ラインを粘着弾頭弾で撃ち込み有線で会話するか二つに一つである。有線によって通信用スクリーンに出てきた各艦艦長に向かい、ウォルフラム中将は後退を指示した。後退は前進よりも被害が大きい。死者がもっとも多く出るのは今も昔も逃走時であることに変わりはない。しかもウォルフラム中将は、なりふり構わない脱出ではなく、戦線を維持したまま秩序ある後退を命じたのである。

 幸い、中央部隊を形成していたのは、共和国軍の中でも精鋭である第二師団で、各艦長は師団長の能力を完全に信頼していたため、ウォルフラム中将にいわれたとおり荷電粒子ビームを遮断するα粒子を大量に散布しつつ、後退を開始した。


 連邦軍には敵が後退したのを見て自らも撤退するなどという常識的な思考はすでに欠けていた。敵の後退にむしろ圧力を強め、狂ったように大量のビーム、有質量砲弾を撒き散らしながら共和国軍を追った。共和国軍艦隊が後退する際に必要以上のα粒子を撒いているため、連邦軍艦艇はα粒子の渦の中に突っ込む形となり、荷電粒子ビームの威力が低下すると荷電粒子ビームから宇宙戦用の中性子ビームへの切り替えを命じ、追い続けた。中性子ビームは大気中では減衰が著しいため通常地上では使われないが、この状況とこの距離では荷電粒子ビームよりはましであると判断したのであろう。しかも、切り替えは戦闘しながら行うという途方もない冒険的命令が実行に移される有様だった。もはや少々の融合炉の過熱など気にする様子もなく、狂気そのものの塊と化して連邦軍は狂った様にビームを吐きながら共和国軍を追った。


 中性子ビームの乱射を浴びつつ、共和国軍は後退を続けていた。そしてその様子をウォルフラム中将は陣形図上でじっと見ていた。後退は逆噴射及び、姿勢制御用のサブノズルによって行われるため、前進に比べて速度は著しく遅い。戦闘とは圧力同士の争いであり、前進している軍と後退している軍とでは、よほど指揮官の力量の差がない限り、前進している方が有利なのである。戦術的転進といっても、後退している共和国軍の被害は決して小さなものではなかった。

 それでも共和国軍はウォルフラム中将に命じられたとおり可能な限り秩序を保ったまま後退を続けていた。防御力の低い砲艦、駆逐艦は先に下げ、代わりに戦艦がその防御力で敵の攻撃を受け、戦線を維持しつつ後退していくのである。この状況ではさすがに旗艦ザルツァも無傷では居られず、三発被弾していた。二発は側面装甲を吹き飛ばしただけで済んだが、一発は主砲発射口に直撃し、六門ある主砲の内二門がすでに使用不能となっていた。破壊された二門のビーム発生器を停止させ、余った動力を他に回すよう指示を出す。直撃したのはビーム兵器ばかりではない。α粒子が充満する空間では有質量砲弾が意外な効果を上げる。比重の重いアクチノイド弾頭が巨大な運動エネルギーと共に撃ち出され、敵の装甲を突き破る。ビームとは異なり、有質量砲弾は、装甲を突き抜けた段階で遅延信管が作動、炸裂することで乗員を死傷するための兵器である。血と肉と金属が混ざり合って飛散し、負傷兵は、応急手当が施され、抜けた穴を予備人数が埋めた。艦内のそこかしこで混乱が生じており、艦橋も例外ではなかった。怒声と罵声が飛び交い、さながら小さな戦場と化していた。

 突然、陣形図を見ていたウォルフラム中将が立ち上がった。立ち上がると同時に、ザルツァの艦長ルビッチ大佐に向かって命じた。

「後退停止。これより、敵艦隊を包囲殲滅する」

 艦橋にいた人々は皆、動きを止めて唖然としてウォルフラム中将の顔を仰ぎ見た。ウォルフラム中将は顎をしゃくって陣形図を示した。そこには驚くべき光景が展開していた。共和国軍の中で遊軍となっていた両翼--後ろに棚引いていたはずの二枚の翼が、胴体部分の後退によって結果的に前に出る形となり、ちょうど連邦軍を抱きすくめる形となっていたのである。

 驚く幕僚たちを後目にウォルフラム中将は感情の混ざらない声でいった。

「全軍、後退停止。これより敵艦隊を包囲殲滅する。公開周波数で復唱せよ」

 その栄誉を我がものとしたのはザルツァ艦長ルビッチ大佐だった。

「全軍、後退停止。敵艦隊を包囲殲滅せよ!」

 公開周波数は通信筒と有線通信を圧する「大音量」で空間を満たし、瞬間、守勢が攻勢に切り替わった。

 艦隊を操っているのは人間であり、あらゆる弾道計算をコンピュータが計算し光速の九十パーセントの粒子ビームが飛び交う戦闘においてもなお人間の心理的な要素は重要である。公開周波数によって発せられた命令で、共和国軍兵士は自らが敵を包囲していることを“知り”、連邦軍兵士は自らが敵に包囲されていることを“知った”。それはこの一連の戦いに決着が付いた瞬間だった。

 心理的敗北により、連邦軍は一気に崩れた。さらに、ビーム兵器は長大な加速器を必要とするため艦の前面からしか発射することは出来ず、そのため、側面への攻撃にひどくもろい。側面にユーデンキュニヒ少将とレッシング少将率いる砲艦、駆逐艦の圧迫を受けた連邦軍は、抵抗らしい抵抗もできないまま撃ち減らされていった。

 二時間後、連邦軍旗艦テウタテスの機関部に荷電粒子ビームが直撃し、テウタテスは航行機能を失った。連邦軍は、万国共通降服を示す白旗を掲げ、ウォルフラム中将率いる共和国軍に降った。第十一、十二、十三臨時師団は、戦艦四隻、駆逐艦一隻のみを残すだけとなっており、すでに戦力としては解体されたに等しかった。

 荷電粒子ビームはテウタテスの艦橋の一部も破壊しており、艦橋で指揮を執っていて破片で右腕を負傷したスタンザ中将は、血を失った青白い顔で、ウォルフラム中将の接見を受けた。体育教師と倫理教師というほど、体格及び顔つきの違う二人だった。ウォルフラム中将はスタンザ中将の「殴り合いなら勝てた」という表情に何の感想も見せず、彼を適切な加療の後、捕虜収容所に送るよう命じ、休むことなく麾下の艦隊の再編に入った。


 この会戦は、終了後デューレン会戦と呼ばれる。ウシャスⅡ上で発生した一連のスーリヤ共和国独立戦争の中で、もっとも華々しい戦いの一つに数えられる。

 共和国軍の捕虜となった連邦軍スタンザ中将は、後に捕虜交換で解放された。しかし、軍には戻らず、捕虜収容所で知り合った仲間たちと汎ヤーキス連邦主星クリシュナで事業に手を出して失敗した挙げ句、彼が馬鹿にしていた警察官になった。

 ウォルフラム中将はこの功により、大将に昇進した。その後五年間各地で功を重ね、上級大将になったと同時に退官し、大学に入り直した。五十歳を目前にしてどのような心境の変化があったのか分かる者はいない。大学では経済を学び、卒業後衆議院選に立候補。国防の英雄であるから当然のことながら一発当選し、最も攻撃的な野党代議士となった。その後、三期衆議院議員を勤めた後、大統領選に出馬。第三十五代大統領となった。

 第七師団長ユーデンキュニヒ少将も、この会戦での勝利の恩恵を被った人物の一人だった。彼は二ヶ月後に中将に昇進した。各地で帝国軍相手に転戦し、その度に必要な戦功を上げ、大将、上級大将へ昇進を重ね、共和孤軍のもっとも信頼に足る提督の一人となった。かつて上官と仰いでいたウォルフラム中将の立派な後継者となったわけである。

 第三師団のレッシング少将はこの戦闘で負傷した。乗艦バルクが被弾したためであったが、右脚切断という重傷であった。軍役には耐えないと診断され、予備役に編入。程なく退官。上級国防学校の主任教官となり、後進の育成に努める。二年後に国防学校の校長に就任。国防学校史上もっとも口うるさい校長が誕生した。

 ウォルフラム中将、ユーデンキュニヒ少将、レッシング少将の三人が一堂に会した戦いはこれが最初で最後である。十四年後のウシャスⅡ上の最後の戦い--ウェスターワルトの突撃をもたらした関係者が三人ともデューレン会戦に関係していたことは興味深い事実である。

 このデューレン会戦によってもう一人思わぬ幸いに出会った人間がいる。戦災孤児の少女、エリザ・カウフマンだった。この十歳の少女の親権は、このデューレン騒乱の最中、悪名高いクルダから星の福音教団に移った。

 星の福音教団デューレン司教シェリングの署名とクルダ本部の人事院院長の署名を携えて星の福音教団教会に現れた少女に、教会の助祭は首をひねった。シェリング司教から、「少年」だと聞いていたためである。しかし確認しようにもシェリング司教はすでにこの世になかった。シェリング司教はデューレン騒乱の際、信徒を率いてデモを行い、逃げる途中で流れ弾の直撃を後頭部に受け即死したのだった。神のご加護はシェリング司教の上には存在しなかった。

 とりあえず、正式な書類は揃っている。断る理由はなかった。助祭はエリザを星の福音教団の学校に入れる手続きを行った。入学は二ヶ月後ということに決まり、それまでは教区の教会で預かることになった。

 エリザ・カウフマンはひどく扱いづらい少女だった。暗い目をしたまま誰も信用しないのである。どこかで拾ってきたのか薄汚れたぬいぐるみを小脇に抱えそれをギュッと抱きしめて上目遣いに周囲をうかがう。人が近づくと怯えて逃げようとする。それでも無理に近づこうとすると泣き始める。

 三十歳前の助祭はエリザに手を焼いた。ただでさえ後任の司教がまだ到着しておらず、そしてデューレン騒乱ために信徒の葬礼は無数にいるのである。うんざりしながらそれでも注意深くエリザのことを観察して、彼女が泣くときに何か呟いていることに気づいた。一週間近くかけてそれが「イマニエル」という人の名前であることが分かった。イマニエル--誰のことだか分からなかった。

 結局、その助祭は二ヶ月かけてもエリザの心を開かせるには至らなかった。助祭は、スーリヤ共和国第二の都市デュッセルドルフにある星の福音教団全寮制学校にエリザを送り出し、ようやく安心した。一ヶ月後、学校側から電話がかかってきたときにはエリザが何か問題を起こしたのかと悪い想像を膨らましたが、相手が電話口で話したことは助祭の予想とはまるで異なっていた。相手はやや怒ったような口調で次のようにいった。

『困るじゃないですか。エリザ・カウフマンの知能偏差値は百七十を超えていますよ。そういうことはあらかじめいってもらわないと』

 最初は何のことをいっているのか分からなかった。途中で、どうやらエリザ・カウフマンは優れた子供であるらしい、ということをいっているのだと気づいた。しかしそれにしては怒っているような口調はなぜなのか。戸惑うばかりの助祭に向こうもいっそう腹を立てたらしく、『--ちゃんと調査したんですか?』

「調査?」

『そうです。知能偏差値百七十以上なんて、送ってきた資料にはそんなこと一言も書いてなかったですよ。おかげでこっちはてんてこ舞いですよ。知能偏差値が高い子供は、普通の学校ではなく“修道院”に送られます。なんで“修道院”にうちが怒られなくちゃならないんですか!?』

 “修道院”という言葉の響きには、助祭も慌てた。星の福音教団は事実上“修道院”の出身者によって支配されている。信者や神職希望者の中から最も優秀な人間を集めて特別な教育を施すための施設“修道院”。彼らに睨まれるというのは事実上、教団での死刑宣告を受けるに等しい。慌てて助祭は手続きをやったのは死んだシェリング司教で自分ではないこと、自分はその跡を継いだに過ぎないこと、問題があるとすればそれはシェリング司教の責任であることをどもりながら説明した。もちろん相手は助祭の説明など意に介さず怒りも露わに電話を切った。助祭は通話器を耳から離し、呆然とため息をついた。しかしその背後から助祭を呼ぶ信者の声が聞こえ、それに答えているうちにそのまま日々の業務に忙殺され、エリザ・カウフマンのことなど忘れてしまった。

 一方、エリザ・カウフマンはデュッセルドルフの全寮制学校から、わずか一ヶ月でリンツ市の郊外にある修道院に送られ、四度生活環境が一変してひどく混乱していた。混乱するだけでなく怯えていた。しかし、修道院の教師たちはクルダの職員や助祭などとは異なり優秀だった。もともと星の福音教団は宗教である以上、心理的問題に対する技術に関しては膨大なデータを持っている。修道院の教師たちはエリザ・カウフマンを催眠療法にかけ、その心理的トラウマを発見する(それは戦争の記憶であったが)と、それを前進のエネルギーに変える方法を考え出した。結果、エリザ・カウフマンはみるみる十歳の少女らしい快活さを取り戻した。そして、修道院が期待した知能偏差値百七十という優秀さを発揮し始めた。優秀な子供ばかり集めた修道院であるから、決して目立つものではなかったが、教師たちが満足できるレベルだった。

 十五歳になったエリザは成績優秀者のみに与えられる個室を許され、そこにバッグ一つに入ってしまうほどの量の私物を移した。私物の中には母親と父親らしい男女の写真が入ったロケットと自分でも由来を忘れてしまった汚れたぬいぐるみも入っていた。エリザは修道院に来る前のことをほとんど忘れていた。それはおそらく修道院の教師たちによる催眠療法のためだったのだろう。しかし、エリザは気にしなかった。なぜならば今幸せだったから。

 そんなエリザに変化を与えたのは一通の手紙だった。ひどくよれて薄汚れた手紙が届いた日、エリザは自分の個室で勉強をしていた。修道院は、神学のみならずあらゆる学問を学ぶ場所である。エリザが専門として選んだのは法律で、その日エリザが読んでいたのは法律の専門書だった。修道院は質素と倹約のイメージがあるため、すきま風が吹きそうな建物のイメージがあるが、実際は、装飾は無いが冷暖房は完全で空気も常にクリーナーによって清浄に保たれ実用的という意味ではまったく問題なかった。修道院の制服は白を基調としたほとんどの肌を隠すタイプのもので、エリザが着ていたのもそれだった。日曜日の午前中に行われる街頭奉仕以外は基本的に外に出ることは出来ず、修道院の中も外も常にこの姿だった。もちろん、修道女スタイルには修道女スタイルなりの“お洒落”が存在していて、たとえば今エリザが着ている修道女服の襟の折り方がそうだった。

 手紙を届けてきたのは、修道院の職員をしている四十代の女性で、その女性にエリザは丁寧に礼をいった後、扉を閉め手紙をしげしげと眺めた。手紙が来る理由が分からなかった。五年近く修道院にいるが今まで手紙が届いたことなど無かった。学友の半分程度はやはり手紙とは縁のない境遇であったが、残り半分ほどの両親が健在な子供たちのもとには時々手紙が届き、そのことを羨ましく思った時期もあった。しかし、修道院の外に知人の“いない”エリザに手紙が届くわけもなく、諦めていた。

 表に書かれた住所は何度も書き直されたようで、あちこちをたらい回しになったあとにここに届いたことを示していた。エリザは差出人の名前を見た。ヨハン・シュトレーゼマンとジュディ・シュトレーゼマン。聞いたことがない名前に見えた。消印を見た。五年ほど前の日付だった。動悸が強くなっていた。なぜかは分からなかったが、目眩がするような動揺を感じていた。エリザはペーパーカッターで封を開いた。紙はひどく弱っていて簡単に開けることが出来た。

「拝啓

 親愛なるエリザへ。

 学校の生活はどうですか? 同じ全寮制とはいっても、クルダとはずいぶん違うでしょうから、戸惑っては居ませんか?--」

 ひどく親しげな手紙だった。聞いたこともない様に思える名前の人物にそんな風に語りかけられることに多少恐怖を感じた。手紙は続いてエリザのことを事細かに心配し自分たちの焦燥に付いてくどくどと書き連ね「でもきっとエリザは大丈夫だと思います」と自分勝手に結論づけていた。エリザは苦笑して先を読んだ。文中からもこのシュトレーゼマン夫妻(らしい)が善い人物で、心の底からエリザのことを心配していることがよく分かった。なんだかひどくくすぐったいような思いにエリザは駆られ、それからもしかしたら自分がずっと持っているロケットの中の人物とは自分が忘れてしまっているだけでこのシュトレーゼマンという人物なのではないかとまで思った。しかし、たった一つの名前を文中に見つけた途端、エリザの全身に震えるほどの衝撃が走り抜けた。

「イマニエルもきっと養子になってもらって、そっちに連れていきます」

 イマニエル。

 イマニエル。

 イマニエル--。

 全てを思い出した。

 脳裏に浮かんだ少年が微笑んでいた。

 自分より二歳年上の少年。兄であり父であり、天使のように思っていた少年。

 なぜ忘れていたのだろうどうして今の今まで思い出しもしなかったのだろう。堰を切ったようにあらゆる感情がエリザの脳裏を駆け回った。思考がまとまらなかった。まともな考えが何一つ浮かんでこなかった。エリザは激しく混乱した。混乱しながら、この混乱を解決する方法を探し続けていた。その意味でエリザは五年前のエリザではなかった。自分で自分の混乱を処理する方法を知っていた。

 エリザはまずシュトレーゼマン老人と連絡を取ろうとした。基本的に修道院生徒は自由に外に出ることは出来なかったため、電話を使っての捜索だった。シュトレーゼマン老人の運命を知ったのは、手紙が届いてから二ヶ月ほども経ってからだった。その間、エリザは何度修道院を飛び出して自分の足でイマニエルを捜しに行こうと思ったことだろう。しかしそうしなかったのは、冷静になってこの広い国で一人の知人もおらず一円のお金も無いまま誰かを捜し出すことの不可能が理解できたからだった。イマニエルを見つけだせるとすれば、今の立場を利用するしかなかった。修道院は奉仕活動としてだが、細々と外界と繋がっており、そのつてを利用すれば何とかなるとエリザは考えたのだった。事実何とかなり、シュトレーゼマン老人の行方は分かった。彼は死んでいた。デューレン騒乱で。つまり、届いた手紙はエリザが星の福音教団の学校に送られてすぐに書かれたものであり、もしかしたらこの手紙を出しに行った帰りに騒乱に巻き込まれ命を落としたのかも知れなかった。エリザは諦めなかった。彼女の記憶の片隅に残っているあらゆる情報を集め、照合し、仮説を造り上げ、その仮説をもとに、イマニエルの行方を探った。イマニエルの行方は杳として知れなかったが、まったく不明というわけではなかった。彼はクルダに残ったことは分かった。しかし、クルダは極めて閉鎖性の強い組織である。部外者であるエリザがクルダ内部の人の移動について知るのは非常に困難だった。それでもクルダの全てを知ることが出来る方法をたった一つエリザは知っていた。それは修道院から外に出る立った一つの方法でもあった。すなわち、党選出の議員となること。エリザは決意した。ありとあらゆる方法を使ってもイマニエルを捜し出すと。かつて自分に希望を与えてくれたあのひどく透明な笑みを持った少年を見つけだすと。

 十年かかった。

 密度の濃い十年だった。

 議員に選出されるまでには八年必要だった。議員に選出されたその足で、エリザはクルダ本部に向かい、議員の「要請」としてクルダの全記録を閲覧した。十二年前の自分の名前もあった。もちろんイマニエルの名前もあった。その名前を見ただけで、エリザはほとんど泣きそうになった。イマニエルはわずか四年で八つのクルダを転々としていた。人物評価は「D」。最低ランクの評価でそしてクルダでは評価はそのまま扱いを意味した。ほとんどゴミのように扱われていたことだろう。食べ物もろくに与えられず、労働力としてのみの存在意味。その挙げ句、十六歳で志願兵として軍に入隊させられていた。送り込まれた先は当然のように最前線だった。ここで再びエリザは壁にぶつかった。軍もまた閉鎖性の強い組織である。人間の移動はそのまま軍機であり、普通部外者に公開されることはない。それでもイマニエルの行方は追うことが出来た。党選出の議員という立場のおかげだった。イマニエルが軍功を上げ、勲一等鳳凰章を受けたと記録で見たときは、驚くと同時にくすぐったいような、そんな気持ちになった。しかし勲一等鳳凰章を受けてからのイマニエルは営倉と外を出たり入ったりを繰り返していた。理由は全て「命令不服従」。やはり様々な部隊を転々としており、イマニエルのあとを追うのはひどく困難な作業だった。

 イマニエルの現在の居場所--第2765基地を知ったときは、まだ信じられなかった。たぶん、ここからも移されまた別のところに居るに違いないと思った。しかし、何度調べてもイマニエルは第2765基地に居るはずだった。別れてから十四年が過ぎていた。エリザは二十四歳になっていた。

 そして今、エリザは第2765基地にいた。

 ここにイマニエルが、イマニエル・ゲルトハイマーがいる--。

 第2765基地を目の前に、エリザの胸に熱い物がこみ上げていた。


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