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前編

街路樹が鮮やかな桜色に染まっていた。

春の風が少し肌寒くて、カーディガンを羽織った。

会計を済ませる彼を横目に先に店を出た。


駅前の安いチェーン居酒屋。

私の誕生日会はそこで行われた。

揚げ物の臭いが服にまとわりついていた。


─帰り道。


彼が少し前を歩きながら煙草に火をつける。

前を向いたまま、頭を掻きむしった。

「なんていうか…お前といるとなんか疲れる」

春の冷たい風が、私の思考を止めた。

目の前が桜色に滲んだ。

その日、私たちは他人になった。


 

いつも聞こえていた蝉の声は消えていた。

春の湿った風とは違う。

窓から入る乾いた風が、部屋を包む。

 

ピンク色のセンターテーブル。

スタンドミラーに映る自分。

あぐらをかいて、必死に化粧水を塗り込んでいた。


スマホが小さく震える。

親友からだ。

『黒縁くんとのデート、ついに明日だよね?』


─黒縁くん。

親友の勧めで始めたマッチングアプリ。

知り合ってまだ3週間程。

すぐ会おうとも言ってこず、やり取りを重ねた。


流れでアプリを開いた。

黒縁くんから1件の通知。

『明日はよろしくお願いします。お店は予約してありますので、お腹を空かして来てください。』


一週間前からしっかり準備した。

美容院、ネイル、マツエグ、洋服、靴、バッグ、香水。

財布に視線を落とし、すぐ逸らす。

 

シンクには洗い物の山ができていた。

 

それをかき消すようにアロマを焚いた。

普段ならしないのに。

いつもよりベッドの居心地が良かった。



待ち合わせによく使われる時計の下。

円柱の柱に張り付くように背中を預ける。

駅前は仕事帰りの人で溢れていた。

 

空は夜に染まりきっていない。

見上げると、満月が綺麗に白く光っていた。

 

待ち合わせの十五分前。

ガラスに映る自分を三回見た。

自分で言うのもなんだが、可愛いと思う。


アプリを立ち上げる。

新着通知はなし。

三時間前に来ていたメッセージをもう一度読む。

『黒のコートで行きますね』

『私も黒のコートで行きますね』

 

乾いた風がビルの隙間を抜ける。

改札から吐き出される人波を、意味もなく目で追った。

気が付くと、黒いコートばかり探していた。

落ち着かないまま、ショートブーツのかかとを鳴らした。


─メッセージを更新する。

新着通知が届いた。

『今着きました、どちらに居ますか?』

『時計の下で待ってます』

約束の五分前だった。


後ろから声がした。

「こんばんは、合ってますか?」

黒縁眼鏡に、黒いコート。

写真で見たままの黒縁くんだった。

「合ってると思います。よろしくお願いし─」

視線が合う。

小さく笑う顔に言葉が続かなかった。

 

「今日寒かったのに、お待たせしてすいません」

彼が私の声に耳を傾ける。

「ちゃんとコート着てきたので大丈夫です」

「お揃いですね」

私は小さく頷いた。

「少し歩きますけど、行きましょうか」

「はい」

彼の横を歩き出す。


彼はスマホを見ながら先導してくれる。

「初めて行くお店なので、期待はずれだったらすみません」

─少しだけ肩が近くなる。

「どんなお店か楽しみです」

たわいもない話だったかもしれない。

このままずっと歩いていたいと思った。

だけど、履きなれないブーツは私の足を痛めた。

 


駅から十分程歩いただろうか。

彼だけなら五分程で着いたかもしれない。

 

街灯ばかりが増え、人通りが減っていく。

言われるがままについてきたが、少しだけ身構えた。

「あっ…ここですね」

バーやスナックが入っているビル。

彼は階段を下に向かった。

街灯の明かりは届かない。

重そうな木目調の引き戸を彼が引いた。

 

「少し待っててください」

扉が閉じないように私が支えた。

店員と話す彼をじっと見つめる。

「予約、ちゃんとできてました」

「どうぞ」

彼がそっと扉を受け取った。


扉をくぐるとチーズとトマトのいい香りがした。

照明は街灯よりもはるかに暗い。

テーブルの上には、

キャンドル状のライトがぼんやり浮かんでいた。

テーブル4席。

カウンター6席。

小さなイタリアンの店だった。


「こちらへどうぞ」

キッチリとした格好の店員が案内してくれる。

二人分の黒いコートを預けた。

 

彼の少し後ろを歩く。

椅子を引かれたのは、生まれて初めてかもしれない。


「アレルギーとか嫌いなもの大丈夫ですか?」

私の声を聞き取ろうと少し顔が近くなる。

「好き嫌いは無いので大丈夫です」

「あっ…猫は好きですけど少し痒くなります」

一瞬だけ彼から表情が消える。

「僕も猫好きですよ。痒くはならないけど」

彼につられて、私も少し笑った。


「お酒飲みますか?」

メニューに視線を落としたまま言う。

「少しなら飲めると思います」

「赤と白どっちがいいとあります?」

「どっちが飲みやすいですか?」

「甘口の白なら飲みやすいかも」

小さく頷いた。


柄が長く、口の広い二個のワイングラス。

三分の一程ワインが注がれる。

店員がなにか説明しているが分からない。

彼は頷きながらワインを口に含んだ。

「美味しいですよ」

恐る恐る口に含む。

甘い香りが鼻に抜けた。


そこからはコースで料理が届けられた。

前菜、温菜、パン、パスタ…。

メインは牛肉の赤ワイン煮込みだ。

湯気と一緒に赤ワインの香りが広がった。

 

彼が曇った黒縁眼鏡を外した。

眼鏡越しよりも凛々しい目元だった。

 

料理に夢中で、会話は途切れ途切れだったかもしれない。

でも、「美味しいね」と笑う彼を見ていると、料理がもっと美味しく感じた。


ドルチェにはティラミスとエスプレッソを頼んだ。

気が付くと、彼と同じものを頼んでいた。


「少しごめんね」

彼がスマホに視線を向ける。

今日、何度も目にした光景だ。

「お仕事ですか?」

「そうなんだよね、ブラック企業だから」

そう言って頭を掻きむしった。

「大変ですね」

「そうなんだよね…ごめん」

 

─目線は合わなかった。

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