前編
街路樹が鮮やかな桜色に染まっていた。
春の風が少し肌寒くて、カーディガンを羽織った。
会計を済ませる彼を横目に先に店を出た。
駅前の安いチェーン居酒屋。
私の誕生日会はそこで行われた。
揚げ物の臭いが服にまとわりついていた。
─帰り道。
彼が少し前を歩きながら煙草に火をつける。
前を向いたまま、頭を掻きむしった。
「なんていうか…お前といるとなんか疲れる」
春の冷たい風が、私の思考を止めた。
目の前が桜色に滲んだ。
その日、私たちは他人になった。
※
いつも聞こえていた蝉の声は消えていた。
春の湿った風とは違う。
窓から入る乾いた風が、部屋を包む。
ピンク色のセンターテーブル。
スタンドミラーに映る自分。
あぐらをかいて、必死に化粧水を塗り込んでいた。
スマホが小さく震える。
親友からだ。
『黒縁くんとのデート、ついに明日だよね?』
─黒縁くん。
親友の勧めで始めたマッチングアプリ。
知り合ってまだ3週間程。
すぐ会おうとも言ってこず、やり取りを重ねた。
流れでアプリを開いた。
黒縁くんから1件の通知。
『明日はよろしくお願いします。お店は予約してありますので、お腹を空かして来てください。』
一週間前からしっかり準備した。
美容院、ネイル、マツエグ、洋服、靴、バッグ、香水。
財布に視線を落とし、すぐ逸らす。
シンクには洗い物の山ができていた。
それをかき消すようにアロマを焚いた。
普段ならしないのに。
いつもよりベッドの居心地が良かった。
※
待ち合わせによく使われる時計の下。
円柱の柱に張り付くように背中を預ける。
駅前は仕事帰りの人で溢れていた。
空は夜に染まりきっていない。
見上げると、満月が綺麗に白く光っていた。
待ち合わせの十五分前。
ガラスに映る自分を三回見た。
自分で言うのもなんだが、可愛いと思う。
アプリを立ち上げる。
新着通知はなし。
三時間前に来ていたメッセージをもう一度読む。
『黒のコートで行きますね』
『私も黒のコートで行きますね』
乾いた風がビルの隙間を抜ける。
改札から吐き出される人波を、意味もなく目で追った。
気が付くと、黒いコートばかり探していた。
落ち着かないまま、ショートブーツのかかとを鳴らした。
─メッセージを更新する。
新着通知が届いた。
『今着きました、どちらに居ますか?』
『時計の下で待ってます』
約束の五分前だった。
後ろから声がした。
「こんばんは、合ってますか?」
黒縁眼鏡に、黒いコート。
写真で見たままの黒縁くんだった。
「合ってると思います。よろしくお願いし─」
視線が合う。
小さく笑う顔に言葉が続かなかった。
「今日寒かったのに、お待たせしてすいません」
彼が私の声に耳を傾ける。
「ちゃんとコート着てきたので大丈夫です」
「お揃いですね」
私は小さく頷いた。
「少し歩きますけど、行きましょうか」
「はい」
彼の横を歩き出す。
彼はスマホを見ながら先導してくれる。
「初めて行くお店なので、期待はずれだったらすみません」
─少しだけ肩が近くなる。
「どんなお店か楽しみです」
たわいもない話だったかもしれない。
このままずっと歩いていたいと思った。
だけど、履きなれないブーツは私の足を痛めた。
※
駅から十分程歩いただろうか。
彼だけなら五分程で着いたかもしれない。
街灯ばかりが増え、人通りが減っていく。
言われるがままについてきたが、少しだけ身構えた。
「あっ…ここですね」
バーやスナックが入っているビル。
彼は階段を下に向かった。
街灯の明かりは届かない。
重そうな木目調の引き戸を彼が引いた。
「少し待っててください」
扉が閉じないように私が支えた。
店員と話す彼をじっと見つめる。
「予約、ちゃんとできてました」
「どうぞ」
彼がそっと扉を受け取った。
扉をくぐるとチーズとトマトのいい香りがした。
照明は街灯よりもはるかに暗い。
テーブルの上には、
キャンドル状のライトがぼんやり浮かんでいた。
テーブル4席。
カウンター6席。
小さなイタリアンの店だった。
「こちらへどうぞ」
キッチリとした格好の店員が案内してくれる。
二人分の黒いコートを預けた。
彼の少し後ろを歩く。
椅子を引かれたのは、生まれて初めてかもしれない。
「アレルギーとか嫌いなもの大丈夫ですか?」
私の声を聞き取ろうと少し顔が近くなる。
「好き嫌いは無いので大丈夫です」
「あっ…猫は好きですけど少し痒くなります」
一瞬だけ彼から表情が消える。
「僕も猫好きですよ。痒くはならないけど」
彼につられて、私も少し笑った。
「お酒飲みますか?」
メニューに視線を落としたまま言う。
「少しなら飲めると思います」
「赤と白どっちがいいとあります?」
「どっちが飲みやすいですか?」
「甘口の白なら飲みやすいかも」
小さく頷いた。
柄が長く、口の広い二個のワイングラス。
三分の一程ワインが注がれる。
店員がなにか説明しているが分からない。
彼は頷きながらワインを口に含んだ。
「美味しいですよ」
恐る恐る口に含む。
甘い香りが鼻に抜けた。
そこからはコースで料理が届けられた。
前菜、温菜、パン、パスタ…。
メインは牛肉の赤ワイン煮込みだ。
湯気と一緒に赤ワインの香りが広がった。
彼が曇った黒縁眼鏡を外した。
眼鏡越しよりも凛々しい目元だった。
料理に夢中で、会話は途切れ途切れだったかもしれない。
でも、「美味しいね」と笑う彼を見ていると、料理がもっと美味しく感じた。
ドルチェにはティラミスとエスプレッソを頼んだ。
気が付くと、彼と同じものを頼んでいた。
「少しごめんね」
彼がスマホに視線を向ける。
今日、何度も目にした光景だ。
「お仕事ですか?」
「そうなんだよね、ブラック企業だから」
そう言って頭を掻きむしった。
「大変ですね」
「そうなんだよね…ごめん」
─目線は合わなかった。




