09 波の独白②
ルミナは、自分の血に宿る特別な力など、発現するその時まで、何も知らなかった。
朝早く起きて、家の鶏が産んだ卵をこっそり拝借して、キッチンに立つ母に運ぶ。今日は休んでいいわよと言われた日には、それはもう、気の済むまで惰眠を繰り返した。
好きなものは甘いもの。
王都に来てはじめて食べた、ケーキがあまりに美味しくて、目を見開いてしまった。
恋愛小説も好きだ。ヒロインを自分に置き換えて読むタイプではなかったけれど、物語の中の騎士や王子様、果てはアウトローな殺し屋まで。胸をときめかせながら読むのが好きだった。母は文字を教えてくれて、恋愛小説は、ルミナにとって最大の娯楽になった。
嫌いなものは、寒いことと、それから何より、痛いこと。強がってはいるけれど、いじめられることも大嫌いだ。
つまるところ――――――。
指先一つで、魔族の大群を塵に帰す力を持ちながら、ルミナは、どうしようもないほどに、普通の女の子だった。そしてそれが、ルミナにとって、最大の矛盾だった。
ルミナが何より恐れるのは、人と違うことだ。
だから、魔導学院への転校初日。あくびを噛み殺して、とりあえず、適当にやってみるかと、空を勢いよく指差して。光の矢が降り注いで、それよりも、自分に突き刺さる無数の瞳の方が、恐ろしかった。
あのう、すみません。
恐る恐る、声を発した。
みんながみんな、黙っているせいで、自分の声が、ひどく響いていた。
不安から、ルミナは髪の毛をつまみあげた。昔から、落ち着かなくなるとこうしてしまう、彼女の癖だ。きょろきょろと、あたりを見渡して、
「みなさん、どうしてそんな顔を…?あの、わたし…何かやっちゃいました?」
本当に恐れながら、ルミナは、そう言った。
そして本当に、自分が"やらかしていた“らしいと悟ったのは、その後すぐだった。
ルミナの類稀な光魔法の才覚が分かると、男爵は大層喜んだ。だが、一度あの男爵家に戻った時、彼は、「予想通り。流石は初代聖女の末裔、とんだ拾い物だ!」と笑っていた。
冷えた水に体を浸して、そしてもう、二度と、戻れないような。
ルミナが感じたのは、そんな絶望だった。
「初代聖女の末裔」「光魔法の天才」「今代聖女」「魔王の怨敵」「魔王殺しの女」「未来の王妃」――――好き勝手に、ルミナの背中に肩書きが増えていく。外そうとしても外れない。魔導学院の寮の自室で、ルミナは膝を抱えた。
王子様はいる。優しくて勇敢な王子様が。
でも、御伽話みたいに、ルミナを助けてくれる訳ではない。聖女に求められる役割は、守られるお姫様ではない。おまけに、今回聖女に内定するルミナは、とうとう、悲願である魔王殺しを成し遂げなければならないのだ。
無様に、膝が震えていた。
「…………わたしだって、戦ってあげたいよ…」
でも、恐ろしいものは、恐ろしい。
それに。ルミナは、群衆の顔を思い浮かべた。パンを買うと、おまけをつけてくれるおばさん。野菜を分けてくれたおじさん。ルミナと肩がぶつかっても無視をした青年。ルミナに面と向かって暴言を吐く女。
ルミナたち母子を捨て、私利私欲のためだけにルミナを呼び戻した男爵の、脂ぎった額が、頭によぎった。
男爵の目的はごく単純だ。
"聖女"を排出したとなれば、家は途方もない権力を得る。爵位の繰り上げという夢のような話とて、本物になり得るかもしれない。
あの男の手癖の悪さが、なぜ、母という本物の聖女の末裔に及んでしまったのか。ルミナは、奥歯を噛み締めた。
怒りと恐怖に無様に震えながらも、考える。考えて。考えなさいってば。
もし、わたしが聖女になったら?
わたしが怖い。わたしが死ぬかも。そんなことは知っている、そんな分かりきったことは置いて、考えなければわからない話をしなさい、ルミナ!
自分を叱責しながら、クッションを抱え込んで、思考を巡らせた。
「――――――あ」
ふと、この学園でもう一人、光魔法を使うことの出来る存在を思い出した。公爵令嬢ロゼルフィーユ・グレイシア。
もし、ルミナが彼女よりも低い力を持っていたのなら、彼女が聖女になるのは間違いがなかったであろう令嬢。
もし、ルミナが本当に聖女になってしまったら。
当然、ロゼルフィーユは聖女にならない。
聖女になる。魔王を倒す。そこまでなら、まだ良いのかもしれない。全ての恐怖を無視すれば、の話ではあるが。でも、人々は当然のように、聖女が、第一王子セディリオと婚約する――――つまり、国母になるものだと思っている。
ロゼルフィーユの横顔を思い出す。
美しい、さらさらとした銀糸のような髪。
細いそれは、彼女が歩くたびに一本一本が揺れる。陽の光を反射して、月明かりはその光を吸い込む。星を一緒に織り込んだような美しい髪。
でも何より、その姿を美しく見せるのは、彼女の立ち姿だ。凛と伸びた背中には、ルミナと同じぐらい、幾つもの肩書きや重みが乗っているのだろう。だが、ロゼルフィーユはほんの少しも、その重さを滲ませなかった。
王妃という立場に、最も相応しいのは、あの公爵家のお姫様だ。
「……よし、ロゼルフィーユさんに、頑張ってもらおう」
彼女が自分よりも光魔法が上手くなればいいだけの話だ。ルミナはそう決意して、拳を握りしめた。
―――――ルミナはまだ、知らない。
自分が持って生まれた力が、そんな生ぬるいものではないことを。その力は、光の祝福などではなく、どちらかと言えば。
呪いに性質が近いということを。